三階の秘密
「大切なのはよく見ること」
朝食のオムレツを急いで口に運びながら、ハイレーナはハロルドの言葉を聞いていた。
目が覚めたのはほんの15分ほど前。
ああ、よく寝た。気持ちいい――
次の瞬間、飛び起きた。
「実習だ、寝坊した!」
「目や耳から得るものは、文献より多いからね。必ずメモを取る。レポートにして残す。いいね」
ハロルドはとうの昔に朝食を終え、ハイレーナを待っていた。
「今日は伝達物質の抽出をやる。カルネアを使うよ」
「はい」
自然と声に力がこもる。
カルネア花からの抽出は初心者向けだと読んだ記憶がある。
いよいよ、研究者への第一歩。大急ぎで最後の一切れを飲み込んだ。
「ノートを持っておいで」
といわれ、自室から図書館に行くときと同じ鞄で出てくると、ハロルドが何かを言いかけてやめ、苦笑した。
そのまま何も言わずに階段を上る。
――あれ、実験のできる場所に出かけるんじゃないの?
と不審に思いながら後を追う。
三階の書斎へ入る。
――まさか書斎で?
ハイレーナはところ狭しと積まれた本と積もった埃を見て首を傾げた。
ハロルドはかまわず机の脇から本棚を回り込む。後ろは書庫のように本棚が並んでいるはず。
ついて来い、と手で合図され回り込んでみると、薄暗い空間に4列の本棚が並んで、その奥に扉が現れた。
ハロルドが鍵を差し込む。
ガチャリと錠前が鳴る。
ゆっくりと開いた扉の向こうに、光さす大きな白い部屋が広がっていた。
正面奥の棚に整然と並べられた実験用具。小さな引き出しが無数に並んだ棚。右側に巨大なキャビネット。上には何やら機械が並ぶ。
「これって……」
真ん中に大きな実験台がある。
ハロルドは早くも奥の棚から器具を取り出している。
「……いつから?」
「イレーネが起きられなくなった頃かな」
一瞬ハロルドの手が止まり視線を宙に彷徨わせた。
口角が少しだけ上がる。
「できるだけ側に居られるようにね」
ハロルドは再び視線を実験台に戻すと、次々と器具が並べていく。
「子供には危険だから」
ハイレーナには教えなかったという。
「三階はお父様のお仕事の部屋だから、行っちゃダメよ」とお母様の声が蘇る。
ハイレーナは右手にある機械に触れてみる。
器具を並べていた手を止めて、ハロルドが破顔した。
「その機械はハイレーナの『クルクル回る泡立て器』から考案した粉砕機」
「高圧縮ウォードでやっと実現できた試作品。まだ、二台しかないんだよ」
さあ、と言われて実験台に近づいた。
「今日使うのはこっち。試験では最新機器は使わないからね」
ハロルドはカルネアの深紅の花びらをつまみ上げた。
ハロルドの雰囲気が一変する。
「まずは見る。ノートに書く。再現する」
花びらを一つ一つ丹念に拭いた後、乳鉢に入れすりつぶす。
ペースト状になったそれをガラス瓶に入れ、酒精を加える。鮮やかな赤が液体の中を泳いでる。
アルコールランプに鍋をセットし、コルク栓をしたガラス瓶を湯煎にかける。
「これから役40分ほど煮出す。ノートに書いて構わないよ」
「お父様、カルネアの花は状態、酒精の時間や方法によって回路の出力に影響すると読んだのですが」
ハイレーナは書き留めていたノートから顔を上げて、気になっていたことを尋ねた。
「そうだね。カルネアは、いや、どの植物性伝達物質抽出も奥が深いんだよ。生花のまま、ああ、だいたい採取したときの状態によっても……いや、これは今じゃなくて。そう……加熱する、すりつぶす、乾燥させる、にしてもこれもやり方がいろいろあってね。新しい機器を使って……以前は天日で温度管理が、いや、粉砕の、そうだ、粒の大きさでも変わる。酒精の成分の差も影響するし、とにかく粉末は保存性が高い。面白いことに……粒の大きさによって変わるんだ。小麦粉くらいの状態にすると…………これに薄めのアルコールが……時間を……」
その間も、時折アルコールランプの出力を調整している。
ハイレーナはポカンとハロルドの口を見た。ペンを握った手は止まったまま。
瞬きをすると視線を鍋に戻して、集中する。酒精の香りが漂う。
「お父様、時間!」
早口で説明を続けていたハロルドを遮った。
「ああ、そうだね」
静かに鍋を火から下ろすと、ガラス瓶を取り出した。真っ赤な液体とそこに沈むわずかな沈殿物。
濾過器に麻布を敷いて静かに中を傾ける。麻布は真っ赤に染まり、わずかな個体が残った。
それをまた火にかけて濃縮する。その火加減を調節しつつ、もう1台のランプで膠の塊を湯煎にかける。
無駄のない動き、手つきの美しさ。お茶の作法を見ているような清廉さ。
アルコールランプのたてるしゅ〜しゅ〜という音だけが響く。
溶けた膠に黒鉛の粉をほんのひとつまみ入れ、ゆっくりかき混ぜる。
そこへ濃縮した真紅のカルネア抽出液を少しずつ足してゆく。
練り上がった液体に松脂の液をひとたらしして火からおろした。今度は素早く混ぜる。
ハイレーナはハロルドの手元を覗き込んだ。
とろりとした真紅のインクが出来上がっていた。
小ぶりの瓶に移したそのインクを光に透かして見る。透明感のある赤が、実験台に反射する。
「……きれい」
ハロルドは使用済みの器具を流しに運んで丁重に洗い始めた。
「実験室の清潔さは命なんだよ。知らない間に不純物が入り込んで、台無しになることがあるからね」
ハイレーナも流しへ行って洗い終わった器具を布巾で拭いた。
「ああ水気をもう少し丁寧に拭き取って。完全に乾いた状態にする」
ハロルドの目が鋭い。
言われた通りに拭き取り、元の実験台へ運び終えると、ハロルドが棚から新しいカルネアの花を取り出した。
「さあ、やってみて」
ハイレーナは頷いて、花弁を受け取った。
お読みいただき、ありがとうございます。
不定期更新ですみません。
次回は4月17日(金)19時です。
また読みにきてくださると嬉しいです。




