空疎なる君主
上杉氏への不信。
その穴を埋めるために、頼印という存在をますます必要としていった氏満。
周信は、主君の胸のうちを思い、
――私だけではいけないのでしょうか。私一人では公方さまの父親代わりになりえないのでしょうか。
しかし、心の欠けた子どもは一つでは満たされない。喪失を怖れ、常に備えを取り込もうとするのだ。
逆に言えば、頼印がいたからこそ、氏満は上杉一族を『切る』ことができたのである。
――もう父でも兄でもない。
敵対者となった上杉氏の強大な権力は、府君としての自立を望む彼にとって、立ち塞がる壁であった。
氏満が抱える管領一族への劣等感と対抗心は上杉氏へも伝わる。
鎌倉公方と関東管領の対立。
この鎌倉であってはならぬことだった。
周信は関東の安定のために氏満へ説いた。
「賢明なる君主とは徳をもって家臣に接するものです。君主の徳とは寛容と慈愛の心、どれほど力があろうとも徳なき君主に臣が従うことはありません」
氏満の祖父尊氏がいかに部下を慈しみ、いかに部下に慕われていたか。それ故に武家の頭領となることができたのだと。
周信は切々と語った。
氏満にとって聞き飽きたことかもしれない。
だが、君主にとって仁徳というものが、どれほど大切なものであるかを教え込まねばならなかった。それが自分の使命とさえ思った。
師としての欲目ではなく、この類い希な才知をもって生まれた青年が、己れの拘泥により道を誤ってはならない。
周信は必死で正道へと導こうとした。
だが、師の願いはどれほど彼に届いただろうか。
永和五年(一三七九)三月、関東管領上杉憲春が自害した。
遺書もなく、周囲には思い当たる理由がなかったため、彼の死はさまざまに噂された。
当時、京の幕府では、管領細川頼之と前管領斯波義将が争い、頼之が職を解かれるという政変が起こった。
これに口を出そうとした鎌倉の氏満を、憲春が死をもって諫めたというのである。
ちょうど京の義満から軍勢を催促されていた氏満は、上杉憲方を大将に、関東から兵を出していたところで、
「あれは将軍家を助けるための軍勢ではない。この機に乗じて将軍家を討つための軍勢だ」
と尾ひれまで付けられた。
氏満にとっては全く身に覚えはない。しかし、京の義満から疑いの目を向けられ、不承不承、叛意のない旨、誓文を自筆し、幕府へ提出する。
関東公方蜂起の噂は、逆に幕府内の結束を高めたか、京は間もなく秩序を回復する。
痛くもない腹を探られた氏満は、苦々しい思いを味わっただけである。
――憲春め、よりによって間のわるいときに死んでくれたものだ。
死者に八つ当たりする氏満であったが、憲春の死は彼にも原因があった。
疎ましい上杉一族の権力を貶めるため、彼らの内訌を謀っていたのだ。
前関東管領能憲は、死の直前、すでに管領となっていた弟憲春ではなく、その下の弟、憲方に家督を譲っていた。
能憲には跡を継ぐべき男子がなかった。
上杉氏という一族はどういうわけか、ある系統には男子が恵まれず、ある系統には余るほど男児を得るという現象が頻繁に起きる。このため、兄弟間叔父甥間で養子猶子のやり取りが数多く行われ、一族内には複雑微妙な人間関係が形成されていた。
それに目をつけた氏満は憲春を偏重し、上杉氏へ揺さぶりをかけたのである。
上杉氏から二人の管領を出してもおかしくないところを、憲方を全く無視した。
惣領でありながら府内第一の座を拒まれた憲方。そして、その彼を惣領として戴かざるを得ない上杉氏。
憲方の存在が一族内で孤立し、その統率力に疑念を持たれ、一族全体の結束力に亀裂が入ればよい。
氏満は、己れの策略の成果を楽しみに管領家の動静を眺めた。
しかし、時間とともに孤立していったのは憲春の方であった。
上杉にありながら一族を裏切り、府君に懐柔される男と白眼視を受けた彼は、一族と氏満の板挟みに耐えかね、死を選んだのである。
管領としての憲春を重用していた氏満にとって、大きな痛手であった。
さらに憲方からの反撃が始まる。
京の幕府から氏満の頭越しに、憲方が関東管領に補されたのだ。
憲方は兄の自死や主君の不名誉な噂さえ逆手にとって、己れの権力増大に繋げたのである。
先に、能憲の辞職承認を『幕府の権限』とぐずった氏満であるが、幕府と上杉の親密さに驚きと不満を持った。
――本来なら、私に一言あってしかるべきではないか。
云うなれば、主君の氏満が臣下の憲方に足をすくわれたのである。
さらに憲方は、京の義満から疑惑の目を向けられた氏満のお目付役をも担ったのだ。
氏満はますます不自由な身となる。
――お若い公方さま、まだまだ我らの敵ではありませんな。
御所内で会う憲方の視線。
手のひらで転がされ、己れの青さを笑われているような気がした。
氏満の鬱屈した日々は続き、これに口を出したのが頼印である。
「今年は公方さまにとって重厄の年でございます。これはぜひに祈祷を行い、厄を取り除かねばなりません」
「厄? 私は二十一歳だ。厄年には、まだ間があるが」
「いえ、厄年というものは、当人当人によって異なるものです。今年はまさに、公方さまにとって大厄の年にあたるのです」
氏満は頼印の勧めるまま、殿中にて一字金輪法という祈祷を施された。
「どうですか? ご気分は」
「そういえば、肩の辺りが軽くなったような・・・・・・」
実際、厄は祓われたか、翌年二月、氏満は従四位上に叙され、左兵衛督に任じられる。
そして、頼印にとっての厄も。
義堂周信の上洛命令が幕府より通達されたのだ。
鎌倉に下向して二十年、そろそろ帝都へ復帰してもよいころだと。
これを氏満は、義満の制裁、もしくは玩弄と捉えた。
彼の周信への深い帰依、そして子どものころから父の如く慕い続けていることは、京の義満にも届いているはずだった。
――それを敢えて取り上げるような真似を。
氏満は怒り、周信は困惑した。
「夢窓国師の教えを広めようと、鎌倉に参りはや二十年、この地に骨を埋める覚悟でありましたのに」
今、自分が氏満のもとを離れれば、上杉氏との溝は深まるばかりで、修復は難しくなる。
さらに周信自身、氏満との別離を惜しんだ。幼いころから養育に携わった青年府君。この優秀な教え子が、いつの日か関東の主たるに相応しい人物となって君臨する姿を見届けようと。
「このお話はなかったことにできないものでしょうか」
「上杉に聞いてみよう」
氏満が答えた。彼には考えがあった。
憲方には幕府への独自の人脈がある。しかも先の一件で己が人脈よりよほど強力な手蔓であると知れ、それをもって今回の決定を覆せないかと。己れは素直に従兄たる義満へ申し出ることはせず、この後に及んで、憲方を頼ったのである。
――義堂和尚のことで力を貸してくれるのであれば、これまでのことは水に流す。もう一度そなたたちと協力し合おう。
氏満なりに目配せを送ったつもりであったが、
「この度の御令達は義堂和尚にとって何よりの御出世でございます。また、殿におかれましては昨年の一件もあることですし、将軍家のご随意になさられた方がよろしいかと」
氏満の甘ったれた要望に、憲方の答えはにべもなく。
彼の拒絶は、そのまま周信の帰洛決定であった。
「――千里の道程を隔てていても、私たち師弟の絆が綻ぶことはありません。京においても、公方さまの師として私がお役に立てることがあると存じます。神仏への信心、家臣への慈悲・・・・・・、お教えしたことをお守り頂ければ、私たちの心はいつでも繋がっているのです」
これを主君への教導の締めくくりとし、周信は京へと旅立っていった。
将来顔を合わせることは二度とないだろう。師弟は互いに身を引き裂かれるような思いでそれぞれの路へと向かった。
京にて周信は建仁寺の住職となり、義満からも深い帰依を受ける。また氏満を常に警戒する将軍家へ、その疑念を払うべく心を砕き、東西融和の大切さを説いた。
一方、氏満は?
神仏への信心、家臣への慈悲―――
師の思いに反し、周信の一件により、彼の人間不信は深まる。
上からは義満、下からは上杉氏の抑圧に。
このころから家臣の邸で見初めた遊女、花萩をそばに置いた。
政務への興味を失い、家臣らを遠ざける。
世の中の出来事から背を向ける。
自堕落な日々。
空疎なる君主。
それは鎌倉の権力を掌握せんとする上杉氏の望む姿である。無気力で病弱な府君を管領一族が支える構図。それを鎌倉の内外に見せつけるに。
氏満も彼らの思惑は見透かしていた。
しかし、氏満とて、上杉との仲違いを配下の武将に知られ、鎌倉府の支配を揺るがすような真似はできず、管領一族を頼む様に振る舞わねばならなかった。実際、上杉なしでは何ごともできぬ氏満にあって、ますます彼の無気力を助長させるのだ。
鎌倉府の構造を、いや自身の生活さえ変えることができなかった。
けれど、このまま上杉氏の望むとおり傀儡として埋もれるには、氏満は才気が過ぎた。
小山野州小四郎義政。
この男の存在によって、氏満は覚醒するが、それはまだ後のことである。




