エルヴァの家へ
木枯らしの中、コートの襟を立てて歩く。前を行くエルヴァが首をすくめた。アパルトマンの扉をくぐると、暖かさに「ほぉ」と吐息が漏れる。階段を上がって四階の赤い扉の前で止まった。エルヴァが鍵を開けるのを待つ。
「どうぞ」
と導かれて部屋に入った。
「素敵!」
思わず声をあげる。
正面のガラス窓いっぱいに、葉を落とした木々が風に揺れていた。
「王都のアパルトマンでは珍しいのですよ。この風景に一目惚れしたのです」
ガラス窓に沿って奥へ進むとリビングが広がっていた。大きなダイニングテーブルが置かれ、小さなキッチンがある。買ってきた食材をテーブルに置くと、エルヴァが部屋を案内してくれる。
小ぶりの寝室ともう一部屋。
「私の読書部屋です」
壁一面の本棚に、本がぎっしりと並んでいる。床にはふかふかの絨毯と、山のようなクッション。
「ここで本を読むのが、私のいちばんの楽しみなので」
キッチンに並んで立つ。マーサ以外と料理をするのは初めてだ。薪ストーブ型のコンロも初めて目にする。薪に火をつけようと手を伸ばしたエルヴァ。そこに着火具が置かれているのを見て、ハイレーナから苦笑が漏れる。気づいたエルヴァはにっこり笑って言った。
「これは、あのベトランタ人にしてやられましたね。――大変便利です」
手に取って、薪に近づける。
「よく売れているようですよ」
カチッ。
着火具は小気味の良い音を立てた。
テールシチューと田舎パン。グリル野菜のサラダ。湯気を上げるそれらをテーブルに運んで席につく。ワインの栓を抜いてグラスに注いだ。
「では、いただきましょう」
朝から煮込んだというシチューは美味しかった。マーサの味付けとはどこか違う。田舎パンによく合った。
「エルヴァ様は、貴族のご出身ではありませんか?」
食事をするエルヴァはいつも上品だ。
「はい。子爵家の生まれです。と言っても九人兄弟の八番目ですけれど」
「八番目ですか!」
「長男は早逝しまして。男の子が二人欲しかったそうですの。九番目がやっと二人目でした」
「では、私よりずっと貴族らしくお育ちになったのですね」
グリル野菜の皿をハイレーナに渡しながらエルヴァが答える。
「礼儀作法は厳しく躾けられましたけれど、学院には行かせてもらえませんでした。地方ではよくあることです」
学院生を思い出す。地方貴族なら、ずば抜けて優秀か抜きん出た容姿の持ち主。あるいは裕福な者しかいなかった。
「どうして司書になろうと?」
エルヴァはナプキンで口元を拭い、ワイングラスを持ち上げた。
「少し長いお話になりますわ」
ハイレーナは頷く。
「父は『女には教育はいらない』という人でした」
小さい頃から本好きだったエルヴァは、家中にある本を読んでまわった。けれど、父に見つかると取り上げられて叱られた。
「ダンス・裁縫・刺繍・マナー。余計な知識をつけるな。夫に従順な妻になれ」と繰り返し諭された。
「十六歳で商家の後妻に入りましたの」
ハイレーナの手が止まった。
夫となる人は五十代で、息子たちはすでに三十歳を過ぎていた。
エルヴァはふっと笑って、グラスを置いた。
「八番目ともなると、大した嫁入り先がなかったのでしょう。裕福な商人に嫁入り道具を全て用意させて、借金まで返済させたようでした」
エルヴァはスプーンを手に取った。肉を崩して口に運ぶ。つられてハイレーナもパンをちぎった。ゆっくり味わい、続けた。
「幸い、夫は良い人で。……歳は離れていましたけれど」
エルヴァが本が好きだと知ると、「いくらでも勉強するといい」と言ってくれた。商売で本を扱っていたため、読みたいと言えば手に入れてくれた。
「それに、役割を与えてくれましたの」
「……役割ですか?」
「ええ、私が引け目を感じないように。使用人に軽んじられぬように」
貴族相手の商売のため、従業員たちに礼儀作法を教える仕事だった。
「楽しかったですわ」
「好きなだけ本を読み、勉強して、仕事をして」
ただ、そんな生活は四年しか続かなかった。
「夫が病に倒れて、亡くなりましたの。夫の息子たちが後を継ぎ、私は家を出ました」
「――ご実家には?」
エルヴァが首を横にふる。
「王都に出ました」
「家を出ると決心した時浮かんだのが――図書館の司書の姿でした」
「一人で生きてゆくなら、本に囲まれていたいと」
餞別に頂いた金で旅をして、紹介してもらった商店で貴族相手の接客をした。それから住み込みの家庭教師、王立図書館の清掃係。晴れて司書として働くことになるまで五年。
「ロッシは夫の名前です。貴族の名は捨てました」
ふふふと笑う。――心からの笑みだった。
「少しは落ち着かれましたか?」
食事を終え、食器を流しまで運ぶ。恐縮するエルヴァをなだめて洗い物を済ませ、マーサ特製の栗のコンフィが乗ったケーキと紅茶を持って、再びテーブルに戻った。エルヴァの第一声だった。
ハイレーナは紅茶の香りを吸い込んで、口に含んだ。ゆっくり口の中で味わってから飲み込んだ。カップをテーブルに戻してから、答える。
「正直、あまり考えないようにしています。自分でもよくわからないのです」
スプーンをケーキに入れ、一口すくう。コンフィの断面がツヤツヤと光る。エルヴァが目を細めて味わっているのを眺めながら、自分も口に運ぶ。コンフィの甘さとその後ろに隠れた栗の渋み。
「エルヴァ様は、最初から気づかれていたのでは、ありませんか?」
スプーンを置いて、尋ねてみる。エルヴァは一瞬目を見開いて、それからふっと笑った。
「そうですね。目的のために異性を利用するのは、よくあることですから」
――目的のため……異性を利用する……。
その言葉が重くハイレーナの心に刺さった。マレシュ……。
そして次に浮かんだのはウイレムの顔。アドリアン、エステヴァン、ヴァレンス、オットー。
――私も……同じだ。
考えに沈んでいるハイレーナを気遣ってか、エルヴァもスプーンを置いた。
「見返してやれば良いのです。もっと素晴らしい発明を、人の役に立つものを作る人間になって」
「そのために、頑張っておられるのでしょう?」
ハイレーナは顔を上げ、エルヴァの瞳をじっと見つめた。
「はい」
エルヴァの微笑みが返ってくる。
「私の人生、一点の悔いもありません。自分で選んで、最善を尽くしましたから」
エルヴァと共に最後の一切れを口に運び、ゆっくり咀嚼する。
「ご自分の道は、ご自分で選びなさいませ。方法はいくらでもあるものです」
キッチンからお湯の沸くシューシューという音が聞こえてきた。
エルヴァのアパルトマンを辞したのは夕方近くになった。
乗合馬車に乗り込んで、東の一の門へ向かう。揺れの激しい馬車の座席に捕まりながら、頭の中にこだましていたのは、「貴族の名は捨てました」という言葉だった。




