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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第八十九話 野生の冠、世界に一つの答え ―Wild Specialty Beer―

 夜の街道は、昼のそれよりもずっと多くを喋る。


 車輪の軋み。馬の鼻息。荷台の縄がこすれる音。見張りの男たちが、眠気と緊張を誤魔化すように交わす低い声。


 そのすべてが、闇の中では妙に大きく聞こえた。


 醸は帳付け役の見習い商人という顔で、粗末な外套の襟を少し立てた。荷馬車は三台。先頭には干し葡萄や保存肉を積んだふりをした表向きの荷、中央には樽、そして最後尾――もっとも厳重に布で覆われた荷台に、奪われた神麦の一部があると、あの中間商の匂いが告げていた。


 隣を歩くハインツは、南方葡萄の買い付けに興味を持つ商人として、実に板について見えた。


 少し離れた位置にいるレティシアは、護衛らしい無愛想さで周囲を警戒している。


 表向きは、どこにでもいる一隊。


 だが、醸の舌にはまだ昨夜のGrape Aleの余韻が残っていた。


 葡萄の香りはすでに薄い。けれど、あの酒が一度開いてしまった感覚は、簡単には閉じなかった。


 嘘の匂い。欲の匂い。恐れの匂い。


 人は、口ではいくらでも整ったことを言える。だが、体はそううまく誤魔化せない。


「落ち着いてますね」


 ぼそりとハインツが言った。


「何がです」


「こういう場です。あなた、もっと顔に出るかと思っていました」


「出てるだろ」


「多少は。ですが、怯えより先に観察が来ている」


「……醸造の癖だよ」


「樽でも敵でも、まず中身を疑うわけですか」


「いや。中身に何が起きてるか、知りたいだけだ」


 ハインツは小さく笑ったが、その目は笑っていなかった。


 行き先が近づくにつれ、彼の肩の線が硬くなっていく。


 やがて一行は、街道を外れて暗い谷道へ入った。両側を切り立った岩に挟まれた、荷車一台がようやく通れるような狭い道だ。月明かりさえ落ちにくく、湿った冷気が足元を這っていた。


 レティシアがわずかに視線を上げる。


 醸も同じものに気づいた。


 崖の上に、見張りの影がある。


 しかも一人ではない。三、いや四。


 ただの盗品の受け渡し場所ではない。


 拠点だ。


 谷を抜けた先に現れたのは、古い石造りの貯蔵庫を改修したような施設だった。もともとはワインか穀物を保管していたのだろう。だが今は壁面に新しい術式板が打ち込まれ、入口には結界灯が青白く灯っている。兵舎ほど大きくはないが、小規模な秘密工房としては十分すぎる造りだった。


 荷馬車が停まる。


「荷を改める。身分札を出せ」


 門前に立つ男が言った。


 鎧ではなく、濃紺の作業衣。その袖に縫い込まれた紋は見慣れない。だがで暴いた密通者の札の残り香に、よく似た冷たい金属臭があった。


 ハインツが一歩前に出る。


「ガルンベル家の注文で来た。南方の葡萄樽と交換だ」


「話は通っている」


 門番は札を受け取ると、淡く発光する石盤にかざした。


 一瞬、青白い線が走る。


 結界は荷と人を見ている。武器だけではない。魔力の流れも。


 醸は息を浅くした。


 ミーナが村から持たせてくれた微弱遮断符が、胸元でほんのり熱を持つ。


 完璧に隠せるわけではない。


 だが「魔術師ではない」「ただの帳付け役」で通る程度には、輪郭を鈍らせてくれる。


「……入れ」


 短い許可。


 門が開く。


 醸は胸の奥で、冷たいものが落ちる音を聞いた。


     


 中は、予想していた以上に整っていた。


 広間には麦を乾燥させる棚。石臼。銅の釜。発酵樽。


 だがそれらは、醸の知る醸造場の並びではない。


 発酵の流れが途切れている。糖化のための配置ではなく、抽出と濃縮のための配置だ。


 まるで、ビールを理解しない者が、形だけ真似て別のものを作ろうとしている。


 鼻をついたのは、神麦の甘い香りではなかった。


 鉄。


 薬草を焦がしたような苦い煙。


 それに、獣の血を乾かしたあとの生臭さ。


 醸は奥歯を噛みしめた。


「……ひどいな」


 思わず漏れた声を、咳払いに紛らわせる。


 神麦の香りが、死んでいた。


 いや、殺されていると言ったほうが近い。


 本来なら、麦は水と火と酵母の中で、ゆっくりとほどけていく。


 甘みをひらき、香りを立ち上らせ、時間とともに丸く整っていく。


 だがここでは、その過程が乱暴に切り刻まれていた。


 砕いた神麦を黒ずんだ液に浸し、強火で煮出し、沈殿を削ぎ、上澄みだけを集め、何か別の素材と混ぜている。


 発酵ではない。


 生かすための工程ではなく、力だけを抜き取る工程だ。


 醸たちは荷を運び込むふりをしながら、内部を観察した。


 広間の奥には、さらに厚い扉がある。


 その前だけ警備の密度が違う。


 門前の見張りが粗く見えるほど、そこには緊張が張りつめていた。


 やがて、荷運び役の一人が言った。


「おい、新顔。帳面持ちなら、地下の受領記録つけてこい」


 醸の背中に、レティシアの視線が刺さる。


 危険だ、と言っている。


 けれど断れば不自然だった。


「わかった」


 醸は頭を下げ、帳面を抱えて階段を降りた。


 地下へ続く石段は冷え切っていて、下へ行くほど空気が重くなる。


 そして、その先で見たものに、彼は足を止めた。


     


 地下室の中央には、巨大な硝子槽が据えられていた。


 醸造タンクに似ている。


 だが似ているだけだ。


 美しい発酵のための器ではない。これは、閉じ込めるための器だった。


 槽の中で、金色の液体が脈打っている。


 神麦を溶かした抽出液。


 そこへ、銀粉のような鉱石と、青黒い薬液と、何かの血が加えられ、ゆっくりと攪拌されている。


 周囲には白衣ではなく、術衣を着た者たちがいた。錬金術師、あるいは魔導技師に近い。


 その一人が、硝子槽を見上げながら言う。


「反応率は?」


「三割二分。だが前回よりは高い」


「人格剥離は?」


「依然として強い。定着後、被験体の自我は二日ともたん」


「構わん。問題は従順性だ」


 醸の背筋に、氷の針が走った。


 人格剥離。


 被験体。


 従順性。


 もう一人が低い声で続ける。


「神麦は器として優秀だ。神経路に似た発酵の枝を持っている。酵母任せでは再現できんが、逆にこちらで導線を組めば、魔力の流れを上書きできる」


「つまり、“冠液”として完成すれば」


「ああ。飲ませた兵の魔力回路を同調させられる。恐れも迷いも薄れ、命令だけを残せる」


「回復酒の模造ではないのだな」


「当然だ。あの田舎者の酒は甘い。人を生かしてしまう」


 くつくつ、と誰かが笑った。


「我らが欲しいのは薬ではない。王国をまとめるための鎖だ」


「修道院の連中は“聖別の麦”と呼び、軍は“冠兵計画”と呼ぶ。名はどうでもいい。要は、飲ませれば一つの意志で動く兵ができる」


「神麦から造るのは、酒ではなく王だ」


「正確には、王の意志を増やす器だがな」


 醸は、喉の奥が焼けるような怒りを覚えた。


 ビールではない。


 醸造でもない。


 発酵を使っているようで、発酵を侮辱している。


 麦を、命を、時間を、全部踏みにじって、従わせるための液体に変える。


 人を癒やすための回復酒の対極。


 人の痛みを和らげるための魔力酒の対極。


 これは“酒”の形をした支配だ。


 そのときだった。


「そこで何をしている」


 背後から声がした。


 醸は振り返る。


 階段脇に、痩せた男が立っている。術衣の袖に金糸。監督役だろう。


 その目は鋭く、そして警戒に満ちていた。


「受領記録を……」


「帳面持ちに地下を見せる指示は出していない」


 男の手が、腰の短杖にかかる。


 まずい。


 ごまかし切れない。


 だが、その瞬間。


 地下室の反対側で、硝子槽の圧力弁が甲高い音を立てた。


「何だ!?」


「反応が跳ねた!」


「鎮静薬を――」


 現場が一瞬、崩れる。


 醸はその隙に帳面を落とし、膝をついたふりをした。


 床に広がった液の匂いが鼻を打つ。


 神麦の香りが、苦しんでいた。


 違う、と醸は思った。


 お前はそんなふうに使われるものじゃない。


     


 どうにかその場を離れ、地上の物置へ戻ったとき、レティシアが一歩で距離を詰めてきた。


「顔色が悪い」


「当たり前だ」


 醸は声を押し殺した。


 ハインツもすぐ寄る。


「見たんですね」


「ああ。見た」


 物置には、干し草と空樽しかない。


 話すにはぎりぎりの場所だ。


 醸は短く、だが漏らさぬように地下で聞いた内容を伝えた。


 ハインツの顔から血の気が引く。


 レティシアの目が、凍るように細くなる。


「冠兵計画……」


 ハインツが呻く。


「神麦を使って、兵を従わせる酒を?」


「酒じゃない」


 醸は低く言った。


「少なくとも、俺はあれを酒とは呼ばない」


「でも原理は、発酵に似せてる」


「ああ。似せてるだけだ。発酵を通してるんじゃない。神麦の持つ“つながる力”だけを無理やり抜き出して、魔力回路に刺し込むつもりなんだ」


「だから人格が剥がれる」


 レティシアが言った。


「個人の意志を削って、上から命令だけ流し込む」


「……そうだ」


 沈黙。


 外では荷運びの足音がする。


 遠くで鎖の鳴る音も。


「証拠としては十分です」


 ハインツが囁いた。


「今なら持ち帰れる。ここで撤退すれば、王都の穏健派も動かせる」


「でも」


 レティシアが言う。


「これだけじゃ、あいつらはまた場所を変える」


「わかってる」


 醸は拳を握った。


「だから、壊す」


 ハインツが息を呑む。


「無茶です」


「無茶なのは知ってる」


「ここは敵地ですよ。しかも相手は兵だけじゃない。術師と、あの規模の設備がある」


「それでも、あれをそのまま残せない」


 醸は物置の隅に目をやった。


 そこには、破れた麻袋に入った神麦のくずがあった。商品にならない端材なのだろう。


 そして棚には、この土地の乾燥香草や、葡萄の搾り粕、使い古しの小樽。


 鼻が、何かを拾った。


 この地下施設には、この土地特有の野生酵母が棲んでいる。


 雑で、荒い。


 だが強い。


「……造れるかもしれない」


 レティシアが眉をひそめる。


「こんな時に?」


「こんな時だからだ」


 醸は麻袋を開き、神麦の粉を指先でつまんだ。


 まだ、死んでいない香りがある。


 踏みにじられても、わずかに残る麦の息。


「相手は神麦の“つながる力”だけを奪おうとしてる。なら、こっちはその逆をやる」


「逆?」


「命令で縛るんじゃなく、土地と、人と、酵母と、全部を自然につなぐ酒だ」


 ハインツが呆れたように目を瞬く。


「……この状況で新作ですか」


「新作じゃない」


 醸は答えた。


「これは、ここでしか造れない答えだ」


     


 物置の中での即席仕込みは、祈りに近かった。


 砕けた神麦。


 谷の湿気を吸った野生酵母。


 葡萄の搾り粕に残る果皮の渋み。


 この地方で見たことのない青い山香草。


 そして、ほんの少しだけ、Grape Aleの残りを種として加える。


 整った設備はない。


 温度計も、清潔な発酵槽も、時間もない。


 けれど醸にはわかった。


 完成品を目指すのではない。


 この土地、この夜、この敵地、この怒りと恐れまで含めて、ひとつの生きた液体にする。


 それはもはや、どのスタイルの模倣でもない。


 レティシアが見張りをし、ハインツが水と器を運ぶ。


 醸は小樽の中で液を揺らしながら、耳を澄ませた。


 ぷつ、ぷつ、と小さな発酵音が立つ。


 まるで、暗闇の中で何かが目を開いていくようだった。


「……来た」


 香りが変わる。


 野生だ。荒い。だが不快ではない。


 神麦の甘い芯の周りに、山の冷気と葡萄の皮の渋みと、草の青さが、輪になって立ち上がる。


 醸は木盃に少量を注いだ。


 液色は月の届かない森のような、深い琥珀。


 泡は少なく、代わりに香りが濃い。


「飲むの?」


 レティシアが言う。


「少しだけ」


「また危ない顔してる」


「安全な顔で新しい酒が造れたこと、あんまりない」


 先に醸が口をつけた。


 瞬間、世界の輪郭がざらりと変わった。


 苦い。


 酸い。


 甘い。


 青い。


 そのどれでもあり、どれでもない。


 舌の上では荒々しいのに、喉を落ちる頃には妙に静かだ。


 体の奥へ落ちたあと、熱ではなく“つながり”が広がる。


 人と人ではない。


 土地と息。


 水と酵母。


 麦と時間。


 切り離されていたものが、ひとつずつ、本来の位置へ戻っていくような感覚だった。


「……これ、は」


 醸は息を呑んだ。


 見える。


 いや、感じる。


 地下の硝子槽に満たされた冠液が、どれだけ不自然に神麦の流れを捻じ曲げているか。


 この施設全体に張られた結界が、谷の湧水と地脈を無理に噛ませて動いていること。


 そして、最も深いところ――地下槽の底に、まだ発芽前の生きた神麦の核が保管されていることまで。


「わかった……!」


「何が」


 ハインツが問う。


 醸は目を開いた。


「あいつらが本当に欲しいのは、盗んだ麦そのものじゃない。発芽直前の“つながる前の神麦”だ。あれを核にして、冠液を安定させるつもりだ」


「核?」


「発酵で言えば、酵母の入る前の、いちばん敏感な段階だ。そこに外から術式を刻めば、神麦は自分でつながる代わりに、誰かの意志に従って流れを作る」


「つまり……」


 レティシアが低く言う。


「飲ませた兵を操るだけじゃない」


「ああ。もっと先がある」


 醸は断言した。


「兵をそろえるのは途中だ。最終的には、同じ冠液を通した術者も兵も、全部ひとつの命令系統で束ねるつもりだ。小隊じゃない。軍だ。いや、都市ひとつ分でもやれる」


「そんな」


 ハインツの声が震える。


「王都で使えば……」


「反乱は潰せる。貴族も騎士も聖職者も、一度に縛れる」


 レティシアの声音は刃だった。


「神麦で作ろうとしてるのは、軍用酒じゃない。王国そのものを飲み込むための冠だ」


 物置の空気が、凍る。


 そのとき、外で警報の鐘が鳴った。


 甲高い音が二度、三度、夜を裂く。


「地下で反応暴走だ!」


「誰かいるぞ、物置を見ろ!」


 見つかった。


 レティシアが剣に手をかける。


 ハインツも短剣を抜く。


 醸は木盃に残った野生の酒を見た。


 整った名酒ではない。


 売り物にするには荒すぎる。


 誰も再現できない。


 いや、だからこそいいのだ、と彼は思った。


 敵は、神麦を一つの命令に従う液体へ変えようとしている。


 なら自分は、その逆を造る。


 二度と完全には複製できない、この土地と今この瞬間の偶然が編んだ酒。


 支配ではなく、自由のための一杯を。


「行くぞ」


 醸は立ち上がった。


 レティシアが頷く。


「壊すのね」


「ああ」


「それと、持ち帰る」


 ハインツが言った。


「証拠も、神麦の核も」


「もちろんだ」


 物置の扉の向こうに、足音が迫る。


 剣が鳴る。


 術式灯が明滅する。


 醸は最後の一口を飲み干した。


 野生の香りが、喉を焼かずに胸を満たす。


 敵の造る冠液が、人の意志を一本に縛る鎖なら。


 この酒は、世界に散った無数の命を、そのまま生かしたまま響かせる輪だ。


 前世の知識でもない。


 教本の写しでもない。


 誰かの模倣でもない。


 大麦醸が、この異世界で、自分の足で辿り着いた答え。


「来いよ」


 扉が開く。


 闇の向こうで、敵が息を呑む気配がした。


「本物の“神麦の酒”ってやつを、教えてやる」


 その夜、谷の秘密工房で鳴り響いたのは、ただの戦いの音だけではなかった。


 砕ける硝子。


 弾ける術式。


 燃える木材。


 そして、樽の中でなお生きようとする、小さな発酵の息。


 奪われた神麦で造られようとしていたのは、王の意志を人に流し込むための冠液。


 人を癒やすためではなく、人を従わせるための偽りの酒。


 だがその企みを前にして、醸はようやくはっきり理解した。


 自分が造ってきたものは、ただ効く酒ではなかったのだ。


 人が自分の足で立つための酒。


 傷んだ体を戻すだけでなく、折れかけた心に「まだ自分で選べる」と思い出させる酒。


 魔力を満たすだけでなく、使う者の意志を濁らせない酒。


 だからこそ、敵には再現できない。


 ビールは、命令では醸せない。


 発酵は、支配に完全には従わない。


 麦も、酵母も、水も、時間も、すべては生きていて、だからこそ酒になる。


 夜はまだ終わらない。


 この一夜で全てが片付くわけでもない。


 だが、敵の正体は見えた。


 次に壊すべきものも。


 次に守るべきものも。


 闇の中、醸は砕けた硝子の向こうに、ほのかに金色を帯びた神麦の核を見つめた。


 それはまだ、小さく、静かで、何にもなっていない。


 だからこそ、無限だった。


 奪う者の手に落ちれば、王国を縛る冠になる。


 人の手で丁寧に醸せば、誰かを救う一杯になる。


 その分かれ道に、自分はいま立っている。


 醸は息を吸い、煙と麦の匂いを肺いっぱいに満たした。


 そして、笑った。


「面白くなってきた」


 レティシアが呆れたように振り返る。


「こういう時にそれ言う?」


「職人だからな」


「本当に厄介」


「褒め言葉として受け取る」


「都合がいいわね」


「生き残るには必要だ」


 短く交わしたその言葉だけで、少しだけ肩の力が抜けた。


 戦いは続く。


 陰謀はまだ深い。


 だが、少なくとも今夜、敵が神麦で何を作ろうとしているのかは暴けた。


 酒の形をした鎖。


 王冠の名を冠した、意志を奪う液体。


 ならばこちらは、その対極を示すしかない。


 世界に一つしかない、野生の冠を。


 支配のための冠ではなく。


 生きる者たちが、それぞれの意志のまま乾杯するための冠を。



     


 Wild Specialty Beer の仕込みが終わった夜、ハインツが寄ってきた。いつもより表情が引き締まっている。


「先ほど王都経由の荷に書状が混じっていました。セリナさんからです」


 醸は受け取って読んだ。


 ベルメ周辺で出回っている「異常な酸味を持つ酒」が、特定の修道院系組織と関係している可能性が出てきた。その組織は表向き巡礼者への施療と酒の提供を行う宗教団体だが、内部では「服従を誘導する効能を持つ酒」を研究・製造しているという証言が複数出ているという。セリナは「醸師殿に知らせておいた方がいいと判断しました」と添えていた。


「修道院系の組織が……」

 醸は書状を畳んだ。

「信仰と酒を組み合わせた支配の道具、か」

「大袈裟に聞こえますが、信仰の場で出される酒は疑いを持たれにくい。毎回飲む者の精神に少しずつ働きかけるなら、気づかれないまま進む可能性があります」


 レティシアが静かに言った。

「それで川沿いの町の人間が"従順になる"んだとしたら、醸し手がいる」

「ああ。しかもかなり技術のある人間が」


 醸はランプの灯りを見た。


 悪意のある醸造師。この世界で最も恐ろしいものの一つかもしれない。酒は人の内側に直接触れる。その力を人を縛るために使うなら、剣や毒よりずっと静かに、深く、広く届く。


「ベルメへ行かないといけないかもしれない」

「わかってた」

 レティシアが即座に答えた。

「言い出しそうだったから、既に荷の準備はある」

「早すぎだろ」

「一緒に旅してると、だいたいわかるのよ。あなたがどういう顔をするときに動くか」


 醸は少し笑って、それから真顔に戻った。


 南へ。川沿いの交易都市へ。酒を武器に人の意志を奪おうとしている者がいるなら、酒を使って対抗するしかない。それが自分の仕事だ。この世界に来てから、ずっとそうだった。


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