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乙女ゲームは終了したのに帰れません〜ハッピーエンドの後に、ひとりぼっちになったヒロインですが、自分の力で生きていきます〜  作者: 国枝 志歩
学院編

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3/36

屋敷へ

 今日こそは、マンションの部屋で目覚めているはずだったのに。

 泣きじゃくって疲れ果て、大きく吸って吐くを繰り返す。


 しばらく呆然と座り込んでいた。

 ようやくノロノロとベッドに捕まり起き上がった。

 鞄を引っ張り出して、身の回りのものを詰める。

 

 今日から年度末の夏休み。年度末は全員退室が求められる。

 今日中に寮を引き払わなければならない。

 帰りたくはないけれど、ゆっくりはしていられない。

 とにかく手だけを動かした。

 

 母は生まれつき病弱だった。

 ハイレーナが小さい頃は毎日起きて食事も一緒に食堂でとっていたけれど、徐々に寝付く日が増え、数年後静かに息を引き取った。ハイレーナは11歳。ちょうど学院に入学する6ヶ月前だ。

 ヴァロネス家にとって太陽のようだった母が亡くなってから、父は家に帰ってこなくなった。

 父は自分を捨てたのだと思った。

 

 華となってからはあの家がさらに遠くなった。

 マーサと過ごすのは嫌じゃない。

 でも屋敷に帰るのは辛い。


 身支度を整える間も、気を抜くと涙が溢れてくる。

 このまま、どこかに消えてしまいたい……。

 

 重い足を引き摺るようにして寮を出た。濡らしたハンカチを目に当てながら、乗合馬車の駅を目指す。

 学院に一番近い城壁の門を出たところが駅だ。

 ハイレーナの屋敷があるのは学院とちょうど反対側。乗合馬車なら1時間はかかる。


 あまりひどい顔で帰ったら、マーサが心配する。

 

 母の侍女として伯爵家からついてきたマーサは、体の弱かった母の代わりにハイレーナを育ててくれた。母が亡くなった後も屋敷に残り、バラバラになった父娘の仲を取り持とうと心を配り、誰も帰ってこない屋敷の管理を一手に引き受けている。

 

 マーサの顔を見るのも昨年の夏以来だ。

 

 馬車を降りる。大きく息を吐いて気持ちを整える。

 いつも、帰宅の前はこうだ。覚悟を決めないと足が前に進まない。

 

 15分ほど王家の森の方へ歩いてゆくとやっとヴァロネス家の屋敷が見えてくる。

 3階建てのレンガの質素な建物だ。門扉は一応あるものの、門番もいない。

 子供の頃は、小さな前庭は季節の花で溢れていたけれど、今は木が植っているだけの寂しいものに変わった。

 この屋敷に住むのはマーサひとり。

 

 門扉の呼び鈴を鳴らすとしばらくしてマーサが迎えに出てきた。ハイレーナの姿を見て微笑むと門を開けてくれた。


 「お嬢様、おかえりなさいませ」

 

 マーサは白髪も増えて目元の皺が少し深くなったけれど、背筋がしゃんと伸びていて立ち居振る舞いが美しい。けれどここ数年でグッと老けた気がする。

 ハイレーナの荷物をさっと奪うと、屋敷の中へ先導して行った。

 ここに帰ってくるのはほぼ1年ぶりだ。

 綺麗好きなマーサのおかげで、埃ひとつなく保たれている。玄関とサロンに花が飾ってあって毎日マーサが丹精してくれているのが伺える。

 1階にはサロンと食堂、厨房が設えてある。マーサが使っている使用人用の部屋もある。2階にはそれぞれの個室と客間。3階は図書室、納戸、父ハロルドの書斎があった。

 

「お嬢様、一年間の学業、お疲れ様でした」

 2階への階段を登りながら、マーサが労ってくれる。

「ありがとうマーサ」

 2階の南側の部屋がハイレーナ部屋。窓が開け放たれていて、爽やかな風が通っていた。

 寮の部屋より随分広い。天蓋付きの大きなベッド、暖炉の前には小さなソファー。そしてバスルームがついている。


 自分の部屋であるのになんとなくよそよそしい。見慣れたようでいて、しっくりこない。この部屋を離れたのは12歳。その頃の調度品に囲まれた部屋はまだ幼さが残っていた。16歳になった今は飾ってある人形や木馬、カーテンの色がやけに子供っぽく感じる。

 

「乗合馬車は暑うございましたでしょう?少し休まれますか?お飲み物をお持ちしますよ」

 鞄の中の荷物を整理しながらマーサが声をかけてくれる。

「ううん、着替えたら厨房へ降りるわ。久しぶりにマーサとお茶したい」

 その言葉に顔を綻ばせたマーサ。

「では先に降りて準備をしておりますね」

 と言って下がっていった。

 クローゼットの中から、涼しげなワンピースを見つけて着替える。長い髪はまとめて簡単に結い上げた。卒業パーティのために贈られたアクセサリーと髪飾りを鏡台の引き出しにしまう。鏡に映った顔は腫れぼったくて、泣いたことがマーサには勘付かれたかもしれない。

 心配させたくない。と意識の底から聞こえるのは、ハイレーナの声。


 今は何も考えない。

 泣いたらマーサが心配する。

 事情は説明できないし、とにかく他のことで気を紛らわす。

 考えるのは今夜、一人になってから。


 大きく息を吐いて、厨房に降りるため、部屋を出た。



 厨房ではマーサが沸いたやかんをウォードコンロから引き上げたところだった。

 

 ウォードとはエネルギーの結晶。

 貴族の厨房ではウォードを使ったコンロやオーブンは標準装備だ。

 そして父、ハロルド・デ・ヴァロネスは、そのウォードの研究者。

 王立研究所で娘よりも大切な研究を思う存分やっている。

 

 だからハイレーナは「ウォード」と聞くと嫌な気持ちになる。「研究所」も嫌いだ。



 厨房のテーブルに座って、マーサが入れてくれたお茶を飲む。お茶請けにクッキーが添えられていた。

「お父様は?」

 まずは気になることを聞いておく。

「四日ほど前に、東のラナス国に旅立たれました。王命だそうですよ。お忙しいことです。せっかく長年の研究が形になって、一息つけるとおっしゃっていたのに」

 紅茶で喉を潤してからマーサは続けた。

「7月の初めに一度戻ってらして、大変お疲れでした。数日間はほぼ眠ってらっしゃいましたよ。それから王命が降ったと使者が来て、『研究結果を持って諸国を回れ』と。技術者と外交官などでチームを作って各国に広く成果を売り込むのだとか。ラナスを皮切りに、大河を下って海へ入り、ベトランタ、レグステラと回るそうです。マーサには想像もつきません。長い旅になるのでしょう。お嬢様に一目会いたいとおっしゃっていたのですが、勝手に出発を遅らすわけにもいかず。王命ですから仕方がありません」

 

 ほっとすると同時に落胆もある。落胆はハイレーナだろうか。それだけの旅程となると少なくとも半年以上、もしかすると1年は帰ってこないだろう。この夏顔を合わせることはなさそうだ。マーサは残念そうだけれど。


「この夏はどこへも行かれないのですか?」

 と問われて、ハイレーナの気持ちが暗くなる。

「そうね。みんな今日から仕事に入るの。社会人としてデビューだわ。オットーも今年はお父上と各支店を回るそうよ。見習いのようなものだと聞いているわ」

「そうですか。みなさん、卒業されて成人なさったのですものね。オットヴァルド様も成人の準備なのでしょうね。時の経つのは早いこと。お嬢様も来年は卒業ですものね。学院に送り出したのがもう4年も前だなんて」

「ほんとね。この家にもあまり帰ってこなかったけど」

「マーサからお願いです。これからはもう少し頻繁に帰ってきてくださいまし。私も歳をとって、体が思うように動かなくなってきました。庭の手入れなど行き届かなくなって。お嬢様がいらして、少し手伝っていただけると助かります」

 おどけて言ってみせるけれど、マーサはハイレーナに家事の手伝いなどさせないのはわかっている。ただ、もう少し帰ってきて欲しいのは本音だろう。

「あら、私が帰ってくると仕事が増えるんじゃない?」

「ほほほ、それもありますけれど、家事は喜んでくれる人がいてこそ張り合いが出るものですから」

 そう言いながら立ち上がった。

「今日の夕食も腕を振るいますよ」

 

 華の記憶がふと蘇る。

 

「お母さんはね、美味しいって言ってもらうから料理が楽しいの」

 料理好きだったお母さん。華もよく台所に立って母と料理を作った。

 

 小学校低学年の時、ヴァレンタインのチョコを自分で作りたくて、初めて台所に立った。台所も自分も粉だらけにして怒られたけれど、楽しかった。オーブンから漂ってくる甘い匂いを思い出す。

 中学高校になると、仕事を始めた母の代わりに夕食を作ることが増えた。休日は二人で台所にたって、よく笑いあっていた。


「マーサ。だったら、今日の夕食作り、お手伝いさせて?」

 気がついたらそう言っていた。

「お嬢様?そんなことは貴族のやることではありませんよ」

「貴族って言ったって名ばかりだし、平民に嫁ぐ可能性の方が高いじゃない。やってみたいの。お願い」

「……そうおっしゃるなら」

 渋々ながら承諾してくれた。確かに結婚する相手が平民である可能性にも思い当たったのだろう。

 そして、ふっと顔を綻ばせると、懐かしそうに言った。

「イレーネ様も、厨房がお好きでした。流石に伯爵令嬢だったイレーネ様は、お手は出されませんでしたけれど、シェフたちの手際をご覧になって『美味しそうないい匂い。たまらないわ』とおっしゃって」

 久しぶりに聞く母の話題に心の中のハイレーナが息を呑む。しかし、マーサの語る母が可愛くて、悲しみよりも微笑みが浮かんだ。

「そう、お母様も食いしん坊だったのね」

「でございました」


 夕食の準備のため厨房に立つと、マーサがエプロンを結んでくれた。火に近づくな、包丁はくれぐれも気をつけて、と少し過保護だ。

「大丈夫。マーサの手元も学院の寮のシェフの手元も見ていたから」

 とハイレーナは、渡された野菜の皮を剥き、トントンと手際よく同じ大きさに切り揃える。

 その手際を見てマーサは目を見開いた。

「あれまあお嬢様は料理の才能がおありかもですねぇ」

 と感心していた。

 ハイレーナは包丁を持ったのは初めてでも、華なら料理は得意だ。

 

 野菜をコトコト煮込んだスープ。

 メインに、マッシュポテトと挽肉のグラタンとサラダ。

 デザートにマーサ特製のレモンタルト。

 ハイレーナとして初めて厨房に立ったけれど、思いのほか楽しかった。

 慣れないウォードコンロの使い方を学び、タルト生地を初めて作った。

 

「まあまあ、生地の伸ばし方がお上手ですこと」

 とマーサが目をまん丸にする。

「私、本当に料理の才能あるかもよ」

 と、おどけて見せるほど気分が良くなった。


 マーサと二人、厨房の小さなテーブルを囲んだ。

 

 本来なら使用人であるマーサと食事を共にすることはない。

 けれど、お母様が亡くなってお父様が帰ってこなくなった頃、一人で食事をするのが辛くて食べ物が喉を通らなくなった。スープすら一口飲んで終わりにしてしまうハイレーナを心配して、ある日マーサが厨房に連れてきてくれた。野菜を切るところから始めて、鶏の骨で出汁をとり、ハーブや野菜を入れてじっくり煮込む。細かく切ったパンをフライパンでたっぷりのバターと炒ってクルトンを作ってみせた。そして厨房のテーブルにマーサと座り、泣きながらスープを飲んだ。それ以来二人の時はマーサと一緒に厨房で食事をする。

 

 

 そうか、私が帰ってこなかったら、マーサは一人でご飯を食べるんだ。

 マーサも寂しかったよね。

 ハイレーナの罪悪感が競り上がってくる。

 

 華はこの世界から逃れて、元の世界に帰ることしか考えていなかったのだから。


 

 食後のお茶を飲んで、後片付けも手伝って、ようやく寝室へ引き上げた。夜着に着替えてベッドに腰掛ける。

 マーサと二人で過ごした夕食の時間は思いの外楽しかった。思い詰めていた気持ちをスッとそらされたような気がする。マーサはお母さんじゃないけど、無条件でハイレーナを愛してくれる人。お母さんと違って、身分だって対等じゃないし、言葉だって敬語だし。でも、ちょっとお母さんと過ごした時間を思い出した。


 横になって枕元のランプの火を消した。

 なんだか疲れてきっていて、考えるのを手放した。

 明日からのことは、明日から考える。

 

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