23話 「月夜の秘め事」
僕は森の中から夜空を見上げていた。
当然だがただ月を眺めている訳じゃない。遥か頭上で衝突する二柱の神。
それを観察しながら出ていくタイミングを図っている。
「…………っ!」
僕を叩く風が戦いの激しさを物語っていた。既に周囲の木々は音を立ててその身を苦しそうに倒していく。
僕は既にいつでも動きだせる体勢だった。槍を持ち、覚悟をきめて、足に力を入れる。けれど。
……タイミングは今じゃない。
何故だろう。そんな事ばかり考えて僕は動けないでいた。
不安……なのだろう。
魔獣達が押し寄せる地に神様達を残してきたから。
――それもある。
しかし、ソレイユ先生の結界魔法に加えて僕も重ねるように結界魔法《聖域結界》を展開してきた。
それにあの場には子供とはいえ魔法騎士学園の生徒が大勢いる。将来を有望視されたエリートたちだ。アリスもいる。クライムだって――。
「落ち着け僕」
大丈夫。僕があの場から今いる場所へと向かう時、クライムは僕に約束したじゃないか。
『いっておいでよ。君のお嬢様と神様は僕が命をかけてお守りしよう』
そう言って僕を見たあの瞳は信じるに値する。
王立騎士団だってここに向かっている。それに姉上だって――。
「……ふぅ」
一つ、深呼吸をする。
分かっていた。確かに僕には不安がある。けれどそれは、言葉では言い表せないナニかに対してだ。
空想じゃない。そしてそれは妄想でも何でもない。
僕は今――岐路にいる。
何かを間違えると全てが終わる。そんな気がしてならなかった。
だから僕は考える。
まず、フェンリルを助ける。
これは既に決定事項だ。
夜空を彩る二色の閃光の内、金色の光。
いや、今この場でならもっとはっきり見えている。
遥か上空にいるというのに、あまりのその大きさに今でも信じられないくらいである。
大木の太さをも超える四肢を持つ神獣フェンリル。しかも素早いときたものだ。離れていたって分かる。あれはヤバイ。
けれど、そんなフェンリルが防戦一方なのもまた事実。
つまりまじでヤバイ神獣をも上回るやばさを、女神アスタロトは持っている。
それは神の格としての差を現していた。
この世界の神の力は信教……いやもっと分かりやすく言えば『知名度』が物を言う。
より有名な方が戦いにおいては有利なのだ。
そう。女神アスタロトは有名すぎる。
「たぶん……それだ」
僕はそこに結論を持っていく。
魔王サタンから世界を救った神々の内の一柱。
それだけの神を僕は一体どうしようというのだろうか。
問い。女神アテナの願い。フェンリルを助けるには?
回答。女神アスタロトを……殺す……。
いやまて、そうした場合何が起きる? まず僕の名声は地に落ちる。既に落ちてはいるが今の比では無いだろう。
それだけならまだいい。……最悪アスタリオ家が終わる。
そしてそれを導いたのは――。
「…………ふふ」
思わず僕は失笑する。
いつから僕はこんなに自信家になったのだろう。
それではまるで――。
――女神アスタロトをいつでも殺せるみたいじゃないか。
神々を見上げる。
低い唸り声を上げながら、黒い体毛を逆立てる神獣が見えた。
幾度もその強靭な四肢でアスタロトを狙うが、その度に反撃を受け、苦しそうに瞳を閉じている。
……僕にはまだそうは見えないけれど。フェンリル。今君は、泣いているのか?
アスタロトの周囲を膨大な魔力が包むのを感知する。
……今だ。
跳躍の体勢、つま先から全身にまで力を巡らせる。
考えは……ある。子供騙しのようなものだけど。
……少しでも、少しでも遠くへ行けたなら。
僕は覚悟を決める。
飛んでみよう。あんな高くまで行った事は無いけれど。
でもきっと大丈夫だ。僕ならできる。
僕なら――。
「……できる……!」
――跳躍。つま先に全ての力を集束し解き放つ。
瞬間、目に映る全てが霞んだ。
あまりの加速に月が落ちてくるみたいだ。
僕は腕を伸ばす。ただ真っすぐ女神めがけて。
「あれ? ユノきゅんなんでここ――」
僕は不敬にも女神の頭を右手で鷲掴み。
「女神様。少し、付き合ってください」
そのまま風魔法を展開させ、人の目から遠のくように更に加速する。
「おぬし……! 一体なにを――」
フェンリルが驚いていたのが分かった。
だが、その続きを聞く前に――。
僕は掴んだ女神を頂点に岩肌へと自ら突っ込んだ。
衝突――瞬間、あまりの衝撃に僕は瞳を閉じる。
耳をつんざく爆音は僕の鼓膜を痛めつけ、不快な耳鳴りを響かせた。
目を開く。
粉塵が舞う。それを月明りが優しく照らし、神秘的な空間を形作った。
――血の様に赤い瞳が僕を見つめる。
「……あはは、びっくりしちゃったよユノぉ」
アスタロトは僕の腕に絡みつくように手を滑らせると、赤い瞳を輝かせ、何故だか頬を赤くする。
「君も僕に会いたかったんだね? 僕も同じさ。ずっとずっと君の事だけ考えていたよ」
僕は何も答えない。
それよりも……この香り。
甘い、甘い、匂い。
「だけど、こんなに焦る事は無いだろう? 君にはやらなければいけない事がある筈さ」
アスタロトの冷たい両手が僕の頬を包む。
「……やらなければいけない事?」
「そうさ。森で起きている魔軍暴走。君でなくちゃ止められない。だろう?」
……そうだろうか。いや、そもそもその原因はきっと……。
それに僕は神様の願いを。
「僕はその為にここに……」
「いいや、違うさ。君は僕に会いにきたんだ」
赤い、紅い瞳が目に前にあった。
「僕が……女神アスタロト様に……?」
「ああそうさ。君は今夜、英雄に――神になるんだ」
……えいゆう……かみ……?
「けれど、怖くて怖くてたまらなかった。そうだろう?」
こくりとうなずく。
するとアスタロト様の、あまいといきが僕をつつんだ。
「いいよ。君の好きにするといい。今だけは僕は君のものだ」
潤んだ赤い瞳。朱色にそまる白い肌。
アスタロト様の赤黒いドレスがはがれていく。
「…………」
ごくり。僕は唾を飲み込んだ。
今夜、目の前に広がる全てが、僕のもの。
「さぁ、おいでユノ。僕が勇気をあげよう」
艶のある声だった。僕は思わず息を荒くする。
瞬間――僕の体にアスタロト様の白い体が重なった。
微かに感じる胸の膨らみ。
僕の首に冷たい腕が回される。
「我慢しなくていいんだよ? 僕と君だけの秘め事さ」
「二人だけの……秘密」
……………………さぁ、選べ。
僕は何を成す?
瞬間頭の中にいくつもの選択肢が浮かび上がる。
■女神アスタロトを受け入れる。
■女神アスタロトと秘め事を。
■女神アスタロトにこの身を捧げる。
アスタロトアスタロトアスタロトアテナアスタロト……。
……そればっかりだ。
「さあ、ユノ選ぶんだ。いい子だろう?」
女神アスタロトはそう言って妖艶に微笑む。
僕も笑顔で頷いた。
「アスタロト様…………僕、僕は――」
アスタロトの美しすぎる顔が僕へと近づく。
「僕……」
そう。僕は――。
「――――巨乳派なんです」
「…………え?」
瞬間、アスタロトへ向け左手に持っていた槍を突き出す。
「ちぃ!」
そう苛立たし気な声をあげ、僕の突き出した槍はアスタロトの放出した魔力に防がれる。
――催眠、誘導、洗脳。恐らくはその類。
いいや。そんな事は今はどうでもいい。
僕は今、なぜだかハッキリと確信した。
「あなたは……一体何者なんだ」
ぞくり。
僕がそう言った瞬間、身の毛もよだつ禍々しい魔力の渦がアスタロトの身を包んでいく。
「…………はは……はははっ……最高だ。最高だよユノぉ。やっぱり君は特別だ。そうじゃなきゃつまらない……術が解けたのかな? それとも……」
ゆらりと女神、いや、アスタロトが怪しく揺れる。
その凶悪な笑みを見れば嫌でも分かる。
女神アスタロトは――神ではない。
あーる15。




