鎌倉公方と関東管領
永和二年(一三七六)五月、義堂周信のもとへ、上杉憲顕の息、関東管領の能憲の使者が訪れた。
能憲は病床にあり、周信は先月、先々月と彼を見舞っていたが、いよいよ病状が悪化したらしい。己れの死期が近いことを悟り、親交の深い周信を頼ったのである。
周信は病床に横たわる能憲を一目見るなり驚いた。先月に比べ、土気色の肌は乾き、目の光りも弱々しくなっていたからだ。
「私は、この先長いことはないでしょう」
公方氏満や上杉一門の今後を案じ、死後の安寧のため寺院への所領寄進を願い出た。
そして、
「この体では、公方さまへのご奉公もままなりません」
管領職の辞任を申し出る。
友人の願いに、周信も、
「それが良いでしょう。多大な責務から解放されて、ゆっくり養生に努めなさいまし」
と、うなずいた。
能憲から依頼された周信は御所に参じ、氏満に辞職の件を伝えた。
だが、氏満は、
「ならぬ。能憲が辞めることなど私は許さぬ」
頑なに拒んだのである。
氏満にとって憲顕は祖父のような存在、能憲は父のような存在だった。憲顕の死に続き、氏満はまたも身内を奪われるとでも思ったのだろうか。
しかし、その執着心が、能憲の病状を悪化させていることに、
――公方殿はお気付きにならないのだろうか。
十八歳の氏満はとうに元服を済ませ、幕府の執務をみるまでに成長していた。けれど、
――ご自身も、理性ではどうすることもできぬのだ。
周信はいったんその場を辞すと、翌日また氏満の説得に参じた。
しかし、氏満は頑として首を縦に振らず、
「そもそも、関東管領の任免権は私にはなく、京の幕府の管轄にある。私に幕府の権限を犯せというのか」
と、法律論を盾にとる。
そこで、周信は氏満の発言を逆手に、
「では、京へ使者を送り、幕府に判断を委せることにします。よろしいですね」
と主君へ迫るように言った。
氏満は周信の思わぬ反論に少し怯んだが、
「京へか? そうだな。そなたの思うようにすれば良い」
ようやく周信の申し出を承諾した。
周信がこれを能憲に伝えると、親友は肩の荷を降ろしたように表情を和らげた。
「どうぞ、これからは静養に努めてください」
そう言って邸を後にした。
幕府へ辞職願いを申請した能憲は、その返事を待つ間に、鶴岡新宮別当の頼印に病気快癒の祈祷をさせたという。
六月の月末だったが、それを契機に能憲の病状は回復に向かう。
人々は頼印の法験あらたかなことを驚き、噂し合ったが、周信の胸に不信感が湧き上がる。
友人として能憲の回復は喜ばしい。
だが・・・・・・
頼印は四月にも能憲の邸で普賢延命の護摩を施した。
彼曰く、
「春にお邸から人魂が出て行ったと聞きましたので、招魂の秘法を修しましたところ、果たして人魂が還来し、寝所にもどったということです。これはお邸の皆々が見た、と申しております」
と、得意になって言いふらしていた。
――ばかな。そのころ私は上杉殿と会って話をした。そして四月から五月にかけて彼の病は悪化の一途をたどっていたというのに。
そして頼印はまたも詭弁を弄した。六月の再度の祈祷は不動法と愛染法を修したのだと。
原因不明の病は全て悪霊や妖怪の仕業。病気の再発は己れの法力不足ではなく、別の物の怪に憑かれたからだという。
しかし、能憲の頼印への信心は深い。父憲顕の代からの信奉によるものだった。
先代憲顕が尊氏の不興を買って上野に蟄居していたころ、頼印と知り合い、彼の祈祷によって鎌倉へ復帰できたのだと。
周信からすれば、現世利益の祈祷など、うさん臭さ以外何も感じない。
けれど、能憲の快癒が先代以来の信心のため、とすれば、それも法力の一種といえぬこともない。
周信は頼印への警戒を一人胸の中に秘めた。
だが、能憲の快癒は思わぬ方向へと転ぶ。
ある朝、御所に呼び出された周信は、主君の満面の笑みに迎えられた。
「良かった。これで上杉の管領職を慰留できるな」
八月になっても、幕府から能憲の辞職願に対する返事は届いていなかった。
周信は主の笑顔の理由に気付いた。
氏満が幕府へ裏から手を回して返事を遅らせるか、辞職願そのものを握りつぶさせるかしたのである。
能憲への執着心と幕府への裏工作。
氏満の精神面の偏りと権力の濫用。
その不均衡さは、周信に深い懸念を覚えさせた。
「上杉殿は永の重責から解放されるということで、病が軽くなったのです。今またもとの職に戻せば、病が重くなることは必定です」
しかし、氏満は周信の説得に耳を貸さなかった。逆に周信を使者として能憲の邸へ向かわせ、復職の命を伝えさせたのである。
周信は苦渋の表情で能憲に告げた。
「無理は承知で申し上げます。こうまで府君に求められているのですから復職をお受けしたらいかがでしょう。私からも職務の軽減をお願い申し上げます故」
我を通そうとする氏満に病人の方が折れ、能憲はその月のうちに復職した。
さらに、
「聞いたよ。上杉の快癒は新宮別当の祈祷のおかげなのだと」
主君の口から、あの男の名が出て、周信はどきりとした。
「和尚は上杉に祈祷をしなかったのか? 知古だというのに」
「……私には、現世利益のための法力は持ち合わせておりませんから」
頼印への嫉妬や皮肉に聞こえぬよう、細心の注意を払って答えた。
「そうか。義堂和尚は、この鎌倉では第一の僧だ。人格、教養、求道心、それは誰も認めるところだけれど。法力については別当に学ぶといいな」
氏満に悪意はない。
「・・・・・・」
だが、周信は腹立だしさを抑えるために、多大な努力を必要とした。
「どうかしたか?」
「・・・・・・いえ、何も」
そして、周信の不安は一つ一つ現実のものとなる。
同年十二月、凶夢を見た氏満は頼印に祓えを依頼する。
そこでまた頼印は言葉巧みに公方へ近付き、己れの法力を認めさせるのであった。
一年余り後には、鎌倉公方氏満の護持僧となる。この鎌倉で最も霊力の高い僧侶として、地位を保証され、さらに彼は鎌倉の有力寺院の一つ遍照院の住職に任じられたのである。
「遍照院を大切にし過ぎだと怒っているのか」
頼印への偏重を気遣うように、氏満は周信へ話しかけるが、義堂は、
「いいえ、公方さまは公方さまのなさりたいことをなされればよいのです」
師の返事とも言えぬ返事に、
「やはり怒っているな。けれど私にとって、義堂和尚は鎌倉一、いや日本一尊敬する僧なのだよ。わかってくれているとは思うが」
薄く笑う余裕。
周信もまた気付いていた。
自分を日本一尊敬すると言いながら、氏満の心の中では、己れの隣に頼印が並んでいることを。
この年(一三七八)の四月、上杉能憲が逝去した。復職後二年足らず。
やはり、管領職の重責が祟ったのだろうか。
周信が訃報を受けた場所は、湯治のため滞在していた熱海であった。彼は親友の死に、急ぎ鎌倉へ帰した。
能憲の家督を継いだ弟憲方は、彼の帰倉を待って葬儀を開始した。
荼毘に付された遺骨は報恩院の客殿に奉じられ、氏満も弔いに参じた。
先の辞職騒動のころとは違い、粛々と焼香を済ませる。
粛々と?
いや、氏満の瞳には一片の悲しみすら映ってはいなかった。
このときすでに、彼の胸には上杉一族への不信が芽生えていたからだ。
氏満の寝所は明かり障子越しに、風に揺れる南天の葉が影をつくっていた。
それを熱っぽい頭でぼんやりと見ている自分に気付く。
――葉の新緑まで映りそうだ。
成人してからも体調を崩すことの多かった氏満は、周信の熱海滞在中、病で寝付き、数日振りに意識を取り戻した。
静かだった。
首だけ動かして周囲を見る。
寝所には少年の近習が一人侍るばかりで、他に誰もいなかった。
以前は、『公方さま御病気』ともなれば、上杉らが交替で枕頭に侍っていたものだが。
――さすがに子どものころとは違い、上杉たちもそう大騒ぎをせぬものか。
何しろ、子どもはすぐに命を落とす。近習たちの気遣いは如何ばかりか。
その点、今年二十歳の氏満は先年妻を得、早々に嫡子を得た。
――病気といえど大事に至らぬと、放っておかれたか。
氏満はそう思うことにした。
ただ、広い寝所に少年と二人きりとなれば、心寂しくもある。
「障子を開けよ」
「風がお身体にさわりませんか」
「かまうな。予が命じているのだ」
近習は一礼すると氏満の言い付けに従った。
初夏の風が日の光とともに部屋の中に流れ込む。
寒いとも暖かいともつかぬ、ただ新鮮な空気が肺を満たす。
遠くから人々の笑い声が聞こえた。
その中に嬰児の泣き声が混ざる。
今年生まれた氏満の嫡子とその取り巻きたちであった。
彼らの中に、本来氏満の枕頭にあってしかるべき上杉らが連なっていることは想像に難くない。
主役の座を奪われたような不快さを覚えたが、相手は自分の息子である。
――埒もない。我が子に嫉妬してどうする。
そう思い直した。
夜、氏満は再び高熱にうなされていた。
――やはり、昼間、風にあたり過ぎたか。
反省しつつも楽観していた。
一度回復にむかった体である。またすぐに回復すると。
だが、氏満の体は日に日に弱まる一方であった。
熱におかされ、意識は途切れがちとなった。
永の病床で筋肉は衰え、寝返りを打つこともままならない。食べものはおろか、水を飲み下すのもやっとである。
――これは・・・・・・
氏満は呼び覚まされる。
幼いころの、死への恐怖。
――上杉、上杉はどこだ。
声にならぬ声で、彼らを探す。
――殿、私たちはここにおりますよ。
そう期待して、うっすらと開けた眼に彼らの姿はなく、ただ、うそ寒い寝所が拡がるばかりであった。
その、氏満の耳に落ちる。
遠く、笑い声。我が子の声と、ともに。
――上杉、お前たちは・・・・・・
氏満が全快したのは、能憲が亡くなる数日前であった。
能憲の葬儀が一段落し、
「ご快癒、何よりでございます」
久方ぶりに講義に訪れた周信を前に、
「そなたこそ元気そうで何よりだ。熱海の湯はよほど効き目がよいとみえる。その間、私は病で伏せっていたというに」
氏満の口から皮肉がこぼれる。
「まぁ、私のほうも遍照院の祈祷のおかげで、すっかりよくなったが」
彼が不快に思うことを敢えて口にした。
案の定、周信は口元をぐっと引き結び、感情をこらえるような仕草を見せた。
「申し訳ありませぬ。ご病気の際にお見舞い申し上げることもできず。鎌倉におりましたのなら、すぐさま、公方さまのご病身に侍り・・・・・・」
「それはわかっている」
氏満の不調時、彼が熱海に逗留していたことを責めるのは筋違いである。それを十分に理解してなお、周信に当たりたい気持ちを抑えることができなかった。
ふと、手元の史籍に目を落とした。
「今日の講義は、吾妻鏡か」
源頼朝が開いた鎌倉幕府の史書にして、編纂は北条氏の手による。
「頼朝公は鎌倉殿と呼ばれていたが、私も同じだ。将軍家の血は三代で絶えたが、同じ源氏の我らはどうであろう。私を何代目と数える?」
上目使いで周信を見た。
「恐れ多くも、公方さまに仇なすものはこの関東に一人もおりませぬ」
「そうであろうか・・・・・・」
氏満は言い淀んだ。
「似ていると思わぬか。執権北条氏と管領上杉氏、ともに主君の外戚にあって実権を握るところなど、そっくりではないか」
とでも言い出さぬかと周信は胆の冷える思いでいた。
だが、氏満はそんな師の心の中をも読み、それ以上何も語らなかった。
きっかけともいえぬきっかけ、だが、鋭敏な彼に見過ごすことはできなかった。
あの晩、氏満の世界は逆転した。
善悪、正邪、利害、虚実・・・・・・
反転した目で見れば、上杉氏の為したことは、決して『公方さまの御為』ばかりではなかったと知った。
師の顔から視線を外すようにして庭園に顔を向ける。
牡丹や薔薇が色とりどりに花を咲かせていたが、彼の目には映ってなかった。
氏満が眺めていた光景―――
彼が鎌倉の主となって間もなく、上杉氏との絆を強めることとなった武州平一揆の全容である。
貞治七年(一三六八)正月、春王丸の家督相続の拝賀を理由に、憲顕が上洛したのは、武州平氏に乱を起こさせる契機をつくるためだった。あの哲夫たる憲顕が、留守の隙をつかれて挙兵を許すなどあり得ない。全ては彼の筋書きだったのだ。
旗揚げ後、すぐに東帰しなかった憲顕に、河越氏らはさぞ焦りを覚えただろう。そして気付く。
幕府への工作。
己れらは金王丸から奸臣たる上杉を取り除こうと挙兵したはずが、このままでは自分たちの方が、叛徒として幕府から成敗される存在になると。
関東における武州平一揆対上杉氏の戦いであれば、こちらにも勝算はある。しかし、幕府、すなわち日本中の武将たちを敵にまわすとなれば、勝利の見込みはない。
だが、ここで、一揆にとって好機とも呼べる巡り合わせが訪れる。
当時、京の幕府は、将軍家の死に伴う管領の入れ替わり、さらに病患の流行や転変地妖による改元等で、関東の諸問題にまで手が廻らぬ状態にあった。
憲顕が三月末まで、ぐずぐずと京に留まっていたのは幕府工作が思うように実らなかったためだ。
関東のことは関東で始末すべし。
こう諭されて帰郷したのである。
憲顕は帰東後、直ちに関東中の武将たちへ軍勢を催促した。
逆賊武州平一揆を成敗すべしと。
彼らは重たげに腰を上げた。それは状況次第でいつでも武州平氏にも転べるようにと。
金王丸が見た鎌倉方の大軍勢。
あの中で、本気で上杉のために戦おうとした武将はどれほどいただろうか。
年老いた者であれば擬視感を覚えただろう。
数十年前の友争いに似て。
それは、関東における観応の擾乱――
京での足利尊氏・直義兄弟の内紛により、鎌倉の武将たちも真っ二つに別れた。
互いに相手の非をあげつらい、相手を成敗すると言いつのる。
そのとき正義はどちらにある?
正義を標榜するには大義名分たる主君を奉じなければならなかった。
少年管領の基氏を。
尊氏の次男にして直義の養嫡子であった彼は、高氏と上杉氏の間で奪い合いとなった。結局、基氏は上杉氏の手に帰り、彼らに大義名分をもたらせるのだ。
そして、先代の過去を再現するかのように。
河越合戦の直前、大蔵の御所近くで慌ただしい動きがあったのは、平一揆に与同した者が金王丸を拉致しようとしたためである。
そして内通者の企てが失敗してようやく、関東の諸侯らは上杉のもとへ参じたのだ。
けれど、平一揆の手には氏満の弟、福王丸があった。基氏は死に臨んで、信頼する彼らに幼子の養育を託していたのだ。
廂番(親衛隊)として南朝の残党から鎌倉と主君たる基氏を守り続けた実績の上に。
平一揆は、諸侯へ問うた。
――武家方の武将として、この地を守ってきたのはどちらだ!
――先代から真に頼られていたのは、我らの方ではないか!
しかし、答えはなかった。
公方奪取に失敗した時点で、彼らの趨勢は決まっていた。
一揆は、領袖の河越氏の館へ籠もるが、万一のことを考え、高坂氏は福王丸を奉じ、自城間近にある岩殿山に別れた。岩殿山はそれより五年前、基氏が高坂氏を恃み、陣をとった因縁ある城砦だ。
周信は、主君の胸の殺風景を想像しえて、冷え冷えとしたものを覚えた。
高坂一族。
四散した武州平氏のなかで唯一滅亡を選んだ一族。
彼らを固執させたのは何だったのだろう。
「公方さま、上杉の方々も平一揆との戦いでは悩み、苦しまれたのですよ。今、あなたさまの管領殿を見る目は厳しすぎるのではないでしょうか。あの戦いのあと、良心の呵責に耐えかね、己れの悔恨を私へ打ち明けに来た方もいたのです。何となれば、昨日までの同僚と刃を交えたのですから」
周信こそ、平一揆の乱では合戦を回避しようと奔走した人物であったが。
「悔悟など、後からならいくらでも言える」
岩殿山での決戦。
上杉氏は迷わなかった。
小山義政を遣って完膚無きまでに高坂氏を打ちのめした。
義政へは恩賞をちらつかせたか。日和る大勢に頼らず。確実な方法をと。
福王丸が彼らの手中にあるのを知りながら。
――こちらに金王さまお一人いればよろしい。
とでも云うかのように。
もし、高坂氏の手にあったのが福王丸でなく金王丸だったら?
兄弟の、その生まれる順序が逆だったら?
自分はこの世にいなかっただろう。
そして、今また。
病弱で扱いづらい己れより、上杉氏は我が息子を選ぼうとしている。
積極的に氏満の死を望む、というわけではないが、彼らが本気になれば、公方という地位さえ揺らぎかねない。
理由は何でも良い。
公方さま病身により出家、隠棲とでも。




