突然の試練
鍋をゆっくりかき混ぜながら、あくびを噛み殺した。
厨房の窓からは麗らかな日の光が入ってポカポカ暖かい。涙の滲んだ目を擦って鍋をコンロから下ろした。
「明日の午後、トニスが宿題を見に来るよ」
昨夜。夕食の席を立とうとした時、思い出したようにハロルドが言った。
――回路ペン、だよね。
赤いインクを静かに垂らし、混ぜながら冷ます。
何度も繰り返した手順だから、思考がかってに飛んでゆく。
広がる赤色が大聖堂の赤い絨毯を呼び起こす。
アメリア様の長いブーケ。一礼した姿。
そして、マレシュの白い手袋。
昨夜はなかなか寝付けなかった。
「ご苦労が多いのではありませんか?」艶やかな声の響きとシトラスウッディの香り。
長い指に握られた時の温もり。
思い返しては枕に抱きついて、左右に転がった。
おかげで今朝はマーサが起こしに来るまで眠っていた。
出来上がったインクを慎重に回路ペンへ流し込む。
ダイニングルームに運び、広げた紙に一本線を引く。
何度も練習してきた甲斐あって、美しく均等な線が出来上がる。
三角、丸、四角と書いたところでチラリと時計に目をやった。
寝坊したおかげで昼食までの時間があまりない。
伝達物質も見直しておかなくちゃ、そうだ、単純な回路書きもさせられるかもしれない。
せわしなくノートのページをめくる。
伝達物質のメモを目で追いながら、ベトランタ訛りの艶やかな声が蘇り、首を振った。
――どうかしてる。しっかりしなさい。
トニスの軽さに騙されてはいけない。鋭いのだ。
――王立研究所の技術部の長だもんね。
昼食の片付けが終わる前に現れたトニスは、ハイレーナの向かいに腰掛けると、どさりと分厚い紙束を投げてよこした。
「まずは筆記試験だ」
クリップで止められたその紙束とトニスを見くらべ、ハイレーナの顔から血の気が引いた。
「そんなの聞いてない!」
「おう、言ってねえからな。今、どのくらい知識が詰まったか知りたい」
「なに、お前さんだって、どのくらい賢くなったか知りてえだろ?ほら、さっさと取りかかる」
インク壺とペンをハイレーナの前に推しやった。
トニスは長い足を組む。ハイレーナに興味を失ったようにマーサに話しかけた。
「何か食わしてくれ。早めに出てきたから……」
その先の会話は耳に入って来なかった。
一ページ目を読み始めたハイレーナの手にじわりと汗が滲む。
――難しい。
いきなりなんて酷すぎる。
わかってたら昨日だって早めに寝たのに。
二ページ目に目を通す。
文字が滑っていく。目がくらんで両手で顔を覆った。
落ち着いて、集中するの。
そんなのは全部雑音。
試験は何度も受けてきたでしょう?
――まず、問題を全部読む。分かるところから答えを書く――
塾の講師の声が浮かぶ。
目を閉じたまま、深呼吸を三回繰り返す。
ハイレーナは顔を上げ、スープを口に運ぶトニスへ硬い声で問いかけた。
「時間制限は?」
「ねえよ」
よし。
もう一度一枚目を手に取った。
大丈夫、ちゃんと頭に入ってくる。
読む――めくる。
伝達物質、回路……。
最後の文字にたどりつき、ペン先にインクを吸わせる。休みなく頭が回転する。
これは、あの本のあのページにあったはず……思い出せ。
ペンが紙の上をすべる音。
食事を終えたトニスの視線。
時計を見やった気配。
額の汗を拭った。
バタン。
没入していた思考が遮られる。
顔を上げるとあたりは暗かった。
ウォードランプがテーブルを照らしている。
トニスが目の前に立っていた。
「よし、そこまでだ」
手が伸びてきて、書きかけの答案用紙を奪われる。
と同時にハロルドが顔を覗かせた。
「どうだい?」
「おう。おかえり。今終えたところだ」
トニスがハイレーナの答案を持ち上げて見せた。
「ハイレーナ、お疲れさま。よく頑張ったね」
マーサがハロルドの上着とカバンを受け取っている。
ハイレーナは体から力が抜けて、言葉がでてこない。
「お父様……」
その目の前に回路ペンが差し出された。
「まだ、終わっちゃいねえよ。宿題の成果を見せてもらおう。こっちに見本がある。その通りに書いてみな」
有無をいわせぬ口調に、考えることを放棄してペンを握った。
頭ごしにハロルドとトニスが話している。
「それで、どうだった?クズウォードの処分は決まったか?」
「まあね。ベトランタが研究資料として欲しがっているから、そちらに半分、残りはうちの研究チームと地下に戻す分と」
――クズウォード――ベトランタ!――
逸れそうな思考を呼び戻して、手を機械のように動かす。
線、丸、四角、三角、回路の手本四種類。
書き終えてペンを置くとトニスと目があった。
ハロルドは後ろで立ったまま回答を読んでいる。
紙を摘み上げながら、トニスが問うた。
「どうだった?」
ハイレーナは椅子の背にガックリと身を預けた。
「難しかった――」
両手で目を覆う。
「半分もできませんでした……」
「うん、まあそりゃ当たり前だな。本物の国家試験の問題だからな」
答案用紙から顔を上げたハロルドが微笑んで言った。
「筆記試験は一日かけてやるんだよ。その次の日が実技。そして三日目は口頭試問」
「そう、本番は三日間缶詰でやる」
「お嬢の回答、基礎的な部分は間違いがない。まあ、半年ちょっとでこのくらいなら悪くない。始めるには妥当だろうな」
「回路や伝達物質の基礎は入っているね」
全身の力が抜けて椅子からずり落ちそうになる。
マーサが水のコップを置いてくれるのをぼんやり見ていた。
トニスが回路の紙をハロルドに渡しながら言った。
「いいだろう。明日から実習だ」
「本当!?」
思わず立ち上がった勢いで、コップが倒れて水が勢いよく散らばった。
「あ……」
という自分の声ともに両足の力が抜けて床に座り込む。
「ハイレーナ!」
「お嬢!」
「だめ……ねむい……」
最後まで読んでくださってありがとうございます。
次回の更新は15日(水)19時になります。しばらくイレギュラー更新になるかもです。
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