第三話 「その名を呼ぶ」
跪いたまま、その人は動かなかった。
言うだけ言って、それきり黙っている。私の返事を待っているのだと気づくまでにしばらくかかった。
考えるべきことは山ほどあった。警察を呼ぶのが正しい。でも、何て説明すればいいんだろう。スマホから王子様が出てきました、なんて通報したら保護されるのはたぶん私のほうだ。鍵をかけた部屋にどうやって入ったのか。腰の剣は本物なのか。銃刀法違反という単語が頭をよぎって、こんなときまで法律の心配をしている自分に呆れる。
考えは全部、頭を通り過ぎるだけで、どれも行動には繋がらなかった。
目の前で、大きな人が膝をついてたままだ。
人に頭を下げられた記憶が、私にはひとつもない。謝るのはいつも私のほうで、悪くないときも、とりあえず先に謝ってきた。そうしておけば、その場が丸く収まるからだ。頭を下げるのと下げられるのとでは、こんなに見える景色が違うのかと、場違いなことを思った。
金の刺繍が、照明の下で細かく光っている。この部屋にあっていいものじゃなかった。私の生活が全部入っている6畳に、物語の挿絵がそのまま落ちてきている。
心臓はまだうるさい。頭もまるで働いていない。それでも、微動だにしないつむじを見下ろしているうちに、肩からすこしずつ力が抜けていった。
「……あの、ペンドラゴン、さん」
「アーサー、と」
「え」
「『さん』も、いりません」
顔を上げた薄い青が、こちらを向いている。
「どうか、アーサーと。是非、そう呼んでいただきたい」
そんなことを頼む人に、会ったことがなかった。初対面の、歳の見当もつかない、どう見ても身分のありそうな外国の人を、呼び捨て。会社の部長ですら「部長」としか呼んだことのない私には、ほとんど無理難題だった。
「いや、あの、それはさすがに」
「無理を言っているのは承知している」
その人は眉を下げて、それから、また私を見た。
「それでも、貴方に呼ばれたい」
断る言葉が、どこを探しても出てこなかった。呼ばれたい、なんて言われたら、どう断ればいいんだろう。私は喉に引っかかったものを飲み込んで、蚊の鳴くような声で言った。
「……アーサー」
その瞬間、その人の顔が崩れた。
見開いた目。下がった眉。ゆるんだ口元。作り物みたいだった顔が、一息に人のものになる。
泣くのを我慢している人の、笑い方だった。
◇
「とりあえず、立ってください」
やっとそう言えたのは、たぶん1分くらい経ってからだった。その間ずっと、私は自分の右手を見ていた。他人の手に包まれた自分の手を、他人事みたいに眺めていた。
「立ってくださいってば。床、埃っぽいので」
埃っぽいので、って。王子様にかける言葉じゃない気がしたけれど、他の言い方を知らなかった。アーサーは素直に立った。
立つと、本当に大きい。照明のすぐ下に頭がある。この部屋が、この人ひとりで急に狭くなった。
「あの。剣」
「置きます」
迷いもしなかった。腰から鞘ごと外し、床に置いて、こちらへ滑らせてよこす。金具が床をこする低い音がして、私の足元で止まった。
拾えなかった。重そうだったし、そんな勇気もなかった。でも、この人が1秒も迷わなかったことは覚えておこうと思った。
「王子って、書いてましたよね」
「はい」
「本物ですか」
「はい」
迷いも照れもない返事だった。嘘をつく人の顔ではない、と思う。もっとも、嘘をつく人がどんな顔をするのか、私はよく知らないのだけど。
「国のこととか、いいんですか」
わずかに、間が空いた。
「今は、こちらのほうが大事です」
ずるい、と思った。何ひとつ説明していないのに、聞いたほうが黙るしかなくなる答え方だ。会社にもいる、話を終わらせるのがうまい人たち。でも、この人のは少し違う気がした。終わらせたいんじゃなくて、言えないのだ。根拠はないけれど、そんな気がした。
私は息を吸って、いちばん聞かなきゃいけないことを聞いた。
「なぜ、私に会いに来たんですか」
声が掠れた。
「光年とか、無茶をするとか、そこまでして。何か用があるってことですよね。私にできることなんて、たぶん何もないですけど」
言いながら、みじめになった。聞かれてもいないのに、勝手に自分を安売りしている。染みついた癖だ。安くしておけば、期待されない。期待されなければ、がっかりもされない。
アーサーは、すぐには答えなかった。
弱ったように視線を落として、それから、静かに首を振った。
「……今は、申し上げられません」
そんなの答えになっていない。思ったのに、口には出せなかった。
「ですが」
その目が、私を捉えた。
「私は、あなたを幸せにするためだけにここに来た。」
言葉が、変わった。
さっきまでの丁寧な言い方ではなかった。取り繕うのをやめた人の声だった。
部屋が静かになった。冷蔵庫の音だけがしている。
言われたことの意味が、頭に入ってこなかった。単語はひとつずつ分かるのに、並べられた途端、自分に向けられた言葉だとは思えなくなる。
今までの人生で、誰も私を幸せにしようとしたことがない。
嫌われていたわけじゃない。ひどいことをされたわけでもない。ただ、順番がいつも後ろだっただけだ。誰かの用事が済んでから、余った時間で私の話になる。誰かが選んだあとの、残ったほうが私に回ってくる。それが普通だと思っていたし、今も思っている。
だから、いちばん最初に置かれるということがどういうことなのか分からなかった。嬉しいより先に、怖かった。身に覚えのない振込を見つけたときみたいに、何かの間違いだとしか思えない。
「……なんで」
声が震えた。
「なんでそんなこと、言うんですか」
アーサーは答えず、ただ、困ったように少しだけ笑った。
◇
「では、私からも伺いたい」
アーサーが、姿勢を正した。
「貴方の名を、教えていただけないだろうか」
……え。
「知らないんですか」
「文字では見ました」
アプリに登録した名前のことだ。
「ですが、貴方の口から伺いたい」
変な人だ、と思った。名前くらい、画面に書いてある。読めるならそれでいいはずだ。呼ばれたいとか、口から伺いたいとか、この人はさっきからどうでもいいような部分にばかりこだわる。
でも、その視線は待っていた。急かさずに、逸らさずに、ただ待っていた。
「……沙羅です」
「沙羅」
繰り返された。
二度目は、もっとゆっくりだった。口の中で、確かめるみたいに。
「沙羅」
「は、はい」
「よい名だ」
アーサーは、そこでふっと目元をゆるめた。
名前を褒められたのは、生まれて初めてだった。
祖母からもらった、ありふれた名前だ。妹の名前は両親が何日もかけて考えたらしいけれど、私の名前は生まれる前から決まっていたと聞いている。画数も由来も、誰も気にしなかった名前。だから、いい名前だと思ったことは一度もなかった。
その夜、私はその二文字をたぶん自分の名前として初めて聞いた。
◇
「もう遅い。休んでください」
そう言われたのは、2時を過ぎた頃だった。
「……いや、無理です」
当然だ。知らない男の人と、鍵のかかった部屋で、ふたりきり。眠れるわけがない。
「もっともですね」
あっさり頷かれた。もっともだと思うなら少しは食い下がってほしい、と理不尽なことを考えた。
アーサーは立ち上がって、部屋の隅へ歩いていった。
窓側の隅だった。玄関との間には、座らなかった。壁を背にして床に下ろした長い体は、見るからに窮屈そうで、それでも膝を軽く折って、床に置かれた剣からいちばん遠い場所に収まった。
「見張ったりはしない」
顔を上げずに、アーサーが言った。
「ここで、朝が来るのを待たせてほしい」
私は何も返せなかった。
ベッドに入って、天井を見て、しばらくしてから気づいた。
――どいてくれたんだ。
玄関との間を空けたのは、私がいつでも逃げ出せるようにするためだ。剣から離れて座ったのも、たぶん同じ理由だ。この人は、私が怖がっていることに気づいている。気づいていて、責めもせず、何も言わずに、ただそこをどいた。
「……電気、消しますよ」
「どうぞ」
「消したら、そのままでいてくださいね。動かないでください」
「動きません」
短い返事だった。
誓いみたいな言い方だった。




