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乙女ゲームは終了したのに帰れません〜ハッピーエンドの後に、ひとりぼっちになったヒロインですが、自分の力で生きていきます〜  作者: 国枝 彩乃
修行編

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エルヴァとレモンタルト

 朝の空気が清々しい。

 ここしばらく家にこもっていたから余計だ。

 午前中はハロルド、午後はトニスとしごかれた。

 昨日はカルネアの抽出に続いて、フェロナとシルファの抽出にも成功した。

 赤・青・緑と並んだ透き通るような色が愛おしくて、窓際に並べて飾った。

 

 歩きながら新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 どこからかパンの焼ける匂いが漂ってくる。

 足がスキップしそうになって、慌てて周囲を見回した。


 今日は久しぶりに王立図書館へ向かっている。あの、嵐の日以来だ。

 マレシュの手の温もりがよみがえって、目元に熱がのぼった。

 ――いるかな。

 浮かんだ考えに驚いて、頭を振る。

 ――違うから。勉強しに行くんだから。

 今日は伝達物質とその技術について深く調べようと思っている。


 図書館の門の衛兵は見覚えのある男だった。

 

「サルバ・マトラ!」

 許可書を差し出しながら、ベトランタ語で言ってみる。

 手を止めた兵は口元を緩め

「サルバ・マトラ」

 と返してくれた。

 

 上機嫌で前庭を歩く。

 ――いるといいな。

 と微かな期待を胸に閉じ込め、受付台に向かう。

 エルヴァの姿を認めると、許可証を差し出しながら、手短に伝える。

「マーサから預かり物が」

「承知いたしました。では、後ほど」

 エルヴァの目が一瞬輝いたのを見逃さなかった。


 いつもの机に荷物を置くと、本を探しに書架の間を縫って歩く。時折すれ違う人の中にマレシュの姿を探した。

 ――いるわけ、ないか。

 商人だと言っていた。なら、毎日のように図書館へ来るはずがないのだ。

 そう納得させて、頭を切り替えた。

 

 一歩前進したところで、父とトニスの背中さえ見えない。学ぶべきことは山ほどある。

 机にどさりと本を積むと深呼吸してページを繰りはじめた。

 


 紅茶の香りが満ちた小部屋でエルヴァが待っていた。

 テーブルに着くと、早速マーサから預かった包を差し出す。

「今日はレモンタルトだそうですよ」

 エルヴァの口角が上がり、目尻に微かに緩むのを楽しみながら、手紙を差し出した。

「こちらもマーサからエルヴァ様へ」

 いつものメッセージカードより少し厚めの手紙。

 表情を引き締めたエルヴァが受け取った。

「後ほどゆっくり拝見いたします」

 と言ってテーブルの端に丁寧に置いた。


 「もういらっしゃらないかと思いました」

 お弁当の包を開きながらエルヴァが静かに言う。

 去年秋から、欠かさず毎日通っていたのが、1週間も来なかったのだから、そう思われても仕方がない。

 ハイレーナは黙々と食事を始めるエルヴァを見つめてから口を開いた。

「実は……」

 

「まあ、そんなお部屋が!」

 エルヴァの手が止まっている。

「真っ黒いものができましたの。そうしてトニスおじ様に怒られまして……」

「トニスおじ様?――もしやトニス・ペトリ様ですか?」


 ハイレーナは視線を逸らして頷いた。

 自宅に最新機器を揃えた実験室。王立研究所のトップ二人から直に教わる幸運。


 キッシュを齧って咀嚼する。窓の外の明るさがそぐわない。

 エルヴァの驚きに、改めて気持ちが沈んでいく。


「私は恵まれすぎています。なのに、……何もできなくて……」

 膝に置いた手を見つめた。

 父の美しい手つきと自分の辿々しさ。

「お前、何も見えてない!」

 と眉を寄せるトニスの硬い声。


 かちゃり。


 カップを置く音が響いた。顔を上げると居住まいを正すエルヴァと目が合った。

 その静かな目がハイレーナに注がれている。

 長い沈黙にみじろぎをした時、エルヴァの声が静かに流れ出した。

「わたくしは、司書試験に合格するまで、五年かかりました」

「夫を亡くし、家を出て、司書になろうと決心したのは二十歳の時です」

 はっとした。エルヴァにそんな過去があったと、考えたこともなかった。

「王都に来て、何もわからず、様子見で受けた一度目の司書試験は散々でした」

 エルヴァの顔に苦笑が浮かぶ。

「生きるためになんでもやりました」

 働きながら時間を見つけて本を読んだ。

 

 三度目の試験に落ちた後、試験官の一人が声をかけてきた。

「王立図書館で清掃の仕事をしないかと」

 その初老の男性は王立図書館の司書だった。彼の元で二年間、図書館の清掃から書籍の整理、簡単な修復をして働く。毎日夜遅くまで残って、朝は一番に来る。働いて、読んで記憶して、学んだ。

 そうしてようやく司書試験に合格した。

「その司書は、私に職を譲る形で――退職しました」

 

 紅茶で喉をうるわせて、続けるエルヴァ。

「ヴァロネス博士はとても愛情深いかたとお見受けしました」

 迎えに来たハロルドを思い出したのだろう、エルヴァの口元に笑みが浮かぶ。

 一瞬で消して、ハイレーナに向き直る。

「しかし」

「研究者の道がいかに厳しいか、一番ご存じなのはお父上とペトリ様です」

 言葉がハイレーナにゆっくり染み込む。

「ハイレーナ様に見込みがなければ、教えようとはなさいません」

 

 エルヴァが顎を上げた。

「恵まれている?たいへん結構。利用なさいませ」

 それから身を乗り出して低い声で言った。

「やるべきは、力を尽くして学ぶことのみ」


 エルヴァはゆっくりと手を伸ばして、レモンタルトの包を広げ、香りを吸い込むと、幸せそうに微笑んだ。

 視線をハイレーナに戻す。

 

「あなたの受けた恩恵は、次の世代に返せば良いのです」

 そして、にっこりと笑った。

 

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