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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第六十話 琥珀は、言葉なき説得を宿して ―American Amber Ale―

王都行きの準備が本格化するにつれ、グランエッジの蔵にはこれまでとは違う種類の緊張が満ち始めていた。


 仕込みの忙しさは、いつもどおりだ。


 神麦の選別、樽の洗浄、火床の管理、療養酒の振り分け、村人や旅人への対応。そこに加えて、王都の晩餐会へ持ち込む酒の選定、輸送の段取り、護衛の手配、帳簿の整理、そして何より――宮廷という場所に対する心構え。


 English Barleywine。


 Blonde Ale。


 American Pale Ale。


 ここまでは、筋が通っていた。


 重厚な誇りを示す酒。


 場を和らげる酒。


 未来へ進ませる酒。


 だが、三つを並べたところで、醸はまだ胸のどこかに小さな引っかかりを覚えていた。


 足りないものがある。


 決定的に不足しているわけではない。むしろ、この三本だけでも王都の晩餐会で十分に戦えるだろう。けれど、宮廷という場を思い浮かべるたび、頭の片隅で同じ感覚が灯るのだ。


 強さだけではない。


 和みだけでもない。


 新しさだけでもない。


 その三つをつなぎ、落ち着かせ、相手に“納得”させる何か。


 派手に目立たず、しかし軽視もできない色。


 会話の主役ではないが、気づけば場の芯に座っているような一杯。


「……American Amber Ale、かな」


 朝の蔵で樽を拭きながら、醸がぽつりと呟いた。


 ミーナがすぐに振り向く。


「また新しいの?」


「うん」


「今度はどんなお酒?」


「赤っぽい琥珀色のエールだな。American Pale Ale より落ち着いてて、でも重すぎない」


「また“間の酒”って感じ?」


「そうそう。よくわかったな」


「弟子だから」


「便利だなあ、その言葉」


 セリナは帳面を閉じ、いつものように整理して語り始めた。


「English Barleywine は“格”を示します。Blonde Ale は“同席できる空気”を作る。American Pale Ale は“新しい方向”を感じさせる。ですが、その三つだけだと、やや輪郭が強すぎるんです」


「輪郭?」


「ええ。いずれも役割がはっきりしています。だからこそ、間にひとつ“落ち着いた説得力”を持つ酒があると強い」


「それが Amber Ale?」


「そう考えるのが自然でしょうね。宮廷には、“派手ではないが信頼できる”ものを好む層も必ずいますから」


 窓辺で剣帯の手入れをしていたレティシアが、ちらりとこちらを見る。


「なるほどね。王都って、派閥とか好みとか面倒そうだもの」


「面倒です」


 セリナが即答する。


「派手な新しさを歓迎する者もいれば、それを軽薄と嫌う者もいる。重厚さを愛する者もいれば、それを古臭いと見る者もいる。なら、その中間を落ち着かせる酒がある方がいい」


「やっぱり王都って面倒だな……」


 醸がうめくと、レティシアが肩をすくめた。


「今さらね」


「今さらだけど、何回でも言いたい」


「好きに言えば」


 だが、実際それが本質だった。


 宮廷は一枚岩ではない。


 王がいて、王家がいて、貴族がいて、文官がいて、騎士がいて、魔術師がいて、商人もまた影で動く。彼らは同じ席につき、同じ料理を口にしても、見ているものは違う。


 ならば酒もまた、一方向では足りない。


 その席に必要なのは、ただ圧倒する酒ではない。


 “この蔵は信頼できる”と相手に思わせる酒だ。


「よし」


 醸は手を打った。


「やろう。American Amber Ale で、王都向けの組み合わせをひとつ完成させる」


「完成って言うと、ちょっと節目っぽいね」


 ミーナが嬉しそうに言う。


「実際、節目だよ」


「そっか」


「王都に行く前の仕上げになる」


     


 American Amber Ale の仕込みは、これまでの流れを全部受け継ぎながら、少しずつ力点を変える作業だった。


 まず神麦は、淡色麦芽だけでなく、ほどよく火入れした中間色の麦芽を多めに使う。焦がしすぎず、しかし白いパンのような軽さだけでも終わらないようにする。狙うのは、ビスケット、軽いキャラメル、焼いた穀物の皮、そしてほんの少しのナッツ香。


 American Pale Ale の時ほどホップを前面には出さない。


 だが、アメリカンらしい明るい香りの気配は残す。


 派手に跳ねるのではなく、麦の温かみを背負って前へ出る形だ。


 作業台に並んだ麦芽を見ながら、ミーナが首を傾げた。


「今回は、見た目からしてちょっと違うね」


「うん。淡い麦ばっかりじゃなくて、色の深いのも使う」


「苦くなる?」


「苦いっていうより、厚みが出る」


「厚み」


「American Pale Ale は“風”だったろ」


「うん」


「Amber Ale は“風が通る部屋”みたいな感じにしたい」


「……なんかちょっとわかるかも」


「本当か?」


「うん。外の空気は入ってくるけど、落ち着いて座れる場所」


「それだな」


 石臼で挽かれた神麦は、これまでより少し濃い香りを放つ。


 湯へ入れ、櫂で混ぜていくと、立ち上る蒸気には焼いたパン、薄い飴、乾いた木の実のような温かな気配が混ざり始めた。


 醸はその香りを確かめながら、胸の中で組み立てを繰り返す。


 American Pale Ale が“進める酒”なら、Amber Ale は“進む理由を落ち着いて言葉にできる酒”だ。


 勢いだけでは人はついてこない。


 けれど、納得が伴えば人は動く。


 政治でも、商談でも、旅でも、それは同じだ。


「今回は、香りで驚かせるより、飲んでからじわっとわかる方がいい」


 醸が呟くと、セリナが記録しながら頷く。


「宮廷向きですね」


「だろ?」


「ええ。大声の新しさより、“落ち着いた説得力”の方が刺さる相手は多いでしょう」


「結局そこなんだよな」


「王都で必要なのは、目立つことではなく、侮られないことです」


「セリナさん、その言い方、最近どんどん鋭くなってない?」


「環境のせいです」


「王都って罪深いな」


「本当にそう思います」


 レティシアが木杯を片手に近づいてきた。


「じゃあ今回の酒は、王都の誰に向けるの?」


「誰に、か……」


 醸は少し考える。


「派手なものに飛びつかない人たち、かな」


「保守派?」


「それもある。でも、ただ古いものが好きな人じゃない。ちゃんと良し悪しを見ようとする人。目立つ言葉や権威じゃなくて、質で判断する人」


「そんなの宮廷にいるの?」


 ミーナが素直に言った。


「いてくれないと困る」


「たしかに」


「いるでしょう」


 セリナが静かに言う。


「どんな場所にも、最後にものを決めるのは“うるさくないが見ている人間”です」


「うわ、怖い」


 ミーナが身を震わせる。


「でも、その人たちに届けば強い」


「そういうこと」


 煮沸の途中、醸はAmerican Pale Ale に使った青く明るい香りの素材を、ごく控えめに加えた。


 それだけでは終わらない。


 さらに、山の斜面で見つけた赤茶の樹皮を薄く乾燥させたものを、ほんの少量だけ使う。以前の試験で、香りに温かみと落ち着きを与え、飲んだ者の気持ちを静かに整える作用が出ることを確かめていた。


「また何か入れた」


 ミーナの声が弾む。


「少しだけな」


「今回はどうなるの?」


「たぶん、“焦って喋らなくなる”」


「地味」


「でも大事」


「たしかに」


 レティシアが即座に同意した。


「宮廷でそれは、かなり大事」


「でしょ」


「焦って余計なこと言う人、多そうだもの」


「いるだろうなあ……」


 醸は遠い目をした。


「俺もその枠に片足突っ込みそうで嫌なんだよ」


「片足じゃ済まないかも」


「弟子、辛辣だな」


「でも心配してるよ?」


「それはありがたい」


 発酵が始まると、蔵の空気は不思議な安定感を帯びた。


 American Pale Ale のような“抜ける”感じではない。


 English Barleywine のように“沈む”感じでもない。


 その中間で、ふわりと腰を下ろすような気配。


 発酵桶の泡は力強いが荒れず、香りは華やかすぎず鈍くもない。近づけば、淡い柑橘の明るさの奥に、焼いた麦の温かな甘みがしっかり座っているのがわかる。


 夜、醸は火床の前に腰を下ろし、その香りをぼんやりと吸い込んでいた。


「……説得、か」


 前世では、酒は主に“嗜好品”だった。


 もちろん贈答にも使われたし、場を和ませる役目もあった。だがここまで、“誰かを納得させるための道具”として意識することはなかった。


 だがこの世界では違う。


 ビールは薬であり、技術であり、信用であり、時に言葉以上の意味を持つ。


 もし王都で何かを示すのなら、吠えるのではなく、相手の中に静かに残るものが必要だ。


 American Amber Ale は、そのための一杯になるかもしれない。


     


 完成した酒は、名前どおり見事な琥珀色をしていた。


 明るすぎず、暗すぎず。


 窓から差す午後の光を受けると、赤みを含んだ金色が静かに揺れる。派手にきらめくというより、見ているうちに目を奪われるような色だった。


「わあ……」


 ミーナが思わず声を漏らす。


「きれい」


「今回は見た目もかなり狙った」


「American Pale Ale より落ち着いてるね」


「うん。でも、地味じゃない」


「それ、ちょっとわかる」


 香りを取る。


 焼いたパン、ビスケット、軽いキャラメル、少しの柑橘、そして温かな樹皮のような奥行き。


 醸はまず自分で口に含んだ。


 最初に来るのは、穏やかな麦の旨み。


 続いて柔らかな甘みと、ほどよい苦味。


 American Pale Ale のように香りが前へ飛び出すのではなく、全体がきれいにまとまりながら、少しずつ輪郭を見せてくる。後味には上品な余韻が残り、もう一口飲みたくなる。


「……いいな」


「短い」


 ミーナが即座に言う。


「今回は短いやつだ」


「本物?」


「本物」


「やった」


 香りの評価係のミーナは杯を受け取って香りを確かめ、少しだけ目を丸くした。


「これ……なんか、落ち着く」


「うん」


「でも眠くなるとか、ぼんやりするとかじゃない」


「そうだな」


「ちゃんと考えられるまま、慌てなくなる感じ」


「それを狙った」


「すごい。王都の人に飲ませたい」


「飲ませるんだよ」


 次にレティシアが試飲した。


 彼女は一口飲んで、いつもより長く黙ってから言った。


「これは、いい意味で“構えなくていい酒”ね」


「Blonde Ale とどう違う?」


「Blonde Ale は、最初の壁を低くする酒。これは、席についてからの姿勢を整える酒」


「姿勢」


「ええ。無駄に威張らず、かといって引きすぎず。ちゃんと相手を見る気になる」


「なるほどな」


「騎士同士の話し合いでも欲しいわね、これ」


「それは褒め言葉として受け取る」


「褒めてるわよ」


 最後にセリナが口をつけた。


 彼女は今回、かなり満足そうな顔をした。


 それは珍しいことだった。普段のセリナは、どれだけ優れた酒でもまず先に“この先どんな面倒を呼ぶか”を考える顔をする。だが今は、その前に出来そのものへ納得している顔だった。


「……これは、強いですね」


「派手じゃないのに?」


 醸が問う。


「派手ではないからこそ、です」


「どういう意味で?」


「宮廷では、派手なものは警戒されます。わかりやすく重厚なものは品評される。ですが、この酒はそのどちらにも偏らない。“自然に良い”という形で受け入れられる」


「自然に良い、か」


「ええ。そして、そういうものがいちばん根深く残る」


「褒めてるんだよな?」


「もちろんです」


 セリナは頷いた。


「English Barleywine が誇りを示す酒、Blonde Ale が同席を許す酒、American Pale Ale が一歩先へ進ませる酒だとすれば……American Amber Ale は、“その一歩に納得を与える酒”ということですね」


「……いいな、それ」


 醸は素直にそう言った。


 納得を与える酒。


 まさに欲しかった言葉だった。


     


 その日の夕刻、王都からまたひとつ使者がやって来た。


 今度はエルマリアではなく、年配の男だった。装いは控えめだが、靴も外套も質がいい。名乗りは「宮廷会食監修役補佐」とだけ。あまり目立つ役職ではないが、逆にそれが妙に現実味を帯びていた。


 会食の席次や献立の流れを見ながら、どの酒をどの順番で出すかを調整する役らしい。


「ずいぶん細かいところまで来るんですね」


 醸が言うと、男は穏やかに笑った。


「宮廷とは、細かいところに本質が潜む場ですので」


「うわ、王都っぽい」


 ミーナが小声で呟き、セリナに軽く肘でつつかれている。


 男は持参した覚書を見ながら言った。


「English Barleywine は、主宴席の中心で問題ありません。これはすでに宮廷でも期待されています。Blonde Ale は、開始直後あるいは中座前に向くでしょう。American Pale Ale は、議論が動き始める局面に合わせると面白い」


「だいたいこちらの考えと同じですね」


 セリナが応じる。


「そのようで何よりです」


「で、今日は何を?」


 醸が問うと、男は視線を上げた。


「実は、もうひとつ“橋渡し”になる酒があると理想的だと考えておりまして」


「……ですよね」


 醸が苦笑する。


「あります」


「ほう」


「できたばかりですが、American Amber Ale です」


 酒が注がれた杯を受け取った男は、まず色をじっと見た。


 次に香りを取り、一口飲む。


 そのまましばらく、何も言わない。


 沈黙が長いので、ミーナがそわそわし始めた頃、ようやく彼は息を吐いた。


「……なるほど」


「どうでしょう」


 醸が問う。


 男は杯を見つめたまま、静かに言った。


「これは、話の途中で出すべき酒です」


「途中?」


「ええ。人が互いの立場を理解し始めたが、まだ腹の底では警戒している。そういう局面で、この酒が最も効くでしょう」


「効く、ですか」


「料理人の立場から申せば、“味が良い”だけでは席はまとまりません。酒には流れがある。感情の波を整え、言葉の角を和らげ、それでいて結論をぼかしすぎないものが必要です」


「それがこれ?」


「はい」


 男は杯を置いた。


「これは“説得”の酒ですな。しかも押しつけるのではなく、相手の中で自然に頷かせる」


「……やっぱりそう見えるんですね」


 醸は小さく笑った。


「造っていて、そんな気はしていました」


「素晴らしい。なら、宮廷の席でもこれは強い。派手ではないからこそ、後になって“あの時、話がほどけたのはあの一杯の後だった”と気づく種類です」


 セリナが満足そうに頷く。


 レティシアは腕を組んだまま、「やっぱり」と言いたげな顔をしていた。


「では」


 男は覚書に追記しながら言う。


「これで流れが揃いました。王都は、グランエッジを“酒の供給者”としてではなく、“宴席の設計者”として迎えることになります」


「また大ごとになった……」


 醸が額に手を当てる。


「なりますね」


 セリナが即答する。


「でも悪くないでしょ?」


 ミーナが笑う。


「悪くはない。胃には悪い」


「そこは諦めなさい」


 レティシアが冷たく言う。


「はい……」


     


 夜、使者が帰ったあとの蔵には、どこか節目めいた静けさがあった。


 English Barleywine、Blonde Ale、American Pale Ale、American Amber Ale。


 並んだ樽を見ていると、それぞれが別の役割を持つにもかかわらず、ひとつの物語としてきれいにつながっているのがわかる。


 誇り。


 和み。


 前進。


 納得。


 王都の晩餐会で求められるものは、たぶんその四つだ。


 そしてグランエッジは、それを酒で示そうとしている。


「なんか、とうとうここまで来たって感じだな」


 醸が呟くと、ミーナが隣に座り込んだ。


「カモス、ちょっと嬉しそう」


「そう見える?」


「うん。不安そうでもあるけど」


「それも当たり」


「じゃあ普通だね」


「普通かもな」


 前世では、小さな町工場で仕込みをしていた。


 誰に飲まれるか、どんな日に開けられるか、そこまで見えない酒もたくさんあった。それでも一杯の向こうに人の暮らしがあると信じて、麦と向き合っていた。


 今はその距離が、ずいぶん近い。


 この酒が王都で出される場面が、想像できる。


 誰がどんな顔で飲むか、どんな言葉を返すか、その先で何が動くかまで、少しずつ見えてきてしまう。


 それは恐ろしくもある。


 だが、職人としてこんなにやりがいのあることもない。


「よし」


 醸は立ち上がった。


「これで王都遠征の酒は、だいぶ形になった」


「だいぶ?」


 セリナが書類の整理をしながら問う。


「全部じゃない」


「まだ何か考えてるの?」


 ミーナが目を輝かせる。


「考えてる」


「うわ、きた」


 レティシアが半眼になる。


「でも、次はもっと直接的に“王都そのもの”へ差し込む酒になるかもしれない」


「それ、ろくでもない面倒を呼びそう」


「俺もそう思う」


「なのにやるのね」


「呼ばれてる以上、ただ応じるだけで終わるのは性に合わない」


「職人っていうより、もう半分勝負師よね」


「酒の範囲なら、な」


 火床の薪がぱちりと鳴り、橙の火が琥珀色の樽を照らした。


 American Amber Ale――それは、声高に主張しない。


 だが沈黙のまま相手に残り、気づけば判断を一歩動かしている。


 王都のような場所には、案外そういう酒こそ必要なのかもしれない。


 大麦 醸は樽の木肌に手を添え、そのぬくもりを確かめた。


 酒は言葉ではない。


 それでも、言葉より深く届くことがある。


 ならば自分は、これからも醸すだけだ。


 剣ではなく、杯で。


 命令ではなく、納得で。


 王都の高い天井の下にさえ、神麦の物語を届けるために。


 山間の小さな蔵から始まった一杯は、いまや国家の卓に届こうとしている。


 その道のりの中で、酒はただの飲み物ではなくなった。


 回復を与え、魔力を満たし、人を立たせ、場を和ませ、未来へ進ませ、そして納得をもたらす。


 American Amber Ale の琥珀色は、そんな積み重ねの証のように、静かに、しかし確かに灯っていた。


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