帰れない
「違う……」
やっと覚悟を決めて目を開けた。開けた時にはもう、わかっていた。唇が震え、涙が滲む。
「どうして……!」
朝日に照らされた部屋は何度見回しても、寮の部屋。
「何を……間違ったの!」
腕につけたままだった婚約腕輪を外して投げつけた。溢れ出た涙で何も見えなくなる。喉の奥から絞り出された声で、呼吸が苦しい。
――お母さん、おか……さ……ん……。
ドンドン!
扉が乱暴に叩かれる。
「ヴァロネス嬢、いらっしゃいますか?」
ドンドンドン!
「荷物取りに来ました!」
苛立った声にピクリと肩を震わせ、涙を拭うと扉を小さく開けた。
「ヴァロネス嬢!まだそんな格好なんですか。今日八時には荷物取りにきますって、あれほど!」
「……」
「ったく。浮かれて寝坊ですか。じゃ、最後に取りにきますから、それまでに荷物まとめておいてくださいよ!十時には退去ですよ、退去!」
エプロンを翻して去っていく小間使いの背を見つめたまま、立ち尽くす。
「……夏休み……片付けなきゃ……」
のろのろと扉を閉めて、脱ぎ捨ててあったドレスを拾う。また涙が滲んだ。
――エンディングのドレスなのに。
止まりそうになる身体を無理やり動かし、荷物箱に入れてゆく。靴、制服、寝巻き……。すぐに視界が歪む。何度も拭った目はヒリヒリ痛い。最後に拾った腕輪を入れて箱を閉じた。
――これからどうしたらいいの?
小間使いに荷物箱を預け、鍵を渡して部屋を出る。城門の外へ足は勝手に向かう。馬車溜まりで乗合馬車に乗り込んだ。
――帰るところなんかない。
このまま、どこかへ消えてしまいたい。
――ドレスだって、腕輪だって、完璧なエンディングだったのに!
ハンカチを目に当てる。濡れそぼって冷たい布にさらに涙が滲む。
東の一の門で馬車を降り、城門の中へ入る。
――ああ、だめ。このまま帰ったらマーサが心配する。
とぼとぼ足を前に進めながら、マーサの顔がよぎる。それだけでハイレーナの心がほっと緩むのを感じた。3階建ての小さな屋敷が見えてくる。門は押しただけで開いた。前庭の石畳の小道を玄関に向かう。花の少ない庭。数本の木が影を作っているだけ。
玄関の呼び鈴を鳴らすと、奥から返事が聞こえた。
「まあ、お嬢様。おかえりなさいませ!」
エプロンで手を拭きながら出迎えたマーサは、口を開きかけて閉じ、笑顔を作った。ハナの荷物を奪うと、屋敷の中へ先導していった。
――白髪、増えたな。
でも前を行く背中はしゃんと伸びて軽やか。
「お嬢様、一年間の学業、お疲れ様でした」
階段を登りながら、マーサが言う。
「ありがとう、マーサ」
二階のいちばん手前の部屋へ。窓が開け放たれて、木々のざわめきと共に風が通る。一年ぶりなのに、埃ひとつない。机に花が生けてあった。
「乗合馬車は暑うございましたでしょう?」
マーサが喋っている。手は鞄の中から取り出したハイレーナの荷物を整理してゆく。
――今は何も考えない。
「少し、休まれますか?お飲み物をお持ちしますよ」
ノートとインク壺を机の上に配置し終えたマーサが振り返った。
「ううん、着替えたら厨房へ降りるわ。久しぶりにマーサとお茶したい」
マーサの目尻の皺がふわっと持ち上がって、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「では先に降りて準備をしておりますね」
いそいそと扉を出ていくマーサを見送って、制服を脱ぎ、用意されたデイドレスに着替えた。
鏡に映った顔は腫れぼったくて、バスルームで冷たい水で顔を洗った。
――泣いたのわかってたよね。
心配させたくない。
――考えるのは今夜、一人になってから。
大きく息を吐いて部屋を出た。
厨房のテーブルでマーサと向かい合って座る。入れたばかりのお茶は花の香りがした。カップを持ったまま、支えを吐き出すように尋ねた。
「……お父様は?」
「四日ほど前に、東へ立たれました。長年の研究が形になって、一息つけるとおっしゃっていたのに」
紅茶で喉を潤してからマーサは続けた。
「王命と伺っています。ラナスを皮切りに、海へ出てベトランタ、レグステラと回られるそうです」
ほっと体の力が抜けた。三カ国も回るなら半年はかかる。夏の間に顔を合わせる心配はなさそうだ。
「久しぶりにお帰りになった時は本当にお疲れで、数日間はほぼ眠ってらっしゃいましたよ。それからすぐ王命で出発準備でしょう?新しいウォードを持って売り込みですって。なんだか、お偉い方々がそう出でいらして……」
紅茶に添えられたクッキーを摘む。アーモンドの香りが口に広がった。
「船の旅などマーサには想像もつきません。……お嬢様はこの夏は?」
「どこにも出かけないわ」
マーサの表情を見て付け加える。
「みんな卒業したから、今までのようには。オットーもお父上と修行の旅に出るそうよ。各店舗を回るのですって」
「そうですか、オットヴァルド様も、後継の準備が始まるのですね。時の経つのは早いこと」
マーサが茶を飲み干してカップを置いた。
「お嬢様も来年は卒業ですものね。学院に送り出したのがもう五年も前だなんて」
「ほんとね。……この家にもあまり帰ってこなかったけど」
「マーサからお願いです。これからはもう少し頻繁に帰ってきてくださいまし。私も歳ですから、体が思うように動かなくなりました。お嬢様がいらして、少し手伝っていただけると助かります」
にこやかにしているけれど、目は真っ直ぐハナを見ている。
「あら、私が帰ってくると仕事が増えるんじゃない?」
「ほほほ、それもありますけれど、家事は喜んでくれる人がいてこそ張り合いが出るものですから」
そう言いながら立ち上がった。
「昼食も腕を振るいますよ」
――お母さんも、同じこと言ってた。
『お母さんはね、美味しいって言ってもらうから料理が楽しいの』
「あのね、マーサ」
食糧庫に向かっていた足を止めて振り返るマーサ。
「私にお料理を教えて」
立ち上がってカップを流しへ運ぶ。華は料理が好きだった。よく、母とキッチンで一緒に料理を作った。
「何かの役に立つかもしれないじゃない?やってみたいの」
渋い顔のマーサに反論させないよう、たたみ掛ける。
「それに、他にやることもあまりないし。夏休みの間だけ。お願い!」
「……そうおっしゃるなら」
そして、ふっと顔を綻ばせると、懐かしそうに言った。
「イレーネ様も厨房がお好きでした……」




