第六章 全文 (公方襲撃)
まゆるの今
「このあばずれ女っ」
同輩の端女の金切り声とともに、まゆるは小屋の外壁に叩きつけられた。
左の頬が焼けるようにひりつく。
彼女のぐるりを四人の女が囲み、そのうちの一人が凄まじい剣幕で頬を打ったのだ。他の女たちも、腕組みをしながら棘のある視線でまゆるを刺した。
「他人の男に色目を使いやがってっ! 余所者のくせに!」
唾を飛び散らせながら罵る女、そして周囲の女たちへ、まゆるは無言で睨ねめ回した。
「何だよ。何か言い訳でもあるのかい?」
かたわらの女が口を出す。
まゆるは、ふんとせせら笑い、
「あんなちんけな男、私が相手にするわけないだろ。けど、この女にはお似合いだろうね」と、顎でしゃくり、
「そんなに男の浮気が心配なら首に縄でも付けときなよ」
顔を背け、横目で女たちを見る。
怒りの火に油を注がれた女は、もう一度、平手を喰わせようと手を挙げた。
それを素早くかわすまゆる。
「何で、よけるのさ」
「殴られるままになる馬鹿がどこにいるのよ」
「何? この女っ」
「生意気な口をきくんじゃないよっ」
まゆるの言葉は他の女まで刺激した。
女たちは一斉に飛びかかって、まゆるの顔や肩を殴った。彼女が地面に倒れ込むと、今度は蹴る、踏みつけるに移った。
さすがに頭や腹は狙わぬ理性。
その理性あっての苛虐の恐ろしさ。
示し合わせての集団制裁。
女たちは以前にも男を取られたと言いがかりをつけて、まゆるを暴行した。
年ころになった彼女を男たちの目が追う。目だけでは済まないこともある。
まゆるは決して美人ではない。髪は縮れているし、目鼻立ちも大振りに過ぎる。だからいっそう腹立たしい。
男にしか分からぬ色香でもあるというのか。女たちは鼻をひくつかせて、その秘密を探ろうとする。
大して白くもない、けれど滑らかな肌のせいだろうか。小柄ながら豊かな胸や腰のせいだろうか。それとも、やっぱり、あの円らな瞳?
自分たちと異系の容姿を持ったまゆるが男たちを惹きつける。それを女たちは理解できない。
ただ汚らわしいと思う。
淫らだと思う。
そんな存在は排除して当然だ。
陵轢しても許されると。
まゆるの体は端女たちの鬱屈のはけ口となる。
嗜虐心に火のついた女たちは当初の目的も忘れて、暴行を愉しんだ。
本能的に腹を守ろうと丸まった体。
無防備な背中は大きな的である。
女たちは喜悦に顔をゆがめながら、蹴り続ける。
まゆるにできるのは、女たちが苛虐に飽きるのを待つことだけだ。
声を上げぬよう、涙をこぼさぬよう、必死で歯を食い縛ることだけが、唯一の抵抗だった。
「――ねぇ、これぐらいにしようか?」
やがて暴力の雨が止む。
「若犬さまが庄司さまと狩りに出かけるところよ」
誰かの一言で、殺気立った女たちの気配が和らぐ。
「あぁ、久しぶりだわ。若犬さまに会えるなんて」
「会えるったって、こっちは物陰から見るだけだけどねぇ」
「それでもいいわ。目のなぐさみよ」
たった今まで、鬼女のように髪を振り乱していた女たちの豹変。
身繕いしながら立ち去る女どもの気配が十分に遠退いてから、まゆるはゆっくりと体を起こした。
しかし立ち上がることもできず、小屋の壁に体を預ける。
心が。
――若犬丸。帰ってきたんだね。
切れた口の端をそっと舐めた。
まゆるの恋
まゆるは、若犬丸の子ども時代を知っている。
二つ年上のきれいな男の子。大名家の末裔。
全てが自分とかけ離れていたけれど、どこか心通じるものがあると信じていた。
そのころ朝の井戸端で彼に会うと、心が浮き立った。幸せな気持ちがした。それを恋と呼ぶには、まだ子どもに過ぎたけれど。
しかし、ある日をさかいに、二人のささやかな逢瀬は断たれた。
若犬丸はまゆるを避けた。
彼は自分を変えようとしていた。
それを感じたまゆるも、なるべく彼の目に入らないように過ごした。ただ、偶然見かけた後ろ姿はいつまでも見送った。これくらいなら許されるだろうと、自分自身に言い訳するように。
なのに、互いが成長するにつれ、甘やかな気持ちのままではいられなくなった。
彼を見る度に胸が苦しくなった。
若犬丸と自分。
その共通点は孤児というただ一点だけだ。
越えられぬ身分の差。
――どんなに想っても無駄なんだから。
そう自分に言い聞かせた。
彼は十八歳のとき、田村荘から姿を消した。
――若犬丸は、人とは違う道を選んだんだね。
平穏な暮らしが約束されていただろうに、己れの故郷を取り戻すため、ここを出て行った。
童形のまま、自ら運命を切り開こうとする姿は眩しく。
その隔たりは実際の距離となって、まゆるの想いを引き離していった。
――それが順当なんだ。
田村庄司を始め、彼を惜しむ家中にあって、一人救われたような気持ちになった。
まゆるの若犬丸への淡い想いは、ひっそりと胸の奥に仕舞われるはずだった。
若犬丸が帰ってきたといって、浮ついた気持ちにならぬよう自分を戒める。
女たちの中には何かあればすぐに言いがかりを付けて、思うに行かぬ欲求をまゆるへの折檻で晴らそうとする者がいる。代わり映えのない日常の憂さを、他人をいたぶることでしか処理できない女たち。守ってくれる者のない余所者のまゆるは、いいおもちゃだ。
そして彼女は耐えることしか許されない。
耐えること。
体の痛みなら、それほど辛くはない。働いたときの疲れの延長にあるもの、と思えばいいから。
けれど、心の痛みは?
女たちの苛虐は、いつも同じだ。
言葉によるいたぶり。
まゆるを被虐に値する存在と。
場の気色を醸成させて後、暴行。
肉体からだより精神が追い詰められる方がよほど辛かったから。このごろは、早くに言葉の暴力を済ませるよう、挑発して肉体の暴力へと導く術覚えた。
翌日の朝、誰よりも早く起きる。朝餉の支度の前に、厨の水瓶をいっぱいにしておかねばならない。子どものころからの務めだった。
水桶を運ぶのに井戸と厨を何度も往復していると、厩から白馬を引く若犬丸を見かけた。
まゆるは慌てて物陰に隠れた。
――これから、朝駆けかしら。
供も付けず、裏木戸から外へ出る。
きっと邸の者に気を遣わせぬためだろう。
まゆるは若犬丸の背中を目で追った。
彼の童形は相変わらずだったけれど、背もぐんと伸びて体つきも逞しくなっていた。
――二年見なかっただけで、男の人って、ずいぶん様変するものなんだ。
彼の変化に驚かされる。
――こんなに朝早くに会えるなんて。
今日一日幸せな気分で過ごせると、以前ならば思えただろう。
ほっと溜め息をついて、空の水桶を持ち直す。そのとき、
「遠くから見つめるだけでいいの?」
女の声。
急に声をかけられたまゆるが、はっとして振り向くと、そこには見知らぬ女性がいた。
秋の野花を散らせた袿を被ぎにして、裾は古風につぼめている。装束は一見して高価なものなのに、女はどこか崩れた印象だった。
――どうしてだろう。こんなにきれいな女性なのに。
顔も体も正面を向いていないせいか、切れ長の瞳は流し目のような眼差しになり、同性とはいえ落ち着かなかった。
年齢もよくわからない。自分と同じくらいの年のようにも思えるし、もっとずっと年増にも思える。
――何か変だわ。
上等の衣装に身を包みながら、供もおらず、そもそもこんなに朝早く邸の裏廻りにまで上がり込むなんて。
まゆるは訝しげな視線を送る。
しかし、女は意に介すふうもなく言った。
「ねぇ、あんた、若犬丸のことが好きなんでしょう?」
唐突な女の問いに、まゆるは真っ赤になってうろたえた。
「ちがうっ。私なんかに思われていると知ったら、若犬丸に迷惑だよっ。私だって困る!」
慌てて手を振るまゆるに、女はずいっと身を寄せた。
「ふぅん。残念ねぇ。あんたみたいな娘、若犬丸の好みだと思ったんだけど」
そう言われて、ますます真っ赤になる。
「かっ、からかうのはやめてよ」
「からかってなんかいないわよ。わたし、こう見えても色恋のことに関しては通人よ」
まゆるは『色恋の通人』と聞いて気付いた。
――この人、遊女なんだ。
高価な衣装に似合わぬ伝法な言葉遣いもそれで納得できた。
邸の誰かが昨夜引っ張り込んでの朝帰りなのだ。
そう思えば気安い。
「えっと、邸の中で迷ったの? この家は広いからね。帰るんなら、小屋を廻ってすぐに裏木戸が……」
桶を置いて、指で示そうとするまゆるに、女はけらけらと笑い声を上げた。
「やぁねぇ。私はあんたに用があってきたのよ」
「私に?」
「若犬丸って、なんか奥手なのよねぇ。とっとと所帯を持って、子どもをたくさん作んなきゃならないのに、何やってるのかしらね。いい? 私はあんたを若犬丸の女になると見ているの」
遊女は、ぐっとまゆるに近寄った。
所帯を持つの、子どもを作るの、女になるのと、目まぐるしく動く女の口。
だけどよく聞けば、生々しい言葉の諸々(もろもろ)。まゆるは先ほどとは別の意味で赤くなる。
「言っている意味が全然わからないんだけど」
「ふふん、知ってるくせに」
女の口の端はうっすらと持ち上がる。
――からかわれている?
しかし、まゆるは気付いた。
女の目が、その口元とは裏腹に冷たい光を湛えていたことに。
まゆるの体温がすっとひく。
――この人、怖い。
関わってはいけない類の人間なのかもしれない。
「ごめん。仕事中だから」
理由なき恐怖に、急いで桶を拾い、走り出した。
そのまゆるの背中へ、女が勢いよく飛びつく。背後から抱きすくめられ、驚いた彼女の手から桶が落ち、からからと転がる。身じろぎもできぬまゆるの耳元で、女が囁く。
「いいわねぇ、あんたは。これから夫も子どもも得ることができるのよ。それなのに、私は……。あぁ、羨ましい。妬ましい」
まゆるの下顎を片手でねじるようにして振り向かせる。
凄まじい力。
まゆるの顔は女の顔にいきあたる。
被きにしていた袿はずり落ち、乱れた髪は蛇のようにうねっていた。
「その幸せ、奪ってしまいたい」
女の顔が迫り、まゆるの唇を覆った。
「んっ……」
女は片手だけで、まゆるの体の自由を奪うと、もう片方の手を胸の合わせの奥へと滑り込ませた。
「いやぁっ」
まゆるは渾身の力で女を振り払った。
とっさに走り出したので、仲間の住む小屋から遠ざかってしまったが、もう後には戻れない。
足の向かうまま裏木戸から外へ出る。
――誰か来てっ。
必死で助けを呼ぼうとするが、恐怖で喉がすぼみ、声が出ない。
しかし、まゆるの願いを聞き届けたかのように、向かいから人馬の影が現れた。
馬上には、若犬丸の姿があった。
若犬丸の恋
若犬丸が田村荘に落ち着いてから数日が経っていた。
難台山城から落ち延びた彼に、帰る場所はこの土地しかなかった。
叛徒としての若犬丸の名に、災厄の火の粉が田村の一族に及んではと思ったが、
「いつでも、田村へ戻っていらっしゃい」
清包の言葉を思い出し、立ち寄る程度、そう思い定めて田村荘へ帰りついた。
庄司一族は、すぐに立ち去ろうとする若犬丸を引き留めた。
「奥州くんだりまで、鎌倉殿の手が伸びようものですか。この地は幕府の支配下にありますから、下手に手出しはできないでしょう」
かつて彼らが約束した、
「助勢には応じられません。ただ、何かあれば、安住の地を提供しましょう」
それだけは守ろうと。
以前の若犬丸であれば、庄司の厚意をはね除けていたかもしれない。けれど彼は疲れ果てていた。度重なる敗北と仲間の死に。だが、庄司の言葉に従ったのはそれだけではない。
この二年の間に、周囲の温情を拒むばかりでなく、自分の中へ受け容れられるまでに彼は成長していた。
――しばらく田村で体を休めよう。庄司殿に迷惑をかけるようになったら、そのとき、この地を出ればいい。
一年ほど前、鎌倉勢の進撃に、行く当てもなく小田城を飛び出した彼だったが、そんな余裕を持って物事を考えられるようになっていた。
若犬丸は庄司らの気遣いによって間もなく回復した。もとより弱っていたのは体ではなく心であったのだ。
庄司に誘われ、狩りなどの遠出につき合うこともできた。
「そんなに急に体を動かして、障りはありませんか」
清包などは心配するが、むしろもっと自由に馬を駆けさせたかった。
早朝、厩舎から馬を引き出したのもそのためだ。
だが、理由はもう一つあった。
――まゆるに会いたい。
彼女が今でも朝の水汲みをしているのであればと思い、わざと井戸と厨の間を横切ったのだが、目論見は外れた。
落胆して裏木戸から出たが、その気晴らしもあって馬を思い切り駆けさせる。
しかし、鐙の調子が悪いと気付いたのは間もなくである。
乗馬の前に確かめたはずなのにと、首を傾げたが、
――仕方ない、戻って、馬具を付け替えるか。
大して疑問にも思わず馬を引き返したのは、
――また井戸端近くに行けば、まゆるに会えるかもしれない。
彼女への思いが勝ったためである。
そのまゆるが悲鳴を上げて自分に向かって走ってくる。
――まゆる、まゆるだよな!
二年の歳月、いやそれ以前から、ほとんど顔を合わせることはなかったが、彼女を見間違えるはずはない。髪は長くなり、体つきは丸みを帯び、けれど小鹿のように大きな瞳はかつてのままだ。
「助けて!」
夢中で駆け寄るまゆる。
再会の喜びに浸っている暇はなかった。
涙ながらにすがりつこうとするようすに、若犬丸は鞍から飛び降りた。
まゆるの乱れた髪や崩れた胸元を見て、おおよそのことを察し、怒り狂いそうになる。だが、まさか相手が女だとは思いも寄らない。
ぶるぶると震えるまゆるに、
「もう大丈夫だから」
声をかけ、少しためらってから肩に手を置いた。
そこへ、裏木戸から女が現れる。
「あら若犬丸、お久しぶりねぇ」
相変わらずの悠然。
狐女の声に、まゆるの体がびくりと反応する。
若犬丸は彼女を胸の中に抱え込んだ。狐女から危害を加えられぬように。
「狐女! お前、この娘に何をした!」
「いやぁねぇ、ちょっと狐式の挨拶をしただけよ」
狐女は舌の先で唇をぺろりと舐めた。
「その挨拶って、どんな挨拶だ!」
また何かの嫌がらせに来たのかと、若犬丸は怒鳴った。
「お前は夜にしか出てこられぬのではないのか! 妖しに日の光など似合わぬ。去れ!」
「そう言えば、あんたと会うのはたいてい夜だったわね。でも、私はいつだって好きなときに出てこられるのよ」
狐女は、若犬丸が怒れば怒るほど面白がり、
「いい格好ねぇ、お似合いじゃない」
けらけらと笑う。
若犬丸は警戒心を弛めることなく、まゆるの体をいっそう強く抱き締め、狐女を睨みつけた。
以前、狐女を許しかけたことがあった。
だが、たった今、まゆるに悪さをしかけたのは紛れもない事実。
――このまま叩き斬ってやるっ!
しかし、まゆるを抱いたままでは何もできない。
この腕を離せば、狐女が何を仕かけてくるかわからない。
『犬』の一字により狐女から守られている彼にあって、その姿勢で睨みつけている他なかった。
木戸のあたりから人の声が近付く。
若犬丸たちの騒ぎに、ようやく人々も起き出して、ようすを観に集まり始めたのである。
「あら、見物客が来たわ。じゃあ、私は消えるわね」
狐女はふわりと舞い上がる。
二人が宙を仰ぐなか、狐女は空の一点に消えた。
若犬丸には見慣れたものであったが、まゆるには余程の恐怖だったらしい。腕の中で体の震えが収まらない。
「何の騒ぎだ? あっ、若犬さま!」
木戸から出てきた家の者たちは、抱き合う男女を注視した。
目を丸くする人々。
――いけない。誤解されてしまう。
「ちっ、違うんだ! これはっ」
慌てて腕を解いたが、それが余計に人々の誤解を深めた。
「こんな朝から大騒ぎしなくとも」
「端女の一人くらい、庄司さまも容易に譲られるでしょうに」
やいのやいの言い立てられ、若犬丸は立場を失った。
――今さら、何を言っても無駄だろうな。
それに言い訳をすればするほど、まゆるに恥を掻かせてしまう。
若犬丸は口を閉じる他なかった。
騒ぎの後、まゆるは厨に入った。
朝から妖女に襲われたり、再会した若犬丸に抱き締められたり、目まぐるしい出来事の数々。しかし、田村家の日常はいつも通り始まり、彼女は動揺を抑えながら、端女の仕事に戻らねばならなかった。
若犬丸絡みで同輩たちの苛めを覚悟したが、彼女らより前に、使用人頭から呼び出され、その日の仕事を早くに仕舞うよう言われた。
戸惑うまゆるにろくな説明もない。湯を使えと命じられ、さらに一度も足を踏み入れたことのない邸の奥へと向かわせられた。
恐る恐るむかった奥の一室では、侍女たちが待ちかまえ、そばには、鏡台、化粧道具、長持ながもちから出したばかりと見える装束の一式が並んでいた。
まゆるはこの後の自分の役目を知った。
衣装の脱ぎ着を二人の侍女が手伝う。彼女らはまったくの無表情で、内面は計り知れない。
――私のこと、よく思っていないのは確かだよね。
けれど、彼女たちは黙々と所作をこなす。
体を洗った際、用意されていた新しい小袖(下着)に換えており、その上からの着替えだったため、さほど恥ずかしい思いはしなかった。
化粧箱のそばに座らされたまゆるは、自分に紅や白粉おしろいは一生縁のないものだと思っていたので、どぎまぎした。それでも、
「あの、おしろいは遠慮していい? 顔と体の色が違いすぎちゃうよ。まさか全身に塗るわけにもいかないから」
侍女たちは笑いを堪えるようにしてうなずき、にじり寄った。
まゆるは、頬やうなじにカミソリをあてる、眉を整えるという初めての経験に、怖々(こわごわ)と彼女らに身を委ねた。
何だか、自分が生まれ変わるような儀式をしているようだった。
たっぷりと時間をかけて装われたまゆる。
最後に唇に紅をひいて、仕上げを終えた。
もう辺りは暗くなり初めていた。灯台に火をともし、侍女が鏡を手に、まゆるの半身を映してくれた。
華やかな袿に身を包んだ娘がいた。
とても自分とは思えなかった。
美しく着飾った自分に照れ、そして涙ぐみそうになる。
侍女の一人がそっと耳打ちした。
「若犬さまに気に入られなさい。この袿を手放したくないでしょう」
運があれば妾に、なければ端女に戻るだけだ。
まゆるは冷たい現実に引き戻される。
――若犬丸が、私を気に入ることなんて、きっとないよ。
左の手首を右手でそっと押さえた。
冷え冷えとした心を抱えながら、まゆるは若犬丸の寝室に送られていった。
――ここの人たちは、気が利きすぎる。
灯台のほの明かりに浮かぶまゆる、彼女を前に、緊張で若犬丸の体は強張った。
夜具の上に相座り、互いにまだ一言も口をきいていない。
寝所に入ってきたまゆるは、今まで見たなかで一番美しく、彼の心をときめかせた。
だが、
――これは、まゆるが望んだことではないよな。
若犬丸の立場であれば、端女の一人や二人、いくらでも自由にできるはずだが、彼女の意志を知ろうと、その瞳を伺った。
子どものときから大好きだったまゆるの瞳。
ぱっちりと開いた円らな瞳は外界の光を集め、よく輝く。
そして見る者を惹きつける。
――なんで、こんなに……
そのとき、若犬丸は思い出す。
田村に来てまもなくのころ、郎党たちが部屋で武具の手入れをしながら雑談にふけっていた。
「――狼でも猟犬でも肉を喰らう獣は、獲物の群れの中から、瞳の大きいのを狙って飛びかかるんだ。迷わずにな。たいてい子どもや若い獲物は、顔の大きさに比べて瞳が大きい。弱くて狩りやすい相手を素早く選ぶって習性さ」
若犬丸が自ら郎党の部屋を訪れたのは、鍛錬を怠ける野崎兵次を引っ張り出しに来たためだ。けれど、成人の男ばかりの部屋は、何か少年の自分をこばむ気色があった。知らず、立ち聞きするかたちとなったが、
「猪の子だの、若鹿だのは、肉の旨さもあるだろう」
「あぁ、そうだな。獣も味のいいのを選んでいるかもしれん」
「では、人間の男はどうなんだ?」
ここで、男たちの語らいがあらぬ方向にむかった。
切れ長の目が美女の基準にあって、それでも瞳の大きな女に惹かれてしまう。
これはどうしたものか。
「目の大きい女は旨いのと生得に知っていたのか」
「実際、童顔の女の方が、脱がせると成熟しているぜ」
「本当かよ」
男たちの品のない笑い声。
若犬丸は子鹿のようなまゆるの瞳を思い浮かべたが、彼女への興味が邪なものであってはならないと、すぐに聞かなかったことにして、その場を後にした。誰に見咎められたわけではない。自分自身に対してである。
健全な少年であれば、異性の体に関心を持つのはごく普通のことだろうに。
これは狐女に責任があったかもしれない。
若犬丸の初恋の相手は彼女だ。本人は認めないだろうが。
しかし、相手は妖しで、ついでに父親の妾と勘違いしていた。その上、けちょんけちょんになぶられた苦い思い出。
少年の情操の発達に影を落として当然だ。
戦場で数々の修羅場を潜ってきた彼も、色恋に関しては全くの初心だった。
今、目の前にいるまゆるのことは、決して嫌いではない。いや、ずっと気にしていた相手。もっと云えば、会いたいと願い、思い出の井戸端近くをうろちょろするほどの――
こうして二人っきりになれたというのに、
――逃げ出してしまいたい。
とまで思い詰める。
――そもそも狐女がわるい。
どうしていつもいらぬことをするのだ。
以前、悪趣味にもまゆるに瓜二つの泥人形を贈られたことがある。
今回も狐女に嵌められたと気付く。
――いらぬと云えば、ここの人たちも随分といらぬ世話を焼くものだ。
若犬丸の八つ当たりは、狐女から庄司の家臣らに及ぶ。それが顔に出たのか、彼が機嫌をわるくしたと思ったまゆるは気を遣って、自ら口を開いた。
「ごめんね、私がここにいるのは場違いだよね。もう帰ったほうがいいかな」
驚く若犬丸に、
「わるいね。相変わらずろくな口の利き方も知らなくって、びっくりした? 本当に身分が違いすぎるよ。何かの間違いだよ。・・・・・・じゃあ、私はこれでもう行くから」
そう言って立ち上がりかけた彼女を、若犬丸は慌てて引き留めようとした。
けれど、
「・・・・・・別に、私はお前を厭うているわけでない」
己れの口から出た言葉はあまりに堅苦しく、好きな相手にかける言葉には程遠く。
気の利かぬ自分に、心の中で身悶えする。
しかし、
「いいの? あんたはこれから見たくもないものを見るかもしれないんだよ」
まゆるは、不思議そうに自分を見つめる若犬丸へ、
「私が、ここの人たちとは違うのは知ってるでしょ」
左手の袖をすっと上げる。
ふだんは手っ甲で隠れている手首のぐるりには、絡み合う渦巻きの文様が描かれていた。
まゆるの遠い祖先は、征服者たちの暮らしの中に同化する際、さまざまなものを捨てた。
黥面(顔の入れ墨)、文身(体の入れ墨)、着慣れた衣服。代わって、征服者と同じような髷を結い、着物をまとう。しかし、彼らはどこかに、自分たちの起源を残そうとした。
廃れたはずの文身。
まゆるの祖父は、先祖が身に付けていた衣服の意匠を彼女の手首に施したのだ。
「この文身、たいていの男は見ただけで逃げちゃう。おじいちゃんがお守り代わりに刺してくれたんだけど、いい男除けになっているよ」
若犬丸はまゆるの出自に思い至った。
この文身一つで、まゆると世界が分け隔てられていたのだ。
「わるい男はね、体目当てで私に言い寄るから。でも、本当に私を好いてくれる人なら、こんなもの跳び越えてくれるはず、なんて思っているんだ。もしかして、そんないい人、一生出会えないかもしれないんだけどね」
まゆるは淋しげに笑って、
「でもね、これは先祖から伝わる文様なんだって。私にとって大切な宝物」
手首の文身に口づけする。
家族の形見すらないまゆるにとって、先祖の故郷へ繋がるよすがだった。
自分の本当にいるべき世界へ。
若犬丸はまゆるをじっと見た。
――この人は、私と同じだ。
己れが未だ童形である理由。
故郷への思慕。
若犬丸はまゆるの左腕をとると、彼女の文身に口づけした。
「この文様の意味は?」
「・・・・・・渦巻く水流。だけど、天空の雨、風、雷もあらわしてるの。そして、それらを司る龍の神」
若犬丸は微笑んだ。
「言ってなかったか? 小山の家紋も同じだ。天地の水を統べる一番つがいの龍」
龍は武将たちにとって畏敬の聖獣であり、その意匠は家紋などに多く使われる。足利氏の二つ引き両、新田氏の中黒は幅広の一つ引き両、両は龍を言い換えたものだ。
だから、よくあることだ。自然への畏敬の念を龍という架空の聖獣に託すのは。
けれど、若犬丸は偶然を偶然にすることはできなかった。
「私たちの祖先は遠い昔に繋がっていたのかもしれない」
まゆるが何か言おうとしたが、それより先に若犬丸が問いかける。
「私を、わるい男と思うか?」
「え?」
「そう思わないでほしい」
祈るような若犬丸の眼差しに、まゆるはうなずく。
まっすぐに見澄まされた大きな瞳。
その瞳にこれ以上ないほど近づいたとき。
ゆっくりと閉じられた瞼は朱色がにじんでいた。
翌朝、東の空が明け初めたころ、まゆるが体を起こした。
――いつも通り、井戸の水汲みにいくんだろうな。
若犬丸は先刻目覚めていたが、照れくさくて寝たふりをしていた。
気の利いた男であれば、後朝の別れを惜しむ、うまい言葉をかけられるのだが、やっとねんねを終わらせた彼には無理な話である。
昨夜のまゆるのことを思い出す。
抱き締めて、
――女の人ってなんて柔らかいんだ。
繊細な心地に驚き、いっそう大切にしたい思いが湧いた。
――それを言葉にすればいいのだろうけど。
自分へのもどかしさにじたばたしたくなる。
背中越しに、脱ぎ乱れた衣を集める気配。
昨夜はまゆるが恥ずかしがったので、灯りを消して、互いの体を確かめ合った。
だから、少しもの惜しくて、そっと後ろを盗み見る。
若犬丸は目を疑った。
彼に後ろを向けたまゆるの背中には、一面に大きさ、形の違う花が咲いていた。
手首の文身のこともあったので、これもその類のものかと思った。
しかし、よく見れば紛れもない痣である。
無数の、人為によるもの。
若犬丸は慌てた。
初めてのことで手加減を知らずに、何かまゆるの体を傷つけるような力を加えてしまったのかと。
だが、その痣の色味はどう見ても数日を経たものである。
折檻せっかんの痕―――
若犬丸は、このとき初めて、彼女の日々の過酷さを知った。
――この人は私より余程・・・・・・
まゆるの痛みを自分のことのように感じたから――
彼女が小袖をはおり、全身が覆い隠れるのを待って、背中ごと抱き締めた。
「戻らなくていい。ずっと私のそばにいてくれ。もう誰もお前を傷つけさせやしない」
その決意と同じように、堅く強く。
幸福の日々
その日より、まゆるは若犬丸付きの侍女となった。
やがて家臣から側女として認められるようになり、さらに彼女が子を孕み、若犬丸が他に妻を娶る気配も見せずにいると、周囲から正妻に準じた扱いを受けるようになった。
最初は気持ちばかり空回りして、ぎこちなかった二人も、互いに心を許し合う夫婦となっていった。
毎夜の寝物語に、代わる代わる自分たちの生きてきた日々を語る。子どものころ途絶えた井戸端での会話をつなぎ合わせるように。
二人とも、あまり幸福とはいえない生涯を送ってきた。しかし、今の幸せがあるから、過去を辛いとは思わなかった。
「小山は内陸のせいか夏は暑くて。海に近い分、鎌倉の方がよっぽど過ごしやすかったな。雷も多くて。小さなころは怖がりだったから、遠鳴りでも祖母の膝の上にのぼって震えていたよ」
「若犬丸は、おばあちゃんっ子だったのね。私はどちらかといえば、おじいちゃんっ子だったな。昔話をいっぱい知っててね」
毎晩、孫のまゆるに聞かせてくれた。
英雄が現れて悪者から村人を救う話。小人や巨人の話。お化けの出てくる怖い話。
文字を知らなかった祖父は、その分、記憶力に長け、まゆるは物語の細部まで想像することができた。祖父の死後、物語の世界は、まゆるが辛い現実から逃げるときの故郷となった。
そして今度は、まゆるがその昔話を若犬丸に聞かせる番である。
「昔むかし、陸に住む人間の若者と、海に住む龍王のお姫様がいてね」
人と龍女の悲恋話である。
「その話、私も故郷で聞いたことがある」
若犬丸が目を輝かせて、
「やはり、私たちは――」
互いの先祖を結びつけようとするのを、
「ねぇ、前にも言ったとおり、おじいちゃんたちはここよりずっと北から、この田村荘にやってきたのよ。下野とは正反対じゃないの」
と、まゆるがただそうとするから、
「その、北にいた以前に、下野にいたということにしてくれないかな」
若犬丸は笑いながらねだった。彼も半分は偶然と知り、残りの半分はまゆると言葉の上で戯れたい気持ちで言っているのだ。
一人の男と、一人の女が出会った。
ただ、それだけで奇跡なのだ。
若犬丸にとってはまゆるの胸が、まゆるにとっては若犬丸の胸が、互いの故郷だった。
広大な領地など必要ない。このまま庄司家の客分として穏やかに過ごせればよいと思う。
二人の仲睦まじさに、このころ隠居した父に代わって家を継いだ清包は、
「まゆるを私の養女にして若犬殿に娶らせたいのですが、いかがでしょう。いつまでも野合(同棲)というのも、体裁がわるいですから」
若犬丸へ、正式な婚姻を勧めた。
が、彼はこれを辞した。
「お言葉はありがたいのですが、妻となる人やその家族に累が及ぶのを畏れて、これまで妻帯を控えてきました。まゆるを庄司殿の娘として娶るとなると、多大なご迷惑をかけるかもしれません。お気持ちだけで十分です」
もっともらしい口上だが、多少奥手の見栄も入っている。
「そうですか、私であれば、まゆるの父親代わりになっても差し支えなかったのですが」
清包はまゆるの父親の名を知っている口ぶりであった。またそれを伝えようとしているような。
若犬丸は想像を巡らす。
――相手は庄司の郎等あたり、庶家のドラ息子か。
だが、長年実の娘を放っておきながら、今さら舅面で現れられるのは願い下げである。
まゆるはどうだろう。それでも父親に会いたいと思うだろうか。
若犬丸の逡巡に、
「ここだけの話にしてください」
清包は声をひそめた。
「まゆるの父親は私の祖父なのです」
「祖父ぅ?」
若犬丸の表情を見て、清包は苦笑めいたものを口元に浮かべた。
「まゆるは、私の叔母となるのです。祖父はまゆるの母が子を宿したことを知らずに亡くなりました。父や叔父たちは、すでに財産の付与を得て一家をなしていました。だので、面倒を嫌い、まゆるの母に口止めした上、邸から追い出したのです。私は、この事実を知ったとき、大人たちの汚さに呆れ、憤りを感じました。しかし、私とて同罪でしょう。不幸な境遇から血の繋がった叔母を救いたいと思いながら、今まで何もできずにいたのですから。それが若犬殿に気に入って頂いて、本当に安堵の思いです」
と言って、くすりと笑った。
清包とて、当初より本気でまゆるを若犬丸の妻にしようと思っていたのではなかった。側女の一人にでもなれば行幸だと。
「系統からいえば、若犬殿は私の義理の伯父にあたるのですね。生まれてくる子は私の従弟になるというわけです」
彼の打ち明けた田村家の秘事は、清包と若犬丸をよりいっそう親密なものにした。
清包は父親を始めとする親族を説得し、まゆるを祖父の庶子として認めさせたいという。そうして庄司家の領地を分譲し、若犬丸夫婦に一家をなさしめようと。
だが、若犬丸は関東の動向が気にかかる。
「私にとって戦いの日々はもう過去のものです。しかし、今後鎌倉が私の存在を知ってどのような挙に出るかわかりません。私は平和なこの土地を争いに巻き込みたくないのです」
「ならば、全ての過去を捨てたらどうです。妻を娶り、子まで得ようというのですから。元服を済ませ、我が家の婿となって田村某と名乗るのです。小山宗家の家督をあきらめよと勧めているようで、私としても心苦しいのですが」
清包の提案に若犬丸は押し黙った。
名前と童形を捨てることは、故郷を捨てることだ。
ここでの新しい生活と引き替えに。
その決心には、しばらく時間がかかりそうだった。
「もう少し考えさせてください」
そう言って立ち去る若犬丸の後ろ姿。
清包は複雑な面持ちで、彼の豊かな黒髪を見送った。
若犬丸が己れの去就を決めかねたまま、月日は流れた。
夫婦は田村邸を離れ、荘内の別宅に暮らしていた。
彼は、相変わらずの童形と童名。
まゆるは男児を産み、また翌年懐妊し、男の子を産む。
息子たちは小山氏の慣例に従い、宮犬丸、久犬丸と名付けられた。
若犬丸は『犬』の一字を狐女からの魔除けと思いこんでいるが、本当のことは何も知らない。
「そなたの一族も、男児には犬の字がつくのだから、ちょうどよいな」
まゆるに言う。
我らは同族、そう意を含ませて。
だが妻は、夫の言葉に首を振った。
「若犬丸の犬の意味と、おじいちゃんたちのイヌの意味は違うと思う」
まゆるは困ったように、
「もう、その意味さえ忘れられてしまったけれど、男の人の名前に付ける決まりだからって。ほら、ここのご先祖、田村麻呂さまの麻呂、若犬丸の丸、みたいなものじゃないかしら」
まゆるの父祖たちの類い希な記憶力をもってしても、こぼれ落ちた真実。それは二度と取り戻すことができないのだ。
「若犬丸は知っている? 麻呂とか、丸とかの意味」
古代の成人男性についた麻呂、下っては小児についた丸。
「当たり前すぎて考えたこともなかった」
今度は若犬丸が困り顔をつくった。
「当たり前過ぎて。そうね、きっと同じような理由だったかもしれない。
意味は失われても、形は残された。
「昔は名前の最後につけるものだったらしいけど、いつの間にか、丸、がつくようになって。それでも、代々約束事は守られていたの」
服従を強いられた者たちは、征服者たちの規律に呑み込まれ、自分たちの大切なものを手放した。
ただ、その片鱗が、腕の文身や名前の中にひっそりと跡を留める。
図らずも、祖父の代で途絶えかけようとした約束事は、まゆるの子に復したが。
「全ては偶然よ」
冗談めかせて言った夫の真意を見透かし、念を押す。
若犬丸は、自分を省みる。
己れは数奇な運命のせいで、出会うもの、何かしらに意味を持つと考え過ぎていたのかもしれない。
「ならば、こう考えよう。我らの先祖がどうであったかなど神仏でもなければ、もはやわからない。私たちが出会ったのは偶然に過ぎぬことかもしれない。ただ、この偶然がかけがえのないものであるということ。それを大切にしていこう」
我ながら堅苦しくて、ありきたりな言葉だと思う。
――本当は、まゆるが愛しくて、それを偶然という言葉にしたくないんだ。大切にしたいのはまゆるなんだ。
と、口にしたくともできぬ若犬丸であった。
照れて真っ赤になる。
そんな彼に、まゆるが吹き出して笑う。
夫の思いは、言葉にせずとも十分妻へ伝わっていた。
日々の生活は満ち足りていた。
故郷への執着は薄らいでいく。
若犬丸が元服を果たしたとしても問題はないのだが、それでも心に引っかかるものがあった。
――この子たちがもう少し大きくなったら、父親の童形をどう思うだろうか。
考えるが、答えは先送りにされる。
初夏の昼下がり、若犬丸は息子たちを庭先で遊ばせていた。
五歳と三歳。
「ちちうえ、ちちうえ」
まとわりつく子どもたち。
それを屋内から目を細めて見るまゆる。手には子どもたちの畳みかけの衣類。
本来であれば、まゆるには侍女が、子どもたちには乳母がついてしかるべきだったが、女たちは彼女の出自を厭い、何かにつけて仕事を怠ける。ここの人たちのまゆるへの差別は、男よりも女、身分の高きよりは低きに顕著だった。理由は単純で、多分に嫉妬めいたものが介在する。夫婦はそれを仕方のないこととして受け容れ、手ずから我が子を育てていた。
「あなたって、本当に『なんでも自分でやりたがり』ねぇ」
まゆるが若犬丸を見て笑う。
肩車や鬼ごっこ、お馬遊び。
家族の交わりに、兵次は遠慮したのか姿を見せない。もっともあの男の場合、気を利かせたのではなく、単に仕事を怠け、良からぬ処に出かけているだけかもしれぬ。若犬丸の唯一の家臣だというのに。
子どもたちの笑い声に包まれて、若犬丸は、ふと、小田直高のちび鬼兄弟を思い出した。
難台山での合戦前後、小田氏は恵尊の友人、義堂周信の奔走で厳罰を免れたというから、兄弟は生き延びることができただろう。もっとも、所領の大部分を氏満や上杉に取り上げられ、嫡子は家督を奪われた。
牙を抜かれた鎌倉の飼い犬同然になり下がりながら、しかし、家と血縁者は残された。
屈辱に甘んじてでも――
若犬丸の父、義政とは真逆の決断をしたのだ。もっとも、義政と小山家の悲惨な結末を目にしていたからこそ、であろう。
――ちび鬼たちは、十歳を越えたころか。
直、元服を迎える年齢だが、『大人なのに子どものかっこうをしていたお兄ちゃん』を覚えているだろうか。いや、むしろ、父親を無益な戦いに引き込んだ人物として憎しみをもって記憶しているかもしれない。
――そんな男と戯れたことなど忘れたいとさえ願っているだろう。
若犬丸の瞳が淋しげに翳った。
まゆるは夫のようすに何か察したのか。
濡れ縁から庭に降り、彼のそばに寄りそう。
「どうしたの? なんだか、悲しそう」
覗き込んだまゆるの瞳に若犬丸の影が映る。
「子どもの前で、そんな顔しないで」
夫の両手に手を伸ばし、ぎゅっと握り締める。
本当は『私の前』での意味だ。
自分の胸を夫の体に押しつけるようにして。
見上げた先の若犬丸の瞳に、同じようにまゆるの影が映し込まれる。
若犬丸の腕が、思わず妻の肩へと廻る。
ぴったりと抱擁する二人。
若犬丸は足元にまとわりつく子どもたちへ。
「お前たち、ちょっと目をつぶっていなさい」
「はい、ちちうえ!」
ちび犬兄弟は声をそろえて返事をし、ぎゅっと目を閉じると、両手で顔の上半分を覆った。
それを見届けると、若犬丸はまゆるの顔に被さるようにして彼女の唇を吸った。
「・・・・・・」
ちび犬たちの目が、こっそり五本の指の間から覗いていたことにも気付かず。
とくとくと乳房の量感とともに妻の鼓動を体に感じる。
と、思えば、自分自身の脈打ちであった。
「・・・・・・」
ちょっと困ったことになったぞと若犬丸は天を仰ぎ、子どもらに言った。
「おまえたち、二人だけ遊んでいられるね」
「はーい、ちちうえ!」
ちび犬たちは声をそろえて返事をし、辺りを走りまわる。
それを見届けると、若犬丸はひょいと妻の体を抱き上げ、邸の中へ消えた。
ちび犬たちの弟か妹が誕生するのも間近であろう。
平和の終焉
若犬丸が安穏としている間、奥州の政情は大きな転換点を迎えた。
明徳二年(一三九一)、陸奥(東北太平洋側)・出羽(東北日本海側)両国が鎌倉府の分国となったのだ。
しかも、小山若犬丸退治を大義名分として。
彼が奥州の何処かに潜伏していることは、すでに京や鎌倉に知られていた。だが、その正味は、未だ奥州に根を張る宮方残党を掃討するための口実であった。
六十年ほど前、衰退の一途をたどっていた鎌倉幕府は、なんと天皇の御謀反により打倒される。武家を退け、公家による政権を目指した天皇――後醍醐天皇は、倒幕に手足となって働いた武家を蔑ろにした。後醍醐の矛盾と非情により、清和源氏の末裔たる足利尊氏が天皇へ反旗を翻し、この二大勢力の相克により日本の王朝は南北に分裂する。
吉野へ逃げ出した後醍醐天皇の政権を南朝・宮方と呼び、対して、別系統の天皇を奉じた尊氏の政権を北朝・武家方と呼んだ。
数々の合戦ののち武将たちの心を掌握した足利尊氏は、動乱を克服し、南朝を圧倒した。
けれど、劣勢の宮方のなかにあってなおも南朝に忠誠を誓い、戦い続ける者がいた。新田義貞の子孫を初めとする武将らである。
彼らの多くは京・鎌倉から遠く離れた奥州にひそみ、北朝打倒の機運を伺っていた。表面、幕府に臣従するふりをしながら――
そんな宮方武将をあぶり出せと、氏満は将軍義満から託されたのだ。
あまり仲の良いとは云えぬ従兄弟同士。
だが、このころ南北朝の合一に向け、正念場にあった義満と幕府には、奥州まで手が廻らぬ、という実情があった。関東を安定させた氏満の協力は不可欠で、全権委譲は地理的にも有効である。実際、この決断は功を奏し、翌年、義満は、祖父の尊氏でさえなしえなかった両朝合体を実現させるのだ。
だが、それを氏満は皮肉な目で見ていた。
不仲な従兄の手柄を妬んだ、というわけではない。
――追い詰められた奥州の宮方が、どう出るか。
南朝の余党を標榜しながら、その実態は、反幕府・反鎌倉府の集団である。
彼らの南朝への忠誠心とは、幕府への反抗心を言い換えたものだ。
忠臣忠臣とおだてられながら非業の死を遂げた新田義定の血族、観応の擾乱で幕府に対抗した桃井直常の一族、その他幕府の顕職にありながら政争で敗れた武将ども――行き場を失った敗残兵の寄せ集めである。思想も経歴も全く違う輩が吉野という重石が取り除かれた分、何をしでかすか……
――どうも信頼する振りをして、厄介事を押しつけられたような。
氏満は、従兄義満に好いように使われるつもりは毛頭なかった。
京公方・関東管領に抑圧されていた彼は、これまでとは違った眼差しで奥州を見据えた。
氏満の予感はやがて現実のものとなる。
応永三年(一三九五)、新田義貞の孫、相州義隆が奥州にて挙兵する。関東より下向した代官らの圧迫に、反撃を開始したのだ。
新田義隆は、奥州の反政権勢力へ号令を下し、自らも家臣を連れ、新たな拠点を求めた。
目指すは、南北の動乱期、最後まで幕府に抗った田村荘司一族。
そこで新田は、鎌倉公方へ命懸けて抵抗した小山氏の末裔、若犬丸に出会うのだ。
「――まさか、田村の庄司殿のもとに、あの小山殿が隠居されていたとは。なんたる偶然」
天下に聞こえし無双の兵、小山若犬丸との思わぬ邂逅と、新田は相好を崩した。
彼の居間として供された田村邸の一室。
新田は、田村荘に若犬丸が隠棲していることを知ると、子息二人を連れて、引き合わせを頼み、清包はその労をとった。
清包は、新田と若犬丸が挨拶を交わす姿を眺めながら、
――これで良かったのか。
胸の疑念をぬぐえなかった。
そもそも、旧宮方の将、新田義隆から頼られ、田村荘に受け入れたことすら、ためらいがあった。
――だが、新田殿が、若犬殿をこのままにしておくまい。
清包には新田の思惑が透けて見えた。
若犬丸の存在は反鎌倉公方の象徴。
長年奥州の地に埋もれかけていた彼らよりは、余程人々の耳目を引き付けられる、敗走に次ぐ敗走で衰えていた将兵の士気も上がる、という腹づもりだろう。
新田は若犬丸の童形にさほど驚いたようすも見せず、掻き口説くようにして、
「小山殿は是非一方の大将になられよ」
手を取らんばかりに詰め寄る。
若犬丸は慌てて、
「大将など、若輩の私には荷が重すぎます」
と辞した。
「いやいや、小山家の家督たる貴殿を、一介の武将として送り出すことはできませぬよ」
新田は、若犬丸の参戦を疑っていない。
この田村荘に陣を構え、一帯の武将を糾合し、鎌倉勢と対決する。我らの奮戦を見せつけるに、関東の分国とされた奥州の列強は独立のため立ち上がるはずだ。宮方も武家方もない。むしろ関東の支配は奥州を一つにまとめ、足利政権に反旗を翻すまたとない好機であると。
――だが、そう簡単にいくだろうか。
清包は思った。
年来の潜伏生活に、新田の目は歪んでないだろうか。自分の都合の良い方へ物事を考える傾向に。
もぞもぞと円座の上で落ち着かぬげに何度も足を組みかえる新田を観察しながら、清包は彼の器量をはかりかねた。
若犬丸一人を庇護するのではあれば、辛うじて公儀の目を誤魔化すことはできた。だが、新田の勢力を引き受けたことで、田村荘は完全に取り込まれた。反政権の核として。
もっとも、本気で新田を拒絶するつもりであれば、始めから城門を閉ざし、一戦を交える覚悟で、ことに当たれば良かったのだ。
――となると、私にも鎌倉殿への敵愾心があったということか。
流されているようで、結局は己れの意志だ。
――若犬殿も同じか。
彼の横顔を見る。穏やかな隠居生活に落ち着きを見せたと思っていたが、新田の説得に徐々に顔つきが変わってくるのがわかる。
兵の顔に。
この田村で二人が出会ったのはもはや偶然とは呼べぬ――
そのとき、突然、新田が、
「あいたたたた」
腰を押さえて、呻き声を上げた。
「長旅の乗馬で痛めたのですか」
清包が思わず腰を浮かすのを制し、新田は、
「いやいや、いつもの腰痛で、もう持病だ」
子息二人に両脇を支えられながら、
「みっともないところをお見せした。ともかく、これで我らも心強い。手堅き拠点と名高き武将を得た」
新田は言いたいことを言うだけ言って、奥の間へ去った。
自邸とはいえ、新田に供した部屋に長居はできない。清包は若犬丸を自室へ誘った。今後の進退を話し合うためだが、家臣らとの評定の前に確めたいことがあった。
「……まったく、あの御仁は身勝ちの過ぎる方だと思いませんか」
清包が円座を勧めながら言ったのは、もちろん新田相州の為人である。
「わるい方ではなさそうですが」
若犬丸が答えると、
「若犬殿は人が良すぎる。『いい人』が長生きした試しはありません」
清包の注意は二重の意味があり、若犬丸はそれを十分に理解した。
「口車に乗せられて、巻き込まれないことです。といっても、私からしてすでに巻き込まれてしまっていますが」
「それは、私のことでもあるでしょう」
若犬丸は清包を見て言った。
謀反人の己れを匿っていたこと。
鎌倉へ叛意ありと捉えかねない。
もしや、新田もそれを伝え聞いて、素知らぬ顔で田村荘に現れたとも。
であれば、己れの存在が恩人たる清包とこの家を危険に曝しているのだ。
「私の首一つで、庄司家が救われるのであれば、いつでも差し上げますものを」
だが、それで解決できる段階は過ぎていた。宮方の残党に与同したとして、鎌倉に伝わるのは間もなくであろう。
清包には、若犬丸の目を見て言った。
「先代の鎌倉殿が関東の主となって以来、河越・高坂・宇都宮、さらに小山・小田。関東に強い地盤のある者は立て続けに制圧されていきました」
そして彼らの行く末にあったものは、完全なる服従か滅亡である。
「管領下となった奥州で、次に狙われるのは、どこだと思いますか」
南奥の雄、白河結城氏と鎌倉府の関係は良好である。
「ならば、鎌倉殿は白河を足がかりにして、動乱期に最後まで抗った我らを標的にするでしょうね」
言わば、見せしめである。奥州諸大名への。
それは、数年前から始まっていた。
武力以前の。
領地や所職への介入。
耐えきれず小山や小田が乱を起こした、その追い詰め方と全く同じであった。
長年相容れない存在だった田村荘へ、白河も好機とばかり攻め入るだろう。
これも時間の問題だったのだ。
だが、若犬丸は思う。
――なぜ、私をかばってくれる者たちは、私と同じ運命をたどるのだろうか。
冷静に考えれば、彼に手を差し延べる者は、皆、公儀にまつろわぬ者たち。似たような巡り合わせとなるのは当然だった。
けれど、その理性の及ばぬところで、
――やはり、私は厄神なのか。
思い悩む若犬丸のようすに、清包は言う。
「あなたのせいではありませんよ」
その昔、源頼朝は義経隠蔽を口実に奥州藤原氏を攻めた。
「鎌倉殿もそれに倣うつもりでしょう」
二人は押し黙る。
彼らの結末は語るまでもなく。
同年九月、清包の軍勢は田村荘の西の境、阿武隈川にて、奥州探題大崎氏の軍勢と対峙していた。
尊氏の代に奥州に遣わされた斯波氏の末裔は、鎌倉の氏満の命で軍勢を率いていた。
理由は、田村御退治。
旧宮方と与同し、鎌倉府へ反旗を翻したと。
ただし、若犬丸隠匿の事実は未だ露見せず。もっとも、噂くらい鎌倉に届いていただろう。彼をあぶり出す意図はあったかもしれない。
この合戦で若犬丸は成人男子に相応しい甲冑に身を固め、『変装』して戦場にあった。己れが田村に匿われていたことが知られ、より清包が追い詰められることを慮ってのことだった。故に、戦いの記録に彼の名はない。
そして、童形でない彼は、ただ強いだけの武将である。
異形の力、敵味方を畏怖させる力は封じられてしまったかのように、戦場での姿は見過ごされた。
若犬丸は気付く。己れはその名とその姿をもって、人々に衝撃を与えていたことを。
無双の兵、小山若犬丸として、本来の力を取り戻さなくてはならない。
そのためには、
「我らの絆を鎌倉殿に知らしめねばなりませんね」
清包もうなずく。
敵方の攻撃は執拗にくり返され、ここまで追い詰められたとあれば、若犬丸隠匿の件はもう些末のようなものだ。
「驚く鎌倉殿の顔、見ものですね」
小山若犬丸の復活、それをもって揺さぶりをかけるとするならば、最も効果的な方法を選ぼうと。
無双のつわもの
翌応永三年(一三九六)二月、若犬丸は再度の祇園城奪還を果たした。
氏満が白河を足がかりに奥州を掌握しようとするなら、その裏を掻き、
――我らは小山から天下に呼号しよう。
奥州に自立の気運を高めるため、まずは関東を混乱せしめる。
故郷では、十年近くも音沙汰のなかった旧主の嫡男のもとへ、かつての郎等たちはすべからく駆け参じた。――だけではなく。
武蔵、上野からも、宮方を名乗る武将たちが続々と集まった。
もちろん、実態は反鎌倉府の勢力である。
氏満や管領上杉氏の専横に、関東各地で不満が高まっていた。
そこへ伝説の武将、藤原秀郷の正嫡、若犬丸が現れたのである。人々の期待が彼に集まるのは当然だった。
小山に集結した兵の数は千騎を下らず。軍勢は揚げ、まるで、北条氏が滅亡した鎌倉幕府崩壊前夜の様相である。人々の心は、すでに戦いに勝利したかのように浮き立った。
だが、一人、若犬丸は冷静だった。
集まった千騎から先鋭の選抜を始めた。
予想通り、鎌倉の氏満自ら討伐軍を率いてくるとの報せを受けたが、かといって正攻法で勝てる相手ではない。前回の轍を踏まぬよう、祇園城での戦いは放棄した。
――小山への進軍中に鎌倉殿を襲撃する。
父義政の仇と直接戦える、またとない機会。
せっかくの手勢を割くのは、奇襲に多勢は不要だったからだ。
――それにしても、鎌倉殿も律儀な。
余程、小山が疎ましいらしい。
公方に反逆しながら、最後には膝を屈した宇都宮や小田と違い、死ぬまで鎌倉に抵抗した小山義政。その息子を、我が手で仕留めずにはいられぬとは。
結果として氏満を誘き出すことになり、小山挙兵で良い幸先を得た。
小山祇園城。
この城を守っていたのは、下野守護にあった結城基光の配下だった。
前回木戸の一族が油断して城を奪われたことを受け、基光も相当の用心をしていただろう。だが、若犬丸が難台山での合戦を最後に消息を絶ち、八年の歳月が過ぎていた。死亡説も流れるなか、彼らもまた油断した。
年ごとに警備の人員は減り、緊張感も薄まっていたところへ、若犬丸本人に襲撃されたのである。彼らもさぞや驚いたろう。
突如現れた二つ巴の紋。
騎馬の蹄が土埃を上げて。
もちろん味方結城勢のものではない。
何より先駆けには童形の青年が、真っ白な保呂を翻して向かってくる。
「小山若犬丸だ―――」
彼の勇名に比べ、味方の小勢。
結城の郎等たちはろくに戦いもせず、武器を捨て逃げ出した。
「何だ、私に名乗らせもしなかった」
苦笑する若犬丸であったが、内心ほっとしていた。やはり同門討ちは気分の良いものではない。基光は義理の伯父である。
もっとも、義政存命のころ、結城は本宗家の小山を見捨て、鎌倉に付いた。
若犬丸の祖父、氏政との信義を無きものとして。
基光の父、氏政の盟友だった直光は今年一月に卒していたが、彼らは嫁の実家を攻撃したのである。
姻戚、血縁の儚さに、彼にも、いざとなればの覚悟はあったが。
「お前たちのおかげだ」
かたわらにいた郎等、里田らに礼を言った。
故郷の小山へ突然現れた若犬丸へ、水も漏らさぬ体勢で旧臣らを組織してくれた里田藤五である。
「いいえ、我らの主は殿でなくてはなりません。殿、よくぞお戻りになってくださいました」
感極まって涙ぐんだのは里田だけではなかった。
周囲からもすすり泣く声。
主を失った土地の者は鎌倉からの代官の支配に、さぞや辛酸を舐めたことだろう。
永く小山を離れ、忘れかけていた故郷やそこへ住む人々への思いが蘇ってくる。
――今まで私は何をやっていたのだろう。これほど私を求めてくれた者たちがいたというのに。
このときから若犬丸は、ただ一人の謀反人ではいられなくなった。
反鎌倉方の武将として、旧領小山を取り戻し、人々の生活を復さねばならぬ義務。守るべき者の数に、その責務の重さを自覚する。
半月が天中にかかるころ、若犬丸は思川の畔にいた。
供はなく。
春草を踏み分けて、河原の中ほどに立つ。
――誰を待つというわけでもないが。
自分自身に言い聞かせ、大腿ほどに伸びた草の風になびく様に、一度目の旗揚げのときには覚えなかった感慨に浸る。
その違いは、家族を得たことだ。
武将としての立場、夫、父親としての立場。その間に揺れる。
――父上もあの晩、同じことを考えていたのか。
祇園城落城間近の夜。
睡り花の咲く晩だった。
――そうだ、あのとき初めて・・・・・・
と、若犬丸は背中に気配を感じた。
「今宵のような晩であれば、そなたも現れようというものだ」
振り向きもせずに、語りかける。
「あら、待っててくれたの。うれしいわ」
月光の下に、狐女の訪いをうける。
二人の対顔は、まゆるとの一件以来である。
「お元気そうでなりよりね。それに、いい男になったわ」
今年二十七歳になった若犬丸を眩しげに見上げた。
「そなたは相変わらず年を取らないな」
「妖しだもの」
いたずらっぽく目を細めて笑うくせも変わらない。
「あんた子どもができたんだって? 二人も」
「よく知っているな。だが、今後も二人きりとはかぎらぬよ」
子どもは多い方がいいのだから。小田兄弟のように七人でも八人でも。口にはしないがそう思っている。
「なら、妻が一人で足りる? 手伝ってあげましょうか?」
あられもないことを狐女はさらりと言う。
「けっこうだ。わたしにはまゆる一人で十分だ」
触れることもできないくせに。
「そんなことを言いに来たのか」
若犬丸は女を見た。
「――あの人が軍勢を用意しているわ。こちらに向かうのは月末になるかしら」
「知っている」
「数万の兵を用意しているのよ。あんた、勝てる見込みがあると思うの?」
狐女は強い視線で見返した。
「私には考えがある。そなたには言えぬが」
若犬丸の目が細まる。
「別に偵察にきたわけじゃないわ」
狐女が視線を落とすと、若犬丸も押し黙った。
「・・・・・・私があんたの前に現れる度に大勢の人間が死ぬわね」
埒もないことを口にしたとうつむきかけた狐女だが、思いがけず若犬丸が答える。
「それは私とて同じだ。私の行く先々で戦さが起こり、人々を巻き込んでしまう」
「あんたが巻き込む? 巻き込まれているの間違いでしょう? 今度も奥州の宮方に――」
「どちらがどうとは割り切れぬよ」
こうなってしまったことを口で説明するのは難しい。
「自分のことを疫病神だなんて思っちゃだめよ」
「そなたもな」
二人は互いに顔を見合わせた。
狐女は不思議な気分になった。
若犬丸が自分と対等の口を利いている。初めてあったときはほんの子どもだったのに。人の子というのは本当に年をとるのが早い。
――こんなに大きくなって。
そうして、育たなかった己れの子を思い出す。
ふいに眼差しが翳った狐女を、若犬丸もまた不思議そうに見た。
狐女は何でもない、というふうに笑ってみせたが、
――私にとって若犬丸は、吾子の代わりだったのかしら。
見守ってきた歴代の小山の子どもたちの中で、若犬丸は特別だった。
他の子とはどう違うというのだろうか。
――あぁ、そうか、お互い、似た者同士だったわね。
親を失い、いつだって自分の居場所を探し求めていた自分と、この男は。
人と妖しとの差はあるけれど。
そして、愛する者を失い続けるところも。
「・・・・・・本当言うとね、筑波での合戦で、あんたに死んでもらおうと思ったのよ。ちょうどそのころ、あの人、具合がわるくって。あんたと私の悪縁が切れれば助かるんじゃないかって思って。私はあんたを騙したのよ。戦いに向かわせて、そこで命を落とせばいいって」
狐女の告白に、
「やはりな。どうもおかしいと思った」
若犬丸にそれほどの驚きはない。彼にとって、過去は過去でしかないのだ。
「今、私は生きている」
それが全てだった。
「あの人もね。・・・・・・何だろうね。呪いだとか祟りだとか。私が側にいるから障りがあるのかしら」
狐女は肩をすくめた。
「でも、例えそうだとしても、私はあの人のそばを離れるつもりはないの。私がそばにいて、私が与える厄から守ってやるの」
きっぱりと言う。
「前向きだな」
「前向きよ」
若犬丸と狐女は見つめ合った。
鎌倉から小山までは数日の距離、決戦は間もなくだ。
「互いに敵同士だな」
「味方だったときがあったかしら」
ふっと笑う狐女に、
「子どもだった私は気付かなかったが、そなたは我らが血を見ぬように働きかけてくれたではないか」
「ようやく気付いてくれたんだ」
「それから、まゆるのこともな」
「あら、ばれた?」
「それにしても、もう少しまともな会わせ方はなかったのか」
「だって、普通に紹介しても、絶対あんた拒んだでしょう」
狐女には泥人形の前科がある。若犬丸が警戒して当然だ。
「だが、なぜ、まゆるなのだ?」
「それはあんたも薄々勘づいているんじゃない? あの娘も、あんたと同じ血をひいているのよ。両親ともにね」
若犬丸は、まゆるの母方にも自分と同じ血が流れていたと知って感慨深い。けれど、それほどには驚かない。やはり、という思いが先立った。
代々の血を遡れば、人はどこかで繋がる。もとよりまゆるとは深い縁えにしを覚えていたから。
しかし、若犬丸の落ち着いた反応に、
「わからないの? あんたが思っている以上に古い古い昔からの血なのよ。小山だの、秀郷だの、どころじゃないわ。この私がひよっ子に見えるくらいのね」
狐女は苛立ったように声を荒げた。
「私、ずいぶんと前に下野は那須に住んでいたことがあるの。そこに古老の狐がいてね。こんな話を聞いたのよ」
昔むかし、下野がその名で呼ばれる前のこと。
当世とは地形も異なり、海は今でいう小山の南、野木宮あたりまで入り込んでいた。人々はまだ田畑を耕すことを知らず、山で獣を狩り、海辺で貝を拾い、魚を釣るばかりに暮らしていた。
ある村に一人の若者がいた。
星明かりの晩、舟をこぎ出した若者は、沖のただ中で突然の横波を受け、海へと放り出された。
浮きあがろうとする若者の体を波がなぶり、弄び、やがて彼は力尽きる。
波の下、沈む体、うすれゆく意識、
彼は月がゆらめくさまを見上げながら、死を思った。
けれど、若者は海王の慈悲によって一命を救われる。
目覚めれば海の底、瑠璃玻璃にきらめく宮殿の中で、美しい姫君に介抱されていた。
夢から醒めた夢のように。
何かもかもが典麗絶佳の世界。
壮気を取り戻した若者は、宮殿の主たる海王に歓待され、しばしの間、竜宮城に留まることとなった。
彼のかたわらには姫君が寄り添い、異界の明媚を案内する。
けれど、若者の目にはこの世界で最も美しい姫の他、何も映らなかった。
やがて二人は恋仲となった。そして、離れがたくなった若者は、海王の許しを得て、姫君を陸の世界に連れ帰った。
姫君の侍女や珍しい宝も伴い、若者は故郷で裕福に暮らした。
愛し合う二人には直に子が授けられた。
幸せのただ中にあった若者。
だが、これを妬む輩がいた。
いざ出産となった際、姫君はくれぐれも産所を覗かぬよう若者に念を押した。これを聞きつけた輩は、 彼に疑念を吹き込んだ。
姫君はどうもただの人間ではない。怪しいぞ。そっと産所を覗いてみろ。
男の囁きを真に受けた若者は、言われるまま産所を覗いた。
すると、そこには、見慣れた姫君の姿はなく、八丈ほどもある青龍がお産の苦しみにのたうち回っていた。
若者は恐怖に凍り付き、その彼へ龍女の瞳が向けられる。
お産のあと、妻は夫に別れを告げた。
真の姿を見られたからには、もうおそばにいることはできません。この子を私の形見と思って大切に育ててください。
我が子を遠くから見守ると約束して、姫君は侍女を引き連れ、海の世界へと帰っていった。
若者は己れの過ちを悔い、悲しみに暮れたが、失った愛を再び取り戻すことはできなかった。
けれど、龍女の加護があったのだろうか。子どもは健やかに育ち、成人しては家を盛り立て、一族は末々(すえずえ)まで繁栄したという。
「――この物語にどこまで真実が含まれているか、わからないわ」
月明かりに照らされた狐女の白い顔。
若犬丸は、現実の世界に引き戻される。
「何しろ、私に教えてくれたおじいちゃん狐も、そのまたおじいちゃんに聞いた話というから」
でもね、と狐女が言う。
「秀郷の先祖が下野に落ち着いたとき、土地の豪族の娘と結ばれた。その娘に、龍女の血が入っていたとしたら、全て納得いくのよ」
人の伝える物語では、秀郷と龍女がねんごろになったように云われているが、始まりはもっと前に遡るのだ。
秀郷がかつて桔梗に語った龍宮という夢の国。
果たして彼がどこまで真実を知っていたかはわからない。けれど、彼は己れと龍女の血の関わりを自覚していたのだ。
「だが、例え、その話が事実だとしても我らは繁栄し過ぎたな。血が拡がるということは、その分血が薄まるということだ。それは龍神の加護も薄まることにならないのか」
その最盛期、北は津軽、西は播磨まで勢力を及ぼした秀郷の嫡流は今、本拠下野で途絶えかけている。
若犬丸は、狐女の言葉を皮肉として受け止めようとしていた。
しかし、狐女は、
「人の世には栄枯盛衰があるわ。あんたの一族にも。だから薄まった血を再び元に戻そうという力が働くのよ」
血と血が重ねられ、数代おきに血の濃さと龍神の加護を取り戻す。それが秀郷であり、寒川の尼の息子たちであったのだ。
「もっとも世情との兼ね合いで、うまくいかなかった時代もあったでしょうね」
「私が一番『うまくない』時代だな」
若犬丸は皮肉めかす。
「だけど、これからよ。あんたの子どもや孫たちが、きっと龍神の加護を取り戻すはずよ」
「そうであると、いいな」
狐女の話に、若犬丸はまだ半信半疑であったが、それでも己れの子孫に思いを馳せることができた。
未来を、垣間見ることができた。
彼の心は軽くなり、「今宵、そなたに会えて良かった」と口にする。
常にない素直な若犬丸の態度。狐女は面おもはゆくなって話題を変えた。
「どうでもいいけど、あんた子どもまでいるくせに、いつまで童形のままでいるの?」
「鎌倉殿を追い払った暁にな」
「だったら、いつになるか、わかったもんじゃないわね」
狐女が笑い、若犬丸もつられて笑う。
「名前も早く変えなさい。今のままではあんたに触れることすらできないわ」
「触れる?」
そう呟くと、若犬丸はを思ったか、すっと右手を狐女に差し延べた。
「何するの!」
狐女はひょんと後ろに跳びずさった。
若犬丸はまじまじと己れの手のひらを見てから、もう一度手をかざした。
またひょんと飛び退く狐女。
「ちょっとやめてよ! もうっ」
「本当だ。どういう法力だ、これは」
若犬丸は手を差し出し、狐女はひょんと飛び退く。
差し出してはひょん。差し出してはひょん。そのくり返し。
「何だか面白いな」
「こっちは怖いわよっ。いじめっ子!」
狐女が逃げるので追いかける。若犬丸が追いかけるので逃げる。
いつしか月光の下、草野原を掻き分け、追いかけっことなる。
二人の髪も衣も、霜を降らせたように白く輝いていた。
――もうっ、何で寒川尼は、子孫に犬の一字を付けさせたのよ。私に見守れっていったくせにっ。考えなし!
狐女は心の中で悪態をつく。
いや、寒川尼は、あれでいて浅はかなのか、思慮深いのかわからないところがあった。一門の外堀を狐女に守らせて、肝心の子どもたちには指一本触れさせないようにした、なんてことも――・・・
「おいっ、耳と尻尾が出ているぞ」
「やぁっ、恥ずかしい! 私ったら、いい年して」
慌てて手で隠す。
狐女がきゃあきゃあと本気で騒ぎ始めたので、ようやく若犬丸は追求をやめた。
「あぁ、怖かった。でも少し面白かった、かも」
面白かったのは若犬丸の方だ。いつもは自分がかまわれる一方だったが、今宵は逆だ。
「子どものころに、かような力があると知っていれば」
いじめられた夜を思い出して、口惜しがった。
「さぁ、もういいでしょ。私はこれで消えるわ」
乱れた衣を直しながら、狐女は言った。
「あぁ、そうだな」
「互いに悔いのないように生きようね」
「あぁ」
生きるという言葉の重みを噛みしめる。
月が明るく照らす中、二人はくるりと背をむけた。若犬丸は歩き出し、狐女は妖火に変じ、それぞれの帰るべき場所へと去った。
古河合戦
同二月二十八日、若犬丸挙兵を受け、足利氏満は鎌倉を発向した。
前回の小山退治同様、かつて頼朝公が奥州征伐にむかった街道を北上する。沿道に敵対する者などないとの自負である。
もっとも、周囲の景はこの二百年で大きく変わった。関東平野を流れる河川はいずれも暴れ川で、幾度となく河流を変じたからだ。
氏満は今戦も古河を小山攻撃の拠点とした。手前に利根の大河が横たわっていたが、これを渡れば間もなく本陣である。先発隊はすでに渡り終えていた。
対岸への渡河点。
利根川に渡良瀬川が合流する、ややその下流。
両岸には天然の堤防が築かれ、さらに雪解け水による増水で河原を失っている。
大河同士がぶつかり合い、落としていった土砂が本流の弧形に沿って三日月型の中州を形成していた。中州といっても島のように広々とした土地である。
氏満から命じられていた先遣隊は、中州を中継にして舟を浮かべ、浮き橋を仕立てた。
彼は、橋が完成された後も用心を怠らせなかった。
浮き橋は弱点の橋綱を切られては一たまりもない。
宮方に狙われることを怖れ、本隊が到着するまで日夜見張りを立てさせた。
だが、その心配は杞憂だったか。氏満の本隊が到着したこの日まで、異変は報告されていなかったのだから。
氏満には何かの予感があった。
彼は義政との戦いで、小山宗家から奪った重代の大鎧を運ばせていた。
肩白赤糸威しの大鎧に、厳めしく鋲を打ち並べた大星兜は龍頭が睥睨する。
胴の弦走りは襷格子の各枠へ番いの龍を配す画韋である。 番いの龍の意匠は、若犬丸の胴丸にも描かれていたというが、この大鎧を偲んでのことであろう。
――あの男は、私の間近にまで迫ろうとするな。
遠目にでも、一族の家宝たる甲冑を仇敵に着られているのを見て、やつは顔をするだろうか。
氏満の企みを聞いた愛人の花萩御前は、
「悪趣味ですわ。おやめになって」
彼をいさめたが、それを無理にでも通す。
そして、当の花萩は何と彼のかたわらにいた。
氏満は、愛人を男装させ、輿に乗せて軍勢に同行させていたのである。
小休止に、氏満は花萩へ語りかけた。
「あの男は奇襲を好むからな」
蔑むように言っておきながら、頭の中で若犬丸に成り代わり『公方襲撃』の策を講じる。
――私が若犬丸であれば、小山で城攻めを受けるのは避けるな。『鎌倉公方』を狙うなら、進軍の途中。遮蔽物のない荒野に入る前だ。
だとしたら、この利根の渡しの他にない。
上流から植物の種や腐葉土が運ばれるのか、両岸は木立が森のように生い茂っていた。身を潜ませるには格好の場所である。すでに斥候を放ち、軍勢が隠れていそうな場所はあらかた探り果たしたが。
氏満は、なおも油断しなかった。
利根川を前にして、
――どうした、若犬丸。ここで私を仕留めねば、後がないぞ。
むしろ、彼を待ち望むよな心持ちである。
惜しむらくは、甲冑を身に着ける間がなく、件の大鎧は櫃に入ったままだ。
一万騎余りの本隊が、次々に川を渡る。
氏満の輿もゆっくりと橋を渡り始めた。
すぐ後ろには花萩の輿が続く。
そのとき。
川音を両断するように、法螺貝の音が鳴り響いた。
味方のものではない。
「敵襲かっ?」
その意味はわからない。
だが、氏満の輿添えは主君の危機を察知し、急ぎ中州まで輿を運ばせた。方向転換の間を惜しみ、後岸に戻る選択を捨てたのだ。
花萩の輿も同様だった。
氏満は輿を下ろさせると、地面に降り立つ。
そして両岸の木立に目を配る。
兵らは本能的に不安定な浮き橋を駆け抜け、引き返し、今や橋には一人の兵もいない。
ふと、川上の流音が変わった。
曲がりくねって視界から消える両川の上流で、何があったというのか。
人々が注視するなか、答えが間もなく現れた。
大量の丸太が轟々たる流れに乗って、河を下ってきたのだ。
古河近くの両川に河原がないことは先に述べた。若犬丸たちは岸の強きつい傾斜を利用し、上流の勾配に綱をもやって丸太を貯め、百姓に身をやつした仲間の合図とともに綱を切り落としたのだ。
転がり落ちた丸太は一斉に川を下り、凄まじい勢いで、俄づくりの浮き橋にぶちあたった。
激しく水飛沫を上げ、立て続けに襲いかかる丸太に、浮き橋は儚い悲鳴を上げるように揺らめき、千切れ、下流へと消え去った。
氏満たちは目の前で起きた光景に言葉を失った。
もし、未だ橋の上に乗っていたらと身がすくむ。
だが、若犬丸の攻撃はこれからが本番だった。
「敵襲! 鎌倉殿をお守りしろっ」
大声で叫ぶ兵の喉もとに矢が突き刺さる。それを魁けとして矢の雨が降り注ぐ。
上流から十余の舟に分乗した兵の一団。
弓に番えた矢を間断無く射る。
氏満は兵が掲げた盾の陰へ隠れる。そこへうなりを上げて突き立つ飛箭。
「敵襲、敵襲!」
割れんばかりに早鐘を打ち、本陣への急襲に応援を求める。
だが、前後の隊列は川に阻まれ、ままならず。
両岸から矢を射かけようしたときには手遅れだった。
舟が中州へ乗り上げる勢いに任せ、舳先から跳躍する叛徒の兵ら。
その先頭を駆けるのは童形の青年。
人々は名高き小山若犬丸の勇姿を見た。
卯の花威しの胴丸に、藤色の水干の袖と、一つ束ねの長髪を風に踊らせながら。
すでに弓矢を捨て、手には太刀。
次々に斬りつける。
鎌倉勢の馬は大河の真っ直中に取り残され、興奮して暴れ回った。人々は用を為さなくなった騎馬から下り、徒歩立ちで向かう。
敵味方入り乱れた戦場へ、両岸の鎌倉勢が矢を射込むことはできなかった。
勇気ある者が馬ごと川の流れに跳び込むが、波に呑まれ、そのまま下流へと流されていく。
誰もが躊躇し、ただ見守ることしかできない。
万余の兵が為す術もなく。
中州での戦いに、若犬丸の兵は先鋭の二百、鎌倉勢の兵は百にも満たない。
しかも奇襲に成功した若犬丸たちは勢いづき、氏満たちを中州の隅に追い詰めた。
若犬丸は大声で呼ばわる。
「どこにおられる。鎌倉殿! 一戦交えようではありませぬか」
――ここだと答える馬鹿がいるかっ。
氏満は毒づくが、主君を庇おうと兵らが群がり寄っているので、すぐにそれと知れる。
若犬丸は黒い人集だかりの、その中心へと突き進む。
彼らの中に、小柄で一際ひときわ色の白い若衆がいたのが目についた。それに顔色一つ変えず躍進する。
――遮る者は斬る!
大勢の歩兵に取り囲まれるのをものともせず。
眼前の敵に太刀を薙ぐ。
背後からの攻撃に、身を翻して首を落とす。
身の脇腹へ、太刀を突きつけようとする敵の腕を叩き切る。
反対方向から、また一人。
とっさに太刀を突き入れてしまった。
勢い余って鰐口近くまで敵の体に沈んだ刃。抜く間を惜しみ、そのまま相手の手から太刀を奪う。
くるりと体の向きを変えれば、
目の前には鎌倉公方氏満がいた。
「小山野州義政が嫡男、若犬丸! 鎌倉殿のお命頂戴いたすっ」
ぎらぎらと瞳を輝かせながら、太刀を突きつけた。
そのとき、氏満のそばにいた若衆が、すっと前に立ちはだかった。
白面の――
若犬丸は手にしていた太刀を振りかぶる。
美貌の――
だから狐女とわかっていた。
悠然の――
その目を見返して、刃を振り下ろす。
――どんな妖術で邪魔だてするか。
己れに直に手を下さなくとも、方法はいくらでもあるだろうと。
だが太刀は、彼の振るまま狐女の肩の骨を割り、肉に埋もれた。
胸から夥しい量の血が噴き出す。
狐女の目が若犬丸を見た。
女は指一つ動かさなかった。ただ己れの体を盾にして、その身を捧げたのだ。
氏満が小山退治を号令したとき、狐女は若犬丸との因縁の深さを思わずにいられなかった。
前回の掃討戦で若犬丸は学んでいた。
旧領で粘り強く鎌倉勢と戦い、氏満が音を上げるのを待つ。そんな悠長な作戦が大軍の前にあっては無意味なことを。
ならば此度は、自分の命と引き替えにでも、直接氏満の命を狙ってくるだろう。
ついに二人が対決する。
その予想に戦慄した花萩は、氏満に同行を申し出た。
若衆に男装して愛する男のそばに侍ると、片時も離れなかった。
変化の術で戦場に紛れ込んでいた将門のころとは勝手が違う。
人々は、男装した寵姫を指さし、眉をひそめた。
「戦場に女がしゃしゃり出てくるなど、道理を知らぬことよ」
花萩はそれくらいの陰口で動じる女ではない。氏満も一度己れが決定したことは翻さない。むしろ美姫の男装を興がった。以前、戦場に付き添わせていた護法僧頼印は、老病を理由に同行を辞退していた。その代わり、というのでないが。
朱華色の水干に、髪は童子のように後ろで一つに束ねている。男としての装いがかえって花萩の美貌を際だたせ、氏満は、
「烏帽子もつけよ。まるで白拍子のようになるであろう」
と、かまわずにはいられなかった。
だが、白拍子、と聞いて誰もが彼の女性の名前を思い浮かべた。
かつて源頼朝が弟義経の縁者を征伐するため、この街道を北進したことと二重になって頭を過ぎった。
昼は輿に乗って軍路を進み、夜は氏満の相手をする。
不平一つ言わず、背筋を伸ばして前を見つめる花萩の姿に、
「女の身でありながら、よくぞ辛抱できる」
家臣らも、彼女を認め始め、これまでの態度を改める。
しかし、花萩はそのことについて喜ぶことはなかった。
それよりも、自分が呪いをかけた秀郷の末裔に、氏満が命を奪われることなどあってはならない。
不安は募る。
先の小山討伐では思いもしなかったが。
一つには氏満がもう若くないことだ。
小田攻めのころは体調を崩した。
決して健康とはいえない体。
今回の遠征は、その弱みを見せまいとする反動なのだ。
「そなたはいつまで経っても若く健やかなままだな」
氏満は目を細めて言うが、家臣らは十年以上経っても変わらぬ花萩の美貌を、
「いったい何歳だ。まるで化け物のように年を取らぬ」
陰で言い合った。
けれど、いくら怪しまれても氏満のもとを離れることなど考えられなかった。愛する者が天寿を全うする姿を見届けること。それが狐女の願いとなっていた。
――この人は、私がお守りする。
そこでまた、将門を愛していたころと変わらぬ自分を見つける。
――結局、同じことのくり返し。
輪廻。
己れはただ一度の生涯で、それをくり返しているのだと知る。
「さぁ、どう出るっ」
若犬丸は、氏満の近習の中に狐女の顔を見たとき、彼女の反撃を覚悟した。その霊力がいかほどのものかわからない。しかし己れには狐女の力を跳ね返す力がある。
己れの名の、犬の一字に。
氏満に迫るなか、立ち塞がる女へ太刀を振り上げた。
女は動かなかった。
ただ若犬丸の太刀を、その身に沈めた。
触れ合うほどに近づいた顔と顔。
瞳と瞳。
「・・・・・・あんたになら、殺されてもいいよ」
狐女の吐息のような囁きに、若犬丸に震えが走った。
だが、それも一瞬。
引き抜こうとする太刀の鍔をいつの間にか狐女の手が包んでいた。
「こんな無粋なもの、お仕舞いなさい」
狐女の口の端から一筋、赤いものが流れた。若犬丸は、とっさに手を離し、瞬間、周囲を見回す。
「だれか! 若犬丸に太刀持て! 槍持て!」
大声で呼ばわる中、里田を始めとする周囲の郎等はそれぞれの敵に対峙し、替えの武器を届けることは叶わなかった。
無腰となった彼に、敵兵は勢いを盛り返し、襲いかかった。
若犬丸は身を翻した。
地面に転がる太刀を見つけ、手にする。だがすでに、氏満との間を多数の兵が阻んでいた。
さらに、両岸の軍勢の変化に気付く。
鎌倉方の軍勢は上流に移動していた。
そこから、川に身を投じる人々。
流れに逆らわず、中州に泳ぎ着こうというのだ。
その大勢。
まともに相手をすれば適うはずはない。
――このまま、仲間とともに討ち死にするか。
覚悟が、脳裏を過ぎる。
だが、生きていればこそ、氏満を倒す日は来る。
若犬丸は無念を押し殺し、
「退却せよ!」
血を吐くような思いで叫ぶと、素早く舟に向かう。
味方の兵も彼に続いた。
若犬丸は郎党たちともに、膝まで水につかりながら、舟を押し出し、川面に浮かべる。彼らが飛び乗ると、波に運ばれ、舟は中州から離れた。
別の舟に、兵次、里田の顔が見えた。
――あと一歩、あと一歩で、討ち取ることができたはずだっ!
利根川の流れが舟を下流へと運び、島影が視界から消え去っても、若犬丸は、その方角から顔を逸らすことはできなかった。
「医師を呼べ! 早くっ」
中州では、花萩が氏満に抱きかかえられていた。
彼の直垂も血の色に染まっていく。
しかし、氏満は己れが穢れることを厭わなかった。
狐女はそれを満足げに見上げ、
――これで呪いも解けるわよねぇ。
己れが身を捧げたのは、氏満だったのか、若犬丸だったのか。
今となっては、わからない・・・・・・




