表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/98

幕間 王都の卓に、山の酒を

山を越える道は、下りの方が長く感じられる。


 登るときは先が見えない。上ばかり見て、足元を確かめて、次の一歩に集中する。だから時間があっという間に過ぎる。だが下りは違う。目的地が見える。王都の輪郭がじわじわと近づいてきて、その分だけ着くまでの時間が引き伸ばされる。


 馬車の揺れの中で、醸はずっとそんなことを考えていた。


「また難しい顔してる」


 向かいのミーナが言う。


「している」


「素直」


「隠しても意味ない」


「でも今日は前みたいな緊張じゃないよね。なんか……重い感じ?」


 醸は少し考えた。


「準備はできてる。でも、本番の前って、いつもこういう感じになる」


「職人の顔だ」


「ミーナ、最近うまいこと言うようになったな」


「弟子だから」


 セリナが帳面から目を上げた。


「村を出るとき、村長が言っていましたね。"恥ずかしくない酒を出してこい"と」


「あの人らしい」


「でも、ちゃんと見送ってくれた」


「ああ」


 村を出る朝、村長は酒蔵の前まで来ていた。言葉は短かった。目線は荷車の樽を一通り確かめて、それから醸の顔を見て、頷いた。それだけだった。だがそれで十分だった。


 グランエッジの酒が、王都の卓に並ぼうとしている。


 あの村から始まったことが、ここまで来た。



 王都に入ったのは夕方だった。


 城門をくぐると、空気の質が変わる。土の匂いが消え、石と人と馬と油の匂いが混じる。行き交う人の数が増え、声の層が厚くなる。山の村にいる間は忘れがちだが、世界にはこれだけの人間がいて、それぞれ別の目的を持って動いている。


 だがそれは今回が初めてではない。


 前に来た時も、この喧騒の中を歩いた。侯爵家の廊下を歩き、北三番倉の夜を過ごし、ヴィスタ商会の圧力をかわしながら酒を仕込んだ。あの頃は、ただしがみつくような旅だった。


 今日は違う。


 呼ばれて来た。


「会場、あれですか」


 ミーナが馬車の小窓から顔を出して言った。


 白い石造りの二階建てが見えている。王宮そのものではなく、そこから少し離れた宮廷の会合棟だ。大仰な外見ではないが、使われている石の質が違う。正面の柱には細かい細工が施されていて、手間と時間と金の匂いがした。


「あれだ」


「思ったより……普通?」


「宮廷って、派手なものばかりでもないんだよ」


「でも中は違うんでしょ」


「中は……まあ、それなりに」


 レティシアが窓の外を眺めながら言った。


「緊張するなら今のうちにしておきなさい。入ったら顔に出せない」


「出てるって言ったのはそっちだろ」


「だから今のうちに、と言ってる」



 荷受けの者たちが樽を受け取り、会場の奥へ運んでいく。


 English Barleywine、Blonde Ale、American Pale Ale、American Amber Ale。


 グランエッジの蔵で仕込み、山を越え、ここまで来た。最後の樽が扉の中へ消えるのを見届けて、醸は小さく息をついた。


「着いた」


「着いたね」


 ミーナが隣でつぶやく。


「緊張する?」


「めちゃくちゃ」


「そうだよな」


「でも、ちゃんとやる」


「うん」


 レティシアが二人の後ろに立って、腕を組んだ。


「入るわよ。ぐずぐずしてると始まる前から疲れる」



 宿に荷を下ろし、礼服に着替えてから、醸はもう一度だけ樽の状態を確かめた。


 輸送中に揺れたせいか、English Barleywine がわずかに濁っていた。想定の範囲内だ。静置すれば一時間もあれば澄む。温度も問題ない。会合棟の倉は適切に管理されていた。


「問題ない?」


 後ろからセリナが聞いた。


「大丈夫。むしろ状態が良い」


「それなら」


「セリナさんは?」


「私は……」 セリナはわずかに間を置いた。「大丈夫ではないかもしれませんが、問題なく動けます」


「そういう意味では俺も同じだな」


「どういう意味ですか」


「緊張してるけど、仕事はできる」


 セリナは少し目元をやわらげた。


「侯爵家からも今日は人が来ます」


 その一言で、醸の胸の奥が少し動いた。


「アルフェン侯爵が?」


「はい。昨夜、先触れが来ました。正式な席への出席として」


「……動けるんだな」


「動けるどころか」 セリナは静かに続けた。「先月から政務に完全に復帰されたと聞いています。貴族院でも何度か発言されたとか」


 醸は窓の外を見た。


 あの庭を思い出した。春にはまだ遠いのに、白い光の中で杖をついて立っていたあの人を。寝室の重い空気を。Wheatwineを注いで、効くかどうかわからなくて、それでも「これしかできない」と思いながら渡した夜を。


 目の奥に、確かに人がいた。


 まだ生きてやる、という目だった。


「……会えるな」


「はい」


 セリナは答えて、また帳面を開いた。



 席が整ったのは夜に入ってからだった。


 前菜の間には、十五人ほどが集まっていた。交易庁の上役が二人、商会の代表が数名、小貴族が数名、宮廷礼典局の役人。招待客として醸とレティシアとセリナ。壁際に護衛と使用人が並ぶ。


 それぞれが別の立場から来ていて、本来ならばこの同じ卓で和やかに話すはずのない顔ぶれもいる。商会と交易庁の間には利害の摩擦がある。小貴族たちは商人を格下に見る習性がある。宮廷礼典局はどちらにも距離を保つ。


 最初の空気は、案の定、硬かった。


 礼儀正しい声。当たり障りのない話題。相手を探りながら、踏み込まず、退かず、ただ時間をやり過ごすための言葉。


 醸はその空気を肌で感じながら、最初の一杯を出すタイミングを計っていた。


 早すぎてもいけない。まだ場が整っていない。でも遅すぎると、この硬さが固定される。硬いまま終わることを誰もが受け入れてしまう。


 前菜が運ばれ、皿の音が少し場を和らげた。その隙に、醸は頷いた。


 English Barleywine を注いだ杯が、静かに並んでいく。



 最初の一口で、部屋の音が変わった。


 声が消えたわけではない。会話は続いている。だが、わずかに低くなった。人が話すとき、飲み込もうとするものがあると、声が少し落ちる。English Barleywine の深い琥珀色は、そういう重さを持っていた。


 「……これは」


 「思っていたより」


 「重い。だが、不快ではない」


 断片が届く。醸は表情を変えなかった。杯の減り方を見て、次を考えた。


 交易庁の上役の一人が、グラスを持ったまましばらく黙り、それから隣の商会代表に何かを話しかけた。さっきまでの探り合いとは違う口調だった。話題が少し具体的になった。


 うまくいっている。


 そう確信するには早い。だが、悪くはない。



 そのとき、部屋の奥の扉が開いた。


 濃紺の礼服を着た、背の高い男が入ってきた。杖はない。歩き方に迷いもない。従者が二人ついているが、本人は必要としていない様子で、むしろ従者が少し速足で合わせている。


 白くなりかけた鬢。彫りの深い顔。細い目の奥にある、何かを測り続けているような静かな光。


 記憶の中にあった。だがあの記憶の中の人は、もっと薄かった。もっと細くて、白くて、少しでも風が吹けば消えそうだった。


 醸は気づけば声に出していた。


「……侯爵」


 アルフェン侯爵は少し歩みを緩め、こちらを見た。


「来たか」


 それだけ言って、口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「また来い、と言いましたから」


 醸が答えると、侯爵はゆっくりと頷いた。


「約束を守る商人は信用できる」


「商人じゃなくて醸造師ですが」


「どちらも同じだ。言葉を守れる者とそうでない者の、二種類しかいない」


 レティシアが後ろで小さく笑うのが聞こえた。セリナは静かに礼をした。


 侯爵アルフェンは、セリナに目をやって言った。


「よく働いてくれている」


「おかげさまで。北の件も落ち着きました」


「細かいことは任せる。お前が見ているなら、心配しない」


「……恐れ入ります」


 それからまた醸に視線を戻す。


「随分、変わったな」


「私がですか」


「顔の話じゃない」


 侯爵はグラスを一つ取り上げ、醸に渡した。自分でも一つ取る。


「注いでくれ」


 醸は少し驚いたが、English Barleywine の樽へ向かい、二つのグラスを満たした。


 侯爵は受け取り、まず香りを取った。深く、時間をかけて。


「……前とは違う」


「成分は同じはずです。ただ、少し熟成が深まっています」


「そういう話ではない」


 侯爵が静かに言う。


「あの時のこれは、病人への薬だった。今日のこれは、なんだ?」


 醸は少し考えた。


「場の空気を変えるための酒です。誰かを治すためではなく、この席にいる人間が、本音に近い場所で話せるようにするための」


「ほう」


「それがうまくいくかどうかは、まだわかりませんが」


「わからないなら、なぜ出す」


「やってみないとわからないから、やります」


 侯爵はそこで初めて、声を出して笑った。短く、低く。しかしはっきりと。


「変わったな」


「そうですか」


「あの時のお前は、病床の前で少し怯えていた。今日のお前は、怯えていない」


「……気づいていたんですね」


「気づいていた。だが言わなかった。怯えながらも手を抜かなかったから」


 醸は黙った。


 あの頃のことを、思った。侯爵の寝室の重い空気。Wheatwineを注いで、効くかどうかわからなくて、それでも「これしかできない」と思いながら渡した夜を。


「あの酒が、なぜ効いたか、わかるか」


 侯爵が聞いた。


「神麦の成分と、発酵の過程で生まれた何かが、侯爵の体に合ったんだと思います」


「それは仕組みの話だ」


「……仕組み以外のことは、わかりません」


「正直なことだ」 侯爵は一口飲んだ。「私が思うのは、あの酒が本物だったから、ということだ。作り手が本気で誰かを助けようとして造ったものは、多少違いがある。医師も神官も、あの頃は形式的にしか見えなかった。だがお前は、ただ酒を出した。そこが違った」


 醸は何も言えなかった。


「今日の酒も、同じだ」


 侯爵はグラスを軽く持ち上げた。


「この場の空気を変えようとして、お前が本気で選んできた一杯だということは、飲めばわかる。仕事をした者が作った酒だ」


「……ありがとうございます」


「礼はいい。それより」


 侯爵は席の方へ視線を向けた。


「今夜の席では、何本か並べると聞いた。好きにやれ」


「よろしいのですか」


「私が呼んだ席ではないが、私が口を出す席でもない。お前が采配しろ」


「わかりました」


「一つだけ聞いていいか」


「はい」


「最後に出す酒は、何にするつもりだ」


 醸は少し間を置いて答えた。


「American Brown Aleです。地味ですが、今夜この席に来た人が帰った後も、ここでのことを静かに覚えていられるような一杯にしたくて」


「派手ではないな」


「派手ではありません」


「悪くない」


 侯爵アルフェンはそれだけ言って、席に向かった。


 背筋が真っ直ぐだった。杖なしで歩いていた。


 醸はしばらくその背中を見ていた。


 あの庭から、ここまで来た人だ。



 場の流れが変わったのは、Blonde Ale に切り替えてからだった。


 English Barleywine が場を落ち着かせるなら、Blonde Ale はそれを開く。重さが取れて、香りが明るくなる。同じ卓に座っていた人間が、少しだけ前のめりになる。


 笑い声が出た。


 小さな笑いだったが、本物だった。礼儀から来た笑いではなく、誰かが何かを言って、それが面白かったから出た声だ。


 卓の空気がひとつ動いた。


 ミーナが壁際からこちらを見ていた。小さく親指を立てる。


 セリナは帳面に何かを書き留めていた。どんな状況でも記録を怠らない人だった。


 レティシアは部屋の隅に立ち、武装解除した護衛の顔をしながら、実際には全員の動きを追っていた。


 アルフェン侯爵は席の中ほどに座り、隣の小貴族と静かに話していた。表情は穏やかだ。だが時折、卓全体に目をやる。場を読んでいる。あれが政治家の目だと、醸は思った。人と人のあいだに流れるものを、静かに計算し続ける目だ。



 American Pale Ale を出したとき、卓の空気が前を向いた。


 英国系の重さでもなく、Blonde Ale の柔らかさでもない。明るく、少し青い風のような香りが室内に広がったとき、会話の向きが変わった。これからのことを話し始めた人間が増えた。


 「グランエッジとの供給協定は」


 「輸送の問題が先決だが」


 「山道の補修費用はどちらが」


 具体的な話だった。腹の探り合いではなく、実務の言葉だ。この場で結論が出るとは思っていない。だが、話すべき内容が卓の上に乗り始めた。


 醸は聞きながら、American Amber Ale の準備をした。


 これは締めではない。つなぐための一杯だ。


 Pale Ale が前を向かせるなら、Amber Ale はその勢いを少し落ち着かせ、確かめさせる。急いで決めることではなく、持ち帰って考える価値があると思わせる。結論を出させるのではなく、続きを持ち帰らせるための酒だ。


 最後に出した一杯が卓に並んだとき、アルフェン侯爵が醸の傍に来た。二度目だった。


「思ったより上手くやっているな」


「まだ途中です」


「そうか」


 侯爵は杯を軽く傾け、Amber Ale の色を見た。


「次が最後か」


「はい。American Brown Ale です」


「……楽しみにしている」


 静かにそう言って、席に戻った。



 最後の一杯は、何も言わずに配った。


 American Brown Ale の深い褐色は、派手ではない。香りも控えめで、最初の一口では物足りないと感じる人間もいるかもしれない。だが飲み進めるうちに、焦がした麦の甘みと、ほんのかすかな土の香りが残る。どこか懐かしいような、落ち着くような後味だ。


 卓の会話は、もう硬くなかった。


 どこかで笑い声がして、誰かが杯を傾けながら向かいの相手に何かを問いかけていた。さっきまで探り合っていた商会代表と交易庁の役人が、いつのまにか同じ方向を見ながら話をしていた。


 派手な変化ではない。


 だが確かに、今夜この卓に来る前と来た後では、違う。


 醸は壁際に下がり、場を眺めた。


 自分の酒が、人と人の間で動いている。


 目に見えない何かを少しずつ動かしている。


 それが嬉しいというより、ただ静かに満足だった。


 帰り際、アルフェン侯爵が醸のそばを通りがかった。立ち止まりはしなかった。ただ、通り過ぎる一瞬に、低く言った。


「また来い」


 今度は命令ではなかった。


 招待だった。



 会合棟を出たのは、夜も更けた頃だった。


 宮廷礼典局の担当官が扉の外まで見送りに来て、醸に言った。


「宴席の設計者、というものが本当にいるとは思っていませんでした」


「たまたまうまくいっただけです」


「そう言える人間ほど、繰り返せる」


 醸は礼を言い、石畳へ出た。


 外は夜で、石畳が少し濡れていた。雲の間から星がわずかに見える。朝に窓から眺めた、あの複雑な匂いがまだ地面に残っていた。


 レティシアが隣に並んだ。ミーナは少し後ろで、空を見上げながら歩いている。セリナは帳面を閉じて、静かについてくる。


「どうだった」


 レティシアが聞いた。


「……思っていたより、ちゃんとできた気がする」


「うん」


 少しの間、四人とも黙って歩いた。石畳の音だけが続く。


「侯爵、変わってたね」


 ミーナが言った。


「そうだな」


「最初に会った時のあの人を知ってるから、余計に」


「ああ」


 醸は足を止めないまま答えた。


 あの寝室の空気を思った。重く沈んでいた部屋を。Wheatwine を注いで、効くかどうかわからなくて、それでも「これしかできない」と思いながら杯を渡した夜を。


 あの時の侯爵の目に、確かに人がいた。


 まだ生きてやる、という目だった。


 今夜、あの目が杖なしで歩いていた。


「あなたの酒のおかげだとは言わないけど」


 レティシアが続ける。


「うん」


「でも、あの時手を抜かなかったことは、あの人の中に残ってると思う」


 醸は何も言わなかった。


 答えを持っていないわけではない。ただ、言葉にする必要を感じなかった。


 王都の夜空は、村より星が少ない。光が多すぎるせいだ。それでも、雲の切れ目に二つ三つ、かすかに光っている。


 また来い、と言った人が、今日また呼んでくれた。


 今度は病床ではなく、宮廷の卓で。


 今度は薬ではなく、場を設計する酒として。


「帰ろう」


 醸は言った。


「グランエッジに」


「うん」


 ミーナが答えた。


「帰ったら仕込みがある」


「いつも通りね」


 レティシアが言う。


「いつも通りだ」


 石畳の音が続く。


 王都の夜は長い。だが朝は必ず来る。そして朝が来たら、山道を戻る馬車に乗って、グランエッジへ帰る。


 酒蔵が待っている。


 神麦が待っている。


 次の一杯が、まだそこにいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ