ぬくもりと着火具
実験室の鍵をかける音が、背後で響いた。薄暗い書庫からハロルドの書斎を抜け、階段を降りていく。体も頭も重い。できればそのまま、ここに崩れ落ちたい。けれど、後ろの足音がそれを許さない。
一階の階段下にハロルドの姿が見えた。息を呑む。ハロルドはハイレーナを見上げると、眉をハの字にして両手を広げた。その姿を見た瞬間、階段を駆け降りていた。
「お父様!ごめんなさい!」
その腕に飛び込む。
「心配をおかけして……ごめんなさい」
ぎゅっと抱きしめられて、父の匂いを吸い込んだ。
「僕のせいで……ハイレーナが辛い思いを……」
ハイレーナは父の腕から体を離すと、しっかりと目を見て言った。
「お父様、違うの。私のせいです。……何も分かってなかった……」
「しょうがねえ。お嬢があっという間に大きくなっちまって、説明してる間がなかったからな」
トニスの大きな手がハイレーナの頭をポンと叩く。
「ついこないだまで、こんなに小さくてポテポテ走っていたのによ」
「イレーネ様のご結婚のお歳ですもの」
エプロンで手を拭きながらマーサが言う。
ハロルドが眩しそうにハイレーナを見つめた。
小鳥のブローチは引き出しにしまった。今はまだ、何も考えられない。
夏が訪れ、ハイレーナは図書館に通いながら、着火具の製作を進めている。企画の見直し、設計の詰め。伝達物質を抽出し、回路の実験を繰り返している。
「よし、やってみろ」
実験室でハロルドとトニスが立っている。開けた窓から虫の声がうるさいくらいに響いていた。夏も盛りを過ぎようとしている。ハイレーナは額に汗を浮かべながら実験台に部品を並べていく。いよいよ着火具の回路を引き、組み立てる。
あらかじめ調合した伝達物質をペンに注ぎ、一呼吸して、部品に回路を引いてゆく。呼吸を止めた瞬間、虫の音も消えた。回路を一気に仕上げ、息を吐くと、ハロルドが身じろぎするのが目に入った。トニスは一歩引いて、腕組みをしている。
「組み立てます」
と言って、部品を一つずつ組み上げてゆく。形が整ったところで、トニスがクズウォードを差し出した。両手で受け取って握りしめる。
――どうか、上手くいきますように。
設置して、閉じる。息を吐き出す。
「行きます」
宣言して腕を前へ突き出した。親指をかけてスイッチを――押す。
カチッ。
虫の音が響く。
何も起きない。
「なんで!」
「やり直しだ」
間髪入れずトニスの叱責がかかる。
「はい」
と返事をして分解する。回路は専用器具で削って洗い、また最初から。二度目の組み上げ作業の途中でハロルドが小さく足踏みし、トニスに睨まれている。嫌な予感を抑え込みながらもう一度。
「行きます」
カチッ。
ボッ。
と、手のひら大の炎が上がって、ハロルドとトニスが飛び退いた。ハイレーナは悲鳴とともにスイッチから手を離すと、二人に駆け寄った。
「ごめんなさい!怪我は?」
「大丈夫」
「まあ、予想してたからな」
トニスが回り込んで落ちていた着火具を拾い上げた。
「分解だ」
再び分解すると一つずつ並べ直す。
「見ろ」
回路をハイレーナに指し示す。
「1回目の失敗を挽回しようと太く描いたな。着火点に向かってぶれている。ウォード接触部分も深く、太くしただろう」
眉が下がって肩が落ちた。汗が冷たい。
「削って洗ってこい」
黙々と作業して、台に並べ直す。
「見てろ」
とトニスが部品を手に取る。回路を目にも留まらぬ速さで引くと、スイッチ部分を微調整して組み上げた。瞬きしている間の時間。
カチッ。
そして小指の先ほどの小さい炎が上がって、数秒して消えた。
「はぁ」
ハイレーナの口から大きなため息が漏れた。何故かわからず、トニスを見上げる。
「スイッチ部分の調整が甘い。クズウォードとの接触問題だ」
「一度目の回路は基点が甘かったしね」
「そんな、ちょっとのことで?」
二人は頷く。
「……じゃあ、回路スタンプなんて言っても、簡単にできない……」
「そういうことだな」
どさりと椅子に崩れ落ちた。
「最初はそんなもんだ」
ハロルドがハイレーナの背中に手を添える。父の顔にもびっしり汗が浮かんでいるのが見えた。
「ハロルド、覚えてるか?学院の発明クラブで初めて作ったあれ!」
「ああ、壁に穴をあけて、大目玉をもらって」
「そうそう、トイレ掃除一ヶ月だったか!」
と言って二人は楽しそうに笑った。
一ヶ月後――。
ラディック商会の「着火具」が発売された。




