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第五話 「身につけていたもの」

夕方から雨が降っていた。窓の外が暗くなるのが早くて時計を見たらまだ6時前だ。買い物から帰って袋を部屋の隅に並べてから、二人とも手持ち無沙汰になっている。テレビをつけようとしてやめた。知らない人がいる部屋でテレビをつけると沈黙のほうが目立つ気がする。冷蔵庫を開けたら卵が2つとしなびかけたレタスと期限の切れた麺つゆしか入っていなかった。一人分ならどうにでもなる。ただ今日は頭一つ分背の高い人がもう一人いて、しかもその人は朝から水を一杯飲んだきりだ。


「あの、ごはん、どうしましょう」


「私は、結構です」


「結構って」


「食べずとも、しばらくは平気ですので」


 平気なわけがない。昨日の夜からこの人が口にしたのは朝の水道水だけで、そのあいだに駅前まで往復して試着を繰り返して荷物を全部持って帰ってきている。それでも遠慮する顔をしているので、私は財布を持って立ち上がった。放っておくと本当にそのまま朝を迎える気がした。自分の食費は削るくせに人のぶんとなると財布の紐が緩む。損な性分だと自分でも思う。


「コンビニ、行きましょう」


「こんびに」


「なんでも売ってる店です。すぐそこなので」


  ◇


 雨は上がっていて道だけがまだ濡れている。街灯の光がアスファルトに伸びてその上を歩いた。アーサーはやっぱり車道側にいて信号のたびにさりげなく入れ替わる。もう何も言わないことにした。言ったところで理屈を用意して押し切ってくるに決まっている。


 コンビニの明かりは遠くからでも見えた。自動ドアが開いて店内の光とあの音楽と揚げ物の匂いが一度に来る。アーサーは入り口で足を止めてそのまま動かなくなった。


「どうしました」


「……明るい」


「そうですね」


「これが、夜通し」


「はい。24時間やってます」


 アーサーは天井を見上げてそれからレジのほうを見た。夜のシフトに入っているのは若い男の子で、品出しをしながらこちらをちらりと見てまた棚に戻る。慣れた手つきで缶コーヒーを前へ詰めていた。


「あの者は」


「店員さんです」


「何時まで」


「朝までじゃないですかね。夜勤なので」


 アーサーはしばらくその子を見ていた。


「休みは、取れているのだろうか」


「……え」


「夜通し起きて朝に帰る。それを幾日も続けるのは体に障ります」


 私は返す言葉が見つからなかった。三年間この店に何百回と入って、レジの向こうの人が何時に帰るのかを考えたことが一度もない。いる、というだけの人だと思っていた。それをこの人は入って30秒で心配している。世話をされる側にいるはずなのに、勝手に誰かの心配をはじめる人だ。


  ◇


 弁当の棚の前で私は迷った。380円ののり弁と580円の唐揚げ弁当が並んでいる。いつもならのり弁だ。考えるまでもなくのり弁だった。でも今日は二人分になる。結局唐揚げ弁当を2つ取って、取ってから自分の手を少し見た。1160円。私の昼食の3日分を2秒で決めている。自分のものを買うときは値札の前で30分固まるのに、他人のためだとどうしてこんなに簡単なんだろう。


「これでいいですか」


「はい」


 それだけ言って、アーサーは私の手元を見ていた。私が選ぶのを眺めているのが楽しいらしい。


 レジへ向かう途中に冷蔵のケースがある。プリンが並んでいた。ガラスの向こうに茶色いカラメルの層が見えて、上に白いクリームが乗っている。瓶に入っているやつだ。値段は400円。


 私はそれを3秒見た。手に取って少しだけ重さを確かめて、それから棚に戻した。この店に来るたび、あの列の前で3秒止まって戻す。毎回そうしている。380円の弁当が主食の人間がそれより高いデザートを買うのは、順番として間違っている気がする。理屈になっていないのは分かっている。それでも指が勝手に戻す。


 戻してレジへ歩いた。


  ◇


 部屋に帰ってコンビニの袋を台所に置いた。振り返るとアーサーが玄関のところで立ったままだった。靴を脱いで揃えて、それから動かない。


「どうかしました?」


「……見ていただきたいものがあります」


 部屋の真ん中でアーサーは上衣の裾に手を入れた。裏地の縫い目に指をかけてそのまま横へ引く。糸の切れる音がしなかった。もともとそこが開くようにできていたのだと後で分かった。中から革の包みが出てきた。平たくて思っていたより大きい。両手で持つ大きさだ。あれがずっと上衣の裏に入っていたのに、私は昨日から今日までまったく気づいていなかった。


 アーサーはそれを机の上で広げた。


 最初に見えたのは金だった。延べ棒だ。厚みのある四角い塊が4本並んでいて表面に刻印が入っている。光の当たり方で文字が浮いて見えた。その隣に革の小袋があって、口を開けると中に金貨が詰まっていた。数える気になれない量だ。もう一つの袋には石が入っていた。磨いていないものと磨いてあるものが混ざっている。青いのと赤いのと透明なのと。一つ手に取ってみたら思ったより重かった。


 私はそれを机に戻した。戻すときに手が少し震えた。


「……これ」


「私の物です」


「いや、そうじゃなくて」


 うまく言葉にならなかった。1Kの部屋の3000円の机の上だ。テレビとベッドと棚と観葉植物しかない部屋に、この部屋ごと買えるものが載っている。


「どこから」


「持ってきました」


「持ってきましたって」


「あちらから、こちらへ」


 当たり前のことのように言われた。


「なぜ、と聞いてもいいですか」


「はい」


 私は机の上のものを見ていた。


「なんで、こんなに」


 少しの間があった。


「貴方に、払わせたくなかったのです」


 私は顔を上げた。


 まだ2日だ。この人が来てから2日しか経っていない。そのあいだに私は服を立て替えて靴を立て替えて、さっきコンビニで1160円を出した。全部私が払った。アーサーは一度も財布を出していない。出せなかったからだ。そのことをずっと考えていたらしい。


「これ、いつから持ってたんですか」


「支度したのは、来る前です」


「……来る前」


「金は、どこでも金です。それは知っておりましたので」


 その言い方が少しだけ引っかかった。どこでも、と言った。まるでほかにも行ったことがあるような言い方だ。そのときの私はそこを流した。机の上のものが大きすぎたのだと思う。


「これ、どうするんですか」


「換えてください。この国のお金に」


「私が?」


「私では、できませんので」


 身分を証明するものがない人だ。銀行にも買取店にも一人では入れない。そしてアーサーはそれを分かったうえで、全部を机に出している。


「……いいんですか、私に預けて」


「はい」


 迷いがなかった。昨日会ったばかりの女に、この部屋が何十個も買える量のものを渡して二つ返事だ。


「私が持ち逃げしたら、どうするんですか」


「なさいません」


「なんで分かるんですか」


「知っていますので」


 その答え方に、私は何も言えなくなった。


  ◇


 その夜もまた眠れなかった。机の上に置きっぱなしにするわけにいかなくて押し入れの奥にしまったけれど、しまってからそれが余計に落ち着かない。押し入れの向こうに私の一生分の給料が入っている。布団の中で天井を見ながら明日の段取りを考えた。どこへ持っていくか。何を聞かれるか。何と答えるか。考えているうちに少しだけ楽しくなっている自分に気づいた。誰かに任されるのがいつぶりだったかを思い出そうとしてやめた。


  ◇


 日曜の朝、駅ビルに入っている大手の貴金属買取店へ行った。ガラス張りの明るい店構えに制服を着た店員さん。個人経営の古い店に延べ棒を持ち込む勇気はさすがになかった。こういうときの判断だけは事務員の勘がよく働く。


 カウンターで鞄から包みを出した瞬間、店内の空気が変わった。延べ棒が4本。金貨がひと束。店員さんの笑顔が一度固まって営業用に戻るまでに2秒かかった。奥から責任者らしい男の人が出てきて検査機に載せて、書類が出てまた別の機械に載せる。


 時間がかかったのは金貨のほうだった。鑑定士らしいおじさんがルーペを目に当てたまま動かなくなって、端末で何かを調べて分厚い資料を持ってきて、また金貨に戻る。


「……お客様、こちら、どちらで」


「祖母の、遺品で」


 嘘をついた。名前を一字くれた祖母に心の中で手を合わせる。ごめん、おばあちゃん。


「ブリテンの……相当古いものですよ、これ。5、6世紀ごろの。いや、それにしては状態が……復刻? いや、金の質が」


 おじさんはぶつぶつ言いながら何度も資料と金貨を見比べていた。やがて提示された合計の数字は桁が一つおかしかった。月給どころの話ではない。ゼロを数え直してもう一度数えて、それでも実感はどこにも湧かない。毎日数字を扱う仕事をしているのに、自分の話になった途端ただの模様に見えるから不思議だ。


「安い、と思います」


 隣でアーサーが言った。静かなのに確信のある声だった。責任者の人がアーサーの顔をしばらく見て奥に引っ込んで、戻ってきて金貨のほうに古銭プレミアという聞き慣れない言葉がついた。上がった。


「高額ですので、お支払いは銀行振込となります。明日にはご入金を」


「あの、少しだけ現金でもらえますか」


 20万だけ現金にしてもらった。


 振込先を書く欄で、私は少し迷った。いつもの口座は家賃と奨学金の引き落としがある。給料が入って月末には心細くなる、あの口座だ。そこにこのお金を混ぜたら、どれが誰のものか分からなくなる。私はもう一つの口座番号を書いた。前に作ったきりほとんど使っていないやつで、残高は千円ちょっとしかない。


 書きながら、隣を見た。アーサーはとんでもない数字を前にしても背筋一つ曲げず、静かに書類を眺めている。慣れの次元が私とは違う。


  ◇


 店を出て、私はその足で同じ駅ビルの雑貨屋に入った。


「アーサー、財布を買いましょう」


「さいふ」


「お金を入れて持ち歩くやつです。ないと不便なので」


 棚の前でアーサーは真剣だった。延べ棒を売るときより真剣だったと思う。一つひとつ手に取って革の質を確かめて縫い目を見て。店員さんがプレゼントですかと聞いてきて、いえ本人のですと答えたら少し不思議そうな顔をされた。


 選んだのは飾りのない黒い革の二つ折りだった。いちばん高いものでもいちばん安いものでもない。手に馴染むからというのが理由らしい。長く使うものを選ぶ目だった。会計は封筒から払った。アーサーのお金でアーサーの財布を買う。それが筋というものだと思う。


  ◇


 店の外のベンチで、私は買ったばかりの財布に封筒の中身を全部移した。真新しい二つ折りは1万円札でぱんぱんになった。


「はい。これ、アーサーの」


 差し出すとアーサーは両手で受け取った。


「自由に使ってください。アーサーのお金なんだから」


 アーサーはぱんぱんの財布をしばらく見下ろしていた。それから胸の内側のポケットにゆっくりとしまった。国宝でも預かったみたいな手つきだ。雑貨屋の3000円の財布にその扱いは大げさすぎる。


「……自分の財布というものを持つのは」


 アーサーは少しだけ言葉を探した。


「初めてかもしれない」


 王族はお金を持ち歩かないものなのか。それとも──続きを考えそうになってやめた。


 それから、私は財布の中からカードを一枚抜いて差し出した。


「これも」


「……これは」


「さっき振り込んでもらった口座のです。これで払えます」


 アーサーは受け取らなかった。


「私の名ではありません」


「私の名義ですけど、入ってるのは全部アーサーのお金です」


「しかし」


「いいんです。ほしいものがあったら、これで買ってください」


 私はそれをアーサーの手に押しつけた。


「いちいち私に言うの、嫌でしょう」


 アーサーの手が、そこで止まった。しばらく何も言わなかった。やがて両手でそれを受け取って、財布の同じところにしまった。


  ◇


 帰り道、昨日のコンビニの前でアーサーが足を止めた。


「少し、待っていてほしい」


 そう言って一人で店に入っていった。えっと思ったときには自動ドアが閉まっている。ガラス越しに背の高い姿が棚のあいだを歩いていくのが見えた。迷いはほとんどなかった。


 戻ってきたアーサーは小さな袋を提げていた。差し出される。中にプリンが入っていた。昨日、私が棚に戻したやつだ。


「……なんで」


「昨日は、買えなかったので」


 アーサーはまっすぐ前を見ていた。


「この財布の最初の買い物は、これがいいと思った」


 目の奥が痛くなった。400円のプリンだ。たったそれだけのことだ。今日動いたお金の中でいちばん小さい買い物だった。なのにどうしてこれがいちばん重いんだろう。


  ◇


 部屋に戻ってプリンを食べた。美味しかった。悔しいくらい美味しかった。400円の味は380円の弁当の隣にちゃんと存在していた。


 アーサーは向かいに正座して、私が食べるのをひどく満足そうに眺めている。


「……一口、食べます?」


 スプーンですくって差し出すとアーサーは一瞬固まって、それから居住まいを正した。プリンの一口にそんな姿勢はいらない。口に運んで目が少し見開かれた。


「……甘い」


「プリンなので」


「よいものですね」


「400円しますから」


 会話が噛み合っているのかいないのか分からなかった。分からないままなんだかおかしくて、二人で少し笑った。誰かと向かい合って笑いながら何かを食べるのはいつぶりだろう。思い出そうとしてやめた。思い出せない時間の長さを、今日は数えたくなかった。


「あの」


「はい」


「……すみません」


 アーサーがわずかに眉を寄せた。


「なぜ、謝るのですか」


 うまく言えなかった。服もお金のこともプリンも、こんなによくしてもらう理由が私のほうに見当たらない。誰かに何かをしてもらうたび、私はいつも返せるものが何もないことに気づいて、それで謝ってしまう。今までの人生ずっとそうだった。


 黙り込んだ私を見て、アーサーがふっと目元をゆるめた。


「貴方は、いつもそう言う」


 スプーンが止まった。


「……いつも?」


 アーサーは答えなかった。空になったプリンの容器を宝物みたいに丁寧に片付けながら、それきり何も言わなかった。

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