オットーと喧嘩
「よーく見ていろ」
トニスの声に、ハイレーナは息を殺して顔を近づけた。
実験台の上には陶器でできた1枚の板。その上にはカルネアの赤インクで書かれた回路。先ほどハイレーナが仕上げたものだ。トニスがビー玉ほどのクズウォードを回路の起点に置いた。
静かに回路の線がウォードの先端から光はじめ、微かな振動が先へ先へと伸びていく。そして、回路の端に手のひらほどの炎が上がった。
胸元で手を組んで息を潜めていたハイレーナは歓声を上げた。
「成功だな」
「――こんなに回路が光るなんて知らなかった」
「綺麗なもんだろ?振動も僅かに感じるしな」
小さなクズウォードと光る回路、炎を舐めるように見る。
「……すごい」
「学生にも大人気の実験なんだ。実際に回路が起動するところはなかなか見れないからな」
5分ほど経つと、ふっと炎が消えた。
「終わったか」
トニスは黒くなったウォードを取り上げた。
「クズウォードだとこんなもんだ。学生用の単純な起動実験には使えるが、まともなものは作れねぇ」
「処分に困っているのですか?」
「そうだな。高圧縮ウォードを作り始めて大量に出るようになったからな」
「……」
使えないだろうか、この小さなエネルギー。小さなものならもっと長く使える?小さな炎とか?ライターみたいな――。
実験が終わった後も、ハイレーナの頭の中はクズウォードでいっぱいだった。
翌日、図書館から帰ってくると、門の前にポロダンの馬車が止まっていた。
「オットー!」
玄関に駆け込むなり大きな声で名前を呼ぶ。
「ハナ!」
マーサと話していたオットーが振り向いた。
笑顔で駆け寄る。
「どうしたの?急にくるなんて」
ハイレーナはオットーの手を引いてサロンに導いた。
「ああ、クリップと防水布の、ハナの取り分を持ってきた」
「私の?」
サロンで向かい合う。
「ヴァロネス博士と話し合って、少しはハナが自分で使えるお金を持ってもいいんじゃないかと思ってね」
オットーは傍に控える侍従から皮袋を受け取って、ハナの前においた。じゃりんと金属の音がする。
ハイレーナは目を丸くした。
「もちろんウチで預かっている分もあるよ。必要なら言って」
お茶を二人の前に置いたマーサが「そろそろお洋服も新調なさらないと。丈がみんな短くなってしまわれて」と言った。
恐る恐る手を伸ばし、皮袋を開けて覗き込んだ。
「こんなにたくさん……」
「クリップの売れ行きは上々。防水布も売れ始めてるからね」
オットーはお茶に手を伸ばしながら微笑む。
「もし、服が必要なら、うちのブティックに言っておくよ?」
一瞬、マレシュの声が蘇る。艶やかなバリトン。「ぜひ、来ていただきたい……」
ハイレーナの視線が彷徨う。考え込む風に「そうね……」と言葉を濁し、カップを手に取った。
無性に喉が渇いている気がする。
その様子をじっと見ていたオットーが唐突に言った。
「馬車がなくて困っていない?」
カップを置いてオットーを見る。小首を傾げて、なんのこと?と無言で尋ねる。
「……春の嵐とか、突然の雨とか……」
唇が開いて、次の瞬間ハイレーナの耳が朱に染まる。
マレシュのこと知っている?
さっき、マーサと話していたのはそれ?
マレシュに送られて返ってきた時、マーサに『あれは誰か?』としつこく聞かれた。
目でマーサを探す。
けれど、もう厨房へ下がったあとだった。
やりきれない思いでスカートを握りしめた。
オットーに挑むような視線を投げて、口角を無理やり上げる。
「大丈夫。今はお天気の悪い日は家で実習をしているから」
「困ってないわ」
オットーからも、鋭い探るような視線が返ってくる。一呼吸分だけ見つめあったあと、視線を外したのはオットーだった。
「……そう」
言いながら、ソファーに背を預けゆっくり足を組む。紅茶に手を伸ばし、遅すぎるほどゆっくり口元に運ぶ。
それから大きなため息をついて手を組んだ。
「実は、少し心配していたんだ」
「なんのこと?」
「王太子殿下、ウイレムの結婚式が近づいているじゃないか。明日から祭典が始まるし、ハナが落ち込んだり、焼けを起こして無茶をするんじゃないかと……」
何度か瞬きを繰り返した。
ウイレム……正直、前世の記憶くらい遠い。
「……『結婚式に雨が降りますように』くらいは思ったけど……」
とだけ答えて苦笑した。
「そんなことより」
昨日の実験が頭に浮かぶ。今夢中になっているもの。そっちの方が重要だ。
「それで昨日の実験でね……クズウォードを使って何か作りたいと思ったの。たとえば、単一回路で、小指の爪の先くらいの小さな炎を出す器具。火おこしとかに使えない?」
興奮を抑えきれず、早口になる。
「それなら、庶民にも手が届くかもしれないでしょ?彼らの生活を少しでも、楽になるようにできたら――」
腕組みをしながら、聞いていたオットーが低い声で遮った。
「ハナは」
そこで初めてハイレーナはオットーが苛立っているのに気がついた。
眉を寄せて、目を細めてオットーは続ける。
「庶民の生活の何を、知っているの?」
ハイレーナの動きが止まる。
ゆっくりと体を起こして、身を乗り出すオットー。
「知らないのに、想像で語っていない?」
ハイレーナの呼吸が止まる。オットーの目が鋭くて、刺されたような痛みを感じた。
――想像じゃない。前世の記憶があるもの。
「街を歩いたことは?」
――だって『供を連れないで城壁の外は歩いてはいけない』と言われてたんだもの。
オットーの目がハイレーナから離れない。
「パン屋の職人の給料を知ってる?そもそも、パンの値段を知ってるかい?」
ハイレーナを見つめたまま、背もたれに身を預けるオットー。
「助けたい相手のことを知らないって、自己満足になりかねない。と思うよ」
自己満足じゃない!絶対にそれだけは、違う。
腹の底から黒い怒りが登って、煙のようにハイレーナを包み込む。大きく息を吸って、吐く。
『父の名を傘にきた、甘やかされた箱入り娘』
何度も聞かされたセリフ。
「――わかった。街へ出ればいいのね」
「知ればいいんでしょう?」
これ以上聞きたくない。今はここにいて欲しくない。
オットーが何かを言い出す前に、ハイレーナは立ち上がる。
「今日はお金を届けてくださって、ありがとう」
スカートの裾を摘んで淑女の礼を取る。
「さようなら。オットヴァルド様」
我に返ったように、組んでいた足を解いて立ち上がったオットー。
「ハナ……」
オットーの顔が歪んで、悲しそうな表情が現れた。
怒りに包まれたまま、心だけが冷えてゆく。
睨みつけたまま手で出口を差し示した。オットーは諦めたように玄関に向かった。
侍従が一礼して、オットーの後を追い、玄関の扉を閉めたところで、マーサが厨房から顔をだす。
「あら、もうお帰りに?お食事を用意しておりましたのに」
ハイレーナは冷えた視線をマーサに向けた。
「気分がすぐれないので、私も夕食はいらないわ。部屋で休みます」
何かを言いかけたマーサを目で遮って、階段を登った。
更新日程がまちまちですみません。プライヴェートでイベントが多く、計画がたてられないまま、あたふたしています。お話は書き続けているので、ストックはあるのですが・・・。
次の更新は22日(水)19時です。
続きが気になる方、時々チェックしに来てくださいませ。




