第二話「貴方にもう一度」
目の前で起きていることを頭が処理しきれずにいた。
スマホから伸びた白い光が床に落ちて、壁を這い上がり、天井まで届いている。その光の柱の中に人の形をした影がひとつ、立っていた。
ドッキリ番組。新手の詐欺。プロジェクションマッピング。知っている言葉を片っ端から並べてみたけれど、どれも当てはまらない。だいたい、私を騙して誰が得をするんだろう。貯金は奨学金の返済と実家への仕送りでほとんど残っていない。騙す側だってもう少し実入りのいい相手を選ぶはずだ。こんなときまで自分の値段を計算していることに、少しだけ嫌気がさした。
逃げるべきだと思う。悲鳴を上げるべきだとも思う。なのに膝が笑って、足が動かなかった。
その時、声がした。
「……ずいぶん、待たせてしまった」
男の人の声だった。
澄んでいて、優しくて、それなのに、どこか泣いているみたいな声。すぐ耳元で囁かれたようにも、うんと遠くから届いたようにも聞こえる、不思議な声だった。
――待たせて?
私は誰も待っていない。誰かを待ったことなんて生まれてから一度もない。待ち合わせはいつも先に着く側だし、実家では呼ばれるまで部屋にいる側だった。待つというのは、来る人がいる人のすることだ。
だからその一言は、宛先を間違えた手紙みたいに私の中で行き場をなくした。
光が、ゆっくりと引いていく。
まぶしいのに目を焼かない、変な光だった。影ができない。足元にも、机の脚の下にも、どこにもない。そして、知らない匂いがした。雨のあとの土と、青い草、それから蝋の燃える匂い。1Kのこの部屋にはどれひとつあるはずのない匂いだった。
光が薄れて、その人がそこにいた。
◇
背が高い。うちの天井の下では窮屈そうなくらいに。
深い青のマントが肩で留められていて、留め具は金色に光って細かい紋様が彫ってある。その下は白の上衣。襟から袖口にかけて金の糸が走っていて、刺繍だと気づくまでに少しかかった。糸が細すぎて光の加減で模様が動いて見えるのだ。式場のレンタル衣装とは比べるのも失礼なくらい、仕立てが違う。……なんで私は今、衣装の原価なんて考えているんだろう。
鎧は着ていない。武装もしていない。ただ、腰に提げた剣だけが本物だった。鞘にまで飾りが入っていて、柄頭に青い石が据えてある。
金の髪は、耳と襟に少しかかるくらい。動くたびに光を含んだところだけ白く抜けた。
油絵と同じだった。同じ服、同じ髪、同じ立ち姿。あのプロフィール画像がそのまま部屋に立っている。
ひとつだけ、絵になかったものがあった。
肩が上下している。
息をしているのだ。
その当たり前のことが一番、信じられなかった。
その人が、こちらを向いた。
整っている、という言葉では足りない顔だった。眉の線が迷いなく通っていて、目尻が涼しくて、頬から顎にかけてのかたちに緩んだところがない。若く見えるのに、若い人の顔ではない気がした。
凛々しい。頭に浮かんだのは、日常で使ったこともないそんな言葉だった。
目が、青かった。海とも空とも違う、薄い青。絵の中でどこか遠くを見つめていたあの目が、今は私を捉えて離さない。
――嘘でしょ。
それしか出てこなかった。こんな人は、いない。少なくとも私の人生にはいなかった。テレビの中にもいなかった。強いて言うなら、小学生の頃に図書室で読んだ本の挿絵にいた。王子様。と説明のついていたあの架空の存在。
それだけの顔をしているのに、その人には表情というものがなかった。喜んでいるのか、困っているのか、まるで読めない。整いすぎた顔から表情だけが抜け落ちていて、作り物みたいに見えたのは多分そのせいだ。
心臓がうるさかった。
驚いているのだと思う。人がスマホから出てきたのだから、それはそうだ。でも、それだけじゃない気もした。頬が熱いのに指先は冷たくて、体がばらばらに勝手なことをしている。
――今、それを考えてる場合じゃないでしょ。私。
その人が、一歩、近づいた。
「っ」
喉の奥で音が潰れて、反射的に下がった背中がベッドの角にぶつかる。もう後ろがない。
その人は、そこで止まった。
私が下がったから止まったのだと、なぜか分かった。そして、次の一歩はやけにゆっくりだった。急がない。手の位置も、足の運びも、これから何をするのか全部こちらに見えるような歩き方。怯えた動物に近づくときの歩き方だ。……その動物は、私のことだけど。
長い指が、私の右手を取った。
声が出なかった。
両手で、包まれる。
温かかった。
人の手だった。映像でも幻でもない。少し硬くて、指の腹にまめの潰れた跡がある。何かを、とても長いあいだ握ってきた手だ。
引こうとしたのに、引けなかった。強く掴まれていたわけじゃない。私の力が、勝手に抜けていただけだ。
「あ、あの」
情けないくらい、声が上ずった。
その人は答えなかった。かわりに、床に片膝をついた。
マントが床に落ちて、広がる。私の手を持ったまま頭を垂れると、金の髪が肩から滑り落ちた。
そして、手の甲に、唇が触れた。
――え。
柔らかくて、ほんの一瞬だった。
頭の中が真っ白になって、それから、全身の血が顔に集まってくるのが分かった。手の甲へのキス。ドラマと少女漫画でしか見たことがない。現実にやる人が、この世にいたんだ。しかも相手はよりにもよってこの私だ。どんな冗談だろう。
挨拶だ。たぶん、あちらの世界の。あちらの世界とはどこだろう。頭でも処理しきれない、体もまるで言うことを聞かない。
「非礼をお許しいただきたい」
さっきの声だった。今度は、ちゃんと耳に届いた。
「本来であれば、名も告げずに人の前に立つなど、あってはならぬことです」
その言葉づかいに、アプリの文面を思い出した。中世の貴族みたいな、あの丁寧すぎる文章。同じ人なのだ。今更、そう理解した。
ふと、私の手を包む手がかすかに震えていることに気づいた。
――震えてる?
表情ひとつ動かさないこの人が、緊張している。そう気づいた瞬間、あれだけうるさかった心臓が、少しだけ静かになった。
怖いものは、震えたりしない。
その人が、顔を上げた。
薄い青が、私を見ていた。
「ログレス王国、アルトリウス・ペンドラゴンと申します」
名乗った。
ログレス。それも確か、さっき検索した画面の中にあった。アーサー王が治めたという、伝説の国の名前。
「ずっと、貴方を探していた」




