表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/55

第四十八話 黒き泡は、折れぬ背に宿る ―Irish Stout―

春先の山村は、優しいだけの季節ではない。


 雪が解け、道が開き、人が戻り、火の気の絶えなかった家々にも少しずつ余裕が生まれる。けれど、その余裕のぶんだけ人は考えるようになる。冬の間は目の前の寒さと飢えと怪我をしのぐことだけでよかったものが、春になると途端に「これから」を見なければならなくなるのだ。


 壊れた橋をどうするか。


 崩れた斜面をいつ補強するか。


 春蒔きの種は足りるのか。


 寒村への配給はどこを優先するか。


 辺境局から来た打診に、村としてどこまで応じるか。


 そして何より――


 グランエッジの酒を、ここからどうしていくのか。


 前夜の帰還祝いで使った Irish Red Ale は、確かに人々の心を家へ戻した。帰還した者たちのこわばりはほぐれ、火を囲む声は自然に戻ってきた。だが、その翌朝になれば、慰めの先にある現実が待っている。


 醸造小屋の前で、醸は積み上がった空樽を見つめながら、静かに息を吐いた。


 戻るだけでは足りない。


 人は戻ったあと、また立たなければならない。


「難しい顔してる」


 レティシアが朝の薪束を肩に担いだまま言った。


「考えることが増えた」


「酒のこと?」


「酒のことも、それ以外も」


「それ以外?」


「辺境局、寒村への供給、村の備蓄、樽材の不足、運び手の確保……」


「うわ」


「うわ、だろ」


「よく平気な顔してるわね」


「平気じゃない」


「知ってる。でも前はもっと、困ると顔に出てた」


「今は?」


「顔に出す前に、先に手が動いてる」


「成長したのか、疲れてるのかわからないわね」


「たぶん両方だ」


 レティシアは薪を降ろして、小屋の壁にもたれた。


「昨日の赤い酒、よかったわ」


「ありがとう」


「でも、あれで全部うまくいくわけじゃない」


「当然だ」


「だから今、次の酒を考えてる?」


「……うん」


 醸は正直に頷いた。


 Irish Red Ale は、戻る場所を思い出させる酒だった。


 ならばその次は何か。


 家へ戻った人間が、


 もう一度、背を伸ばして外へ出るための酒。


 傷を消すのではない。


 悲しみを忘れさせるのでもない。


 ただ、腹の底に黒い芯を落とし、


 沈みそうな心に「まだ立てる」と言わせる酒。


 頭の中に浮かんだのは、夜の炉を覆う煤の色だった。


 黒いが、冷たくはない。


 光を飲み込みながら、その奥に火の気配を抱え込む色。


「Irish Stout、か」


 醸は低く呟いた。


「黒いの?」


 いつの間にかミーナが樽の陰から顔を出していた。


「黒いな」


「すごく苦い?」


「たぶん少しは」


「わたし、苦すぎるのはまだ苦手」


「無理に好きになる必要はないよ」


「でも師匠の酒なら知りたい」


「その言い方ずるいな……」


 ミーナはにやりと笑う。


「で、どんな酒になるの?」


「赤い酒が“帰ってきていい”って言う酒なら、黒い酒は“しゃんと座れ、背を丸めるな”って言う酒だ」


「急に厳しい」


「優しいだけじゃ次へ進めない時がある」


「怒る酒?」


「怒るというより、腹を据えさせる感じかな」


「ふーん。なんか、隊長さん向き」


「たしかに似合いそうだ」


 そのとき、小屋の戸が開き、まさにその隊長が姿を見せた。


 冬越え隊の隊長――頬の古傷を持つ大男は、朝から険しい顔をしている。


「噂をすれば、だ」


 レティシアが言う。


「悪い顔してますね」


 醸がそう言うと、隊長は苦々しく鼻を鳴らした。


「悪い知らせがある時の顔だと思ってくれ」


「何かありましたか」


「南の山道で、荷車が一つ襲われた」


「襲われた?」


 ミーナが目を丸くする。


「盗賊というほど大仰なものじゃない。飢えた流れ者か、崩れた傭兵くずれか……いずれにせよ、補給荷を狙った」


「被害は?」


「積み荷の一部を持っていかれた。死人は出ていない。だが、護衛の若いのが腰を抜かしたままだ」


「腰を抜かした?」


「刃を向けられたのが初めてだったらしい。怪我はない。だが、手が震えて剣も握れん」


 醸は眉をひそめた。


 怪我がないから軽い、とは言えない。


 身体より先に心が折れることはある。


 昨夜の Irish Red Ale なら、たしかに帰る場所は思い出させられるだろう。だがそこからもう一度立ち上がるには、別の支えが要る。


「隊長」


 醸が口を開く。


「その若いの、今どこに」


「詰所だ。休ませてる」


「あとで会えますか」


「会えるが……酒でどうにかするつもりか」


「どうにか、というより」


 醸は少し考え、言葉を選んだ。


「次の酒の形を確かめたい」


「次?」


「Irish Stout を造る」


 隊長は一瞬だけ黙り、やがてゆっくり頷いた。


「なら、たしかに今かもしれん」


     


 黒い酒を造るとなると、火加減が要になる。


 神麦そのものの清らかな力を損なわずに、焙煎の深みを与える。


 焦がせばいいわけではない。炭のようなえぐさや灰っぽさが勝てば、欲しい芯とは別物になる。求めているのは、苦さで脅す黒ではなく、黙って背を支える黒だ。


 醸は麦を焙る炉の前で、慎重に手を動かしていた。


 浅い焙煎麦は、赤や褐色を生む。


 だが今回はさらに一歩先へ進む。


 鍋の上で色づいていく麦は、やがて深い褐色を越え、夜のような色を宿し始めた。鼻を近づければ、香りは一変する。パンの耳やカラメルではない。焙煎した豆、ほろ苦い穀物、乾いた黒土、そして僅かに焦がした皮のような鋭さ。


「うわ、すごい匂い」


 ミーナが目をぱちぱちさせる。


「苦そう」


「苦くはなる」


「これ飲めるの?」


「飲めるようにするのが腕だ」


「師匠、たまにすごく職人っぽいこと言う」


「たまにじゃなくて常に職人だよ」


 レティシアが焙煎籠を覗き込み、鼻先をしかめた。


「これは……好き嫌い分かれそう」


「分かれるだろうな」


「でも、嫌いじゃない」


「お?」


「匂いは強いのに、嫌な感じじゃないのよ。火のそばに長くいた服みたいな……」


「それ、褒めてるか?」


「半分くらい」


「半分か」


「もう半分は、たぶん飲んでから決める」


 焙煎麦を少量、通常の神麦麦芽と合わせる。


 黒くても、土台はモルトだ。


 押しの強い色と香味を、穏やかな麦の甘みで受け止める。


 ホップは控えめ。主役はあくまでローストの気配と、神麦が宿す生命の芯。


 糖化の湯気が立つと、小屋の中の香りは不思議な変化を見せた。


 単なる苦味の予感ではない。


 黒パンのような香ばしさ、深煎りの穀物を思わせる匂い、その奥にかすかな甘み。重いのに、息苦しくはない。


 醸は櫂を回しながら、前世の記憶をたどる。


 Irish Stout。


 黒く、焙煎香があり、軽快さと飲みやすさを備えたスタウト。


 濃厚すぎず、それでいて印象は強い。


 派手な贅沢ではなく、働く者の背骨に似合う酒。


 異世界でそれをやるなら――


 “臆した心に形を与える酒”になるべきだ。


「師匠」


 ミーナが真顔で訊く。


「心って、折れたら元に戻る?」


「完全に前と同じには戻らないこともある」


「じゃあ、だめじゃん」


「だめじゃない」


 醸は櫂を止めずに言った。


「折れたままでも、立ち方を変えればまた歩けることはある」


「立ち方を変える」


「うん。酒で全部直すなんて無理だ。でも、立ち直るきっかけを作ることはできるかもしれない」


「それが黒い酒?」


「たぶんな」


 ミーナはしばらく考え込み、


「……なんか、赤い酒より大人だね」


と呟いた。


 その言葉に、醸は少し笑った。


「そうかもな」


     


 発酵は思いのほか素直に進んだ。


 濃色麦の力が強すぎれば、神麦の清さが濁るのではないかと危惧していたが、結果は逆だった。黒い焙煎香の奥で、神麦の持つ澄んだ生命力が一本の芯として通っている。香りは深く、口当たりはきめ細かく、液の黒さに反して重たさは暴れない。


 数日後、醸はまだ若い段階の酒を小さく汲み出し、慎重に口に含んだ。


 黒かった。


 見た目だけではない。


 味わいにも、確かな黒の輪郭がある。


 だが、思ったよりも荒くない。焙煎由来のほろ苦さが舌の上で立ち、その直後に神麦の丸い旨みが追いかけてくる。飲み終えると、甘さではなく“据わり”が残った。


「……これは、いいぞ」


 醸が呟くと、レティシアが覗き込む。


「その顔、本当に当たりの時よね」


「そう見える?」


「見える。ちょっと怖いくらい」


「職人への風評被害だ」


「褒めてるのよ」


 試飲の場には、村長、レティシア、ミーナ、隊長、そして例の若い護衛が呼ばれた。


 名はダリオというらしい。


 二十歳そこそこの青年で、頬は青く、手はまだ少し震えている。身体に怪我はないが、視線が落ち着かない。


 集会所の奥、小さな火鉢を囲んで座ると、醸は全員へ黒い酒を注いだ。


 泡は明るい褐色を帯び、液体は深い黒。


 光に透かせば縁だけがわずかに赤みを見せる。


 香りは焙煎麦、黒パン、ほんのりとした苦い木の実の気配。


「これが次の酒か」


 隊長が低く言う。


「ああ。まだ名付ける前だが、形としては Irish Stout だ」


「黒いな」


「黒いです……」


 ダリオが杯を持つ手を見ながら呟く。


「無理に飲まなくてもいい」


 醸が言うと、青年は首を振った。


「いえ、飲みます」


「怖いか?」


「少し」


「酒が?」


「違います。自分が、です」


「……」


「昨日からずっと、みんなは怪我がなくてよかったと言ってくれるんです。でも俺だけ、自分が情けなくて」


 小さな声だった。


 誰もすぐには口を挟まない。


 その沈黙を破ったのは隊長だった。


「情けないと思うのは勝手だ」


「隊長……」


「だが、初めて刃を向けられて平気な顔をしてる方が気味が悪い。怖かったなら、それは本物を見たということだ」


「でも、剣が抜けませんでした」


「なら次に抜けるようになるかどうかだ。昨日の自分を一生引きずるか、背に乗せて立つか、その違いだけだ」


 ダリオは唇を引き結んだまま頷いた。


 醸はそのやり取りを聞きながら、静かに言う。


「この酒は、怖さを消す酒じゃない」


「……はい」


「消えたら困るからな。怖さは必要だ」


「必要?」


 ミーナが目を丸くする。


「怖さがあるから、人は身構えるし、考える。なくしちゃいけない」


「じゃあ何をする酒なの?」


「怖さで背が丸まった時に、もう一度だけ背筋を通す酒だよ」


「それが黒い酒」


「うん」


 全員が杯を上げる。


 ひと口目。


 ダリオの目がわずかに見開いた。


「苦い、です」


「だろうな」


 醸が苦笑する。


「でも……」


 青年はもう一口含む。


「思ったより、嫌じゃない」


「うん」


「苦いのに、口の中が変に荒れない。むしろ……落ち着く」


「そう来たか」


 醸は胸の内で小さく頷いた。


 隊長もゆっくり飲み、太い息を吐いた。


「腹にくるな」


「重すぎますか?」


「いや、違う。重いんじゃない。下に落ちる」


「下?」


「そうだ。浮ついた気持ちが、腹の底へ沈む感じだ」


 レティシアも続ける。


「私は、頭の中のざわつきが減る気がする」


「眠くなる?」


 ミーナが訊く。


「違う。むしろ逆ね。ぼんやりするんじゃなくて、“余計な揺れが減る”感じ」


「それ、かなり理想です」


 村長はじっと杯の黒を見つめていたが、やがて低く言った。


「これは、慰めの酒ではないな」


「はい」


「だが、立ち直りの酒にはなる」


「そうであってほしいです」


「ふむ……ならば、今の村に要る」


 最後にダリオが、ゆっくりと三口目を飲んだ。


 そして驚いたような顔をする。


「どうした」


 隊長が問う。


「さっきまで、自分の失敗ばかり頭に浮かんでたんです」


「今は?」


「失敗は失敗のまま、浮かんでます」


「なら変わらんじゃないか」


「でも、その続きを考えられます」


「続きを?」


「次に同じ目に遭ったら、どこで足を止めるか。いつ剣に手をかけるか。誰の後ろに下がるか。逃げるならどう逃げるか」


 青年は、自分で口にしながら少し驚いているようだった。


「さっきまでは、『情けない』で頭がいっぱいだったのに」


「それで十分だ」


 隊長ははっきり言った。


「次を考えられるなら、もう止まってはいない」


 醸は、その言葉でようやく手応えを確信した。


 Irish Stout。


 それは、心を柔らかく戻す酒ではない。


 失敗や恐怖を見つめたまま、それでも前を向くために腹へ落ちる黒の酒だ。


     


 その数日後、村には小さな異変が起き始めた。


 まず、詰所で働く者たちの間で、夜番前に少量の黒い酒を求める声が出た。


 酔うためではない。


 気を逸らさず、怯えすぎず、言葉少なに持ち場へ向かうための一杯として。


 次に、鍛冶場でも評判になった。


 春の修繕で仕事が山ほど積まれ、焦りや苛立ちが募る中、この黒い酒を飲むと妙に手元が落ち着く、と職人たちが言い出したのだ。


 さらに意外だったのは、辺境局から戻った補助書記エルノが、再びグランエッジを訪れたことだった。


「また来たのか」


 レティシアが呆れ半分に言うと、青年文官は苦笑した。


「仕事です」


「本当に?」


「……半分くらいは」


「正直ね」


 彼は醸造小屋に入るなり、棚に置かれた黒い酒樽を見つけて目を細めた。


「これが新しい酒ですか」


「耳が早いな」


「辺境局で、すでに少し話題です」


「まだ外には出してないぞ」


「噂は歩くのが速いんです」


 醸は新しい杯に Irish Stout を注いだ。


 エルノは香りを嗅いだだけで、少し姿勢を正す。


「前回の赤い酒とは、ずいぶん違いますね」


「帰る酒の次は、立つ酒だ」


「立つ酒」


「心を家へ戻したあと、今度は背筋を伸ばす必要がある」


「なるほど」


 彼はひと口飲み、静かに目を閉じた。


「……これは危うい」


「またその言い方か」


「褒めているんです」


「前もそう言ってたな」


 エルノは苦笑しつつ、言葉を続けた。


「前回の赤は、人の心を安らぎへ導く酒でした。今回の黒は、人の判断を濁らせずに、意志だけを重くする」


「重くする、か」


「ええ。思いつきや衝動ではなく、“決める”方へ働くように感じます」


「それは悪い意味で?」


「使い方次第です」


 その一言で、場の空気が少し締まった。


「兵に配れば士気を保てる。役人に配れば、迷いなく命令を下せる。職人に配れば、疲れた手を止めずに済む」


 エルノは黒い液面を見つめたまま言う。


「だが同時に、それは“無理を押し通す道具”にもなり得る」


「……」


「あなたは、それを望まないでしょう」


「当然だ」


「なら、配る相手と量を選んでください」


 醸は黙った。


 まったくその通りだった。


 酒が人を支える。


 だが、支えは時に人を酷使する側にも利用される。


 前回の Irish Red Ale も心に触れる酒だったが、今回の黒はさらに危うい。慰めではなく決意に近いぶん、使う者の意図が強く出る。


 村長が呼ばれ、四人で火鉢を囲んで話し合いが行われた。


「定めを作るべきじゃな」


 村長が言う。


「定め?」


 ミーナが訊く。


「この黒い酒は、常飲させるものではない。夜番前の少量、鍛冶場でも節目だけ、緊張の強い場での補助として使う」


「飲みすぎたらだめ?」


「飲みすぎは何でもだめだが、特にこれはの」


 村長は杯を見下ろした。


「腹が据わるということは、時に休むべき時に休めなくなるということでもある」


「無理できちゃう、ってことか」


 レティシアが言う。


「そういうことじゃ」


「厄介ね」


「だが、有用でもある」


 醸はゆっくり言った。


「だからこそ、村の中でルールを決めてから出したい」


「賛成です」


 エルノが即座に頷く。


「辺境局に伝える際も、その方がいい。“使い手を選ぶ酒”として扱うべきでしょう」


「売りにくそうだな」


 醸がぼやくと、レティシアが吹き出した。


「そこで商売の顔になるのね」


「いや、大事だろ」


「大事だけど、今はその不満はちょっと面白い」


     


 その夜、醸は一人で醸造小屋に残り、黒い酒の樽を見つめていた。


 これまでにも、酒の力と危うさは考えてきた。


 回復のラガーは乱戦で奪い合いになるかもしれない。


 魔力回復のエールは魔術師たちの均衡を崩すかもしれない。


 持久を支える酒は酷使の道具になるかもしれない。


 だが、今回の Irish Stout はまた違う。


 心の立て直しに踏み込むということは、そのぶん、人の意志の方向にも触れてしまう。


 黒い液体を小さく注ぎ、口に含む。


 焙煎の苦み、穀物の深み、神麦の澄んだ芯。


 飲み終えたあと、胸ではなく腹の底に静かな重さが落ちる。


「……強いな」


 強い。


 酒としてではなく、意味として。


 すると、戸が静かに開いた。


 入ってきたのはレティシアだった。


「やっぱりいた」


「何だ」


「難しい顔の続き」


「そんなに顔に出てるか」


「かなり」


 彼女は隣に立ち、棚から空の木杯を取る。


 醸が少しだけ注ぐと、彼女は香りを確かめてから口をつけた。


「やっぱり、これ好きかも」


「苦いのに?」


「苦いから、かもしれない」


「意外だな」


「剣を持つとね、優しい言葉だけじゃ足りない時があるのよ」


「……」


「自分で自分の足を前に出さなきゃいけない時に、背中を押されるより、芯を通される方がありがたいことがある」


「芯を通す、か」


「この酒、そういう感じ」


 醸は少し笑った。


「みんな表現がうまくなってきたな」


「あなたの酒が、そう言わせるのよ」


 しばらく二人で黙って飲む。


 小屋の外では、雪解け水の流れる音がする。


「ねえ」


 レティシアが不意に言った。


「前は、酒って“効果”で考えてたでしょう」


「今も考えてる」


「でも今は、それだけじゃない」


「……そうだな」


「回復するとか、魔力を満たすとか、寒さに耐えるとか、それはもちろん大事。でも最近のあなた、もっと人の生き方そのものに触る酒を造ってる」


「そうなってきたかもしれない」


「怖い?」


「怖いよ」


「でもやめない」


「やめない」


 それは、ほとんど反射のような返事だった。


 醸は前世で、酒をここまで深く考えたことはなかった。


 味、香り、泡、発酵、温度、原料――もちろん真剣に向き合っていた。だがそれは主に“良いビールを造る”ためだった。


 今は違う。


 良いビールを造ることが、そのまま誰かの一日や、一歩や、覚悟に繋がってしまう。


 それは重い。


 けれど、逃げたくはなかった。


「次はどうなると思う?」


 レティシアが訊く。


 醸は杯の黒を見つめた。


「たぶん、もっと濃くなる」


「酒が?」


「状況が、かな」


「嫌な言い方」


「でも本当だろ」


「……そうね」


 辺境局の関心。


 流通の拡大。


 補給を狙う者たち。


 そして、酒の効能を“道具”として欲しがる人間たち。


 村の黒い酒は、もう村の中だけのものではいられないのかもしれない。


 それでも今夜だけは、目の前の一杯に意味があった。


 怖さを消すのではなく、


 苦さをごまかすのでもなく、


 ただ、折れかけた背に一本の芯を通す。


 Irish Stout。


 黒い泡の下には、夜のような色が沈んでいる。


 だがその黒は、終わりの色ではない。


 火を抱えた炉の内側のように、見えない熱を宿す黒だ。


 醸はゆっくりと杯を置き、誰に向けるでもなく呟いた。


「立つための酒だ」


 その言葉は、小屋の木壁に柔らかく吸い込まれていった。


 明日になれば、また新しい相談が来るだろう。


 新しい要求も、面倒も、危うさも増えるだろう。


 だが今はまだ、


 黒い酒が静かに腹へ落ちる感覚を信じていたかった。


 戻る場所を知った者が、


 次にもう一度立ち上がるために。


 その一杯が、


 夜明け前の最も暗い時刻にこそ似合うのだと、


 醸は確かに感じていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ