幕間 蒸気の町、鉄と麦の約束
王都を発って二日目の昼、街道が川沿いに折れると、風の匂いが変わった。
煤。焼けた鉄。それから、湿った蒸気。
「……煙?」
ミーナが幌から身を乗り出した。
「火事じゃないよね。竈の煙とも違う」
「工業町ですよ」
御者台のザックが前を向いたまま答える。
「川の力で槌を落とし、炭で鉄を焼く。王都に出回る金具の半分は、ここの生まれだそうです」
街道の先、川の両岸に、石と木の工房が肩を寄せ合っていた。水車が回り、どこかで規則正しい槌の音が響く。屋根のあちこちから細い蒸気が立ちのぼり、昼の光の中で白くほどけていく。
醸は、しばらく黙ってその景色を見ていた。
油と鉄と蒸気の匂い。
前世で勤めていた町工場の片隅と、同じ匂いがした。
立ち寄る理由は、向こうからやって来た。王都からの長い下りで、荷馬車の車輪の留め具が緩んだのだ。樽と瓶を積んだままでは、山道には入れない。
「半日ください」
ザックが手近な鍛冶工房へ馬車を入れ、一行は久しぶりに地面へ降りた。
修理を待つ間、醸は工房の奥から目が離せなくなった。
炉の脇に、見慣れない鉄の釜が据えられていた。胴は厚く、蓋は太い留め具で締められ、横腹から細い管が伸びている。管の先では小さな弁が、蒸気を吐いては閉じ、吐いては閉じを繰り返していた。
「触るなよ、客人」
声の主は、腕の太い大男だった。煤で黒くなった前掛け。この工房の頭らしい。
「熱いからじゃない。まだ癖の読めてない釜だからだ」
「……圧力で、湯の温度を保つのか」
醸が言うと、大男の眉が動いた。
「わかるのか」
「仕事柄、湯の温度には毎日振り回されてる」
工房頭は、意外なほど素直に話した。蒸気で槌を動かす仕掛けはうまくいった。だが、この圧力の釜は行き先がない。鉄を焼くには半端で、炊事には大げさで、王都の商人は「爆ぜたらどうする」と買いたがらない。
「悪い釜じゃないんだ」
工房頭は、出来の悪い弟子を庇うような声で言った。
「ただ、こいつの良さが要る仕事に、まだ出会ってない」
醸は、釜の弁が白い息を吐くのを見ていた。
一定の火。一定の湯。ぶれない温度。
喉から手が出るほど欲しいものが、目の前で、ただ静かに湯気を吐いている。
夕方、修理を終えた工房の裏庭で、醸は王都から持ち帰った小樽を一つ開けた。晩餐会の残りの Blonde Ale だ。
昼夜の交代で働く職人たちが、最初は遠慮がちに、やがて短い列を作って杯を受け取った。
「……うまいな」
「角がない。なのに薄くない」
「腹の底の強張りが、ほどける」
槌を振る腕は太いが、その肩は皆、固かった。火と鉄の町は、休み方の下手な町でもあるらしい。
工房頭は二杯目を飲み干して、醸をじっと見た。
「あんた、これをあの山の上で造ってるのか」
「ああ。ただし、湯の温度と毎日喧嘩しながらな」
「……釜を見ただけで使い道を当てた客は、あんたが初めてだ」
話は、日が落ちる前にまとまった。
工房は試作の圧力釜を一基、グランエッジへ運んで据え付ける。機械鍛冶が数人、山道を上って調整に付き合う。釜が酒造りの現場で何に耐え、どこで音を上げるか――その記録を、包み隠さず工房へ返す。
対価は、銀貨ではなく酒だった。働く者の強張りをほどく樽を、季節ごとに町へ下ろす。
「数量と期日の詰めは私が」
セリナが帳面を開き、素早く書き付けていく。レティシアは釜の留め具を指で叩き、「爆ぜない保証は」と真顔で聞いて、工房頭に「だから試験からだ」と返されていた。
ミーナは、弁の吐く蒸気に手をかざしていた。
「師匠、これ、魔力じゃないんだね」
「ただの水と火だ」
「魔力なしで、ここまでやるんだ……」
「人間は、ないなら無いなりに工夫する。前世の連中も、こっちの連中もな」
帰り際、醸は思い出して、荷から瓶を一本取り出した。木と金具で自作した打栓具の話をすると、工房頭は瓶の口を一目見て鼻を鳴らした。
「素人細工だ」
「だろうな」
「うちの若いのに図面を引かせろ。口の金具の精度が出れば、栓は嘘みたいに決まる」
「図面なら、走り書きがある」
「見せろ」
その走り書きを挟んで、鍛冶と醸造師が顔を寄せ合う。瓶職人と樽職人も山へ呼ぼう、という話になったのは、それからすぐのことだった。
翌朝、馬車は山道へ入った。
振り返ると、川沿いの町はまだ白い蒸気を吐いていた。
「賑やかになるわね」
レティシアが言う。
「ああ」
「あんた、王都の宮廷より、あの工房の方がずっといい顔してたわよ」
「……そうか」
否定はしなかった。
鉄と蒸気と、働く者の肩の強張り。あの町にあったものは、醸のよく知っているものばかりだった。
数日のうちに、機械鍛冶たちが山道を上ってくる。
蒸気は、山の上でも白い息を吐くようになる。
村に帰ったら、村長に新しい仕込み棟の相談をしよう。釜を据える床と、瓶を並べる棚と、図面を広げる机が要る。
山の酒蔵が、少しずつ、工房になっていく。
それは酒が、この世界の暮らしの深くへ、根を張っていくということでもあった。




