マレシュとオットー
広場に張り出したカフェのテラス席に落ち着いて、注文を通すマレシュのバリトンを味わいながら、ぼんやりと暮れなずむ広場を眺めていた。
ゆっくり散策を楽しむ人々の中に、はるか広場の一番奥からこちらを目掛けてズンズンと歩いてくる人影がいる。そのシルエットに見覚えが――。
「ハナ!」
思わずハイレーナは立ち上がった。
「オットー!どうしてここに!」
普段通りの愛嬌のある笑みを浮かべたオットーが近づいてくる。
ハイレーナのすぐ近くで止まるとこう言った。
「大切な用事でね」
そして、ゆっくりマレシュに目を移す。不敵な表情を浮かべると手を差し出した。
「これは、奇遇ですね。マレシュ・ラディックさん。ラディック商会の若い会長様とこんなところでお会いできるとは」
ほんの一瞬だけ、マレシュの顔が怯んだように見えたけれど、すかさず立ち上がってオットーの手を握った。いつも笑顔に戻っている。
「初めまして、ハイレーナ様のお知り合いですか?」
紹介しようと手を持ち上げたハイレーナを制して、オットーが言葉を重ねる。
「ああ、お会いするのはこれが初めてでしたね。オットヴァルド・ポロダンです」
手は離さない。
「ポロダン商会の」
そこで一呼吸おいて、マレシュの顔をじっと見る。
「後継者です」
そう言ってから手を離した。
ハイレーナにはいつもの笑顔をむける。
「座るよハナ」と断ってハナの隣に腰を下ろす。言葉が出ないまま、つられるようにハイレーナも着席した。
テーブルの反対側に腰を下ろしたマレシュと、オットーを変わるがわる見る。
ゆっくり足を組んだマレシュに向かってオットーが口火を切った。
「ご存知だとは思いますが、ハナは私の大切な友人でしてね」
オットーはマレシュから視線を外さない。
マレシュが小さく頷いて答える。
「オットヴァルド様は、ラナスで支店長を任されておられるとか。お若いのにやり手だと伺っています」
「ラナスはだいぶ形になってきましたのでね。今は王都近辺で、新しい商品を売り出し中です」
お互い睨み合うようにして、視線を外さない。オットーがニヤリと笑いながら言った。
「ラディック商会のベトランタの本店は今、奥様が取り仕切っていらっしゃるのですか?」
呼吸が一瞬止まった。ハイレーナはマレシュの左手首を探した。そこにはまっているはずの結婚の腕輪。
――手袋に阻まれて、見えない。
マレシュは黙って仮面のような笑みを貼り付けたまま微動だにしない。オットーの声が一段低くなる。
「ポロダン商会のベトランタ支店も、新しく紙と布の流通に手を広げているところです。そういえば、ラディック商会ともお取引の話が出ていたような――」
オットーが身を背もたれに預け、手を組んだ。
「そちらも円滑に進むことを願っておりますよ。支障になることがなにも起こらないと、確信したいものです」
沈黙が落ちた。
緊迫した雰囲気になすすべもなく、オットーとマレシュの顔を交互に見る。
何かが起こっているのはわかるけれど、何が何だかわからない。
マレシュの顔から笑みが消えた。組んでいた足を解く。ゆっくりと、オットーから視線を外し、ハイレーナに向き直った。
「ハイレーナ様。申し訳ないのだが、用事を思い出しました。今日はこの辺で失礼いたします」
そして音を立てずに立ち上がった。
「マレシュ、そんな!」
小さな悲鳴のような声が出た。ハイレーナも続いて立ち上がる。
「申し訳ない。では」
振り切るように踵を返すと、するりと夕闇に紛れて去っていく。
手を伸ばして後を追おうとしたハイレーナをオットーの低い声が引き留めた。
「ハナ」
「オットー!いったい何が起こったの!」
オットーは大きくため息をついて立ち上がる。
「送っていく。馬車の中で話そう」
そのまま腕を取られ、半ば強引に馬車溜まりまで連れてゆかれる。ポロダンの大きな馬車に押し込まれるように乗り込んだ。
「オットー、ちゃんと説明して!」
座るやいなや、オットーの手を振り解いて、ハイレーナは噛みついた。
オットーは向かいの席から身を乗り出して、ハイレーナを見る。哀れな子供をなだめるような、その視線に無性に腹が立った。
大きなため息をついて首を落としたオットーがもう一度頭を上げて、諭すように話し出した。
「彼にはもう、会うべきじゃない」
指先の震えを抑えようと手を握り締める。
「――どうして?」
オットーは膝に肘を置き、両手を組んで唇に当て、祈るように目を閉じた。叫び出したいような、泣きたいような思いをどうして良いか分からず、息を殺して待つ。
ゆっくり目を開けたオットーは、悲しげに見えた。
「ハナは、ヴァロネス博士に護衛がついているのを知ってる?」
不意を突かれて、眉根を寄せた。
「お父様に?」
オットーがゆっくり頷く。
「ペトリ様にも。研究所の上級研究者には皆ついてる。なぜだかわかる?」
「……」
「ウォードや、それにまつわるものは国家戦略なんだよ。王家と貴族院が統制しているのは知ってるね?」
イライラと小さく頷く。話がどこへ向かっているのか分からない。
「諸外国は、アルバードの技術やウォード結晶が喉から手が出るほど欲しい――犯罪まがいのことも辞さない国もある」
ハッと息を呑んだ。
「ハナが人質にでも取られたら、ヴァロネス博士はどうすると思う?」
お父様は……
ハイレーナの帰宅が遅れた日、迎えに来たハロルドの顔を思い出した。
両手で顔を覆う。
「……もしかして、家にも?――私にも?」
「ついているはずだ。ハナの外出時も多分ね」
頭がガンガンする。
一人で帰ろうとする自分を止めたエルヴァ。マーサの警戒。
「マーサも?」
「もちろん知ってる」
ガックリと項垂れた。私だけ……。
「ヴァロネス博士の娘、というだけでも危険なんだ。それなのに、あんな奴に気を許して」
「マレシュはそんな人じゃない!」
いやだ、聞きたくない。
「なにを言われたか知らないけれど、あいつは立派な既婚者だ。ベトランタじゃ有名な愛妻家だよ」
オットーの声が地を這うように響く。
「ハナを二人きりで観劇に誘うなんて、それだけでおかしいんだ!」
「そんな……」
涙が盛り上がる。声が震えた。
「悪だくみするような人じゃない!庶民の生活を楽にしたいと願っているって……」
「ハナ!」
オットーが背筋を伸ばした。ハイレーナを真正面から見つめる。
長い沈黙の後、怒りを含んだ声がした。
「もしかして、何か喋ったの?」
溢れそうな涙をこぼすまいと目を見張りオットーを見返す。
「何かって?」
「……」
わかっているだろう。と睨みつけられる。
「油紙と防水布……」
紙挟みはエルヴァに止められた。
「……」
「着火具を作ろうと考えてるって……」
オットーがハイレーナの腕を掴んだ。
「クズウォードのことも話したのか!」
驚いて身をのけぞらせながら、小さく答える。
「だって!オットーは使い物にならないって言ったじゃない」
ハイレーナの腕を掴んだまま、オットーは苦しげに息を吐いて目を閉じた。
「……言ってない」
首を振って、腕を離した。今度はオットーが顔を覆う。馬車の背に崩れるように落ちた。
「……ハナは自分がなにをしたか分かってない」
「誰も説明してくれないじゃない!なにも言ってくれないのはそっちじゃない!」
「ハナが作った物は価値があるんだ。生活を変えてしまうほどの――今度はハナが狙われるんだよ!」
最後は叫びだった。
「博士やペトリ様がなぜハナの名前を伏せたか、お願いだから考えてくれ」
「博士の娘だってだけでも危険なのに、研究者になるって、発明までして……」
オットーの言葉はくぐもって聞こえなかった。
馬車の中は馬の蹄と石畳を走る車輪の音だけが響いていた。
馬車を降りて玄関までオットーがエスコートする。
長い沈黙だった。
出迎えたマーサのほっとした顔と、心配そうな表情をぼんやり見る。
オットーはマーサにハイレーナの手を手渡すように預けた。微かに二人が頷き合ったのが目に入った。
「ハナ。僕に全てを話す権利はない。ただ、ハナのことが……心配なんだ」
オットーに目を向けるけれど、表情が作れない。目を逸らしてようやく一言だけ絞り出した。
「……分かってる……」




