8 怒り
皇太子宮は、とても静かだった。
舞踏会が終わり、ブレイドと共に宮殿へ帰ったアイリスは、皇太子宮に入ってすぐ浴室へ向かい、エマや使用人達にドレスを脱がせてもらって湯浴みを始めた。
無駄に広い浴槽に浸かり、舞踏会の疲れを癒すようにアイリスはゆっくりと息を吐いた。
今日一日だけで、かなりの物事が起きた。
宗教国家ディアロスの国王、アデルが社交界に現れたこと。
ヘスス族と人族の混血の存在。
ディアロスの開国を条件とした交渉。
そして、アデル国王たちのラドリス帝国滞在。
「…………」
アイリスは、湯船から浮かび上がる湯気をぼんやりと眺めながら、怒りを滲ませていたブレイドのことを思い返した。
帰りの馬車の中で、ブレイドは一度もアイリスを見ることなく、ただひたすら窓の外を眺めていた。
しかし、隣から感じる雰囲気で、彼がとても怒っていることだけは分かっていた。
皇太子宮にアデルを滞在させる条件として挙げた、"ヘスス族との混血の女性ヘレナも一緒に滞在させる"こと。
それは、創造魔法を受け継いでいるヘレナを多くの者たちから守るためでもあり、
ヘレナとブレイドの接点を増やすためでもあった。
そのことに、ブレイドが気付いていないわけがなかった。
『お前は口実を作りたいだけだろっ!』
舞踏会会場で、声を荒げたブレイド。
そう、口実を作りたい。
私がディアロスへ行くための口実を。
私がいなくても、大丈夫なように。
私の代わりになってくれる人を作ってもらうために……。
どう考えても、宗教国家ディアロスが開国するとは思えなかった。
もし開国して交易・交流を開始したとしても、思想の違いが大きすぎて衝突してしまう可能性の方が高いだろう。
ゼインからブレイドの代に変わったら、もっと衝突する筈だ。
将来的に見ても、アイリスが宗教国家ディアロスへ行き、アデル国王の妻としてラドリス帝国との衝突を避けていく道を選んだ方がいいとアイリスは考えていた。
「(ヘレナさんがどんな女性かまだ分からないから、これから見極めていかないといけないけど……)」
悪い人ではない、となんとなく感じていた。
幻想的で美しく、儚い雰囲気のヘレナ。
会場にいた者たち皆を虜にするほどの美貌の持ち主。
アデル国王も、彼女に対しては比較的優しかったように感じる。
アトロイが彼女に向ける視線は、あまり好意的なものではないようだったが、アデル国王はアトロイほど異種族に対して抵抗がないのかもしれない。
きっと、ヘレナならば、ラドリス帝国と宗教国家ディアロスの架け橋を担ってくれるだろう。
ブレイドも、
ヘレナのことを……好きになるかもしれない。
愛し合えるかもしれない……。
アイリスは、そっと目を閉じて息を吐いた。
すると、ブレイドの言葉がふわりと蘇った。
『"お前と一緒に生きたい"。
……お前に好きだと伝え、それにお前が答えてくれたあの日から、俺はそう思うようになったんだ。
だから、この腕輪が壊れてしまっても、俺はどんな手を使ってでも生きてみせる。』
五年前の話をしてくれた後にブレイドの言った言葉が頭を過ぎり、アイリスは口をつぐんだ。
同時にズキズキと痛みはじめた胸を、そっと抑える。
「……っ、ごめんなさい……」
私の行動は、貴方を傷つけている。
でも、貴方には生きていてほしいの。
やっぱりこうすればよかった、なんて……後悔したくないから。
"人の想いは、うつろうもの"
前世の"私"に身を持ってそう教え込んできた人達。
どんなに"愛してる"って想っていても、それが永遠に続く保証なんてないから。
……だから、
ブレイドもきっと、
私じゃなくても、大丈夫……。
ゆっくりと息を吐いて、湯船で顔を洗った。
音を立てて苦しいほどに痛む胸に気付かないふりをして、アイリスは湯船から立ち上がった。
いつものように薄手のワンピースに身を包んで肩からストールを羽織ると、使用人たちにお礼を言って脱衣室を出た。
静かな廊下を自室へ向かって一人で歩く。
きっとブレイドは、いつものように彼の部屋に備え付けてある風呂で湯浴みを済ませて、もうベッドで休んでいる頃かもしれない。
長い時間湯船に浸かっていたため、すっかり夜も更けてしまった。
アイリスは重怠い体を動かして、なるべく音を立てないように自室の扉をそっと開けた。
「……!」
「遅かったな。」
ブレイドは、腕を組んで椅子に座っていた。
湯浴みを終わらせていたのは正解だったが、彼自身の部屋ではなくアイリスの部屋にいたとは思わなかった。
「ブレイド……」
アイリスが名前を呼ぶと、ブレイドはゆっくりと椅子から立ち上がった。
暗闇の中でも分かる。
彼が、心の底から怒っているのだと……。
ドアの前に立っているアイリスに向かって歩いてくるブレイド。
深紅の瞳を淡く光らせているブレイドに、アイリスは体を強張らせた。
「ブレイド、落ち着いて……っ」
「俺は落ち着いている。」
いつもよりも重く響く声が、アイリスの体に圧し掛かるようだった。
本能が"逃げろ"と告げているのに、深紅の瞳に捕らえられて体が動かなかった。
ブレイドの手が、アイリスの頬に触れた。
「俺の想いは、何一つお前には届いていなかったのか?」
ブレイドの声が、鼓膜を揺らす。
「一時の気の迷いだとでも思っているのか?」
ブレイドの指が、頬から首筋、そしてネックレスのチェーンを辿って、アイリスの胸元に下がる真紅の宝石に触れる。
「俺は、そんなに軽い男じゃない。」
「……っ」
「お前のように"自分がいなくても生きていれば……"なんて、聞き分けのいい男でもない。」
ブレイドは、アイリスの後頭部と腰に手を回して引き寄せた。
深紅の瞳が、アイリスを射抜くように見ている。
彼の瞳に、自分の顔が映っていた。
ブレイドは、ゆっくりと口を開いた。
「……もう一度言う。
俺は絶対にお前以外の女を妃にするつもりはない。」
「ブレイド……っ」
「お前を、誰にも渡さない。」
ブレイドはそう言うと、アイリスの顎を掴んで深く口付けた。
荒々しいその口付けに、胸が苦しくなる。
"絶対に離さない"というように強く抱き締めて、自身の存在をアイリスの体に植え付けていくようだった。
激しい怒りの中に、その怒り以上に熱い愛がそこには込められていた。
やっと唇を離された時には、互いの息が上がっていた。
立っているのもやっとのアイリスを抱き上げて、ベッドの上に降ろされる。
「愛してる。」
吐息交じりに甘く囁かれ、アイリスは声にならない息を吐いた。




