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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第五十九話 新しい風は、青い香りを連れて ―American Pale Ale―

王都からの正式な招待状が届いてから、グランエッジの蔵はにわかに忙しさを増していた。


 もともと忙しくなかった日などない。


 神麦の選別、仕込み、樽の管理、療養酒の配分、帳簿、来客対応。やるべきことは常に山ほどある。だが今回は、それらとは別の緊張が上乗せされていた。


 王都へ出る。


 しかも、ただ酒を送るのではなく、自分自身が行く。


 その意味を、醸は理解していた。


 理解しているからこそ、胃の奥がじわじわ重い。


「なんか最近、ずっと難しい顔してるね」


 朝の仕込み場で、ミーナが櫂を洗いながら言った。


「そう見える?」


「見える。前は“酒が難しい顔”だったけど、今は“人が難しい顔”してる」


「鋭いな、おい」


「弟子だから」


「その言葉、ほんと万能だな」


 醸が苦笑すると、隣で帳面を繰っていたセリナが静かに言った。


「実際、人が難しい局面ですからね。王都へ出るということは、酒の出来だけでは済まない」


「わかってる」


「礼儀、発言、順序、見せ方、引き際。全部見られます」


「わかってるって」


「なら結構です」


「でも言うんだな」


「言わないと不安そうなので」


「見透かされてるなあ……」


 窓辺にもたれて外を見ていたレティシアが、こちらも当然のように追い打ちをかける。


「不安なのは悪いことじゃないわよ。むしろ、不安じゃない方が危ない」


「慰めてるようで刺してくるな」


「事実しか言ってないもの」


「騎士ってみんなこうなのか?」


「少なくとも私はそう」


 蔵の中に小さな笑いが起こる。


 Blonde Ale がもたらした、柔らかな空気はまだ残っていた。


 重厚な酒が続いたあとに生まれたその余白は、忙しさの中でも人の肩を少し軽くしてくれている。実際、王都から来た儀礼補佐官エルマリアも、Blonde Ale を飲んだことでずいぶん本音を見せていた。あの感触は確かだった。


 だが、だからこそ醸は次を考えていた。


 王都に持っていく酒は、ただ親しみやすいだけでは足りない。


 Wee Heavy は、冬を越える意志を示した。


 English Barleywine は、王都に“誇りとは積み上げるものだ”と突きつけた。


 Blonde Ale は、張りつめた場をほぐし、人を同じ席につかせるための一杯になった。


 なら、その次に必要なのは何か。


 答えは、数日前から胸の奥に引っかかっていた。


 新しい風。


 軽く、だが薄くなく。


 親しみやすく、だが埋もれず。


 王都の古い空気に、はっきりと「これまでと違う」と思わせる酒。


「……American Pale Ale、かな」


 醸がぽつりと呟くと、 ミーナが首を傾げる。


「どう違うの?」


 醸は樽の蓋に腰を下ろしながら言った。


「Blonde Ale が“話しやすくする酒”なら、American Pale Ale は“この人、ちゃんと面白いな”って思わせる酒だ」


「面白い?」


「そう。場になじむだけじゃなく、ちゃんと印象を残す」


「王都で目立つため?」


 レティシアの問いに、醸は頷いた。


「目立つ、っていうと語弊があるけどな。ただ礼儀正しく、無難にやり過ごすだけなら、王都の連中の土俵の上で埋もれる。こっちから新しい風を持ち込まないと」


「新しい風、ね」


 レティシアは少しだけ口元を上げる。


「嫌いじゃない言い方だわ」


「今回は、そういう酒にしたいんだよ」


「具体的には?」


 セリナが尋ねる。


「香りだな。まず香りで“おや?”と思わせる。でも奇抜なだけじゃ駄目だ。飲めばちゃんと美味い。苦味もある。でも威張らない。明るく、まっすぐで、前を向いてる感じ」


「前を向いてる酒」


 ミーナが嬉しそうに笑う。


「それ、好きかも」


     


 American Pale Ale の仕込みは、これまでの酒と明らかに組み立てが違った。


 神麦そのものの骨格は活かす。


 だが、今回はそこへ“香りの跳ね方”を重ねる必要がある。


 問題はホップだった。


 この世界には、前世とまったく同じ品種のホップがあるわけではない。だが醸はこれまでの旅商人や山野の採集を通じて、いくつか面白い蔓植物を確保していた。その中に、青い柑橘と若い針葉樹、それに白い花のような香りを同時に持つものがある。以前から試験的に少量使っていたが、今回はそれを本格的に主役へ引き上げる。


 作業台に並んだ乾燥花穂のようなそれを見て、ミーナが鼻を寄せた。


「うわ、すごい匂い」


「だろ」


「なんか、草なのに果物っぽい」


「そうそう」


「でもお菓子じゃない」


「そこが大事なんだ」


「これが新しい風?」


「そのつもり」


 麦の選別は、Blonde Ale よりも少しだけしっかりした骨格を出す方向で行った。淡色の神麦を中心にしつつ、ほんの少しだけ火入れの強い麦芽を混ぜ、飲み口が軽すぎて流れてしまわないようにする。


 石臼で麦を砕く音が、今日はいくらか小気味よく聞こえた。


 湯へ入れてかき混ぜると、立ち上る香りは白いパン、ビスケット、蜂蜜。それだけなら穏やかなエールだ。だが今回は、煮沸の後半に加える香り素材が主役になる。


 セリナが帳面を見ながら言う。


「今回は王都の晩餐会用を意識して?」


「もちろん。ただ、それだけじゃない」


「というと?」


「王都って、たぶん古いものを愛するだろ」


「ええ。愛しますね」


「でも、古いものを愛する場所ほど、本当に強い新しさには弱い」


「挑発的ですね」


「経験則です」


 前世でもそうだった、と醸は思う。


 伝統を重んじる世界ほど、“新しいのにちゃんとしているもの”が現れた時の衝撃は大きい。単なる流行り物では弾かれる。だが、きちんと美味く、理屈も通っていて、なおかつ今までにない輪郭を持つものは、無視されにくい。


 American Pale Ale は、まさにそういう酒だ。


「つまり」


 セリナがまとめる。


「王都に迎合するのではなく、“これが新しい正解かもしれない”と感じさせたい」


「そういうこと」


「だいぶ攻めますね」


「呼ばれた以上、ただ従順な顔して行くのも違うだろ」


「同感です」


 レティシアが入口の柱にもたれながら、乾燥花穂をひとつ摘まんだ。


「香りだけなら、今まででいちばん“外の世界”を感じるわね」


「外の世界?」


「山の中の蔵っていうより、もっと広い場所から風が入ってくるみたい」


「それだ」


 醸は思わず指を鳴らした。


「まさにそれ」


「なによ急に」


「いや、今ので言葉になった。王都に持っていくのは“山奥の珍しい酒”じゃなくて、“世界はまだ広い”って感じさせる酒にしたいんだ」


「ふうん」


 レティシアは少し目を細める。


「悪くない」


 煮沸の終盤、醸はその花穂を段階的に加えた。


 一度目は輪郭のため。


 二度目は味の芯のため。


 三度目は香りの跳ね方のため。


 蒸気の中に青い柑橘めいた香りが立ちのぼった瞬間、蔵の空気が変わる。


「うわっ」


 ミーナが思わず声を上げる。


「なにこれ、すごい!」


「まだ飲んでないのに、もう楽しいだろ」


「楽しい!」


「いい反応だ」


「でも、ちゃんとビールの匂いもする」


「そこを外したら負けだからな」


 レティシアも珍しく深く息を吸った。


「……これは強いわね」


「苦い?」


「まだそこまではわからない。でも、“気づかないふりはできない”香り」


「それが欲しかった」


 発酵に入ってからも、桶の前を通るたびに青く明るい気配が鼻先を撫でていく。


 重い酒が蔵の中に“沈む”感じだとすれば、American Pale Ale は“抜けていく”感じだった。上へ、外へ、先へ。そういう向きのある酒だ。


 夜、醸はひとりで発酵桶の前に立った。


 泡の立ち方は素直で、勢いがいい。


 音も軽やかだ。


 見ているだけで、胸のどこかが少し浮く。


「……新しい風、か」


 王都に必要なのは、誇りだけじゃない。


 和みだけでもない。


 変わることを怖がらない空気だ。


 American Pale Ale は、その入口になれるかもしれない。


     


 完成した酒は、淡い金色にほんの少し琥珀を落としたような色をしていた。


 Blonde Ale よりわずかに深い。


 だが重さを感じさせる色ではない。


 泡はきめ細かく、立ちはよい。


 そして何より、注いだ瞬間に香りがぱっと広がった。


 柑橘。


 花。


 若い草原。


 樹皮のようなほのかな青さ。


 その下に、ちゃんと神麦のやわらかな土台がある。


「これ、好き」


 まだ杯を傾ける前からミーナが言う。


「早いな」


「だって匂いでわかるもん」


「まあ、それは狙いどおりだけど」


 まず醸が一口飲んだ。


 口当たりは明るい。


 最初に麦の柔らかな甘みがあり、そのすぐ後ろから柑橘めいた香りと、きりっとした苦味が広がる。だが苦味は突き放さない。すぐに次の一口を呼ぶような、前向きな苦味だ。後味は爽やかで、鼻へ抜ける香りが気持ちいい。


「……うん」


「短いやつだ」


 ミーナが得意げに言う。


「今回は短いやつだな」


「本物?」


「本物」


 ミーナが杯を受け取り、香りを一嗅ぎ。


 次の瞬間、目を輝かせた。


「わ、これ、歩きたくなる!」


「歩きたくなる?」


「うん、なんかその場で座ってるより、“次行こう!”ってなる」


「それはいい感想だな」


「元気になるけど、Wee Heavy みたいに“倒れない”じゃなくて、“行ってみよう”って感じ」


「たぶん正解」


 醸は頷いた。


「今回はそういう酒だ」


 レティシアも飲み、すぐに小さく笑った。


「なるほど。これは確かに、前を向いてる」


「どういう意味で?」


「さっきまで考えてた細かいことが、“まあ動きながら考えればいいか”ってくらいになる。雑になるんじゃなくて、停滞しなくなる」


「それだ」


「便利な酒ね」


「便利っていうと安っぽいな」


「でも役に立つでしょ」


「まあ、そうだな」


 最後にセリナが試飲した。


 彼女は今回、いつもより長く考え込んだ。


 杯を見つめ、香りをもう一度確かめ、それからようやく口を開く。


「……これは、王都に持っていくべきです」


「そこまで?」


「ええ。Blonde Ale が“同席の場を作る酒”だとしたら、こちらは“会話を一歩先へ進める酒”です」


「一歩先?」


「今までの秩序の中で無難に整えるのではなく、“では次はどうするか”を考えさせる方向へ人を押す」


「なるほどな」


「しかも、その押し方が嫌味ではない。香りで惹きつけ、味で納得させ、後味で前向きにさせる。かなり強いです」


「褒めてる?」


「もちろん」


「なら良かった」


 セリナは続けた。


「王都には二種類の人間がいます。変わる必要を感じている者と、変わらないことで地位を守りたい者」


「いるだろうな」


「この酒は前者に刺さります。そして後者にも、“新しさが必ずしも秩序の敵ではない”と感じさせる可能性がある」


「そこまでいけたら理想だけど」


「十分あり得ます。少なくとも、English Barleywine だけを持っていくよりずっといい」


「重すぎるか」


「ええ。あれは示す酒です。こちらは動かす酒です」


 その言葉を聞きながら、醸は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 示す酒。


 整える酒。


 動かす酒。


 ここまで来ると、もう自分はただ“うまい酒を造っている”だけではない。


 だが不思議と、それを嫌だとは思わなかった。


 むしろ、酒の可能性を前より広く信じられるようになっている。


     


 翌日、エルマリアが再び蔵を訪れた。


 王都行きの日程調整と、晩餐会での席次に関する確認のためだという。相変わらず隙のない所作だったが、前回より表情は柔らかい。Blonde Ale の影響だけではないだろう。こちらを一過性の珍物ではなく、向き合うべき相手として見始めているのがわかる。


「新しい酒ができたと伺いました」


 応接間に通されるなり、エルマリアが言った。


「耳が早いですね」


「グランエッジでは、新しい酒が生まれるたび空気が変わると聞いています」


「誰がそんなことを」


「村の方々が」


「村、しゃべるなあ……」


 ミーナが横で笑いをこらえている。


 醸はAmerican Pale Ale を注いだ。


 金色の液体が杯に満ちると、エルマリアの目がわずかに見開かれる。


「これは……前回のBlonde Aleより、香りが華やかですね」


「ええ。今回は少し“外向き”です」


「外向き」


「王都に、風を持っていくつもりで造りました」


 彼女は一口飲んだ。


 その瞬間の変化は、Blonde Ale の時よりわかりやすかった。


 まず驚き。


 次に、意識が前へ向くような小さな緊張。


 そして、口元に浮かぶごく薄い笑み。


「……これは、面白い」


「どう面白いです?」


「宮廷向けの酒というと、多くは重厚さや格式で勝負します。ですがこれは、香りで人を引き寄せて、飲んだ後に気持ちが先へ向く」


「先へ」


「ええ。守るための酒ではなく、進めるための酒です」


 セリナが小さく頷く。


 ほぼ同じ評価だ。


 エルマリアは杯を見つめたまま言葉を続けた。


「宮廷の晩餐会には、これまで“威信を示す酒”はたくさんありました。けれど、“場を未来へ動かす酒”は少ない」


「そんな大げさな」


「大げさではありません。少なくとも、私はそう感じます」


 彼女は顔を上げた。


「大麦殿。晩餐会へは、English Barleywine と Blonde Ale に加えて、この American Pale Ale も必ずお持ちください」


「三本立てですか」


「ええ」


「重い、和らげる、進める、って感じか」


「その整理、非常にわかりやすいですね」


「職人なんで、結局そういう分け方になるんですよ」


 エルマリアは、その返しにほんの少しだけ笑った。


「では、宮廷側にもそのように伝えます。グランエッジは酒を納めるのではなく、晩餐会の流れそのものを設計してくる、と」


「待ってください」


 醸は思わず手を上げた。


「言い方がすごく大ごとです」


「事実でしょう?」


 今度はエルマリアがそう言った。


 その場にいた全員が、少しだけ黙ったあと、笑った。


     


 夕方、エルマリアが帰った後の蔵は、妙に明るい空気に満ちていた。


 王都行きへの不安が消えたわけではない。


 むしろ、持っていく酒が三種に増えたことで準備はさらに大変になる。


 だが同時に、道筋が見えてきた。


 English Barleywine で、誇りと格を示す。


 Blonde Ale で、場をやわらげる。


 American Pale Ale で、未来へ向かう空気を作る。


 ただ出席するだけではない。


 グランエッジの酒で、王都の卓そのものを組み立てる。


「……なんか、とんでもない話になってきたな」


 醸が火床の前で呟くと、レティシアが肩をすくめた。


「今さら?」


「いや、今までは“結果的にそうなった”感じだったんだよ。でも今回は最初からそういう役割で呼ばれてる」


「つまり、ようやく向こうも理解したのよ」


「何を?」


「あんたの酒は、樽に入った液体じゃなくて、場を変える力なんだって」


 ミーナが嬉しそうに頷く。


「かっこいい!」


「言い方がな」


「でも本当でしょ?」


「……まあ、否定はしにくい」


「素直じゃないですね」


 セリナが淡々と言った。


「職人なんてだいたいこんなもんだよ」


「知っています」


 蔵の扉の外では、冬の風が少しだけ柔らかくなっていた。


 春が近いのかもしれない。


 王都へ向かう頃には、街道の雪もいくらか解けているだろう。


 醸はAmerican Pale Ale の樽を見上げた。


 新しい香り。


 新しい風。


 新しい段階。


 前世で働いていた小さな町工場の片隅では、こんな未来は想像もできなかった。自分の造った酒が、王都の晩餐会で人の心を動かし、場の流れを変え、国の空気にまで触れようとしている。


 怖い。


 だが同時に、胸が少し高鳴る。


 新しい風は、たいてい最初、歓迎されない。


 けれど、だからこそ吹く価値がある。


「よし」


 醸は樽を軽く叩いた。


「王都に持っていこう。ちゃんと、風を起こしに」


「うん!」


 ミーナが元気よく答える。


「せいぜい派手にやりなさい」


 レティシアが言う。


「派手すぎない範囲でお願いします」


 セリナがすぐに釘を刺した。


「注文が多いなあ」


「それだけ期待しているんですよ」


「……それは、まあ、ありがたいか」


 火床の炎が、ぱちりと小さく跳ねた。


 グランエッジの蔵に満ちるのは、麦の香りだけではない。


 いまやそこには、まだ見ぬ場所へ向かう予感もまた、確かに醸されていた。


 王都は遠い。


 けれど、もうただ遠いだけの場所ではない。


 次にその卓へ届くのは、守る酒でも、和ませる酒でもなく、前へ進ませる酒だ。


 American Pale Ale――その明るい苦味と青い香りは、変化を恐れぬ者たちの背を、きっとそっと押すだろう。


 そして大麦 醸もまた、その風の中心へ足を踏み入れていく。


 ビール薬師の物語は、いよいよ山間の蔵を越え、王都の心臓へと流れ込み始めていた。



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