春の嵐
外に踏み出した途端、風がハイレーナの髪を巻き上げた。
土の匂いが立ちのぼる。前庭の木が音を立てて激しく揺れている。
「少し走りますよ。急げば濡れずにすみそうです」
そう言って男はハイレーナの荷物を奪い、もう片方の手を引いて走り出した。
「間に合いましたね」
馬車に飛び乗って扉を閉めた途端に大粒の雨が窓を叩き始めた。
ハイレーナは胸に手を当てて、乱れた呼吸を整える。
男は息も乱さず、バスケットと鞄をハイレーナの横に置くと、真正面に座って身を乗り出した。
「出発しましょう。どの辺りですか?」
「東の1の門の近くです」
頷くと御者に合図を出した。
雨音に逆らうように車輪が回りだす。
ハイレーナは窓に視線を向けた。男の膝に触れそうなほど近く、正面を向くことができない。
「改めまして、私はマレシュ・ラディックと申します。レディ――お名前を伺っても?」
ようやく視線を男の方に向ける。背もたれに深く身をあずけたマレシュと目があった。
膝の上で組まれた手の、白い手袋に目を落とす。
「ハイレーナ。――ハイレーナ・デ・ヴァロネスと申します」
マレシュの気配がわずかに揺らいだ。ハイレーナは息を呑み込んでさらに俯いた。
「もしやヴァロネス博士の?それは……」
窓を叩く雨音がさらに激しくなった。
「たいへん……ご苦労が多いのではありませんか?」
咄嗟に顔を上げた。マレシュを見つめる。
マレシュは僅かに眉を寄せ、ハイレーナを覗き込んでいる。
雨音だけがうるさく響く。
男は息を小さく吸うと、晴れやかな笑顔を作った。
「私はベトランタ出身の商人です。この王都でもブティックを経営しております」
「レディのような可愛らしいお嬢様にも、ぜひ、訪れていただきたい」
話がそれたことに安堵したが、『可愛いお嬢様』に、むっとして唇を引き結んだ。
「わたくしは」
と言いかけて言葉が続かない。仕方なく視線を逸らす。
「……あまり城壁の外へ行ったことがありませんの」
頑なに窓の外を見やる。少しずつ雨足が穏やかになってきている。
と、雨音に混ざって、小さく笑う声が聞こえてきた。
振り向くとマレシュが唇に拳を当て、肩を振るわせて笑っている。
「本当に愛らしい――いや、レディ、失礼しました」
咳払いをして息を整えると、にっこり笑って言った。
「ぜひ、いらしてください。ご案内いたしますよ」
屋敷の門の前に馬車が静かに止まる。
雲が薄くなって、夕暮れの光がうっすらと差し込んでいる。
扉を開けてマレシュが降り、手袋を外した手をハイレーナに差し出した。
長い指に厚い手のひら。
「レディ」
雨上がりのツンとした匂いが鼻を掠める。
戸惑いながらその手に手を重ね、ステップを降りた。
手を離そうとしたその時、ぎゅっと力が込められ、すぐに離れた。
マレシュを見上げると、いつもの微笑みが返ってきた。
湿気を含んだ空気は冷たいのに、ハイレーナの頬だけが熱を持っていた。
マレシュはハイレーナのバスケットを差し出す。
「では、また」
と言って背を向け、無駄のない動きで馬車に乗り込むと、するすると去っていった。
ありがとうございます。
次の更新は12日(日)の17時です。
またお会いできることを願って。




