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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第四十七話 炉辺にともる赤、帰る者のための一杯 ―Irish Red Ale―

山の村グランエッジに、春の気配が降りてきていた。


 とはいえ、王都の者が思い描くような華やかな春ではない。雪解けの泥が道を重くし、山肌のあちこちから冷たい水が流れ出し、朝晩にはまだ白い息が立つ。冬の名残はしつこく、だが確かに空気の底には変化があった。


 長い冬を耐えきった者たちが、少しずつ「先のこと」を口にし始める。


 畑をどう起こすか。


 壊れた柵をどこから直すか。


 山道はいつ再び開くか。


 王都への便は何日で戻るか。


 冬のあいだは目の前の一日をやり過ごすだけで精一杯だった村に、ようやく「明日から先」が戻ってきたのだ。


 だが、春は春で人を疲れさせる。


 凍っていたものが動き出す季節は、心もまた揺れる。


 冬を越えた安堵のあとに、今度は仕事が押し寄せる。帰ってきた者と、帰ってこなかった者の数が、静かに確定してしまう。雪に埋もれていた現実が、泥と一緒に姿を現すのだ。


 その日、醸造小屋の前に立っていた醸は、村道を行き交う人々の顔を見ながら、ふとそう思った。


「最近、みんな少しだけ無口ですね」


 樽を洗っていたミーナが言う。


「無口というより、疲れが違うんだ」


 醸は答えた。


「冬の疲れ?」


「冬の疲れもある。でもそれだけじゃない」


「じゃあ何?」


「冬が終わったからこそ出る疲れだよ」


 ミーナは首を傾げた。


「終わったなら楽になるんじゃないの?」


「楽になる部分もある。でも、緊張が切れるとどっと来るんだ。気持ちも身体も」


「ふうん……」


「それに春は仕事が多い。片づけるもの、直すもの、決めるものが山ほど出てくる」


「たしかに、村長さん、今朝から三回くらい走ってた」


「村長を走らせる季節か……」


「かわいそう」


「でも、あの人たぶん走ってると少し嬉しいぞ」


「それもわかる」


 ミーナがくすくす笑う。


 そこへ、村長本人が現れた。


 まるで噂を聞きつけたようなタイミングである。


「走っておったのは事実じゃ」


「ほら」


「しかし嬉しくはないぞ」


「本当ですか?」


「少しだけじゃ」


「やっぱり」


 村長は咳払いをして、醸造小屋の中を見回した。


「カモス、少し相談がある」


「何でしょう」


「春の帰還祝いをやりたい」


「帰還祝い?」


「冬越え隊、巡回の者たち、荷運び、山道の見回り、寒村への援助……それぞれ戻ってきた者がおる。全員ではないが、だからこそ一度、ちゃんと迎えたい」


 その言葉に、醸はすぐには返事をしなかった。


 帰ってきた者を迎える。


 それは大切だ。


 だが同時に、帰ってこなかった者の影も濃くなる。


 村長は醸の沈黙の意味を察したのか、ゆっくり続けた。


「浮かれるための宴ではない」


「……はい」


「よく戻った、と言うための場じゃ。そして、ここがまだおぬしたちの戻る場所だと確かめるための場でもある」


「帰る場所」


「そうじゃ」


 レティシアがちょうど小屋に入ってきて、話の最後を拾った。


「それ、必要ね」


「お前もそう思うか」


「うん。冬を越えた連中って、帰ってきてもすぐには村の空気に戻れない時があるのよ」


「戻れない?」


 ミーナが問う。


「見回りや遠征が長かった者ほどね。身体は帰っても、気持ちだけまだ外にいる」


「そんなことあるんだ」


「ある。火のそばに座ってても、頭のどこかは雪道を歩いてる」


「……わかるような、わからないような」


「ミーナはまだ若いから、それでいいわ」


 醸は腕を組み、考えた。


 帰ってきた者のための酒。


 冬を越えた者のための酒。


 祝いでありながら、騒ぎすぎない酒。


 村の火のそばで、肩の力を少しだけ抜かせる酒。


 頭の中に、ひとつの色が浮かんだ。


 鮮やかすぎない、落ち着いた赤。


 夕暮れの炉の火のような、やわらかな赤銅色。


「……Irish Red Ale」


 醸は小さく呟いた。


「次の酒?」


 村長が訊く。


「はい。たぶん、今のグランエッジにちょうどいい」


「どんな酒なんです?」


 ミーナが目を輝かせる。


 醸は少し考えてから答えた。


「派手じゃない」


「うん」


「強すぎない」


「うん」


「でも、飲むと『ああ、ここにいていいんだな』って気持ちになる酒だ」


「え、そんな酒ある?」


「現実の酒はそこまで直接じゃないけど、少なくとも俺の中ではそういう立ち位置だ」


「ふわっとしてる」


「でも大事な酒だよ」


「ふわっと大事」


「お前、だんだん遠慮なくなるな」


 レティシアが肩をすくめる。


「いいじゃない。その説明、私は好きよ」


「そうか?」


「うん。戦うためじゃなくて、戻るための酒なんでしょう」


「……そうだな。たぶん、それだ」


     


 仕込みは、これまでの冬向けの酒とは少し違う緊張感を持って始まった。


 Heavy や Export のように“支える”ことは共通している。だが、今回求める支えは持久力や輸送耐性ではない。人の気持ちが村の暮らしに戻る、その橋渡しだ。


 醸は神麦を選り分けながら、少量だけ焙煎度の高い麦を混ぜることにした。


 濃くしすぎる必要はない。


 ただ、液色に静かな赤みを宿し、味わいにほのかなカラメル感と、乾いた香ばしさを残したい。


「なんで赤い酒にするの?」


 ミーナが麦をざるに入れながら問う。


「色って、思った以上に気分に効くんだ」


「そうなの?」


「真っ黒だと構えるし、金色だと軽やかに感じる。赤銅色は、その間で落ち着く」


「じゃあ赤は、安心の色?」


「場合によるけどな。今回はたぶん、炉の火に近い」


「炉の火……」


 ミーナが焙煎麦を指先でつまみ、鼻先に寄せる。


「ほんとだ。ちょっと甘くて、あったかい匂い」


「焦がしすぎると違う方向へ行く。あくまで穏やかに、だ」


「難しいね」


「いつも言ってる気がするけど、結局そこに戻る」


「師匠の口癖だ」


「その呼び方、定着させる気か」


「だめ?」


「だめじゃないけど、むずがゆい」


 糖化桶の湯気が上がる。


 小屋の中には、やわらかな麦の甘みが広がっていく。


 先日の Scottish Export が、外へ運ばれるための整った骨格を持っていたとするなら、今回の香りはもっと内向きだった。遠くへ向けるのではなく、帰ってきた人間を包むための輪のような香り。


 ホップは控えめに。


 苦味で輪郭を立てすぎず、麦のまるみを前に出す。


 それでもだらけさせないよう、最後にほんの少しだけ引き締める。


「優しい酒になる?」


 レティシアが壁にもたれて見ている。


「優しいだけじゃだめだ」


「どうして」


「優しいだけだと、疲れた人間には頼りなく感じることがある」


「なるほど」


「ちゃんと土台があって、その上に優しさが乗る感じがいい」


「……本当に、人間を見るみたいに酒を造るのね」


「人が飲むんだから、まあそうなる」


 レティシアは黙って醸を見つめ、やがて小さく笑った。


「最初は変な男だと思ったけど」


「今は?」


「変な男のまま、少しだけ頼もしくなった」


「評価が半分しか上がってない」


「十分でしょ」


     


 発酵は穏やかだった。


 泡立ちは素直で、香りの立ち方も柔らかい。


 桶から立ちのぼる空気には、若い果実のような明るさがほんの少しだけ混じり、しかし主役はあくまで麦だった。神麦の生命力が、今回ばかりは傷を癒やす鋭さや、魔力を満たす清冽さではなく、もっと丸い形で現れているように感じられる。


 醸は毎朝桶を覗き込み、香りを確かめ、温度を測りながら、胸の内で少しずつ手応えを深めていた。


 これはたぶん、派手な奇跡の酒にはならない。


 だが、必要なところに確かに届く酒にはなる。


 そしてその予感は、樽詰め前の試飲で確信に変わった。


 汲み上げた液体は、美しい赤銅色だった。


 透き通っているのに、冷たさだけではない温度を感じる色。


 泡は白く細かく、縁に残る。


 香りは穏やかなカラメル、軽いトースト、焼いたパンの耳のような香ばしさ。そしてその奥に、春先の湿った土を思わせる、神麦特有の生命感。


「……これは、いい赤だ」


 醸は思わず口にした。


「酒の色に見惚れてる」


 ミーナが笑う。


「見惚れる時は本当にいい時だ」


「前にも言ってた」


「職人の大事な習性なんだよ」


 最初の試飲には、村長、レティシア、ミーナ、そして冬越え隊から帰還した数人が集まった。その中には、以前 Scottish Heavy を好んだ隊長もいれば、寒村の巡回を終えて戻った若い見習いもいた。


 醸は杯を配る前に、一度全員を見回した。


 彼らの顔には、疲れがある。


 だがそれだけではない。


 戻ってきた安堵と、戻ってこられなかった者への遠慮と、次の季節へ向かわなければならない焦り。いくつもの感情が、うまく言葉にならないまま重なっている顔だった。


「今日は、効き目を先に説明しません」


 醸が言うと、村長が眉を上げた。


「珍しいな」


「今回は、飲んでから感じてほしい」


「自信がある?」


「あるというより……説明しすぎると違う気がする」


 全員が杯を手に取る。


 ひと口。


 ふた口。


 最初に息を吐いたのは、若い見習いだった。


「……なんだろう」


「どうした」


 隊長が横目で見る。


「強くないです。なのに、胸のところがほどける」


「ほどける?」


 ミーナが反応する。


「はい。ずっと、帰ってきてからも変に肩に力が入ってたんですけど……これ飲むと、やっと椅子に座れた感じがします」


「今まで座ってただろ」


 隊長が言うと、見習いは困ったように笑った。


「そうじゃなくて、気持ちがです」


 今度は隊長がゆっくり頷いた。


「……わかる」


「隊長さんも?」


「ああ。Heavy は前へ出る酒だ。Export は持たせる酒だ。だがこれは、戻ってきた人間を村に馴染ませる酒だな」


「村に馴染ませる」


 レティシアがその言葉を繰り返す。


 彼女も杯を口元で止めたまま、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。


「おかしいわね」


「何が?」


 醸が尋ねる。


「飲んだら、急に小屋の匂いがよくわかる」


「小屋の匂い?」


「木と麦と火の匂い。いつもあるのに、今さら『ああ、ここだ』って思う」


「……それは、かなり狙い通りです」


「狙ってこんなことできるの?」


「たぶん少しだけ。全部は無理だ」


「でも少しはできたのね」


「みたいだな」


 村長も杯を置き、静かに目を細めた。


「この酒は、傷を癒やす感じではない」


「はい」


「魔力を満たす感じでもない」


「はい」


「だが、心が家の中へ戻る」


「……そういう酒になってくれたらと思っていました」


「なるほどな」


 そのとき、これまで黙っていた初老の荷運び役が、低い声で言った。


「うちの倅に飲ませたい」


 全員の視線がそちらへ向く。


「帰ってきてから、どうにも落ち着かんのです」


 男は杯を見つめたまま続けた。


「口数は少ないし、夜中に何度も起きる。怪我は治ってる。飯も食う。仕事もする。だが、どこかまだ雪の中にいるみたいで」


「……」


「この酒なら、一度くらい“帰ってきた”と思わせてやれる気がする」


 醸は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 派手な賞賛ではない。


 だが、今欲しかった言葉はたぶんこれだった。


     


 帰還祝いの夜、村の集会所には珍しく大きな炉が焚かれた。


 壁際には煮込み鍋が並び、燻製肉と黒パン、干し果実の皿が置かれ、子どもたちは最初だけ騒いで、やがて大人たちの足元で眠たそうにし始める。大宴会というほどの華やかさはない。だがその分、ここにいる全員が「顔のわかる相手」として一つの空間にいる温かさがあった。


 醸は小樽から Irish Red Ale を注ぎながら、集会所の空気を見ていた。


 最初はみな、どこかぎこちなかった。


 帰還祝いと言われても、心の置き場に迷う者が多かったのだろう。笑っていいのか、しんみりすべきか、亡くした者のことを話すべきか伏せるべきか、その境目が定まらない空気。


 だが、一杯目が回り始めるにつれ、その硬さが少しずつほどけていく。


 誰かが雪崩の寸前で馬を引き返させた話をし、


 誰かが寒村の子どもに変な歌を教わった話をし、


 誰かが凍った靴を火に近づけすぎて底を焦がした失敗談で笑われる。


 泣く者はいなかった。


 けれど、無理に笑う者もいなかった。


 ただ、言葉が自然に火の周りへ戻ってきていた。


「ねえ師匠」


 樽の隣で手伝っていたミーナが囁く。


「ほんとに空気が違う」


「うん」


「みんな、最初よりちゃんと“ここにいる”感じがする」


「そうだな」


「これが Irish Red Ale の力?」


「酒の力だけじゃないよ」


「じゃあ何?」


「迎える場があって、迎える人がいて、そこに合う酒があった」


「全部そろったから?」


「たぶんね」


 そのとき、集会所の入口が開き、ひやりとした夜気が入り込んだ。


 振り向くと、そこには見覚えのない一人の青年が立っていた。旅装束は泥に汚れ、背には小さな荷。顔色は悪くないが、ひどく疲れて見える。


 村長が立ち上がる。


「誰じゃ?」


「……遅くなりました」


 青年は息を整えるように言った。


「辺境局の補助書記、エルノです。中継所からの戻りで……途中の橋が崩れて、報告が遅れました」


 文官か。


 醸は少し目を細めた。年は二十代半ばだろうか。真面目そうな顔つきだが、その目の奥には張りつめた疲労がある。歩き通しでここまで来たのだろう。


「飯は?」


 村長が問う。


「まだです」


「なら入れ。話は食ってからじゃ」


「ですが、先に報告を」


「先に座れ」


 有無を言わせぬ調子に、青年は一瞬戸惑ったあと、深く頭を下げた。


 空いた席に座らせると、ミーナがすばやく皿を運び、醸は新しい杯に Irish Red Ale を注いだ。青年は最初、その酒を見てわずかに迷った。勤務中の者として、遠慮があったのかもしれない。


 だが村長が言う。


「これは祝いの酒ではあるが、酔わせるための酒ではない。飲め」


「……では、少しだけ」


 青年はひと口飲んだ。


 そして、目を見開いた。


「どうだ?」


 醸が尋ねると、青年は答えるまで少し時間を要した。


「変です」


「変?」


 ミーナが身を乗り出す。


「失礼、悪い意味ではなく……」


 青年は慌てて言い直す。


「ここへ着くまで、報告書のことしか頭になかったんです。遅れた、まとめ直さないと、数字は合っているか、雪害の記録は足りるか、春の物資配分は――そういうことばかりで」


「文官らしいな」


 レティシアが苦笑する。


「はい。でも今、これを飲んだら……急に、自分がちゃんと村に着いたことを実感しました」


「……」


「さっきまで、頭だけがまだ道の上にあったんです」


 醸は、以前の辺境局の文官が Scottish Export に対して言った言葉を思い出していた。


 目立たぬ消耗を支える酒。


 あの時は“働き続けるため”の酒だった。


 だが今回の赤い酒は違う。


 働き終えた者、戻ってきた者、戻ったのにまだ戻りきれていない者を、“家の中”へ連れ戻す酒なのだ。


「それならよかった」


 醸は静かに言う。


「この酒は、たぶんそういうために造ったから」


「あなたが……グランエッジのビール薬師」


「そう呼ばれることもある」


「噂は聞いていました。傷を塞ぐ酒、魔力を満たす酒、寒さに抗う酒、長旅を支える酒」


 青年は赤銅の液体を見下ろし、ふっと笑った。


「でも、こういう酒がいちばん怖いかもしれません」


「怖い?」


「はい。人の心に効く」


「……」


「身体より、そちらの方が、ずっと扱いが難しい」


 その言葉に、醸は思わず息を止めた。


 まったくその通りだった。


 癒やしも、魔力も、体温も、持久力も、ある程度は結果として測れる。


 だが心は違う。支えにもなれば、依存にもなり得る。慰めにもなれば、逃避にもなり得る。


 青年の何気ない一言は、醸の胸の奥に小さな釘のように残った。


     


 宴が終わりに近づく頃、集会所の空気は最初よりもずっと柔らかくなっていた。


 誰かが歌を口ずさみ、誰かがそれに低く合わせる。


 子どもは眠り、年寄りは火のそばで目を細め、戻ってきた者たちはようやく“帰ってきた顔”をしていた。


 醸は樽を閉めながら、少し離れた壁際に立つ青年文官エルノの姿を見つけた。


 彼は杯を片手に、炉の火を見ている。


「報告、明日で大丈夫なのか」


 醸が隣に立つと、青年は軽く頭を下げた。


「今夜のうちに要点だけ村長へ伝えました。正式な書面は明朝でも」


「真面目だな」


「そうしないと落ち着かない質でして」


「それで生き延びてきたんだろうな」


「たぶん」


 少しの沈黙。


 やがて青年は、ためらいながら口を開いた。


「ひとつ、申し上げておきたいことがあります」


「何だ」


「辺境局の中で、あなたの酒に興味を持つ者が増えています」


「……でしょうね」


「好意的な者だけではありません」


「それも、でしょうね」


 青年は杯を見つめたまま続けた。


「公に支援物資として扱われれば、安定供給を求められる。増産を求める声も出ます。配分の優先順位を巡って争いも起きるでしょう」


「わかってる」


「それに、人の心に効く酒となれば……欲しがる者はさらに増えます」


「権力者ほど?」


「ええ。兵を励ますため、民を落ち着かせるため、交渉を円滑にするため。いくらでも理屈はつきます」


 醸は、火の揺れを見つめた。


 宴の温かさのすぐ外側に、もう次の影がある。


 それが現実だった。


「でも」


 青年が続ける。


「今夜、これを飲んで思いました。少なくとも、あなたは“乱暴な使い方”を望む人ではない」


「当然だ」


「なら、気をつけてください」


「助言として受け取っておく」


「はい」


 青年はそこで微かに笑った。


「それにしても、不思議な酒です」


「何が」


「悲しみを消すわけではないのに、悲しみのある場所に人を立ち戻らせる」


「……」


「忘れさせる酒じゃないんですね」


「たぶん、そういう酒は造りたくない」


 醸ははっきりと言った。


「苦しみをなくすんじゃなくて、抱えたまま座れるようにする方がいい」


「難しいことを、さらりと言いますね」


「実際にできてるかはわからない」


「でも今夜、できていましたよ」


 その言葉は、静かに胸へ落ちた。


     


 宴の片づけが終わったあと、外に出ると夜気は冷たかった。


 けれど、冬の刃のような冷たさではない。雪解けを含んだ、やわらかな冷たさだ。


 レティシアが後から出てきて、隣に立つ。


「いい夜だった」


「ああ」


「あなた、少し顔が疲れてる」


「緊張してたんだろうな」


「今回はいつもと違った?」


「違った」


「どう違うの?」


「傷を治すとか、体を支えるとかより、曖昧だから」


「心だから?」


「うん。そこに踏み込むのは、ちょっと怖い」


「でも踏み込んだ」


「必要だと思ったから」


 レティシアはしばらく黙り、やがて言った。


「今夜のあれは、たぶん踏み込みすぎじゃないわ」


「そうか」


「無理に笑わせたわけでも、忘れさせたわけでもない。ただ、みんなが火のそばに座れるようになった」


「それならいい」


「十分よ」


 醸は空を見上げた。


 雲の切れ間に、いくつか星が見える。


 前世では、自分が帰る場所を強く意識したことは少なかった。


 仕事場と部屋を往復し、酒を造り、疲れて眠る。独り身であることに慣れきって、寂しさを寂しいと口にすることすら忘れていた。


 だが今は違う。


 この村には、自分の酒を待つ者がいて、


 自分の帰りを知っている者がいて、


 火を囲む場がある。


 だからこそ、帰る者のための酒を造れたのかもしれない。


「次の酒も、こういう難しいのになる?」


 レティシアが訊く。


 醸は少し笑った。


「どうだろうな。次はもう少し、別の方向へ強く出るかもしれない」


「別の方向?」


「まだ形にはなってない。でも……心を落ち着ける酒の次は、心を奮い立たせる酒になる気がする」


「また厄介そう」


「たぶん、かなり」


「じゃあ、また見ててあげる」


「見張る、の間違いじゃないか?」


「どっちでも似たようなものよ」


 二人で小さく笑う。


 集会所の窓からは、まだ炉の明かりが漏れている。


 その橙を見たとき、醸は今夜の酒の色を思い出した。


 Irish Red Ale。


 派手な奇跡ではない。


 だが、人が「戻ってきた」と思える場所に、そっと灯る赤。


 明日になれば、また現実は動く。


 辺境局との調整もある。増産の悩みもある。欲を抱く者たちの気配も、きっと近づいてくる。


 それでも今夜だけは、ただこの赤を信じていたかった。


 帰ってきた者たちの声。


 火の匂い。


 木の椅子の軋み。


 杯の底にわずかに残る、赤銅の揺らぎ。


 醸は誰に聞かせるでもなく、ひとりごちた。


「帰るための酒、か」


 その言葉は、夜の冷気の中に薄く溶けていった。


 けれどきっと、今日ここにいた者たちの胸には、同じような温度が残っている。


 火が消えたあとも、家の中の木材がしばらく温かいように。


 赤い酒の余韻は、静かに、長く、


 村の夜を内側からあたため続けていた。


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