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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第八十八話 紫房の潜路、月下の誓いは樽に染む ―Grape Ale―

 グランエッジの防衛戦から五日後、村は見た目の平穏を取り戻していた。


 水路の蓋は修理され、夜警の配置も見直され、神麦畑には新たな結界柱が立った。畑の被害は痛かったが、植え戻した株のいくつかは根を張り直し、朝露の中でか細いながらも葉を伸ばしている。村人たちの顔にも、前のような剥き出しの不安はなかった。


 だが、それは“安心”とは違った。


 むしろ皆、はっきりと理解していたのだ。


 敵は消えていない。


 次はもっと深く、もっと巧妙に手を伸ばしてくる。


 ならばこちらも、ただ待つだけでは駄目だ。


 朝の広場で、レティシアは木箱の上に立ち、村の主要メンバーを前に告げた。


「守りは整えた。でも、それだけでは後手に回る」


 淡々とした声だったが、視線は鋭かった。


「廃炭焼き小屋で押さえた私兵二名は、まだ口を割らない。だが、押収品と札の残滓から見て、背後にいるのは地方貴族ガルンベル家の一派でほぼ間違いない」


「修道院の一部勢力ともつながってる、だったね」


 ミーナが帳面をめくる。


「ええ。でも“修道院そのもの”じゃない。施療院の物流印を偽装できる程度には内部協力者がいる、という段階よ」


 村長が深く息を吐いた。


「つまり、こっちが村に籠ってる限り、向こうはいくらでも手を変えてくる」


「そういうことだ」


 醸が腕を組んだ。


「だから、敵が何を欲しがってるのか、どこに神麦を運ぼうとしてるのか、そっちを掴まないと終わらない」


 その結論に至るまで、実は大きな議論はなかった。


 もう皆、同じところを見ていたのだ。


 奪われた分を守るだけでは足りない。


 奪おうとする手そのものを止めなければ、村の明日は不安定なままだ。


「攻めるの?」


 ミーナが少し声を潜めて訊いた。


「攻める」


 レティシアが即答する。


「ただし、剣で正面突破はしない。今ほしいのは戦果じゃなくて証拠と経路よ」


 醸はそこで、荷台に積まれていた数個の木籠へ目をやった。


 中には紫の果実があった。


 山葡萄――ではない。もっと粒が大きく、果皮が薄く、香りが華やかな栽培種に近い葡萄だ。王都への道の途中、南寄りの温暖な丘陵地帯で育つ果実で、もともとは貴族の卓上や甘味用に回されることが多い。だが、近ごろその流通の一部に奇妙な偏りがあると、前回の防衛後に商人ギルドから情報が届いていた。


 ガルンベル家の支配地で、葡萄の買い上げが急増している。


 量が多い。しかも、飲用というより発酵原料としての集め方だった。


「……ワインか?」


 鍛冶屋の男が首を傾げる。


「普通はそう考える」


 醸は紫の房を一粒つまみ、光にかざした。


「でも、神麦を狙う連中が葡萄も大量に集めてるなら、単純なワインじゃないかもしれない」


「何か思いついた顔ね」


 レティシアが半眼になる。


「いや、嫌な予感がしただけだ」


「その予感、だいたい当たるのよ」


 醸は苦笑し、指先で果皮を軽く潰した。甘い香りがふわりと立つ。だがその奥に、酸と皮の渋み、そして発酵させたときにだけ出る複雑な奥行きの予感がある。


「葡萄は香りが強い。痕跡を覆い隠すのにも、逆に印をつけるのにも使える」


「印?」


 ミーナが身を乗り出した。


「そう。葡萄の発酵香って、一度衣服や木樽に染みると独特の残り方をするんだ。しかも樽、布、革、それぞれで少しずつ匂い方が違う」


「……つまり、運搬経路を読める?」


「うまく組めばな」


 レティシアは腕を解いた。


「酒で“追う”のではなく、“潜る”」


「それに近い。今回は、敵の中に入っても怪しまれにくい顔がいる」


「まさか」


「商人だよ」


 全員の視線が、広場の端にいた細身の男へ向いた。


 灰色の外套に、控えめだが上質な手袋。顔立ちは整っているが愛想がよく、その目だけが商人らしく常に周囲の損得を測っていた。王都との中継交易を担う商会主、ハインツである。の酒会でも醸の後方支援に回り、流通情報では大きな力になってきた人物だ。


「勘弁してくださいよ」


 ハインツは即座に両手を上げた。


「私は剣も振れませんし、命がいくつあっても足りません」


「だからこそだ」


 醸は言う。


「剣士が潜っても目立つ。けど商人は、荷と匂いの中に紛れられる」


「嫌な理屈ですねえ……でも、否定できないのがさらに嫌だ」


 彼はそう言いながらも、すでに断るつもりではない顔になっていた。


     


 その日の午後、蔵では新しい仕込みが始まった。


 今回は葡萄を使う。


 だが、ワインではない。


 あくまでビールの骨格に、葡萄の香りと発酵特性を重ねる。


 Grape Ale――葡萄とビールの境界を行き来する、曖昧で、それゆえに強い酒。


 麦芽をベースに、神麦はごく少量だけ。主役は葡萄だが、力の根はあくまでビールに置く。そうしなければ、醸が操ってきた“ビール薬師”としての効果設計に繋がらない。葡萄果汁は一次発酵の途中で加え、香りを飛ばしすぎず、かつ甘さだけが浮かないよう調整する。


「白じゃなくて赤なんだね」


 ミーナが房を見ながら言う。


「今回は赤だ」


 醸は頷いた。


「白のほうが香りは澄むけど、赤には皮と種の渋みがある。あれが“残る香り”を作る」


「残る香り……」


「人が通ったあと、布や革に痕跡として残る。しかも赤葡萄の皮は、魔力の微細な揺れと絡みやすい気がする」


「気がする、で醸造するのやめてくれない?」


 レティシアが呆れた顔をする。


「経験則って言ってくれ」


「職人の勘とも言うわね」


「褒めてる?」


「半分だけ」


 房を外し、潰し、果汁と果皮を分ける。仕込み場には、いつもの麦の甘さに加え、鮮やかな葡萄の香りが満ちていく。木の床に紫の汁が一滴こぼれただけで、空気の表情が変わるほど濃い香りだった。


 そこへ少量の香草を合わせた。


 今回はスパイスではない。


 乾燥させた月桂の若葉と、エッダが持ってきた夜香草。それに、ごく微量の杜松枝。


「まだ入れるの?」


 ミーナが目を丸くする。


「葡萄だけだと、甘く華やかすぎるんだ。輪郭を締める」


「何になるの、これ」


「“香りを記憶する酒”かな」


「また説明が詩人っぽい」


「本当なんだよ。葡萄酒は人を酔わせるけど、葡萄を抱えたビールは、匂いそのものに役目を持たせやすい」


 仕込みの途中で、醸はふと手を止めた。


 湯気の向こうに、前世の記憶が一瞬よぎる。ワイン樽の貯蔵庫、葡萄の圧搾、果皮浸漬、ビールと葡萄の境界を試すクラフトブルワリーの話。だが、それは懐かしさではなかった。もっと切実な感覚だ。


 この世界で、自分はビールを造る。


 それがただの再現ではなく、誰かの今日や明日を支えるための行為になっている。


 その重みが、今さらのように胸へ落ちた。


「どうしたの?」


 ミーナが小さく訊く。


「いや」


 醸は木杓子を握り直した。


「今回、うまくいけば、敵の懐に初めて手が届くかもしれないと思ってな」


「怖い?」


「ちょっとな」


「珍しい」


「いつも怖いよ。ただ、やることが先にあるだけで」


 それを聞いて、ミーナは少しだけ笑った。


「じゃあ、今回も大丈夫」


「理屈が雑」


「でも当たるもん」


     


 発酵は、これまでのどの酒とも違う様子を見せた。


 泡が赤紫を帯びる。


 香りは日ごとに変わり、初日は生の果実のようだったものが、二日目には花と皮の間のような複雑さを帯び、三日目には麦の甘みと溶け合って、どこか高貴ですらある芳香に変わっていた。


 だが、その奥にあるのはあくまで“生き物の酒”だった。


 葡萄の華やかさに引かれて気を抜けば、ビールの骨格が崩れる。逆に麦を立てすぎれば、葡萄がただの添え物になる。ぎりぎりの均衡を見極めながら、醸は何度も香りを確かめた。


 夜、ひとりで蔵に残ったときだった。


 樽に鼻を寄せると、はっきりわかった。


 この酒は、人の“本音の匂い”を浮かせる。


 もちろん、言葉どおりに読めるわけではない。だが、緊張、偽り、恐れ、欲望――そうしたものが、呼吸や汗、衣服に残る匂いの乗り方に微妙な歪みを作る。その歪みを、葡萄由来の発酵香が増幅して捉えるのだ。


「……そういうことか」


 醸は低く呟いた。


 この酒は追跡用ではない。


 尋問用でもない。


 もっと厄介で、もっと静かな用途を持つ。


 敵の中に紛れたとき、“嘘の気配”を見抜く酒。


 翌朝、試飲の場でその仮説は補強された。


 まずハインツが飲んだ。次にレティシア。最後に醸自身。


 味は、驚くほど美しかった。麦の丸い土台の上に、赤葡萄の果実味が静かに広がる。ワインのように重たくはなく、ビールらしい柔らかさを保ちながら、余韻に皮由来の渋みが細く残る。月桂の青さが香りをまとめ、夜香草が最後にごくかすかな冷気を添える。


「……すごいな」


 ハインツが目を見開いた。


「上等な晩餐酒のようでもあり、旅の疲れをほどく麦酒のようでもある」


「今回は味も大事だからな」


 醸は言った。


「潜入先で“飲める酒”じゃないと困る」


「つまり、商談の席に自然に持ち込める」


 ハインツの顔つきが変わった。


「なるほど。怪しまれず、相手に勧められる」


「そして、同じ酒を飲んでいるこちら側だけが、相手の匂いの揺れを読める」


 レティシアが静かに補った。


「便利だけど、性格が悪い酒ね」


「褒め言葉として受け取っておく」


 ミーナも香りだけ確かめて、眉を寄せた。


「わかる……なんだろう、人の輪郭が少し濃くなる感じ」


「だろ?」


「でも、これ危ないね。相手の感情に引っ張られそう」


「だから飲むのは少量だ。酔うためじゃない。感覚を揃えるために使う」


 作戦は、その場で決まった。


 ハインツが、南方の葡萄取引に興味を示す中規模商人としてガルンベル家支配地へ入る。随員は二人。荷の護衛を装うレティシアと、帳付け兼見習い商人の姿をした醸だ。ミーナは村に残り、通信符と遠隔補助式で支援する。危険は大きい。だが、今ならまだ相手はこちらを“村の酒屋”程度にしか見ていない。王都で名を上げたとはいえ、村そのものが反撃に出るとは考えていないはずだった。


「醸」


 出発前夜、レティシアが蔵の外で言った。


「一応聞くけど、潜入なんてやったことある?」


「あるわけないだろ」


「よかった。あなただけ経験者だったらちょっと腹立つもの」


「何でだよ」


「なんとなく」


「理不尽だな……」


 だが、彼女の声は少し柔らかかった。


「無理はしないで。今回、あなたが倒れたら酒も意味を失う」


「わかってる。そっちもな」


「私は剣士よ」


「剣士でも無理はするな」


「……はいはい」


 そこで少しだけ沈黙が落ちた。


 夜風は冷たく、蔵の隙間から葡萄の香りが微かに漏れている。


「レティシア」


「何?」


「今回の酒、たぶん誰かを助けるためってより、誰かの腹の中を暴くための酒だ」


「ええ」


「そういうの、嫌じゃないか」


 彼女はすぐには答えなかった。


 少ししてから、空を見たまま言う。


「好きではないわ」


「うん」


「でも、踏みにじられた畑のことを思い出すと、それでも必要だと思える」


「……そっか」


「酒が綺麗な役目だけを持つなんて、たぶん幻想よ。剣と同じ。守るために抜けば、誰かを傷つける可能性も持つ」


「耳が痛いな」


「なら、忘れないで使えばいい」


 彼女はそこで初めて醸を見た。


「あなたは、そのために悩める人でしょう」


 醸は何も返せなかった。


 ただ、少しだけ救われた気がした。


     


 ガルンベル家支配地へ向かう旅は、表向きには何事もなかった。


 葡萄酒と果実加工品で名のある丘陵地帯。整えられた畑。白壁の農家。荷車の轍が重なる街道。だが、その整然さの裏に、どこか息苦しい均質さがあった。農民たちは目を伏せがちで、警備兵は必要以上に荷を改める。酒場では噂話が少なく、代わりに“聞かれている”気配が濃かった。


 最初の取引宿で、ハインツは見事に商人を演じた。いや、演じる必要すらなかったのかもしれない。彼はもともと商人なのだ。値段を読み、相手の顔色を測り、こちらを過小にも過大にも見せずに距離を取る。その技は剣よりよほど鋭かった。


 夜、宿の個室で三人はGrape Aleを少量ずつ口に含んだ。


「どう?」


 醸が訊く。


「酒場の給仕、二人は普通」


 レティシアが即答する。


「でも、帳場の男は変。表向きは愛想がいいのに、近づくと匂いが引っかかる。酸っぱいっていうか、隠してる感じ」


「こっちも同じです」


 ハインツが頷く。


「しかも、葡萄樽の話題になるとだけ汗が変わる」


「倉庫の鍵を握ってる人間かもしれないな」


 翌日、商談の席でハインツは自前の“珍しい葡萄麦酒”としてGrape Aleを差し出した。相手はガルンベル家に出入りする中間商。細い口髭を撫でる癖があり、笑顔は柔らかいが目が笑っていない男だった。


「これは面白い」


 男は杯を揺らし、香りを嗅ぐ。


「葡萄酒のようでいて、違う。旅の土を知っている香りだ」


「ありがたい評価です」


 ハインツは穏やかに返す。


「うちでは、新しい発酵酒の販路を探しておりまして」


「新しい、ねえ」


 男は一口飲み、微笑んだ。


「時代は確かに変わります。古い作法だけでは、富も権威も守れない」


 その言葉を聞いた瞬間、醸の鼻の奥に“歪み”が立った。


 笑顔は崩れていない。声も穏やかだ。だが、呼気の底にある匂いが濁る。葡萄の香りに乗って、湿った鉄と焦げた札のような気配が浮く。


 この男、神麦の件を知っている。


 いや、それだけではない。


 運搬経路にも関わっている。


 醸は視線を落としたまま、木杯を傾けた。悟られるな。こちらが気づいたと悟らせれば終わる。


 そのとき、男が何気なく言った。


「最近、北の山間でも妙な酒が流行っているとか。傷を癒やすだの、魔を満たすだの」


「旅人の噂は大げさです」


 ハインツは肩をすくめる。


「酒が人を救うなら、医師も神官も商人も廃業でしょう」


「はは、それもそうだ」


 笑い声。だが匂いは濁ったままだ。


 レティシアも気づいたのだろう。表情ひとつ変えず、腰の短剣位置を微妙にずらした。


 商談は成立した。


 だが、本当の収穫はそこではなかった。


 帰り際、男の袖に微かな紫の染みがあるのを醸は見た。葡萄汁ではない。神麦の穂先に触れたときだけ残る、薄金色の粉が混ざって、紫の上に鈍い灰色の曇りを作っている。


 Grape Aleの香りに導かれなければ、気づけなかっただろう。


     


 その夜、三人は宿を変え、裏手の物置で密談した。


「当たりだ」


 醸は断言した。


「あの中間商、神麦の流通に噛んでる」


「ええ」


 レティシアが頷く。


「しかもただの仲介じゃない。匂いに札の残りがあった。結界眠らせの術具にも触ってる」


「問題はここからです」


 ハインツが声を落とす。


「証拠を取って帰るか、もう一歩踏み込むか」


「踏み込む」


 醸は即答した。


「運び先まで知りたい」


「危険ですよ?」


「わかってる。でも、今ここで止まったら、また村で待つだけになる」


 ハインツは長く息を吐いたあと、降参したように肩を落とした。


「本当に、ビール職人ってのは時々商人より腹が据わってますね」


「たぶん、樽の底を見る癖のせいだ」


「名言っぽく言ってますけど、意味はよくわかりません」


「俺も今言いながらよくわからなかった」


 それでも、皆の顔には妙な昂りがあった。


 守り切った村を背にして、今ようやく、敵の胸元へ指が届き始めている。


 物置の隅には、残り少ないGrape Aleの小樽がある。


 紫の香りは静かだ。


 だがその静けさの中には、夜を裂く刃にも似た鋭さが潜んでいた。


 醸は樽に手を置き、低く言った。


「次は、運び先だ」


「ええ」


 レティシアが答える。


「敵が神麦で何を造ろうとしてるのか、全部暴く」


「そのための酒も、きっとまた要る」


 ハインツが苦笑する。


「まったく、あなたの旅はいつだって一杯では終わらない」


 醸は紫の液面を見た。


 葡萄の香りは豊かで、甘く、どこか祝祭を思わせる。


 だが今、この酒が照らすのは宴の卓ではない。


 嘘と欲と陰謀が染みついた取引路の奥だ。


 月明かりが小樽の縁を白くなぞる。


 その光の下で、Grape Aleはまるで静かな誓いのように揺れていた。


 もう、守るだけでは終わらない。


 奪われた理由を暴き、奪う手そのものを折るために。


 ビール薬師・大麦醸は、ついに敵の土俵へ足を踏み入れたのだった。


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