消えた痕跡と父の存在
馬車が中央門に止まる。駄賃を払うのももどかしく、城門をくぐり大通りへ出る。
バルゴ……バルゴ!
呪文のように頭の中で唱えながら、王立図書館に向かって足を速める。真上から照りつける太陽で足元の影は小さい。やっと辿り着いた門の脇に立つ衛兵をじっと見つめる。
――違う。
「許可証を」
と言われて、慌てて鞄をかき回しながら、尋ねた。
「今日は、バルゴはいないのですか?」
衛兵は一瞬驚いたように、ハイレーナの顔を見直した。
「――バルゴは……三日前に辞めました」
「!」
手にしていた許可証が落ち、体がぐらりと揺れた。
「おっと」
と衛兵がハイレーナを支える。
「大丈夫ですか?」
自分の小さな影を見つめて短い呼吸を繰り返す。
両足に力を入れて、衛兵の腕から身体を離す。
「……大丈夫です。ちょっと目が眩んだだけですわ」
「休まれた方がいいかもしれません」
「……」
衛兵は許可証を拾い上げ、ハイレーナに差し出した。
衛兵に連れられるようにして、図書館の建物の中に入る。ひんやりした空気がハイレーナの首を撫でる。指先は冷たいまま。手にした許可証を握り潰さないよう、呼吸を繰り返す。傍の若い衛兵の心配そうな視線がまとわりつく。
受付台へハイレーナを導いた衛兵は、司書に声をかけた。
「ご気分が悪いようなので、どこかでしばらく休ませて差し上げてください。ヴァロネス博士のお嬢様です」
受付台の司書がガタっと立ち上がる。ハイレーナは思わず許可証を強く握りしめた。司書は受付台を回り、こちらへ近づいてくる。
「ハイレーナ様!」
その時耳慣れた声が響いて、ハイレーナは安堵の吐息を漏らした。
「エルヴァ様」
「どうなさったのです?」
エルヴァは司書の控え室から急ぎ足で近づいてくる。手には昼食用の包みがあった。さっとハイレーナの前に立ったエルヴァは、庇うように腕を回し、ハイレーナの背に手を添えた。
「私がお連れします」
そう言って、ゆっくりハイレーナを受付台から離した。背後で司書の微かな舌打ちが聞こえた。
エルヴァに連れられ、司書の休憩室から迷路のような廊下を通っていく。支えられながら、喉の奥に迫り上がった熱を飲み込んだ。小さな扉の前に立ち止まり、鍵を開けた。見慣れた「秘密の小部屋」を反対側から眺めていた。扉を閉めて内側から鍵をかける。
「どうなさったのです?」
静かなエルヴァの声をきくなり、堪えていた涙が溢れ出た。
「マレシュが……」
声が詰まった。
エルヴァの腕がハイレーナに回される。そのまま背中をトントンと叩かれ、涙がエルヴァのブラウスを濡らす。声が溢れ出て、泣き声をあげた。
嗚咽がようやく収まり顔を上げると、ハンカチで顔を拭う。そのままテーブルへ導かれる。ゆっくり腰掛けると、湯気の立つお茶が目の前に置かれた。
「順を追って話してください。何があったのです?」
紅茶を一口だけ口に含む。ハンカチを握りしめて途切れ途切れ言葉を絞り出す。
「古本屋で……観劇に……」
カチャリ。エルヴァのカップが強く音を立てた。目を上げると静かな怒りを湛えたエルヴァと目があった。その途端また、涙が伝い落ちる。目を伏せてハンカチを見つめた。
「オットー……服が……」
話すたび、光景を思い出し息がつまる。涙に遮られながら、今日のブティックの様子を伝えた。
深いため息が聞こえ、エルヴァの声が聞こえた。
「――バルゴは『急に故郷へ帰ることになった』と言って辞めました」
「カードにはなんと?」
ハイレーナは、ポケットからカードを取り出して、テーブルの上に置いた。カードを回すエルヴァの指先が目に入る。しばらく読んでいる気配のあと、小さな舌打ちが聞こえた。ハッと顔を上げると、目を閉じて荒く息をするエルヴァがいた。手に持っていたカードをテーブルの上に戻すと、おもむろに立ち上がる。
「入れ直しましょう」
と言ってカップを持ち去った。
テーブルに置かれたカードを見つめる。
「また、会う日まで」
掴もうとして手が止まり、静かに引き寄せると、大切な物のように鞄に仕舞い込んだ。
エルヴァが戻ってくる。新しいカップには、小さなチョコレートボンボンが添えられていた。
「心が揺れた時は甘いものに限ります」
と言って自分からボンボンの包み紙を開けた。
「――エルヴァ様、ごめんなさい」
口に入れようとした手を止めて、エルヴァが首を傾げる。
「何がです?」
「あんなに親切にしていただいたのに、裏切るような真似を……」
エルヴァはボンボンを置いて、ハイレーナをじっと見つめた。
「やらないで後悔するより、やって後悔する方がましです」
「それでも!取り返しがつかなかったら?」
「――誠実に向き合う。それだけです」
そう言ってからボンボンを口に放り込んだ。
ハイレーナが落ち着きを取り戻し、紅茶を飲み干すのを待っていたように、エルヴァが立ち上がった。
「お見せしたいものがございます」
「秘密の小部屋」を出ると迷路のような廊下を抜け、地下へ降りる。ここは普段立ち入ることのできない、研究者用の資料が集められた地下だ。
「ハイレーナ様に、閲覧の許可はお出しできません。眺めるだけです」
硬い声で念を押され「はい」と答える。
廊下の中の扉をエルヴァが開けた。ウォードランプが点る。ハロルドの書斎ほどの大きさの部屋に、ぎっしりと書架が並んでいる。手前に閲覧者用の机が一つ。書架に並ぶのは紙の束と書籍。
首を傾げて、近寄ろうとするハイレーナを制してエルヴァが言った。
「ここは、お父上の論文と著書を集めた資料部屋」
視線は書架に向いている。
「これが」
隅々まで見渡して、ハイレーナに向き直ると目を覗き込んだ。
「……ヴァロネス博士です」




