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第六話 「どこに住みたいですか」

月曜の会社は、いつも通りのはずだった。いつも通りの朝礼、いつも通りの伝票、いつも通りの上司の嫌味。なのに何ひとつ頭に入ってこない。理由は分かっている。生まれて初めて、部屋に人を残して出勤したからだ。王子様の留守番。単語にすると、ますます現実味がない。昼休みに3回スマホを確認して、既読のつかない画面を眺めて、そもそもあの人に連絡手段がないことを思い出した。


 定時ぴったりに会社を出たのは、入社してから初めてかもしれない。


 アパートの階段を上がると、ドアの隙間から灯りが漏れていた。足が止まった。私の部屋に灯りがついている。誰かのいる部屋に、私はこれから帰る。たったそれだけのことに、鍵を持つ手が少し震えた。


 ドアを開けると、アーサーが玄関まで出てきた。


「おかえりなさい」


 不意打ちだった。


「テレビで覚えました。帰った人には、こう言うそうですね」


 得意げというほどではないけれど、少しだけ胸を張っている。留守番のあいだテレビで言葉の勉強をしていたらしい。まじめか。


「……ただいま、です」


 言い慣れない4文字は口の中でもたついた。実家にいた頃も、ただいまを言う相手はいた。ただ、おかえりの声より先にごはんまだと飛んでくる家だった。誰かが私の帰りだけを待っている部屋は、今日が初めてだ。靴を脱いでいるあいだに、鞄はいつのまにか取り上げられていた。


  ◇


 夕飯を食べ終えると、アーサーが居住まいを正した。正座で背筋を伸ばされると6畳の空気まで一緒に伸びる気がする。私もつられて座り直した。この数日で身についた、一生使う機会のなさそうな条件反射だ。


「折り入って、お願いがあります」


「はい」


「しばらく、こちらに滞在させていただきたい」


 そう言って、アーサーは床に手をついて深く頭を下げた。


「3日前から、私は貴方の厚意に甘えるばかりで、正式に許しを得ていなかった。詫びます」


 無断も何も、招き入れたのは私だ。いいですよと打ったのも私。そう言おうとしてやめた。この人はそういう帳尻の問題として考えていない。筋を通す順番の話をしている。


「……いいですけど」


 言ってから、我ながらあっさりしすぎだと思った。知らない男の人を家に置く話に、いいですけど。でも正直なところ、この人がいない部屋のほうがもう想像しにくくなっている。3日でだ。我ながらちょろすぎる。


 アーサーが顔を上げた。ほっとしたのが目元で分かった。それから、あらたまった声で続けた。


「その上で、申し上げます」


「はい」


「この家は、狭い」


 腹は立たなかった。事実だからだ。6畳と狭い台所とユニットバス。大人が二人いるとどこかで必ず体がぶつかる。この数日、私はずっと壁際を歩いてきたし、アーサーは夜のたびに長い体を部屋の隅に折り畳んでいる。


「まあ……そうですね」


「移りましょう」


「移る」


「住まいを変える、ということです」


 引っ越し。言葉の意味は分かる。分かるのに、その発想が自分の頭に浮かんだことは今まで一度もなかった。今の部屋は会社から一番近くて一番安かった。決めたというより、そこに落ち着いた。3年住んで不便だと思ったことすらない。不便かどうかを考えたことがないからだ。


「お金は……って、聞くまでもないですね」


 昨日の桁を思い出して質問を引っ込めた。


「ただ、私の名では借りられないでしょう」


「そうですね。身分証がないので」


「では、貴方の名で。費用はすべて私が持ちます」


「私の名前の部屋に、アーサーのお金で住む……」


 口に出してみるとますます変な話だった。部屋は私ので、お金はこの人の。そんな家がこの世にあるんだろうか。あるのかもしれない。私が知らないだけで、世の中は思っているより広い。


  ◇


「沙羅」


「はい」


「どこに住みたいですか」


 私は口を開けたまま、何も言えなくなった。


 どこに、住みたいか。考えたことがなかった。本当に一度もない。就職したときは会社から近い場所を探して、家賃の上限を決めて、その枠に収まった中でいちばんマシな部屋にした。住みたいなんて言葉、今までの人生で使った覚えがない。


「……えっと。どこでも、いいんですけど」


「どこでもよいということは、ないでしょう」


 責める調子ではなかった。ただ静かにそう言われた。


「眺めのよい部屋がいい。静かな通りがいい。水辺が近いとうれしい。……そういうものが、誰にでもあるはずです」


「…………」


 ない、と言いかけて言えなかった。ないんじゃない。考えたことがないだけだ。希望を言っても通らない家で育つと、希望を思いつく機能のほうが先に錆びる。


「……考えたこと、なくて」


 声が小さくなった。


「では、これから考えてください。急がなくていい。私は待ちます」


 待つ。そういえばこの人は、初日の夜も朝が来るまでずっと待っていた。


「あの」


「はい」


「いつまで、いるんですか」


 アーサーの動きが止まった。ほんの一拍だった。気にしなければ気づかないくらいの間だ。


「……できるだけ、長く」


 答えになっていない。なっていないのに私は追及しなかった。追及するのがなんとなく怖かった。理由は自分でも分からない。ただ、この人のできるだけの中身を聞いてしまったら、何かが変わる気がした。


  ◇


 不動産屋には次の土曜に行くことになった。平日の私は仕事だし、部屋を見るなら明るいうちがいい。


 考えておいてくださいと出された宿題は、金曜の夜になっても白紙のままだった。通勤電車で間取りのアプリを開いては、何も入力せずに閉じる。希望というものは筋肉と同じで、使っていないと動かないらしい。


  ◇


 土曜の駅前の不動産屋は、ほどよく空いていた。


 自動ドアが開いて、若い男の店員さんが立ち上がる。アーサーはもう驚かなかった。店員さんはアーサーを見て一瞬固まって、それから営業の顔に戻った。この1週間でこの一瞬固まるを何回見ただろう。


「お二人でお住まいですか」


「あ、はい」


「ご結婚のご予定は」


「え」


「失礼しました。ではご希望の条件からお伺いしますね」


 流された。流してくれてありがたいのか、ちゃんと待ってほしかったのか、自分でもよく分からない。隣を見る勇気はなかった。


 紙が出てきた。上から順に空欄が並んでいる。エリア。間取り。ご予算。入居希望日。こだわり条件。


 ペンを持ったまま、私は動けなくなった。こだわり条件。1週間かけて結局ひとつも浮かばなかった、あの欄だ。


「たとえば駅からの距離とか、日当たりとか」


「……はい」


「オートロックとか、ペット可とか」


「……はい」


 はい、しか言えない。いい大人が自分の希望ひとつ書けない。恥ずかしさで指先が熱くなった。


 隣で、アーサーは何も言わなかった。助け舟を出さない。代わりに書かない。ただ、私がペンを持っているのを静かに見ている。急かされないというのがこんなに苦しいことだとは知らなかった。


 ふと頭に浮かんだのは、窓際の観葉植物だった。うちの部屋で唯一の楽しみで、日当たりのよくない窓際でそれでも3年枯れずにいてくれたあの子。


 私は震える手で書いた。


 陽の当たる部屋。


 たった6文字だった。書いてから顔が熱くなった。家賃でも駅距離でもなく、小学生の作文みたいな6文字だ。


 アーサーが用紙を覗き込んだ。そして笑った。泣くのを我慢しているみたいな、あの笑い方じゃない。ただ嬉しそうな、屈託のない笑い方だった。


「よい条件です、沙羅」


 名前を呼ばれるたび心臓がいちいち跳ねる。1週間経っても慣れる気配がない。この先どうなるんだろうと他人事みたいに思った。


  ◇


「ご予算のほうは、いかがいたしましょう」


 店員さんがそう言った瞬間、アーサーが初めて口を開いた。


「上限はありません」


「……は」


「上限は、ありません」


 2回言われて店員さんの姿勢が変わった。目の色も変わった。奥から出てくるファイルの厚みまで変わった気がする。


 私は横で必死に首を振った。


「いや、あの、常識的な範囲で」


「常識的な範囲とは」


「じゅ……10万以内で」


「安すぎます」


「安すぎるってことはないです」


 うちの家賃の倍ですと言いかけてやめた。店員さんが笑いを噛み殺していた。


  ◇


 その日のうちに3件見た。どれも今の部屋より広くて、どれも今の部屋より新しかった。1件目で驚いて、2件目で言葉をなくして、3件目では感覚が麻痺していた。


 中でも2件目だった。南向きの大きな窓のある部屋で、昼下がりの光が床いっぱいに落ちていた。誰もいない部屋の真ん中があんまり明るくて、私はそこに立ったまましばらく動けなかった。


 こんなに明るい部屋に人が住んでいいんだろうか。いいのだと思う。お金さえあれば誰でも。服と同じだ。


 アーサーは、その部屋では何も言わなかった。


  ◇


 3件目を出て店に戻ろうというとき、アーサーが店員さんに言った。


「2件目に、もう一度戻れますか」


「え、ええ、もちろんです」


 戻った部屋は少し日が傾いて、床に落ちる光が長くなっていた。


「ここにしましょう」


 アーサーが言った。


「え。いいんですか、ちゃんと比べなくて」


「比べました」


「間取りとか、駅からの距離とか」


「貴方が、いちばん長く立っていた」


 見られていた。3件のあいだ、私は間取りや家賃を見比べているつもりでいた。この人は最初から最後まで私しか見ていなかったらしい。日当たりでも築年数でもなく、この人の判断基準はそこにしかない。


  ◇


 スマホが鳴ったのは、そのときだった。


 画面に美月の名前。私は窓際から少し離れて電話に出た。


「もしもし」


「あ、お姉ちゃん。いま平気」


「うん、大丈夫だけど」


「あのさあ、ドレスの試着、お母さんと行くんだけど、お姉ちゃんも来られないかなと思って」


「ああ、うん……」


「それでね」


 美月の声が少し弾んだ。


「いま、ちょうどお姉ちゃんちの近くにいるんだよね。これから寄っていい」


 心臓が嫌な跳ね方をした。


 振り返ると、傾きはじめた光の中に金の髪の人が立っていて、こちらを見て小さく首を傾げた。

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