幕間 王都の卓に、山の酒を
山を越える道は、下りの方が長く感じられる。
登るときは先が見えない。上ばかり見て、足元を確かめて、次の一歩に集中する。だから時間があっという間に過ぎる。だが下りは違う。目的地が見える。王都の輪郭がじわじわと近づいてきて、その分だけ着くまでの時間が引き伸ばされる。
馬車の揺れの中で、醸はずっとそんなことを考えていた。
「また難しい顔してる」
向かいのミーナが言う。
「している」
「素直」
「隠しても意味ない」
「でも今日は前みたいな緊張じゃないよね。なんか……重い感じ?」
醸は少し考えた。
「準備はできてる。でも、本番の前って、いつもこういう感じになる」
「職人の顔だ」
「ミーナ、最近うまいこと言うようになったな」
「弟子だから」
セリナが帳面から目を上げた。
「村を出るとき、村長が言っていましたね。"恥ずかしくない酒を出してこい"と」
「あの人らしい」
「でも、ちゃんと見送ってくれた」
「ああ」
村を出る朝、村長は酒蔵の前まで来ていた。言葉は短かった。目線は荷車の樽を一通り確かめて、それから醸の顔を見て、頷いた。それだけだった。だがそれで十分だった。
グランエッジの酒が、王都の卓に並ぼうとしている。
あの村から始まったことが、ここまで来た。
王都に入ったのは夕方だった。
城門をくぐると、空気の質が変わる。土の匂いが消え、石と人と馬と油の匂いが混じる。行き交う人の数が増え、声の層が厚くなる。山の村にいる間は忘れがちだが、世界にはこれだけの人間がいて、それぞれ別の目的を持って動いている。
だがそれは今回が初めてではない。
前に来た時も、この喧騒の中を歩いた。侯爵家の廊下を歩き、北三番倉の夜を過ごし、ヴィスタ商会の圧力をかわしながら酒を仕込んだ。あの頃は、ただしがみつくような旅だった。
今日は違う。
呼ばれて来た。
「会場、あれですか」
ミーナが馬車の小窓から顔を出して言った。
白い石造りの二階建てが見えている。王宮そのものではなく、そこから少し離れた宮廷の会合棟だ。大仰な外見ではないが、使われている石の質が違う。正面の柱には細かい細工が施されていて、手間と時間と金の匂いがした。
「あれだ」
「思ったより……普通?」
「宮廷って、派手なものばかりでもないんだよ」
「でも中は違うんでしょ」
「中は……まあ、それなりに」
レティシアが窓の外を眺めながら言った。
「緊張するなら今のうちにしておきなさい。入ったら顔に出せない」
「出てるって言ったのはそっちだろ」
「だから今のうちに、と言ってる」
荷受けの者たちが樽を受け取り、会場の奥へ運んでいく。
English Barleywine、Blonde Ale、American Pale Ale、American Amber Ale。
グランエッジの蔵で仕込み、山を越え、ここまで来た。最後の樽が扉の中へ消えるのを見届けて、醸は小さく息をついた。
「着いた」
「着いたね」
ミーナが隣でつぶやく。
「緊張する?」
「めちゃくちゃ」
「そうだよな」
「でも、ちゃんとやる」
「うん」
レティシアが二人の後ろに立って、腕を組んだ。
「入るわよ。ぐずぐずしてると始まる前から疲れる」
宿に荷を下ろし、礼服に着替えてから、醸はもう一度だけ樽の状態を確かめた。
輸送中に揺れたせいか、English Barleywine がわずかに濁っていた。想定の範囲内だ。静置すれば一時間もあれば澄む。温度も問題ない。会合棟の倉は適切に管理されていた。
「問題ない?」
後ろからセリナが聞いた。
「大丈夫。むしろ状態が良い」
「それなら」
「セリナさんは?」
「私は……」 セリナはわずかに間を置いた。「大丈夫ではないかもしれませんが、問題なく動けます」
「そういう意味では俺も同じだな」
「どういう意味ですか」
「緊張してるけど、仕事はできる」
セリナは少し目元をやわらげた。
「侯爵家からも今日は人が来ます」
その一言で、醸の胸の奥が少し動いた。
「アルフェン侯爵が?」
「はい。昨夜、先触れが来ました。正式な席への出席として」
「……動けるんだな」
「動けるどころか」 セリナは静かに続けた。「先月から政務に完全に復帰されたと聞いています。貴族院でも何度か発言されたとか」
醸は窓の外を見た。
あの庭を思い出した。春にはまだ遠いのに、白い光の中で杖をついて立っていたあの人を。寝室の重い空気を。Wheatwineを注いで、効くかどうかわからなくて、それでも「これしかできない」と思いながら渡した夜を。
目の奥に、確かに人がいた。
まだ生きてやる、という目だった。
「……会えるな」
「はい」
セリナは答えて、また帳面を開いた。
席が整ったのは夜に入ってからだった。
前菜の間には、十五人ほどが集まっていた。交易庁の上役が二人、商会の代表が数名、小貴族が数名、宮廷礼典局の役人。招待客として醸とレティシアとセリナ。壁際に護衛と使用人が並ぶ。
それぞれが別の立場から来ていて、本来ならばこの同じ卓で和やかに話すはずのない顔ぶれもいる。商会と交易庁の間には利害の摩擦がある。小貴族たちは商人を格下に見る習性がある。宮廷礼典局はどちらにも距離を保つ。
最初の空気は、案の定、硬かった。
礼儀正しい声。当たり障りのない話題。相手を探りながら、踏み込まず、退かず、ただ時間をやり過ごすための言葉。
醸はその空気を肌で感じながら、最初の一杯を出すタイミングを計っていた。
早すぎてもいけない。まだ場が整っていない。でも遅すぎると、この硬さが固定される。硬いまま終わることを誰もが受け入れてしまう。
前菜が運ばれ、皿の音が少し場を和らげた。その隙に、醸は頷いた。
English Barleywine を注いだ杯が、静かに並んでいく。
最初の一口で、部屋の音が変わった。
声が消えたわけではない。会話は続いている。だが、わずかに低くなった。人が話すとき、飲み込もうとするものがあると、声が少し落ちる。English Barleywine の深い琥珀色は、そういう重さを持っていた。
「……これは」
「思っていたより」
「重い。だが、不快ではない」
断片が届く。醸は表情を変えなかった。杯の減り方を見て、次を考えた。
交易庁の上役の一人が、グラスを持ったまましばらく黙り、それから隣の商会代表に何かを話しかけた。さっきまでの探り合いとは違う口調だった。話題が少し具体的になった。
うまくいっている。
そう確信するには早い。だが、悪くはない。
そのとき、部屋の奥の扉が開いた。
濃紺の礼服を着た、背の高い男が入ってきた。杖はない。歩き方に迷いもない。従者が二人ついているが、本人は必要としていない様子で、むしろ従者が少し速足で合わせている。
白くなりかけた鬢。彫りの深い顔。細い目の奥にある、何かを測り続けているような静かな光。
記憶の中にあった。だがあの記憶の中の人は、もっと薄かった。もっと細くて、白くて、少しでも風が吹けば消えそうだった。
醸は気づけば声に出していた。
「……侯爵」
アルフェン侯爵は少し歩みを緩め、こちらを見た。
「来たか」
それだけ言って、口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「また来い、と言いましたから」
醸が答えると、侯爵はゆっくりと頷いた。
「約束を守る商人は信用できる」
「商人じゃなくて醸造師ですが」
「どちらも同じだ。言葉を守れる者とそうでない者の、二種類しかいない」
レティシアが後ろで小さく笑うのが聞こえた。セリナは静かに礼をした。
侯爵アルフェンは、セリナに目をやって言った。
「よく働いてくれている」
「おかげさまで。北の件も落ち着きました」
「細かいことは任せる。お前が見ているなら、心配しない」
「……恐れ入ります」
それからまた醸に視線を戻す。
「随分、変わったな」
「私がですか」
「顔の話じゃない」
侯爵はグラスを一つ取り上げ、醸に渡した。自分でも一つ取る。
「注いでくれ」
醸は少し驚いたが、English Barleywine の樽へ向かい、二つのグラスを満たした。
侯爵は受け取り、まず香りを取った。深く、時間をかけて。
「……前とは違う」
「成分は同じはずです。ただ、少し熟成が深まっています」
「そういう話ではない」
侯爵が静かに言う。
「あの時のこれは、病人への薬だった。今日のこれは、なんだ?」
醸は少し考えた。
「場の空気を変えるための酒です。誰かを治すためではなく、この席にいる人間が、本音に近い場所で話せるようにするための」
「ほう」
「それがうまくいくかどうかは、まだわかりませんが」
「わからないなら、なぜ出す」
「やってみないとわからないから、やります」
侯爵はそこで初めて、声を出して笑った。短く、低く。しかしはっきりと。
「変わったな」
「そうですか」
「あの時のお前は、病床の前で少し怯えていた。今日のお前は、怯えていない」
「……気づいていたんですね」
「気づいていた。だが言わなかった。怯えながらも手を抜かなかったから」
醸は黙った。
あの頃のことを、思った。侯爵の寝室の重い空気。Wheatwineを注いで、効くかどうかわからなくて、それでも「これしかできない」と思いながら渡した夜を。
「あの酒が、なぜ効いたか、わかるか」
侯爵が聞いた。
「神麦の成分と、発酵の過程で生まれた何かが、侯爵の体に合ったんだと思います」
「それは仕組みの話だ」
「……仕組み以外のことは、わかりません」
「正直なことだ」 侯爵は一口飲んだ。「私が思うのは、あの酒が本物だったから、ということだ。作り手が本気で誰かを助けようとして造ったものは、多少違いがある。医師も神官も、あの頃は形式的にしか見えなかった。だがお前は、ただ酒を出した。そこが違った」
醸は何も言えなかった。
「今日の酒も、同じだ」
侯爵はグラスを軽く持ち上げた。
「この場の空気を変えようとして、お前が本気で選んできた一杯だということは、飲めばわかる。仕事をした者が作った酒だ」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。それより」
侯爵は席の方へ視線を向けた。
「今夜の席では、何本か並べると聞いた。好きにやれ」
「よろしいのですか」
「私が呼んだ席ではないが、私が口を出す席でもない。お前が采配しろ」
「わかりました」
「一つだけ聞いていいか」
「はい」
「最後に出す酒は、何にするつもりだ」
醸は少し間を置いて答えた。
「American Brown Aleです。地味ですが、今夜この席に来た人が帰った後も、ここでのことを静かに覚えていられるような一杯にしたくて」
「派手ではないな」
「派手ではありません」
「悪くない」
侯爵アルフェンはそれだけ言って、席に向かった。
背筋が真っ直ぐだった。杖なしで歩いていた。
醸はしばらくその背中を見ていた。
あの庭から、ここまで来た人だ。
場の流れが変わったのは、Blonde Ale に切り替えてからだった。
English Barleywine が場を落ち着かせるなら、Blonde Ale はそれを開く。重さが取れて、香りが明るくなる。同じ卓に座っていた人間が、少しだけ前のめりになる。
笑い声が出た。
小さな笑いだったが、本物だった。礼儀から来た笑いではなく、誰かが何かを言って、それが面白かったから出た声だ。
卓の空気がひとつ動いた。
ミーナが壁際からこちらを見ていた。小さく親指を立てる。
セリナは帳面に何かを書き留めていた。どんな状況でも記録を怠らない人だった。
レティシアは部屋の隅に立ち、武装解除した護衛の顔をしながら、実際には全員の動きを追っていた。
アルフェン侯爵は席の中ほどに座り、隣の小貴族と静かに話していた。表情は穏やかだ。だが時折、卓全体に目をやる。場を読んでいる。あれが政治家の目だと、醸は思った。人と人のあいだに流れるものを、静かに計算し続ける目だ。
American Pale Ale を出したとき、卓の空気が前を向いた。
英国系の重さでもなく、Blonde Ale の柔らかさでもない。明るく、少し青い風のような香りが室内に広がったとき、会話の向きが変わった。これからのことを話し始めた人間が増えた。
「グランエッジとの供給協定は」
「輸送の問題が先決だが」
「山道の補修費用はどちらが」
具体的な話だった。腹の探り合いではなく、実務の言葉だ。この場で結論が出るとは思っていない。だが、話すべき内容が卓の上に乗り始めた。
醸は聞きながら、American Amber Ale の準備をした。
これは締めではない。つなぐための一杯だ。
Pale Ale が前を向かせるなら、Amber Ale はその勢いを少し落ち着かせ、確かめさせる。急いで決めることではなく、持ち帰って考える価値があると思わせる。結論を出させるのではなく、続きを持ち帰らせるための酒だ。
最後に出した一杯が卓に並んだとき、アルフェン侯爵が醸の傍に来た。二度目だった。
「思ったより上手くやっているな」
「まだ途中です」
「そうか」
侯爵は杯を軽く傾け、Amber Ale の色を見た。
「次が最後か」
「はい。American Brown Ale です」
「……楽しみにしている」
静かにそう言って、席に戻った。
最後の一杯は、何も言わずに配った。
American Brown Ale の深い褐色は、派手ではない。香りも控えめで、最初の一口では物足りないと感じる人間もいるかもしれない。だが飲み進めるうちに、焦がした麦の甘みと、ほんのかすかな土の香りが残る。どこか懐かしいような、落ち着くような後味だ。
卓の会話は、もう硬くなかった。
どこかで笑い声がして、誰かが杯を傾けながら向かいの相手に何かを問いかけていた。さっきまで探り合っていた商会代表と交易庁の役人が、いつのまにか同じ方向を見ながら話をしていた。
派手な変化ではない。
だが確かに、今夜この卓に来る前と来た後では、違う。
醸は壁際に下がり、場を眺めた。
自分の酒が、人と人の間で動いている。
目に見えない何かを少しずつ動かしている。
それが嬉しいというより、ただ静かに満足だった。
帰り際、アルフェン侯爵が醸のそばを通りがかった。立ち止まりはしなかった。ただ、通り過ぎる一瞬に、低く言った。
「また来い」
今度は命令ではなかった。
招待だった。
会合棟を出たのは、夜も更けた頃だった。
宮廷礼典局の担当官が扉の外まで見送りに来て、醸に言った。
「宴席の設計者、というものが本当にいるとは思っていませんでした」
「たまたまうまくいっただけです」
「そう言える人間ほど、繰り返せる」
醸は礼を言い、石畳へ出た。
外は夜で、石畳が少し濡れていた。雲の間から星がわずかに見える。朝に窓から眺めた、あの複雑な匂いがまだ地面に残っていた。
レティシアが隣に並んだ。ミーナは少し後ろで、空を見上げながら歩いている。セリナは帳面を閉じて、静かについてくる。
「どうだった」
レティシアが聞いた。
「……思っていたより、ちゃんとできた気がする」
「うん」
少しの間、四人とも黙って歩いた。石畳の音だけが続く。
「侯爵、変わってたね」
ミーナが言った。
「そうだな」
「最初に会った時のあの人を知ってるから、余計に」
「ああ」
醸は足を止めないまま答えた。
あの寝室の空気を思った。重く沈んでいた部屋を。Wheatwine を注いで、効くかどうかわからなくて、それでも「これしかできない」と思いながら杯を渡した夜を。
あの時の侯爵の目に、確かに人がいた。
まだ生きてやる、という目だった。
今夜、あの目が杖なしで歩いていた。
「あなたの酒のおかげだとは言わないけど」
レティシアが続ける。
「うん」
「でも、あの時手を抜かなかったことは、あの人の中に残ってると思う」
醸は何も言わなかった。
答えを持っていないわけではない。ただ、言葉にする必要を感じなかった。
王都の夜空は、村より星が少ない。光が多すぎるせいだ。それでも、雲の切れ目に二つ三つ、かすかに光っている。
また来い、と言った人が、今日また呼んでくれた。
今度は病床ではなく、宮廷の卓で。
今度は薬ではなく、場を設計する酒として。
「帰ろう」
醸は言った。
「グランエッジに」
「うん」
ミーナが答えた。
「帰ったら仕込みがある」
「いつも通りね」
レティシアが言う。
「いつも通りだ」
石畳の音が続く。
王都の夜は長い。だが朝は必ず来る。そして朝が来たら、山道を戻る馬車に乗って、グランエッジへ帰る。
酒蔵が待っている。
神麦が待っている。
次の一杯が、まだそこにいる。




