幕間 王都から村へ――帰路の一杯
侯爵アルフェンの客間で、醸は小さな旅支度をした。
といっても、荷物はそれほど多くない。醸造道具の一部、神麦の残り、書き留めたメモの束、そしてセリナが持たせてくれた王都の地図と、数枚の推薦状。それだけだ。
北三番倉での一件から三日が経っていた。
ヴィスタ商会の介入の証拠は押さえられた。だが、それを公に動かすのはまだ侯爵家の仕事だ。醸たちにできることはやり切った。今は一度、村へ戻る時だった。
「もう行くのか」
レティシアが腕を組んで言う。侯爵家の廊下で、彼女はいつものように背筋をまっすぐにしていた。
「グランエッジが気になってて」
「村の酒蔵でしょ」
「発酵が止まらないか心配なんだよ。あと、冬が終わる前にやっておきたいことがある」
レティシアは少し目を細めた。
「また酒の話か」
「また酒の話だ」
「……まあ、あなたは他に話がないものね」
「褒め言葉として受け取っておく」
ミーナが鞄を担いで近づいてくる。頬に旅の血色が混じっていた。
「わたしも行く」
「当然のような顔してるな」
「弟子だから」
「弟子は師匠の許可を取れ」
「許可くれる?」
「……まあ」
醸は苦笑いをしながら、廊下の窓へ目を向けた。
王都の朝は、石と石の間から白い空が見えた。村の空とは違う。狭くて、角があって、人の声と馬の蹄の音が混じっている。それでも、空は空だ。
セリナが静かに現れた。書類仕事を続けているのか、指先にインクのあとが残っている。
「カモスさん」
「セリナさん」
「北三番倉の件、侯爵家で引き継ぎます。醸造師として協力いただき、感謝しています」
「大したことはしてない」
「いいえ」
セリナは珍しく表情を崩した。ほんのわずかだが、口の端が上がっている。
「Scottish Light と Scottish Heavy が、現場の人間を動かした。それは酒の力です。あなたの仕事の力です」
醸は返す言葉を少し探したが、結局笑うだけにした。
侯爵アルフェンは、廊下の奥から歩いてきた。まだ杖をついているが、足取りは先週より確かだ。
「戻るか」
「はい。村に残してきたものがあるので」
「そうだろうな」
侯爵は短く言った。
「酒がなければ、村も冬を越えられない。それがわかった」
「……恐れ入ります」
「また来い」
それだけだった。だが、その言葉に重みがあった。
醸は深く一礼し、振り返った。
王都を出た馬車は、山道へと入った。
王都の喧騒が遠のくにつれ、空気が変わっていく。石と泥の臭いが薄れ、針葉樹の冷えた香りと、雪の下の土の匂いが入ってくる。醸は馬車の窓を開けて、その空気を深く吸い込んだ。
「戻る気がする?」
ミーナが横から聞いた。
「うん」
「王都、嫌いじゃなかったでしょ」
「嫌いじゃない。ただ、ここじゃないんだ」
「ここじゃない?」
「俺が造るものは、王都の料理人たちが使う酒じゃない。もっと体を張って働いてる人間のための酒だよ。少なくとも今は」
「グランエッジ?」
「そう」
レティシアが外を見ながら言う。
「また山道に入ると、やっぱり落ち着くわね」
「剣士だからな」
「そういうこと」
「俺は醸造師だから、麦汁の匂いを嗅いだ時に落ち着く」
「同じ話ね」
馬車が揺れた。坂道に入ったのだろう。ザックが御者台から声をかける。
「山越えは夕方までに終わらせたい。荷もあるし、急ぎましょう」
醸は荷台に積まれた小さな木箱を確かめた。中には、王都で仕入れた新しい素材が入っている。この先の仕込みに使えるかもしれない何かが。
旅は、まだ続く。
だがその旅の目的地は、いつもグランエッジだった。
村の酒蔵の木戸。朝の冷気。発酵桶の低い息遣い。山の風が運ぶ神麦の気配。
醸は目を閉じ、それを思い描いた。
もうすぐだ。
村に帰ったら、次の酒を仕込もう。
冬がまだ続いている間に、外へ届ける酒を。
その計画が、胸の中で静かに温まっていた。




