うちの『かぞく』
家族紹介……なのかな?
俺は二人と別れそのまま帰宅した。
玄関の戸を開けて、やや小声で言う。
「ただいま」
「おかえりなさい」
母がすぐに言葉を返した。
カレーのにおいがするので、キッチンにいるのは間違いない。
母はハーブのタイミングだのなんだのと、全く持ってよくわからない理由でカレーの時は鍋に付きっ切りだ。スパイスの調合はわざわざ自分で行い、日夜忙しい合間を縫って、その分量、割合などの細かい配合に研究を重ねるなど、妙にカレーにこだわりを見せる。
話によると俺の父と付き合い始めてからそうなったらしい。
でも確か、奴はカレー嫌いだったような記憶がある。
……まぁ、そのところは疑問に思わないことにしておこう。……なんというか、母親って言うのは、どこもそうなのだろうか。
俺は鞄は美術室に忘れたことを何気なく思い出しつつ、それをなかったことにして手洗いとうがいを済ましすことにした。
……ついでに歯も磨こうっと。
ふと、洗面所に行く直前で、誰かに声をかけられそうな気がし、視線を移す。
リビングから出てきたのは、美弦。
でも、美弦はこの時間帯は夕食まで自分の部屋にいるはず。
……ということは。
美弦は俺をにらみつけるようにして、口を開く。
「……また、怪我してきたんだ」
前半部分を力強く、つまり「また」の部分を強調して、美弦は言った。
もしかして、ずっと、俺を待ってた?
いや、そんな馬鹿な。そんな面倒なことをする意味が不明だ。……だけど、なんだろう、この雰囲気。
とりあえず、当たり障りないように。
「うん、まぁね」
と返しておく。
何故か、沈黙。
え、だからなに? この空気?
「……また、喧嘩ってこと?」
美弦は重苦しく呟くようにして、そう言った。
なるべく明るく、軽い調子で話す。
「そういうこと。まぁ、たいした怪我じゃないから、心配しないで」
「……心配するな?」
美弦は薄っすら笑みを浮かべる。
え……なんですか、そのリアクション。
「ふっ……」
ふ?
ふっ、ってなに?
ふっ、って……夫? 麩? 婦? それとも腐?
どうせそれだったら「浮」が一番自分らしいな、と思った瞬間だった。
「ざっけんな!」
いきなり大声で怒鳴りつける美弦。
かなり、長い溜めだった。
「あんたね。いい加減にしなさいよ? じぶんでそんなことありえないってわかってるでしょ? 胸に手を当てて考えなさい、八賀谷コウが二日連続で、自分が怪我をするようないざこざに巻き込まれると思う?」
「って言われても、実際に起きてるし」
「しかも、その理由が喧嘩?」
「そういうのって重なるもんだよ。人間関係のこじれってもんはさ」
「は? 人間関係のこじれ? そんなもの、コウにあるわけないでしょ? こじれるようなマトモな人間関係なんてものが、人間関係を、人間社会を、人間の気持ちを、なめふかしてるような、アンタに、あるわけが、ない!」
うわ、わざわざ一言づつ区切って言われたよ!
って言うか、なめふかす……ってなに!
「コウに喧嘩できるほどの人間関係が構築出来るなら、月と太陽が同時に共存できるわ!」
しかも、結構ひどいこと言われてる気がする。
俺なんかしたか?
と、先ほどとは対照的に、美弦は今度は声のトーンを穏やかに、落ち着いた様子で話す。
「コウ、正直に言ってくれる?」
ああ、あれか。脅した後、優しくして、相手の情報を引き出すやり方? ……確か、刑事が犯人にする自白のさせ方だよな。
「私、コウのこと。怒ろう、叱ろうとか思ってるわけじゃないの。ただ嘘はつかないで欲しいの。ねぇ? わかるよね?」
でも、美弦、それ間違えてる。
俺、どっちも脅されてる気がするもん。
「ええ、まぁ」
「じゃあ、答えてね」
「はい」
「また、妙なことしてるんでしょ?」
「妙なこと?」
「そう、例えば……今話題の連続猟奇殺人事件とか?」
「なに言ってるんだよ、美弦。現実は漫画でもドラマでもないんだよ。ただの平凡な高校生が殺人事件に関わることなんてありえないよ」
「確かに普通に生きてたらありえないよね」
俺の言葉に美弦は深く何度も頷く。
「そうだよ、世界には常識ってものがあるんだからさ」
俺は美弦ににこやかに笑いかけた。つられるようにして、美弦もその表情を崩す。
だが、美弦の目は笑っていない。
「……別に事件じゃなくてもいいんだけど。普通じゃない妙なことなら、異常な事件なら、それは本当に何でもいいから。退屈を紛らわしてくれるなら何でも。そういうものに」
コウは飢えてるでしょう、と美弦は言った。
俺は美弦に笑いかける。
でも、美弦の目は笑っていない。
だけど、もうひとつ。
その目に映っている人物。つまりは俺の目も笑っていない。
それは笑えないし、冗句にも冗談にもならない。
俺が退屈凌ぎに飢えているだって?
「美弦」
スッと、美弦の顔が曇る。
「頭がおかしくなったか? そんなことがあるわけない。それでこの話は終わりだ」
「……あくまで喧嘩だって言うの」
「当たり前だ。それ以外にありえるか?」
「コウがそんなこと……」
美弦の言葉を俺は遮る。
「たかだか二日連続喧嘩をして帰ってきたくらいでなにを言うかと思えば。大騒ぎしたいならすればいい、それは美弦の勝手だ。だけど、これ以上、俺を疲れさせないでくれるか」
「……っ! なら、なんで喧嘩したのか言ってみなさいよ!」
「だからね、美弦。言われないとわからないみたいだから言うけどね。僕が誰とどうしようが、なにをしようが」
『君には一切、関係ない』
そう言った瞬間、空気が凍った。
それは禁句。
完璧な禁句。
それを聞いた美弦は。
絶対に、自分を保てない。
凍りついた美弦の顔は震え……。
思考が凍る。その言葉への拒絶反応と、現実を受け止めるための時間を要するために。
俺の発言が、頭の芯に届くまであと3秒。
あと2秒。
1秒。
美弦の顔が一気に歪み。
そして……。
ボフッ。
俺の後頭部が殴られた。
「コウくん。こんな所でなにしてるんです」
俺の後ろから殴り、声をかけてきた人物。
「美弦ちゃんをいじめたら駄目じゃないですか。仮にも、僕の娘なんですからね」
どこからどう見ても、一見して人畜無害な風貌の眼鏡を掛けた平々凡々なサラリーマン。
百見して人のいい世間知らずそうな、鴨にネギしょった田舎野郎。
しかし、一聞すればド変態、百聞してド変態でしかないこの人物は結局の所。
「ただいま、愛しの我が娘、美弦ちゃん。それと、生意気そうなクソガキ♪」
腐れ、俺の父親だった。
*
「あの、もしかして、今日も……いえ、今日はカレーですか?」
「ええ、そうよ。あれ? もしかして嫌いだった?」
「いえ、まさか。僕に嫌いなものなんてありません」
「そう? ならいいけど」
これと同じようなやりとりが先週にも行われていたような気がするのは、気のせいとしておいておこう。
とりあえず今日が金曜日であり、母親がカレーを作っている以上、なんで父親が帰ってくることを俺は失念していたのか。
ああ、まあ、理由はわかる。
ふと、目の前にいる両親を見る。
「あ、カレーは少なめにお願いします」
「え? ああ、カレー大盛ね」
「え!? ……ああ、カレー大盛でお願いしま……す」
どんぶりに注がれたカレーを父は受け取った。ライスが注がれている場面は、見逃したのかなんなのか見ることはなかった。
心なしか、額から汗が吹き出ているが、あくまでその表情は輝かしい笑顔。だが、カレーを食べる前から辛さに参っているかのようにも見える。
美弦はひたすら沈黙しているので、今この場で話しているのは両親だけなわけだが、なんだか、交わされているのは白々しい、を通り越して痛々しい会話。
……なんていうか、失念していたと言うより。
気付きたくなかった、んだろうな。俺。
「ところでね、コウくん」
「なんですか、お父さん」
「はは……お父さんだなんて馴れ馴れしいな。……先ほどの話ですけどね」
「…………」
「もし、周囲の心配してくれている人に、これ以上迷惑をかけて、気を遣えず、さらにまだ自らを省みることが出来ないのなら。死ぬほど痛い目みることになりますよ」
「いきなりですね。そもそも途中から来て、話の内容わかっているんですか?」
「なに言ってるんです? 僕は最初からいましたよ。全部聞いてました」
……そんなわけないだろう。
それなら、美弦が気付くはず……ってそんな常識が通用するような人間でもない。
もしかしたら、玄関の外から立ち聞きしていたのかもしれない。実際に試してみて、俺の耳で聞こえるかどうかは別にして。
「立ち聞き……ですか。悪趣味ですね」
「それはいいとして」
よくねーよ。
「問題はですね。その格好はなんですか? 無様で見苦しい、その姿は?」
「……これは」
そんなのはわかってる。無様に転げまわり殺されかけ、助けようとして助けられた立ち回り。気がつけばぼろぼろだ。
「随分と気が抜けているみたいですね。……あまり調子に乗るのはやめなさい」
「……貴方だったら、やめろと言われてやめますか? お父さん」
「やめませんね。ですが、僕が怪我をして帰ってきたことがありますか?」
「……ないです」
一度も、だ。うちの父親が出血ているところなんて見たことない。それどころか、病気のだったこと、いやそれ以前に調子の悪そうな姿を見たことすらない。
「僕がコウくんの前で怪我をしたことは?」
「それも、ないです」
「きみが僕に自分の実力を示せたことは?」
「……もちろん、ないです」
「調子に乗りたいなら力を付けろ。そのための力です」
高慢な物言い。
はるか高みに自分を置いた視点。
誰もこの会話に口を挟みはしない。
今ここに参加出来るのは、俺と父親だけだ。
「せねばならない理由がある。なんだってそうでしょう、誰だってそうでしょう。ですが、きみには実力もなければ、運もなく、経験もなく、才能もなく、覚悟もなく、結果もない。全てが問題外だ。その上で、なにを言う資格がある?」
父親は俺に力を示す、示し続けている。絶対的なその実力を。
だからこそ、俺は情けないことに逆らえない。
「したければすればいい。しかしね、コウくん。僕の言う調子に乗るなとは、お前はでかい口を利くな、ということです。今のお前は、誰かに心配をされていることで、それに甘えているクソガキだ」
「……それでも、俺は」
「言いたいことはわかります。しかし、きみの態度はあまりに都合がいい」
ずけずけとモノを言う父親だが、それはすべて事実だ。
親と子と言う関係以前に、強者と弱者としての差がある。
「力は示すものであり、権利は勝ち取るものです。僕の君に要求することはひとつです。強くあれ、と」
あくまで、頼りなさそうな騙されそうなその顔で、強者の理論を展開させる父。
弱くあることは罪である、そう父は言う。
「強者は全てを許される、とは言いません。そもそも、強者と弱者、勝者と敗者、この二つにはたいした差も違いもありません。
弱者には弱さという繋がりと、恐怖と怯えによる攻撃力があります。また、勝者が世にて栄えるわけでもありません。勝ったからこそ、駆逐されるなんてありがちな話です。
一方、敗者は敗北を知っているというタフさがあります、無敗は敗北を知らないと言う無知の象徴にしかなりません。しかしですよ?」
父の手にはスプーン。それをくるくると回す。
「君は弱さに甘え、敗北に慣れ、誇りを失い、娯楽と休息、その合間の惰性の中で生きている。なにをいじけているんです? 自分の境遇にですか、環境にですか? ちゃんちゃらおかしいですよ、コウくん。
他人と比べるのも結構。己を知る近道です。しかし、他人のせいにするくらいなら、闘え。全てに刃向え。そして、潰されろ。君のように嘆いているよりマシです」
全く手元をみずに、スプーンを弄ぶ父。
弱いことが罪なのではなく、弱くあることから脱却しないことが罪で悪なのだ。
それは強いからこそ言える言葉だった。一切の甘えを許さない生き方。
「嘆くな、己の運命など嘆くものではない。それが強者の生き方なんですよ?」
そのスプーンを親指ではじき、それが宙に舞う。
俺はそれをアホ面で眺めた。
「……誰でしたっけ? それ」
「また忘れたんですか? まぁ、憶えている方が不思議ですね。ええ、その辺も含めまして」
父はそのスプーンをキャッチし、それを俺のほうへと向けた。
「きちんと気合を入れなおしてあげますよ、コウくん」
「待って!」
そこで、なんと美弦が声を上げる。
「今、コウは怪我をしてるし、その……そういうことで解決するのは」
「ああ、美弦ちゃん。違いますよ、お仕置きとか、説教の代わりとかではないんです。そんなことは無駄ですから。殴って治せる能力があるなら、殴られる前に治そうとするでしょう? そうではなく、コウには必要なんですよ。怪我に関しては大丈夫なようにします」
「……でも」
「そうそう見慣れないでしょうが、これが僕たちのルールですから」
そう言われて、美弦は何かを言いたそうにするが、母の方の様子を一瞬伺い、やめた。
顔色を伺われた当人、つまり我が家の母親は自分の仕事ではないと言うように、黙してカレーライスを食べている。自分がなにを言って無駄だと美弦は悟ったのだろう、どこか悲しそうだった。
そんな美弦を見て、父は穏やかに微笑む。
「美弦ちゃんが心優しい娘でとても嬉しいですよ。ねぇ、コウくん」
だから、調子に乗るんですよね? と父の目はそう言っていた。
今日はカレー抜くか。吐く前に。
って言うか、口の中に香辛料なんて入れたら死ぬほど痛いし。
と、父親は母の方をちらと見る。
「もちろん、気合を入れるのはカレーを食べてから。ですが」
……その結果は誰の誰に対する嫌がらせだ、父よ?
めったに活躍せず、登場しない。そんな予定の父親登場です。




