表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/54

第四十九話 濃き黒は、誓いを喉に沈める ―Irish Extra Stout―

黒い酒には、静かな力がある。


 Irish Stout を村へ出してからというもの、グランエッジの空気には目に見えない変化が生まれていた。夜番に立つ者たちは、持ち場へ向かう前に少量だけ黒い酒を求めるようになり、鍛冶場では節目の一杯として扱われ、辺境局の補助書記エルノでさえ「あの酒は判断を濁らせない」と真顔で評価した。


 だが、力が認められるということは、それだけで終わらない。


 良い意味でも、悪い意味でも、次を呼ぶ。


 春の冷たい雨が三日続いた朝、村長は険しい顔で醸造小屋へ入ってきた。


 その後ろにはレティシア、そして辺境局の補助書記エルノまでいる。三人揃っている時点で、ろくでもない話だとわかる。


「おはようございます」


 醸が言うと、村長は挨拶もそこそこに手紙を差し出した。


「辺境局経由で届いた」


「どこからです?」


「南の駐屯砦からじゃ」


 封を切った跡のある書簡には、端正な字で要件がまとめられていた。


『夜襲と山賊掃討の任に就く兵へ、グランエッジ産黒ビールの優先供給を求む』


 短いが、内容は重かった。


「……早いな」


 醸は眉をひそめた。


「まだ Irish Stout をまともに外へ出してもいないのに」


「噂はさらに速い」


 エルノが淡々と言う。


「辺境局の下役同士の会話から、砦の書記官へ伝わったのでしょう」


「伝言ゲームにしては厄介すぎる」


「同感です」


 レティシアは腕を組み、書簡を覗き込んだ。


「要するに、“怖い任務に出る兵を支える酒を寄越せ”ってこと?」


「かなり身も蓋もないが、そうだな」


 醸が言うと、彼女は鼻を鳴らした。


「気に入らない」


「私もじゃ」


 村長が即答した。


「兵を支えること自体が悪いわけではない。だが、この書き方はまるで最初から道具扱いだ」


「しかも優先供給」


 醸は書簡を机に置いた。


「村の備えも、寒村への支援も、まだ安定していない段階で」


 エルノが静かに補足する。


「砦側も、そこまでは承知していないのでしょう。噂だけを拾って、“有用な酒があるなら回せ”と言ってきている」


「承知してないで済ませたくないな」


「ええ」


 醸は火の落ちた炉を見つめた。


 予感はあった。


 Irish Stout のような酒は、必ず誰かが“もっと強く使える形”を欲しがる。


 少量で腹が据わり、恐れに呑まれにくくなるなら、次に求められるのはその延長だ。


 もっと深く。


 もっと強く。


 もっと長く。


 その発想自体は自然だ。


 そして、自然であることがいちばん厄介だった。


「作るつもり?」


 レティシアが問う。


 醸はすぐには答えなかった。


 だが、頭の中にはすでに一つの形が浮かんでいる。


 Irish Extra Stout。


 通常の Irish Stout よりも濃く、力強く、ロースト感と骨格を前へ出した黒。


 静かに腹へ落ちるだけでなく、意志そのものへ重みを与える酒。


 異世界の神麦でそれをやれば、きっと“誓いを保たせる酒”になる。


 だからこそ――危うい。


「作る」


 醸はやがて言った。


「ただし、砦の注文に従うためじゃない」


「なら何のために?」


 ミーナの声がした。


 いつの間にか、戸口の隙間から聞き耳を立てていたらしい。


 醸が視線を向けると、彼女は悪びれもせず小屋へ入ってきた。


「聞いてたのか」


「大事そうだったから」


「そういう時は普通、遠慮するんだ」


「弟子は学ぶために聞くものです」


「便利な言葉を覚えたな……」


 ミーナは真顔で訊く。


「で、何のため?」


「必要な形を見極めるためだ」


「難しい」


「つまり、“誰かに勝手に作らせる前に、自分で責任を持って形を知る”ってことだ」


 レティシアが言い換えると、ミーナは「ああ」と頷いた。


 村長も低く言う。


「放っておいて他所で粗悪な真似をされる方が危険、というわけじゃな」


「そうです」


 醸ははっきり答えた。


「この黒の先がどうなるか、見ないまま拒むのは違う気がします」


「だが、危うい酒になるぞ」


「わかってます」


「それでも?」


「それでもです」


 エルノが小さく息を吐く。


「……だからあなたは厄介なんです」


「褒めてます?」


「半分だけ」


     


 Irish Extra Stout の仕込みは、これまでの黒とは明らかに違った。


 Irish Stout で得た“腹へ落ちる黒”を土台にしつつ、さらにモルトの厚みと焙煎の密度を増す。だが、ただ濃くすればよいわけではない。重たさで押し潰す黒ではなく、圧をかけても折れぬ柱のような黒でなければ意味がない。


 醸は神麦の比率を慎重に見直した。


 通常の麦芽に、深く焙いた麦を加える。


 さらに、わずかに濃色の結晶麦芽に似た性質を持つ加工神麦を混ぜ、液体の奥行きを作る。香りはロースト、黒パン、ほのかな糖蜜、焦がした皮。色は夜をさらに濃くしたような黒だ。


 焙煎炉の前で、ミーナが鼻をひくつかせた。


「前の黒より、もっと迫ってくる匂い」


「そうだな」


「ちょっと怖い」


「それでいい」


「いいの?」


「怖さを隠して飲ませる酒にはしたくない」


 レティシアが腕まくりをしながら言う。


「最初から“強い”とわかる酒にするのね」


「その方が扱いを誤りにくい」


「見た目からして飲みすぎない?」


「たぶん普通はそうなる」


「普通じゃない人が欲しがるのよ、こういうのは」


「そこが問題なんだ」


 糖化桶から立つ湯気は、前回よりも濃く、重かった。


 だが息苦しさではない。深い森の湿った土と、薪窯の奥と、焦がした穀物の香りが重なり合い、小屋全体が“黒い温度”に包まれていく。


 醸は櫂を回しながら、前世の記憶と異世界の現実を重ねていた。


 Extra Stout。


 通常のスタウトよりも濃厚で、ロースト感やアルコール感、ボディがやや強いことのある黒ビール。


 異世界の神麦がこれをどう変えるか。


 おそらく――


 意思を支えるだけでなく、


 “折れそうな誓いを喉の奥で結び直す”方向へ行く。


「師匠」


 ミーナが真面目な顔で言う。


「誓いって、酒で支えていいの?」


「いい誓いなら、支えになるかもしれない」


「悪い誓いだったら?」


「もっと悪くなる」


「……怖いね」


「ああ」


 醸は即答した。


 怖い。


 本当に怖い。


 回復や魔力回復なら、まだ結果が比較的わかりやすい。


 だが人の意志や決意に触れる酒は、その心の向いている先まで問うことになる。


 善き守りの決意にもなるし、


 愚かな執着の燃料にもなる。


 それでも、知る必要があった。


     


 発酵は、まるで小さな嵐のようだった。


 厚い麦汁の中で酵母が力強く働き、泡は高く盛り上がる。


 桶の縁に耳を近づけると、ぼこ、ぼこ、と低い呼吸のような音がした。まるで黒い何かが内部で脈打っているようだ。


「すごい……生き物みたい」


 ミーナが呟く。


「酒はだいたい生き物みたいなもんだ」


「今回は特に」


「今回は特に、だな」


 数日後、発酵の荒々しさが収まり、熟成へ移る頃には、液は深い黒の中に鈍い赤みを潜ませていた。


 香りは強い。ロースト麦、黒糖を思わせる深み、苦い木の皮、遠くにかすかな果実。


 だが、舌に乗せてみると、荒く暴れるだけではない。最初に焙煎のほろ苦さが立ち、そのあとから神麦の持つ豊かな芯と、どっしりした丸みが追いかけてくる。


「……なるほど」


 醸は一口で理解した。


「これは、前の黒とは違う」


「どう違う?」


 レティシアが覗き込む。


「Irish Stout は、背筋を通す酒だった」


「うん」


「これは、その背筋のまま、一歩も退かない酒だ」


「うわ」


 ミーナが顔をしかめる。


「強そう」


「かなり強い」


 エルノも試飲に立ち会っていたが、杯を口元で止めたまま難しい顔をした。


「言っておきますが、これは本当に取り扱い注意です」


「わかってる」


「前回以上に?」


「前回以上だな」


 村長を交えた試飲の場では、今回の検証対象として二人の人間が呼ばれた。


 一人は以前から登場している冬越え隊の隊長。


 もう一人は、村の石工ギルだ。寡黙な中年男で、春の崩落現場の補修を取り仕切っている。責任感が強く、最近は無理を重ねていると皆が知っていた。


「俺でいいのか」


 ギルが言う。


「酒の利きなんてわからんぞ」


「今回見たいのは味の評価だけじゃない」


 醸が答える。


「飲んだ時、何が残るかです」


「ふむ」


 黒い酒が注がれる。


 泡は前回より密で、液面は光を鈍く返す。


 隊長は迷いなく飲み、ギルは慎重にひと口含んだ。


 最初に口を開いたのは隊長だった。


「……重いな」


「悪い意味で?」


 醸が訊く。


「いや。鎧を一枚足されたような重さだ」


「鎧?」


「そうだ。軽快には動けん。だが、その分だけ退く気も失せる」


 レティシアが眉を上げる。


「それ、戦場では危なくない?」


「危ない時もある。だから量を誤れん」


「やっぱり」


 一方、ギルは杯を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。


 やがて低く言う。


「俺はこのところ、毎朝、現場へ行く前に逃げたいと思ってた」


「ギルさん」


 ミーナが目を丸くする。


「崩れた斜面の下に、まだ埋まってる石材がある。春の水でさらに落ちる前に手を入れなきゃならん。わかってる。誰かがやらなきゃならん」


 彼は黒い液体を見つめた。


「だが、ああいう場所を見ると、また落ちるんじゃないか、次は人が死ぬんじゃないか、と考える」


「……」


「この酒を飲むと、その考えが消えるわけじゃない」


「はい」


「でも、“だからやめる”じゃなくて、“だから段取りを詰める”方へ気持ちが向く」


 ギルはゆっくり息を吐いた。


「逃げるか踏み込むかの二つじゃなく、腹を括って備える方へ行く感じだ」


 醸は、胸の奥で重く頷いた。


 それならまだ救いがある。


 無謀へ向かう酒ではなく、責任を引き受ける方向へ働いている。


 しかし、次の言葉は別の危うさを連れてきた。


「ただし」


 隊長が低く続けた。


「この酒を、最初から命令と一緒に出されたら厄介だ」


「どういうことです?」


 エルノが問う。


「“行け”と言われ、その前にこれを飲まされた兵は、退くべき時にも退けんかもしれん」


「……」


「覚悟と、意地の境目が曖昧になる」


 隊長は杯を置く。


「自分で決めて飲むなら支えになる。上から押しつけられたら、鎖にもなる」


 場が静まり返った。


 醸は、その言葉を一つ残らず胸へ刻みつけた。


 これだ。


 まさにこれこそ、この酒の本質的な危険だ。


 意志を支える酒は、


 自分で選んで飲むからこそ意味がある。


 命令と一緒に渡された瞬間、それは補助ではなく拘束へ近づく。


     


 その日の夕方、砦から追加の使者が来た。


 今度は書簡ではなく、若い副官が二人の護衛を連れて村長宅へ現れたのだ。礼儀は正しいが、物腰に“急がせたい”圧がある。村長に呼ばれた醸とレティシア、エルノも同席した。


 副官は席につくなり、単刀直入に切り出した。


「黒ビールを優先配給いただきたい。報酬は弾む」


「断る」


 醸は即答した。


 副官が一瞬だけ目を見開く。


 まだ正式交渉に入ってもいない段階で断られるとは思っていなかったのだろう。


「理由を伺っても?」


「用途が雑すぎる」


「雑、ですか」


「“兵に必要だから寄越せ”という言い方では渡せない」


「しかし辺境防衛は王国の要です」


「村の暮らしもな」


 醸は相手の目を見て言った。


「それに、今ある黒はまだ性質を見極めている段階だ。命令と一緒に配るには危険がある」


 副官はやや苛立ちを含んだ声で返す。


「危険? むしろ兵の士気を高めるなら有益でしょう」


「士気と無理押しは違う」


「現場では綺麗事だけでは」


「綺麗事じゃない。退く判断まで奪う酒なら、死人を増やす」


「……」


 空気が冷えた。


 護衛の一人がわずかに動いたのを、レティシアが見逃さない。彼女の手はさりげなく剣の柄に近い。村長は静かに咳払いをした。


「副官殿」


 エルノが口を開く。


「本件は辺境局でも未整理です。砦単独で圧をかけるのは望ましくありません」


「補助書記が口を挟むことか?」


「少なくとも、記録には残します」


「……」


 副官は一瞬だけ顔をしかめたが、やがて形式的な笑みを作った。


「失礼しました。急ぐ事情がありまして」


「事情はわかる」


 醸は少しだけ声を落とした。


「だからこそ、渡すなら正しく渡したい」


「正しく?」


「自らの意思で、必要を理解した者に、限った量だけだ」


「随分と理想主義だ」


「酒職人なのでね」


「……変わった方だ」


 副官は最後に一礼し、その日は引き下がった。


 だが、その背に消えた納得の色は薄い。


「来るな、これは」


 レティシアが低く呟く。


「ああ」


 醸も頷いた。


「黒が、また面倒を連れてきた」


「黒のせいじゃない」


 村長が言う。


「力あるものに群がる人間が、昔から変わらぬだけじゃ」


     


 その夜、醸は Irish Extra Stout の樽の前に立っていた。


 灯りに照らされた黒い液は、静かで深い。


 見つめていると、こちらの覚悟まで映し返してくるようだった。


 ミーナが後ろから声をかける。


「師匠、落ち込んでる?」


「少しな」


「なんで」


「いい酒ができた時ほど、面倒も増える」


「じゃあ、すごくいい酒なんだ」


「そういうことになるな……」


 ミーナは樽を見上げる。


「これ、怖い酒?」


「怖い」


「でも必要?」


「必要な時もある」


「じゃあ、なくせないね」


「そうなんだよ」


 彼女は少し考えてから、ぽつりと言った。


「赤い酒は、みんなを火のそばに戻した」


「うん」


「黒い酒は、立たせた」


「うん」


「じゃあこのもっと濃い黒は、何をするの?」


 醸はしばらく黙り、やがて答えた。


「決めたことを、途中で投げないための酒だ」


「投げない……」


「ただし、それが良い決意か悪い意地かで、結果は全然違う」


「難しい」


「すごく難しい」


「でも師匠は、ちゃんと選ばせたいんだね」


「そうだ」


「飲む人に?」


「そう。酒に選ばせるんじゃなく、人に選ばせたい」


 その言葉を口にした時、醸はようやく自分の立ち位置を少しだけ掴んだ気がした。


 酒は助けにはなる。


 だが、酒が人の代わりに決めてはいけない。


 回復も、魔力も、持久も、帰還も、覚悟も――


 すべては人が生きるための補助であって、


 人の意思そのものを奪うためのものではない。


「それでいいと思う」


 レティシアが、いつの間にか戸口に立っていた。


「聞いてたのか」


「ちょっとだけ」


「みんな聞き耳ばっかりだな、この村」


「それだけ気になる酒を造るからよ」


 彼女は杯を受け取り、少しだけ Irish Extra Stout を飲んだ。


 そして、ゆっくり息を吐く。


「やっぱり強い」


「だろ」


「でも嫌いじゃない。これは、誓いの味がする」


「誓い?」


「ええ。自分で決めたことを、喉の奥でもう一度確かめる感じ」


「……」


「だから、押しつけちゃだめ。自分から飲むから意味がある」


「隊長と同じことを言うな」


「正しいことは何度聞いてもいいでしょ」


 小屋の外では、春の雨が屋根を静かに叩いていた。


 その音を聞きながら、醸は黒い杯を見つめる。


 Irish Extra Stout。


 ただ濃いだけの黒ではない。


 ただ強いだけの酒でもない。


 それは、ぐらつく心を無理に燃やすのではなく、


 自ら選んだ誓いを、


 喉の奥に重く沈め、


 投げ出さないために支える黒だ。


 だからこそ危うい。


 だからこそ、正しく扱わなければならない。


 辺境の春は、まだ寒い。


 道はぬかるみ、川は増水し、崩れた斜面は口を開けたままだ。


 村の外では、砦も、役人も、盗賊も、それぞれの都合でこの酒を欲しがり始めている。


 それでも醸は、


 この黒を恐れながらも否定しきれなかった。


 必要な覚悟というものが、確かにこの世界にはある。


 逃げずに立つための誓いもまた、確かにある。


 問題は、それを誰が選ぶかだ。


 醸は杯を持ち上げ、静かに呟いた。


「酒は、背を押しすぎちゃいけない」


 だが同時に、背を支えねばならぬ時もある。


 黒い液体は、灯りの下でわずかに赤を含んで揺れた。


 まるで、闇の底にまだ消えない火種を抱えているように。


 その火種が、


 意地ではなく誓いとして残るように。


 大麦 醸は、深い黒をひと口だけ喉へ落とした。


 重い。


 だが、その重さの中には、確かに明日のための形があった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ