第四話 「はい、と言ってしまった」
結局、ほとんど眠れなかった。
何度か薄目を開けた。そのたびに部屋の隅には人の形をした影があって、そのたびに心臓が跳ねた。夢であってほしいのか、夢であってほしくないのか。自分でもよく分からないまま眠りの浅いところを行ったり来たりする夜だった。
3時ごろ、もう一度目を開けた。
アーサーは起きている。壁のほうを向いたまま何も見ていない目をしていた。彼は、なんだか遠くを見ているような目をしていた。
――ずっと、起きてるんだ。
そう思ったとき、怖さが少しだけ減った。それは見張られているというより、番をしてくれているような気がしたからかもしれない。都合のいい解釈だと自分でも思う。でも、追い出さなかったのは私で、『いいですよ』と打ったのも、誰でもない私だ。だったらこの夜の落とし前は、私がつけるしかない。
◇
目が覚めたのは8時前だった。
カーテンの隙間から、土曜日の光が差し込んでいる。
アーサーはまだいた。
姿勢がひとつも崩れていない。膝を軽く折って、壁を背にして、昨日の夜とまったく同じ形で座っている。彫像だって、もう少し楽な格好をすると思う。
夢じゃなかった。
私が身を起こしたのに気づくと、アーサーは床に手をついて、深く頭を下げた。
「おはようございます。……よく、お休みになれましたか」
「……おはようございます」
眠れたわけがない。でも、その聞き方があんまり真剣だったので、嘘をつきそうになった。
顔を洗って、コップに水を汲んで差し出した。アーサーは居住まいを正してから、両手で受け取った。まるで恭しく杯でも受けるみたいに、少しだけ掲げて、それから飲んだ。
ただの水道水に、そこまでしなくていいと思う。
でも、飲み方が妙にきれいで、喉が動くのをぼんやり眺めてしまう。自分がじろじろ見ていることに気づいて、慌てて目を逸らした。朝から何をやっているんだろう私は。
「あの」
「はい」
「昨日の話、覚えてます?」
「一言も、忘れておりません」
即答だった。
「私、まだ何も信じてないです」
「急ぎません」
アーサーは、静かにそう言った。
「時間なら、いくらでもあるので」
変な言い方だと思った。それでも責められるよりずっと呼吸がしやすかった。
「聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「泊まるところ、あるんですか」
「ありません」
「お金は」
わずかに、間があった。
「……少しなら」
少しなら、って。ずいぶん心もとない返事だった。
「……身分を証明するもの、とか」
「身分を、証明する」
繰り返された。言葉の意味が分からないんじゃない。そんなものが必要になる世界を知らないのだ。
だめだ。この人、コンビニにも入れない。
私は台所の前に立ったまま、少し考えた。考えるふりをした、というほうが正しい。答えなんて、とっくに出ていた。
剣を提げた長身の外国人が、あの格好で土曜の朝の住宅街をうろついていたら、どうなるかくらい想像がつく。通報、職務質問、所持品検査。剣。終わりだ。
放り出したら、この人は確実に困る。
それを思った時点で、私はもう決めていた。自分のことは何ひとつ決められないくせに、誰かが困るとなると、いつも先に体が動く。我ながら、つくづく損な作りをしていると思う。
「アーサーさん」
「アーサー、と」
「……アーサー」
呼んだ瞬間、彼の目元がふっとやわらいだ。呼んだだけでこの顔をされると、こちらの調子が狂う。
「服、買いに行きましょう」
言った途端、アーサーの顔が、ぱっと明るくなった。
ほんの一瞬で元の澄ました顔に戻ったけれど、見間違いじゃないと思う。あれは、遠足の前の子どもの顔だった。
◇
「その上着、脱いでください」
「わかりました」
素直に手をかけて、それから、ぴたりと止まった。
「……この留め具は、外からは見えないところにあります」
「え」
「人に着せてもらうものですので」
王族か、と思った。自称王族だった。
仕方なく、正面に立つ。
近い。息がかかりそうな距離で、襟元に手を伸ばした。留め具らしきものが見つからない。指先が布の上をさまよう。心臓の音が聞こえていませんように、と本気で祈った。
「もう少し下です」
「……ここ?」
「そう」
大きな手が、私の手の上に重なった。
びくっと跳ねた指を、アーサーが軽く押さえる。
「こう外します」
導かれるまま指を動かすと、留め具が、ぱち、と外れた。
「上手だ」
至近距離で、小さく言われた。
留め具を外しただけで褒めないでほしい。顔が熱い。息の仕方を忘れそうだった。
「……ありがとうございます」
なんで私がお礼を言ったんだろう。
上衣を脱いだアーサーは、白いシャツと細身のズボンだけになった。
困った。
脱いだほうが、目立つ。
◇
ブーツだけは、どうにもならなかった。
膝下まである革のブーツ。上は「変わった服の外国の人」で押し通せても、あれだけは無理がある。仕方なく、そのまま出た。
道に出て5分で、後悔した。
視線が刺さる。すれ違う人が振り返り、自転車の高校生が二度見して、信号待ちの奥さんが連れの肘をつつく。ベビーカーを押しているお母さんまで、こちらを見た。
今までの人生で、こんなに人に見られた日はない。私はずっと、視線の当たらない側で生きてきた。道の端に寄りたかった。できれば消えたかった。
なのに、隣を歩く本人はまるで気づいていない。
背筋を伸ばして、前だけを見て歩幅だけは私に合わせて歩いている。
そして、気づいた。いつのまにか、アーサーが車道側にいる。
信号で立ち止まって、歩き出して、角を曲がる。そのたびに、さりげなく大きな体が入れ替わって、私はいつも建物側にいた。偶然かと思ったけれど、三度続けば偶然じゃない。
「あの、みんな見てますけど」
「そうですか」
「気にならないんですか」
アーサーは少しのあいだ考えた。
「……見られることには、慣れています」
なんでもないことのように言って、それから、私の顔を覗き込んだ。
「貴方が居心地悪いのなら、少し離れて歩きますが」
「そういうことじゃないです」
そういうことじゃないなら何なのかは、自分でも分からなかった。
角の段差で、つま先が引っかかった。
あ、と思ったときには、もう腕を掴まれていた。よろけるより先に、支えられていた。
「怪我は」
「……ないです」
眉が、本気で曇っていた。段差ひとつで大げさな人だ。掴んだ腕を離すまでに、一拍あった。
速すぎませんか、とも思った。まるで、私がそこで躓くと知っていたみたいだった。
◇
駅前の量販店に着くと、アーサーは入り口のガラス戸に手を伸ばした。
押さえて、私を先に通すつもりだったらしい。戸は自動で開いた。アーサーは、開いていく戸と自分の手を見比べて、それから何事もなかったように手を下ろした。
笑いそうになったのを、必死でこらえた。
メンズの棚の前で、アーサーは足を止めた。
「値が違う」
「え?」
「この一枚と、そちらの一枚では。着る者が違うのでしょう」
「……誰でも着ますよ」
アーサーが、私を見た。
「誰でも?」
「はい。お金があれば、誰でも」
それきり黙って、棚を眺めていた。なんだか、すごく長い時間に思えた。
「よい国だ」
小さく、そう言った。
服の値段で国を褒める人を、初めて見た。うまく返せなくて、私はハンガーを数えるふりをした。
しばらくして、アーサーが一枚、濃い青のシャツを手に取った。
「これは、どうだろうか」
こちらに向けて広げてみせる。目が、ちょっと楽しそうだった。
「いいと思います」
「では、これも」
買い物の楽しみ方を覚えるのが、早すぎる。
◇
サイズ探しは、難航した。
肩は入るのに袖が足りない。丈が足りない。いちばん大きいものを引っ張り出して、ようやく形になった。結局選んだのは、無地の白いシャツと黒いシャツ、濃紺のジーンズに黒のスラックス。それから、彼が自分で選んだ濃い青が一枚。
「これ、着てみてください」
「ええ」
「そこじゃなくて、試着室で」
カーテンの向こうから出てきたアーサーは、白いシャツにジーンズを穿いていた。
それだけだった。それだけなのに、うっかり息を止めてしまった。
――ずるい。
量販店の3000円でこれなら、もう何を着ても同じだ。世の中の不公平を、こんな形で思い知ることになるとは思わなかった。
「いかがだろうか」
「……いいと思います」
「貴方が良いと思うものが、良い」
真顔でそう言ってから鏡をちらり、と見て袖口を少し直していた。
まんざらでもないらしい。
靴も買った。あのブーツで生活されたら困る。サイズを聞いても分からないと言うので、店の人に測ってもらったら28センチだった。棚のいちばん端にしかない大きさだ。
白いスニーカーを履いて、アーサーは自分の足元をしばらく見下ろしていた。
「軽い」
一歩、踏む。二歩目。三歩目は、ほとんど跳ねている。
本人は真顔のつもりらしいのが、余計におかしかった。昨日まで剣を提げていた人が、スニーカーで跳ねている。
店員さんが近づいてきたのは、そのときだった。
「サイズ、大丈夫でしたか? 背が高くていらっしゃるから」
「あ、はい、大丈夫でした」
「彼氏さん、モデルさんか何かですか?」
――彼氏さん。
訂正しなきゃいけない。違います。知り合いです。友達の。いや、友達でもない。じゃあ何。昨日スマホから出てきた自称王子です?
頭の中で3つくらい文章を作って、全部間に合わなかった。
「……はい」
言ってしまった。
店員さんは「素敵ですねえ」と笑って、レジのほうへ歩いていった。
今のは、訂正が面倒だっただけ。そう、それだけ。……誰に言い訳してるんだろう。
おそるおそる、隣をうかがった。
アーサーは、こちらを見ていた。
聞こえていなかった、なんてことはあり得ない距離で、こちらを見ていて――目が合った瞬間、ゆっくりと微笑まれた。
怒っていない。困ってもいない。ただ、嬉しそうだった。
訂正する機会は、その笑顔で完全に消滅した。
彼をよく見ると、耳が少しだけ赤かった。それを見つけてしまったせいで、私の顔まで熱くなった。おあいこだ、と思うことにした。
◇
レジで、財布を出した。
服が5着と、靴と、下着と、タオルと、歯ブラシと、男物のシャンプー。合計の数字は思ったより大きくて、一瞬だけ指が止まった。
止まったけれど、それだけだった。
自分のものを買うときは30分迷うくせに、他人のためだと、どうしてこんなに簡単なんだろう。
支払いを済ませて袋を持ち上げようとしたら、横から伸びてきた手に、全部さらわれた。
「え」
「荷は、私が」
「いや、半分持ちます」
「持たせません」
口調は騎士みたいに硬いのに、どこか得意げだった。
両手に量販店の紙袋を提げても、その立ち姿はまるで崩れなかった。むしろ紙袋のほうが、分不相応な持ち主に恐縮しているように見えた。
◇
帰り道は、行きよりゆっくり歩いた。
アーサーはやっぱり車道側で、荷物を全部持って、歩幅を私に合わせている。信号のたびに半歩前に出て、渡り終わると半歩下がる。誰に教わったわけでもないだろうに、体に染みついた動きだった。
こんなふうに歩いたことは、今までの人生で一度もなかった。
道の真ん中を、誰かに守られて歩く。それだけのことが、こんなに落ち着かなくて、こんなに――くすぐったい。
「アーサーって」
「はい」
「向こうでも、そうやって歩くんですか」
「そう、とは」
「荷物持って、車道側で、女の人に合わせて」
アーサーは少し考えた。
「淑女を送るときは、そうします」
「しゅくじょ」
「はい」
「……私、淑女じゃないですよ」
事務員です、と付け足そうとしたら、アーサーがこちらを見た。
「私が送っているのだから、貴方は淑女です」
理屈になっていない。なっていないのに、言い返せなかった。
顔が熱くなって、私は前を向いた。夕方の商店街は焼き鳥の匂いがした。自転車のベルが鳴って、どこまでもいつも通りで、いつも通りじゃないのは私の隣だけだ。
◇
部屋に着いて、アーサーは袋を全部、部屋の隅にきちんと並べた。
それから、私に向き直って、深く頭を下げた。
「本日は、貴方の休みを、私のために使わせてしまった」
「あ、いえ、必要なものだったので」
「詫びではありません」
アーサーは顔を上げた。
「礼を言いたかった。……嬉しかったので」
嬉しい自分に少し驚いた。
そんなまっすぐな言葉を、大の大人が真顔で言うのを、久しぶりに聞いた気がする。
「服を選んでいただいたのも、名を呼んでいただいたのも、隣を歩いていただいたのも。すべて、よい一日でした」
私は、袋の並んだ部屋の隅を見た。
白いシャツ。黒いシャツ。濃い青。ジーンズ。スニーカー。誰かのために選んだものが、私の部屋に並んでいる。
「……私も」
気づいたら、言っていた。
「楽しかったです。今日」
言ってから、自分で驚いた。
楽しかった、なんて。誰かに向かってそんな言葉を口にしたのは、いつぶりだろう。思い出せないくらい前だ。
アーサーは、何も言わなかった。
ただ、ひどく大切なものを見るみたいに、目を細めた。




