第一話 「4,829光年」
妹の結婚が決まった夜、私は生まれて初めて、自分のために何かをしようと思った。
実家の食卓で、美月が左手をうっとりした顔で見つめている。ほら、みて。と差し出されたその指に光る指輪を、妹には甘い母は声にならない声をあげて、物静かな父は眼鏡を掛け直してそれを覗き込んだ。私はその光景を静かに見ている。それからみんなで写真を撮った。私はカメラを持つ側で、この立ち位置は25年変わっていない。
「お姉ちゃんも早く結婚したら?」
悪気がない一言を、美月は本気で言っている。この子に悪気があったことは一度もないが、言葉の節々から私を見下す態度が表に出ていることを彼女は知らない。私が我慢していることに気づいたこともない。それは私が一度も言わなかったからだ。
「お姉ちゃんは、いいのよ」
かき消すように母がそう言って話を終わらせた。この家の人は最初から私に対する関心がない。優遇されるのはいつも妹だけ。小さい頃も、進学の時も、就職の時も飲み込むのは私の方で、今までの人生で誰かに必要となどされた記憶はなかった。
大学には奨学金で行った。妹の学費が足りないからと言われたから。就職は親が満足するところに必死になって入った。それでも、奨学金の返済と毎月の実家への支払い義務が課されている。妹は、親のお金で私立の大学に進み、就職も気楽な受付嬢をしている。自分でも、私と妹への親からの愛情の偏り具合は自覚していた。それでも今まで何も言わずにそっと堪えている。
部屋に帰り着いたのは、十一時過ぎだった。
1Kの、物の少ない部屋。いついなくなっても困らない、殺風景な部屋だった。机にテレビにベッドが1つ。その横に棚を置いて、唯一の楽しみである観葉植物を飾って眺めるのが日常だ。そして誰も来ないのに、いつもきれいにしてある。あるいは、いつこの部屋から消えてもいい様にとでも思っているのだろうか。そんな事を考えながら風呂に入って身支度を済ませた。電気を消して、ベッドに入って天井を見た。
いつもならそのまま寝る。明日は会社は休みだし、上司の嫌味にも付き合うことはない。ゆっくりとした一人の時間が作れるはずなのに。
その夜だけは、どうしても眠れなかった。
私も運命の人に、会いたかった。
今での人生で、一度も口に出したことがない私が初めてそう思った。言えば笑われて流されて終わりだ。自分の願いを口に出すことは、それほどまでに恐ろしいものになっている。それでも、暗い天井の下でだけ、その願いはずっと私の中にあった。
私はスマホを手に取った。
普段よく流れてくる広告を、見ないふりしている自分がいた。その日は、指が勝手に動いて、登録の画面が開く。
名前と年齢を打ち込む。このアプリでは必ず設定しなければいけないらしい。写真も、今まで自撮りなどしたことがなかったので、昔に友達が撮ってくれた後ろ姿だけをプロフ画像として登録した。
最後の確認画面で、一度だけ手が止まった。
――私は、誰かに選ばれたい。
そんな、一縷の望みを抱いてを胸に最終確認ボタンを押した。
アプリを始めていくうちに、初めて表示されたのがその人だった。
息が詰まりそうになる。
初めて表示された男の人のプロフィールは絵だった。写真ではなく、油絵。アプリを始めてみても、碌な人がいないのかと一瞬、落胆した。それでもよくその人のプロフ画像をみていると興味が湧いてくる。そして、そこにいる人のほうが、この部屋のどんなものより生きて見えた。その日の私は、妹の結婚の話もあって少しおかしかったのかもしれない。
金の髪。時代がかった衣装。腰に提げた剣。目が、青かった。海の色とも空の色とも違う。もっと薄くて、光の当たり方によっては灰色にも見える色だった。
美しい人だと思った。それからやっぱり、おかしいと思った。
職業欄には、こう書いてあった。
「王子」
やっぱりなと、私は笑った。この人はウケ狙いでふざけてこういうプロフィールにしているのだと思う。
そして、距離の表示を見て笑うのをやめた。
「4,829光年」
新手の業者だ。決まっている。こういうのは最初のプロフィールで気にならせていいねを稼ぐ。そして数通だけ丁寧で、そのうち投資の話になる。ネットで読んだことがある。人を釣るには設定がまだまだ甘いんじゃないかと思う。これで釣られる人がいたら、相当信じやすい素直な人だろう。
通報のボタンは右上にあった。指を伸ばして、止まった。
私はもう一度、その目を見た。それだけで、指が動かなくなった。さっき自分で思ったことを思い出して、私もその世間ではカモと呼ばれる部類の人なんじゃないかと思った。
私は、その人を右にスワイプした。
――マッチングしました。
やってしまったと後悔した。これで私は投資詐欺の話をされ、変なセミナーに誘われて断りきれずにどんどんと侵食されていく未来が容易に想像できた。そんな事を考えていたとき、メッセージが来た通知音がなった。
『夜分に失礼をいたします』
『……いえ。失礼を、と申し上げたが』
『実のところ、朝まで待てなかった』
連投できた連絡を見て、新手のナンパ商法かと思った。それは朝まで待てないだろう。こんなカモが釣れたんだから。でも、もしかしたら本当にただのウケを狙った人かもしれないと信じたくて返信をした。
『はじめまして』
『それ、何人に送ってるんですか』
そう聞いたのはちょっとした興味だった。深い意味はない。でも返ってきた返信は、予想してなかった答えだった。
『貴方だけだ』
言い切られた。
『王子様なんですよね』
『お城はどちらですか』
『キャメロットに。白銀の都です』
聞いたこともない地名になんだか興味がわいた。徹底してるなこの人と、少し相手をするのが楽しくなってきている自分がいる。きっと新手のナンパか業者なのに。興味本位で私は検索した。出てきたのは観光地でも新興国でもなく、アーサー王伝説の解説記事だった。
『あの、それ、伝説に出てくる地名なんですけど』
『よくご存じですね』
感心されてしまった。絶対にウソをつかれているのにこの人はそれを貫くつもりらしい。
『4,829光年って出てるんですけど』
『ええ。おおよそ、そのくらい離れているのは確かかと』
『確かなんだ』
『確かでなければ、こうして届いてはおりません』
打つ手が止まる。
文章が丁寧な言葉で綴られている。まるで中世のヨーロッパに出てくる貴族のような言葉使い。落ち着いていて、こちらの言葉を必ず拾って、押しつけがましくない。よくできた業者だ。よくできすぎている。
それから、その人は色々なことを聞いてきた。今日は何を食べたのか。明日は何の日か。この時間まで起きているのは、いつものことか。まるで私のこと心配して気になっているかのようにその人は気遣ってくれる質問をして来る。それになんだか嬉しくなって、私も聞いた。
そちらは今、何時ですか。星は見えますか。
こちらは、いつのまにか一時を過ぎていた。こんなに長く誰かと話したのは、いつ以来だろうと思った。会社でも実家でも、私が話す番はいつも短い。だから業者でも、ナンパでも何でもいい。こうして話を聞いてくれる人がいることに安心感を覚え始めた時だった。
『申し訳ない。少し、言葉が多いだろうか』
いえ、と打ちかけて、消した。
『大丈夫です』
『よかった』
たった三文字なのに、そこだけ、急に人の声がした気がした。
それから、しばらく間があった。
『不躾を承知で、ひとつ申し上げてもよろしいだろうか』
『どうぞ』
『私は貴方に会いたい』
息を吸った。少しだけ寂しくなった。やっぱり業者だった。これから投資の話をされるんだろうと思うと、ちくりと心が痛んだ。そして、私はこの人に追撃をすることにした。
『あの、光年って言いましたよね』
『言いました』
『物理的に無理だと思うんですけど』
『ええ』
『ですから、少し無茶をいたします』
『どうか、今夜のうちにお会いすることを、お許しいただけないだろうか』
何を言っているんだろうこの人は。今から会いに来るなんてどうやって?もうすぐ夜中の1時を回って朝にかけて日が動く時間だ。そんな時間に勧誘の話をするのだろうか。でも、少し気になることがあった。
なぜ、この人はこんなに急いでいるのだろう。理由は知らない。それなのに、文面の向こうから、何かがずっと押し寄せてくる気がした。
自分で決めるのは、今夜で二度目だった。
震える指で、打った。
『いいですよ』
どうしてそんな事を言ったのか分からない。碌な事にならないと思っていた。でも、さっきまで優しく私のことを心配してくれてた人を業者と思いたくなかったのかもしれない。気づけばいいですよなんて言葉を送ってしまっていた。
その瞬間、部屋が明るくなった。
スマホの画面から、光が伸びていた。白い光が四角いまま床に落ちて、壁を這い上がり、天井まで届く。
私は動けなかった。息もできない。
光の中に、影がひとつ、立ち上がった。




