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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第46話 赤銅の荷印、山を越えて届く責任―Scottish Export―

冬の山道は、酒の敵だった。


 大麦 醸は、まだ朝霧の残る荷車置き場で、樽の金具を一つずつ確かめながら、小さく息を吐いた。山の空気は冷たい。だが、冷たいだけならまだいい。問題は揺れだ。凍結した石道で車輪が跳ね、斜面で荷台が傾き、昼と夜の温度差で木樽がきしむ。せっかく仕上げた酒も、運ぶ間に荒れれば味が崩れる。効能だって落ちるかもしれない。


 村の外へ酒を出す。


 それは、思っていたよりずっと難しいことだった。


「また樽と睨み合ってる」


 背後からレティシアの声がした。


 振り向くと、赤茶の髪を束ねた剣士が腕を組んで立っていた。吐く息が白い。腰の剣には、すでに霜が薄く降りている。


「睨み合ってるんじゃない。相談してるんだ」


「樽と?」


「この揺れに耐えられるかどうか」


「返事は?」


「黙秘権を使われてる」


「難しい交渉ね」


 レティシアは呆れたように笑い、荷台の上を見た。


 そこには、Scottish Heavy――冬山を越える者たちの腹に火を残す、持久の褐色酒の空樽が積まれていた。Scottish Heavy――冬山を越える者たちの腹に火を残す、持久の褐色酒。その評判は、思った以上に遠くまで届いていた。


 数日前、辺境局から正式な使いが来たのだ。


 内容は単純だった。


 グランエッジの酒を、定期的に外へ運びたい。


 ただし今回は、戦場の緊急用でも、村内の備蓄用でもない。もっと静かで、だが大きな意味を持つ依頼だった。


 山越えの監督官、雪道の測量役、長期巡回の文官、寒村を回る医師補佐――そういう、派手ではないが王国の端を支えている者たちへ届く酒が欲しいという。


 強すぎず、軽すぎず、長旅でも崩れず、飲めば確かに体を支える酒。


 醸の頭に浮かんだのは、すぐに一つだった。


「Scottish Export、か」


 彼は独り言のように呟く。


 その声に、荷台の影からミーナが顔を出した。


「次の酒?」


「そう」


「Heavyじゃだめなの?」


「Heavyは良い酒だ。でも、あれは現場で飲んでこそ強い」


「現場で?」


「うん。あの場で、『まだ立てる』って腹に落ちる酒なんだ」


「ふむ」


「でも今度必要なのは、村で仕込んで、山を越えて、誰かの手に渡って、それでもちゃんと意味が残る酒だ」


「届いた先でも崩れない酒?」


「そう。味も、効き方も、気持ちもな」


 ミーナは感心したように頷いた。


「難しそう」


「難しい」


 すると、背後から静かな声が割って入った。


「だからこそ、今のグランエッジにふさわしいのだろうな」


 村長だった。さらにその後ろには、辺境局の使者である若い文官と、冬越え隊の隊長も立っている。隊長は以前、Scottish Heavy に助けられた男だ。頬に刻まれた古傷が、朝日に薄く浮かんでいた。


「カモス殿」


 文官が一礼する。


「改めて申し上げます。辺境局としては、貴殿の酒を“嗜好品”ではなく“辺境支援物資”として扱うことを検討しております」


「物資、ですか」


「はい。ただし、強すぎるものは不可です。現場で扱いきれない」


「それは同感です」


「かといって、軽すぎても意味がない」


「それもそうです」


「さらに、輸送で品質が落ちては困る」


「……つまり、いちばん面倒な注文ですね」


「おそらくは」


 文官は真面目な顔のまま頷いた。冗談が通じたのか通じていないのかわからない。


 だが醸は、内心で少しだけ安堵していた。


 面倒な注文は、悪い注文ではない。


 使う側が真剣に求めている証拠だ。


     


 その日の仕込みは、最初から「運ぶための酒」を意識して進んだ。


 神麦はいつもより少しだけ深く焙かれる。焦がしすぎない、だが淡いだけでは終わらせない。赤銅の芯を作るための火加減だ。砕かれた麦から立つ香りは、これまでのスコティッシュ系よりもやや濃く、柔らかなトフィー香と薄い焼き菓子の気配を含んでいた。


「いい匂い……」


 ミーナが目を細める。


「Heavyより甘い?」


「少しな」


「甘いと重くならない?」


「そこを重くしないのが Export だ」


「また難しい言い方」


「飲んだ瞬間に『濃い』って押してくるんじゃなくて、飲み終わったあとに『あ、ちゃんと支えられてる』って残る感じが欲しい」


「後から来るの?」


「後から、長くな」


 糖化の湯気が立ちのぼる。


 木の小屋いっぱいに、焙いた神麦のやわらかな香りが広がった。


 醸は櫂をゆっくり回しながら、前世の記憶を呼び起こしていた。


 Scottish Export。


 Light より濃く、Heavy とも隣り合うが、ただ重いわけではない。麦芽の旨み、穏やかな甘やかさ、飲みやすさの均衡。派手さではなく、整った骨格で遠くまで届く酒だ。


 異世界でそれをやるなら――


 “運ばれても崩れない支え”にするべきだ。


「カモス」


 レティシアが樽材を見ながら言う。


「今回は酒だけじゃなくて、運び方も変えるんでしょう」


「変える」


「どうするの?」


「樽の内側を少しだけ蜜蝋で整える」


「味、変わらない?」


「変えすぎない程度に薄くな。木の荒れを抑えて、旅の揺れで香りが飛ぶのを少しでも防ぎたい」


「そんなことまで考えるのね」


「外に出すなら、そこまでが仕事だよ」


 レティシアは少し黙ってから、ふっと目を細めた。


「最初の頃は、“うまい酒を造る”だけで頭いっぱいだったのに」


「今もそこは変わってない」


「でも今は、“誰の手にどう届くか”まで考えてる」


「……そうだな」


 醸は、鍋の中の琥珀がかり始めた麦汁を見つめた。


 変わったのだと思う。


 村で最初のラガーを造った頃は、自分が生き延びるためでもあった。


 次に村のためになった。


 その次に、旅人や労働者や夜警のためになった。


 そして今は、顔の見えない遠くの誰かの冬を支える酒を造ろうとしている。


 ビールが、自分の手を離れて世界へ伸び始めていた。


     


 発酵は静かだった。


 Scottish Light のような軽やかさはない。Heavy ほど腹の底から湧くような重みもない。その中間――いや、中間というより“整えて外へ出すための落ち着き”が最初から桶の中にあった。


 ミーナが発酵桶に耳を当てる。


「今回は、音がおとなしい」


「暴れない方がいい」


「元気ないってこと?」


「違う。無駄に騒がないだけだ」


「文官さんみたい」


「ちょっとわかるな……」


 数日後、沢水でゆっくり落ち着かせた液体は、深い赤銅色を帯びていた。


 光にかざすと、ただ暗いのではなく、内部にあたたかな橙の筋が見える。


 泡は細かく、香りは穏やか。だが吸い込めば、麦の甘み、薄いカラメル、乾いたトースト、そして神麦特有の清い生命力が、静かに重なって鼻に残る。


「……いい」


 醸は短く言った。


「最近それ多いね」


 ミーナが笑う。


「いい時ほど、言葉が減るんだよ」


「職人ぶってる」


「職人だからな」


 最初の試飲は、村長、レティシア、ミーナ、冬越え隊の隊長、そして辺境局の文官が立ち会った。


 醸は一杯ずつ丁寧に注ぐ。


「では」


 文官が杯を持つ。


「グランエッジの新しい酒を」


 全員が口をつけた。


 最初に反応したのは隊長だった。


「……ああ」


「どうです?」


 醸が訊く。


 隊長はしばらく目を閉じ、それから息を吐いた。


「Heavy ほど『踏ん張るぞ』とは来ない」


「はい」


「だが、飲んだあとに背中が寒くなくなる」


「寒くない?」


「うん。無理に熱くなるんじゃない。体の芯に、薄い火が長く残る」


 レティシアが頷く。


「わかる。戦いの酒じゃない。でも、行軍や見回りにはすごくいい」


「そうだな」


 隊長は続ける。


「しかも気が荒くならない。視界も鈍らん。歩きながら持たせる酒だ」


 次に文官が静かに杯を置いた。


「これは……書類仕事の酒にもなります」


「書類仕事?」


 ミーナが首を傾げる。


「辺境では、現場で動く者だけが疲れるわけではありません。寒村の税をまとめ、道の崩れを記録し、食料の不足を計算し、救援の文を送る者もまた、静かに削られます」


「たしかに」


 醸が頷く。


「この酒は、そういう“目立たぬ消耗”を支えるように思えます。意識は濁らず、心だけが少し折れにくくなる」


「……それは、かなり Scottish Export っぽいですね」


「その言葉の意味はわかりませんが、良い酒であることはわかります」


 村長もゆっくり飲んで、深く頷いた。


「外へ出してよい酒だな」


「そう思います」


「村の外で、村の名を背負わせられるか」


「はい」


 その言葉を口にした瞬間、醸の胸の内で何かが静かに定まった。


 これは、ただの新作ではない。


 グランエッジの酒が、


 “村でしか通じない奇跡”から、


 “外でも通じる責任ある技術”へ変わる一歩だ。


     


 初めての正式輸送は、小規模で行われた。


 Scottish Export の小樽が六つ。


 行き先は三つの寒村と、辺境局の中継所ひとつ。


 さらに、巡回医師の補給荷にも一本だけ積まれることになった。


 荷車の準備を終えた朝、醸は樽に焼き印を押していた。


 山と麦穂、そして小さな泡を組み合わせた、グランエッジ醸造所の簡素な印。


 セリナがいればもっと商売人らしい意匠を考えただろうが、今の彼にはこれが精一杯だった。


「それが村の印?」


 ミーナが覗き込む。


「そう」


「なんか、かわいい」


「かわいいって言うな。職人の誇りだぞ」


「かわいい誇り」


「弟子が容赦ないな……」


 だがレティシアは、その焼き印を見て珍しく真面目な顔をした。


「いい印よ」


「そうか?」


「うん。飾り立ててないのに、どこの酒かすぐわかる」


「それなら良かった」


「これが増えていくのね」


「……増えるかな」


「増やすんでしょ」


「増やすよ」


 荷車が動き出す。


 車輪が軋み、馬が白い息を吐き、朝の山道へと進んでいく。


 醸はその背を見送りながら、奇妙な不安と高揚を同時に味わっていた。


 自分の酒が、自分の目の届かない場所へ行く。


 それは誇らしい。


 だが、怖くもあった。


 ちゃんと届くか。ちゃんと役立つか。誤って使われないか。模倣されないか。奪われないか。


 村長が隣で言った。


「いよいよじゃな」


「はい」


「嬉しいか」


「嬉しいです」


「怖いか」


「怖いです」


「そうだろうな」


 村長は小さく笑った。


「だが、その両方を感じられるなら、まだ道を間違えてはおらん」


「……そういうものですか」


「本当に危うい者は、誇りだけで走る。あるいは恐れだけで止まる。おぬしはその間で悩める」


「悩んでばかりですよ」


「職人とはそういうものだろう」


 それには、醸も笑うしかなかった。


     


 十日後、最初の報せが戻ってきた。


 寒村の一つでは、吹雪の中で見回りを続けた役人たちの消耗が軽く済み、中継所では夜通し記録整理をしていた文官が倒れずに済んだという。巡回医師は、「重傷を治す薬ではないが、長く削られた身体と気力を保たせるのに非常に優れる」と書き送ってきた。


 そして最後に、辺境局からの追記があった。


『グランエッジ醸造所の酒は、辺境支援物資として継続検討に値する。今後、定期配給の可能性あり』


 小さな一文だった。


 だが、その重みは大きかった。


「来たな」


 レティシアが言う。


「ああ」


「もう“山村の妙な薬酒”では済まない」


「そうだな」


「王国の仕事に組み込まれ始めた」


「……うん」


 醸は、届けられた文を静かに畳んだ。


 酒は人を救う。


 それは変わらない。


 だが、救える範囲が広がるほど、酒は人の暮らしだけでなく、制度や利害や権力にも触れていく。


 次に来るのは、歓迎だけではないだろう。


 もっと欲しがる者。


 独占したがる者。


 利用したがる者。


 それでも――


 それでも、自分は造るのだと思う。


 必要な相手に、必要な酒を。


 飲んだ者が無理に燃え尽きるのではなく、明日も歩けるようになる一杯を。


 醸は机の上の杯に残った Scottish Export を見つめた。


 赤銅の液体は、炎のように派手ではない。


 だが、冷えた手を包む炭火のように、じわりと長く残る色をしていた。


「次は?」


 ミーナが聞く。


 醸は少し考えてから、答えた。


「次は……もっと外の人間の心に近い酒になるかもしれない」


「心?」


「うん。体だけじゃなく、誇りとか、帰る場所とか、そういうものに触る酒」


「難しそう」


「たぶん、また難しい」


「でも作るんでしょ」


「作るよ」


 窓の外では、山風が新しい雪の匂いを運んでいた。


 その向こうへ、グランエッジの酒はもう出ていっている。


 大麦 醸は、木杯をそっと掲げる。


 自分の手元にある一杯と、


 遠くの寒村で誰かを支えているであろう一杯へ向けて。


「乾杯」


 その声は小さかった。


 だが、静かな赤銅の酒にふさわしい、確かな響きを持っていた。


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