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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第四十三話 黒き荷の香り、働く街の底を知る一杯 ―English Porter―

侯爵家の朝は、ここ数日で見違えるほど整っていた。

 命の危機に沈んでいた日々は遠のき、家はもう“崩れないようにしがみつく場所”ではなくなっている。

 British Golden Ale が侯爵アルフェンを中庭へ連れ出し、Australian Sparkling Ale が食卓へ弾みを戻し、English IPA が笑みの奥の計算を暴き、Dark Mild が家の夜を守り、British Brown Ale がほどけた人の距離を結び直した。

 そこまで来て、ようやく醸はひとつの実感を得ていた。

 侯爵家はもう、内側だけなら立てる。

 もちろん安心しきれる段階ではない。

 ヴィスタ商会の探りは止んでいないし、侯爵の身体も万全ではない。

 それでも、少なくとも屋敷の中には、明日を迎えるだけの呼吸が戻っていた。

 だからこそ、次に見なければならないのは屋敷の外だった。

 その日の昼前、侯爵アルフェンは控えの間に、醸、セリナ、レティシアを呼んだ。窓から入る光はやわらかいが、卓上にはすでにいくつもの帳面と書簡が並んでいる。戻った主人が仕事を始めれば、当然こういう場も増える。

「北倉庫街の荷動きが妙だ」

 侯爵が、開いた書簡を指先で軽く叩いた。

「北倉庫街?」

 醸が聞き返す。

「王都の北門寄りにある積み替え区域だ」

 セリナが補足した。

「穀物、木材、薬草、酒樽、布、金物……大半の生活物資が一度はそこを通ります」

「侯爵家の仕入れも?」

「かなりの割合で」

「ふむ」

 侯爵は低く続ける。

「我が家の病が長引いているあいだ、いくつかの取引は別の筋へ流れた」

「ヴィスタ商会ですか」

 レティシアが言う。

「一部はな。だが、もっと厄介なのは、表に出る前の“現場の空気”だ」

「現場の空気」

「荷を動かす者、倉を開ける者、夜番、馬車方、荷札を切る帳場――そういう者たちの判断ひとつで、物は遅れもすれば優先もされる」

 侯爵は醸を見る。

「王都では、上の契約だけで流れは決まらん」

「下の層が流れを決める、ですか」

「そうだ」

 その言葉に、醸は前世の記憶を少し思い出した。

 町工場でも同じだった。

 表の取引先は社長同士の話で決まる。だが実際に納期を守るのは、現場だ。タンクの洗浄、ホースの確認、搬入の時間、パレットの置き方――そんな細部の積み重ねが、最終的にすべてを左右する。

 王都もきっと同じなのだろう。

 むしろ規模が大きいぶん、“働く層”の呼吸が止まれば何も回らない。

「見たい、ということですか」

 醸が聞くと、侯爵は頷いた。

「見たい。できれば、貴族としてではなく」

「それは難しそうですね」

「難しい。だからお前だ」

「……また俺ですか」

「お前はこの家の中で、最も身分に縛られず、人の話を引き出せる」

「酒の力込みで、でしょう」

「もちろんだ」

 侯爵は平然と言う。

「貴族が聞けば口を閉ざすことも、酒を前にした働き手はぽろりと漏らすことがある」

「侯爵さま、それ、なかなか悪い顔してますね」

 ミーナが思わず言うと、侯爵はごくわずかに笑った。

「病み上がりの身でなければ、もっと悪い顔もできる」

 セリナが書簡を一枚引き抜く。

「北倉庫街では、最近“侯爵家向け”の印がついた品だけ妙に遅れる例が出ています」

「露骨だな」

「ですが帳面上は、どれも些細な遅延です。道が混んだ、馬が疲れた、別の荷と混ざった……そういう言い訳が成り立つ程度に」

「嫌らしい」

 レティシアが吐き捨てる。

「ええ。だから上から責めても逃げられる」

「現場を見るしかない、か」

 醸が言うと、侯爵は深く頷いた。

「内は結び直せた。なら次は、街のどこで手が止まり、誰が息を詰めているのかを見るべきだ」

「働く者の層、ですね」

「そうだ。そこを知らずに王都とやり合えば、上だけ見て足をすくわれる」

 醸は腕を組み、少し考えた。

 北倉庫街。

 荷を運ぶ者。

 眠れぬ夜番。

 重い荷と油、煤と汗の匂い。

 そういう場所で必要な酒は、きっと貴族の控えの間で飲むものとは違う。

 明るく軽いだけでは足りない。

 鋭すぎても場が立つ。

 だが、疲れた働き手が「うまい」と思い、飲んだあとで胸の底から少し言葉が出るような酒。

 そして、ただ慰めるだけでなく、誇りを支える酒。

「English Porter だな」

 醸は小さく呟いた。

 セリナがすぐに顔を上げる。

「ポーター」

「運び手、って意味だ」

「……なるほど」

「今回ほど名前がしっくりくることもないな」

 レティシアが眉を上げる。

「どんな酒?」

「黒っぽいけど、スタウトほど重くない。焙煎した香ばしさ、チョコやトーストみたいなニュアンス、少し乾いた感じ」

「働いたあとに合いそう」

 ミーナが言う。

「そう。もともと“働く人の酒”って感じが強い」

「じゃあ、今回は?」

「疲れた働き手が、“ただ消耗して終わるんじゃない”って思える酒かな」

「……それ、大事そう」

「たぶんかなり」

      

 侯爵家の醸造室で、醸はいつもより少し深く焙いた神麦を前にしていた。

 English Porter。

 現実のポーターは、18世紀のロンドンで広まり、荷運び人や都市の働き手に愛されたとされる、黒に近い暗色のエールだ。ロースト感はあるが、スタウトほど強烈ではなく、チョコレート、カカオ、トースト、ナッツ、軽いキャラメルなど、落ち着いた複雑さを持つ。

 都会の酒。

 労働の酒。

 煤けた街路と、仕事終わりの人間の喉に似合う酒。

 今回の王都には、これ以上ないほどふさわしい。

「焙煎は少し深め」

 醸が言う。

「Dark Mild より?」

 ミーナが尋ねる。

「深い。あっちは夜を包む酒だった。でも Porter は、働いたあとの胸に“まだ自分は倒れてない”って重みを返したい」

「また感覚」

「でも合ってるだろ」

「うん、今回はなんかわかる」

 使う神麦は、深色のものを軸にしつつ、完全に焦がしきらない。ローストの苦みはあるが、刺すようにはしない。土台にはしっかりしたモルトの芯。そこにわずかな黒糖のような厚みを添え、香りにはカカオと焼いたパンの耳、それから微かな木の実。

 ホップ代わりの青銀花穂は控えめだが、後口を締めるだけの苦味は要る。

 甘やかしすぎれば、働く者の酒にならない。

 だが乾きすぎても、疲れた身体には寄り添えない。

 レティシアが近くまで来て、立ちのぼる香りを吸う。

「これは……今までで一番“街”って感じね」

「わかるか」

「ええ。屋敷の中じゃなくて、石畳と荷馬車と木箱の匂いがする」

「上手いな」

「誰の翻訳が上手いって?」

「もういいよそれ」

 醸が笑うと、彼女も少しだけ口元をゆるめた。

 セリナは帳面を抱えたまま、醸造室の外から中を見ていた。

「この酒を持って、北倉庫街へ?」

「たぶんそうなる」

「侯爵家の名は伏せた方がよいでしょう」

「やっぱり?」

「ええ。あちらで起きていることが本当に“侯爵家向けの遅延”なら、こちらの名が見えた時点で口を閉ざされます」

「じゃあ、ただの酒職人として?」

「その方が自然です」

「護衛は?」

 醸がレティシアを見る。

「見えない位置でつくわ」

「見えない位置、ね」

「できるだけね。王都の倉庫街をなめるほど甘くないけど」

「だよな」

 そのとき、老執事が控えめに訪れた。

「失礼いたします。北倉庫街へ向かわれるのであれば、顔の利く御者を一人、侯爵家の外部協力者としてつけられます」

「そんな人が?」

 ミーナが聞く。

「おります。長年この家の荷を見てきた男です。ただし今は表向き、侯爵家の者ではございません」

「なるほど」

 セリナが頷く。

「それなら使えますね」

 侯爵家もまた、ただ上品なだけの家ではない。

 長く王都で生きてきた家には、表に出ない縁と知恵がある。

 それを今、少しずつ使い始めている。

      

 完成した English Porter は、深く、しかし沈みすぎない黒褐色だった。

 杯に注ぐと、泡はきめ細かく、厚ぼったくはない。香りはカカオ、焙いた麦、軽いトースト、少し湿った木箱のような乾いた温かさ。飲めば、最初にやわらかなモルトの厚みがあり、そのあとから穏やかなローストと苦味がじわりと追ってくる。最後はわずかに乾いて切れ、もう一口を誘う。

「……いいな」

 醸は静かに言った。

「今回は“かなりいい”じゃないの?」

 ミーナが笑う。

「今回のは、派手に褒める感じじゃない」

「なんで?」

「こういう酒は、飲んだ人が“ああ、これだ”って勝手に思うタイプだから」

「また職人っぽいことを」

「職人だから」

「はいはい」

 ミーナもひとくち飲み、目を瞬かせた。

「思ったより重くない」

「Porter はそういうところがいい」

「でも軽くもない」

「そう」

「なんか、疲れて帰ってきた人が“よし、まだ終わってない”ってなりそう」

 醸は思わず笑みを深くした。

「今回はお前、かなり当たりだな」

「弟子だから」

「便利な言葉だなあ」

 レティシアも試しに飲む。

「……うん、なるほど」

「どうだ?」

「傷を癒やすとか、眠らせるとかじゃない」

「うん」

「でも、働いて擦り減った人間の“芯”が戻る感じ」

「それだ」

「あと、ちょっと誇らしくなる」

「誇らしく?」

「“自分はちゃんと働いてる側だ”って思える」

「……それ、大事だな」

「王都の倉庫街みたいな場所では特にね」

 セリナが少量を舐めるように味わい、珍しく率直に言った。

「これは効くでしょうね」

「どこに?」

「疲労だけではありません。使い潰される側の諦めにも」

 彼女は杯の中の黒を見つめた。

「働く者は、自分がただの歯車だと思わされ続けると、やがて“どうでもいい”へ落ちます」

「……ああ」

「ですがこの酒は、“どうでもいい”へ落ちる手前で踏みとどまらせるかもしれない」

「そうだといい」

「かなり、そう見えます」

 醸は頷いた。

 English Porter の効果は、おそらくこうだ。

 消耗した働き手の持久力と矜持を支え、ただ疲れるだけの日々の中に“まだ自分には支える価値がある”という感覚を戻す。

 そしてその感覚が、沈んでいた口を少しだけ開かせる。

 愚痴も、本音も、現場の現実も。

 北倉庫街へ持っていく酒として、これ以上ない。

      

 翌日、醸は侯爵家の紋章を外した簡素な上着に着替え、北倉庫街へ向かった。

 同行するのはミーナと、表向きは“荷と酒に詳しい助手”。

 レティシアは少し離れた場所で追う。

 御者は、老執事が言っていた顔の利く男――ザックという初老の男だった。日に焼けた顔と、よく通るが余計なことを言わない声。王都の車輪の音に長年揉まれた人間の気配がある。

「北倉庫街は、きれいな靴で行く場所じゃない」

 馬車を走らせながら、ザックは言った。

「もう遅いですかね」

 醸が自分の靴を見下ろす。

「いや、今日はまだましだ。雨のあとだと木屑と泥で泣くことになる」

「行き慣れてるんですね」

「昔は侯爵家の荷もよく引いたからな」

「今は?」

「今はただの御者さ」

 その言い方はあっさりしていたが、完全にただの御者ではないことくらい醸にもわかった。

 王都北倉庫街は、侯爵家のある静かな区画とはまるで違っていた。

 高く積まれた木箱。

 麻袋の山。

 軋む荷車。

 馬の息。

 縄の擦れる音。

 油と木と、古い麦と、湿った石の匂い。

 人の声は絶えず飛び交い、怒鳴り声と笑い声と咳払いが混ざっている。

 ここが街の腹だ、と醸は思った。

 表の貴族街や商館が“顔”なら、ここは明らかに“腹”だ。

 物が入り、流れ、詰まり、動く。

 ここで止まれば、どんな立派な契約もただの紙になる。

「すごい……」

 ミーナが呟く。

「山の市場と全然違う」

「規模が違うからな」

 醸も周囲を見回しながら言う。

「でも、根っこは似てるよ。人が動かしてる」

「うん」

 ザックはとある倉庫脇の荷捌き場へ二人を案内した。そこには昼の休憩に入る前の人足や倉番たちが数人、木箱や樽に腰掛けていた。顔に煤や埃がつき、腕は太く、目は疲れている。だがただ荒れているわけではない。現場を知る者の目だった。

「ここで少し待て」

 ザックが言う。

「まずは俺が話を通す」

 彼が古馴染みらしい男へ声をかける。短い言葉を何往復か交わし、そのうち視線がこちらへ向いた。値踏みの目だ。王都の倉庫街に、見慣れぬ男が酒樽を持って来れば当然そうなる。

 ザックが手招きする。

「来い。酒持ちだと話した」

 醸は小樽を肩に、ミーナと一緒に近づいた。

「どうも」

 簡潔に頭を下げる。

「旅のついでに、働く人向けの酒を見てもらえたらと思って」

「働く人向け、ねえ」

 大柄な倉番の男が鼻を鳴らす。

「貴族街の気取った酒じゃねえだろうな」

「だったら持ってきません」

 醸が言うと、男は少しだけ片眉を上げた。

「ほう」

「重い荷下ろしのあとに、香りだけ高くて腹に入らない酒はつらいでしょう」

「……わかってる口だ」

「工場上がりなんで」

「何の?」

「前はビールの」

「はは、そいつは珍しい」

 最初の笑いは、そこで生まれた。

 樽を開ける。

 English Porter の黒褐色が、昼の薄い光の下で静かに艶を見せた。倉番たちの目が少し変わる。派手ではない。だが“わかるやつにはわかる色”だ。

「黒いな」

「でも真っ黒ってほどでもない」

「香りは……悪くねえ」

 木杯へ注ぎ、まず最年長らしい倉番へ渡す。男は半信半疑で口をつけ、それから一拍置いた。

「……おい」

「どうです?」

「ちゃんとしてる」

 その言い方に、周囲がどっと笑った。

「酒の褒め方かよ、それ」

「でもわかるだろ、これ」

 男は二口目を飲む。

「軽くねえ。でも重すぎねえ。焦げっぽいのに嫌な苦さが残らねえ」

「働いたあと向けに組みました」

「お前、ほんとに酒屋か?」

「職人です」

「似たようなもんだ」

 次々に杯が回る。

 最初は警戒していた人足たちも、飲むにつれ顔つきが変わっていった。

「……ああ、これ好きだわ」

「妙に腹が落ち着く」

「変に甘くねえのがいい」

「でも乾きすぎてもいねえな」

 そして、三杯目を注ぐ前に、ひとりがぽつりと言った。

「最近、こういう“ちゃんとした酒”飲んでなかったな」

 その言葉が、場の空気を少し変えた。

 English Porter は、働く者の口をただ軽くするのではなかった。

 むしろ、自分たちが“雑に扱われていい人間じゃない”と思い出させるような力がある。

 だからこそ、口に出る言葉も変わる。

「ここの荷、最近どうです?」

 醸は自然な調子で尋ねた。

「妙な遅れが増えてるとか」

 誰かがすぐには答えない。

 だが、最初に飲んだ倉番の男が、杯の縁を親指でなぞりながら言った。

「増えてるよ」

「どんなふうに?」

「表向きは小さい。荷札のつけ直し、積み替え順の入れ替え、馬車の手配の後回し」

「わざと?」

「さあな、と言いたいとこだが……」

 男は苦く笑う。

「何度も同じ宛先で起きりゃ、さすがに偶然じゃねえ」

 セリナの読み通りだった。

 ミーナが慎重に口を挟む。

「侯爵家、ですか」

 その場の何人かが視線を交わす。

 ザックが黙ったまま、しかし逃がさぬ目で周囲を見る。

 やがて、別の若い人足がぼそりと言った。

「印のついた荷は、見りゃわかる」

「で?」

「“あれは急がなくていい”って顔する連中がいる」

「誰です」

「名前までは知らねえ。でも、ヴィスタの倉に出入りしてる連中とよく一緒にいる」

 醸は表情を変えないようにしながら、杯をもう一度注いだ。

「困りますね」

「困るさ」

 倉番の男が吐き出すように言う。

「こっちは流すのが仕事だ。どこの家の荷だろうと、滞ればこっちの段取りまで狂う」

「でも逆らえない?」

「上が絡んでると面倒だからな」

 その“面倒”の中身は、前世でもよく知っている。

 あからさまな命令ではない。

 ただ、逆らうと次の仕事が減る。

 変な噂がつく。

 帳場が融通を利かせなくなる。

 そういうじわじわした締めつけだ。

 English Porter を飲んだ男たちは、そこで少しずつ言葉を重ね始めた。

「荷が遅れりゃ怒鳴られるのは現場だ」

「でも原因は現場じゃねえ」

「上は知らん顔、帳場は数字だけ」

「で、倉の人間は“どうせ俺らなんか”になる」

 その声音に、諦めと怒りの両方があった。

 だが Porter の黒は、そこへ別の熱も足している。

 誇りだ。

 ただの愚痴では終わらない、“俺たちは流れを支えてる側なんだ”という感覚。

 それがあるから、彼らの本音はただ荒れるのではなく、現実として形を持つ。

「……流れを止めるの、嫌でしょう」

 醸が言うと、最年長の男が鼻を鳴らした。

「当たり前だ。俺らは流す側だ」

「それですよね」

「荷が動いてなんぼだ。どこの商会が勝つ負けるは知らん。だが現場を濁らせる奴は嫌いだ」

 その言葉は、侯爵アルフェンにとって大きな意味を持つはずだった。

 敵は上だけではない。

 だが同時に、味方になりうる“働く街の倫理”も確かにある。

 荷は流れるべき。

 段取りは守るべき。

 現場は濁されるべきでない。

 そこに触れられれば、侯爵家はまだ戦える。

      

 しばらくして、休憩に入った別の帳場の若者も合流した。痩せた指にインクの跡がある。倉庫の数字を扱う者らしい。

「なんだ、うまい酒があるって?」

「来たか、帳場」

「一杯だけだぞ、午後もある」

「わかってる」

 その若者も Porter を飲み、目を丸くした。

「……これ、いいな」

「だろ」

「なんか、埃っぽい頭が少し整う」

「帳場らしい感想だ」

「そっちもな」

 醸はその若者にも、自然に訊いた。

「荷札の付け替えって、簡単にできるもんですか」

 若者は少し迷ってから、肩をすくめる。

「やろうと思えば。帳場の人間と倉番が組めばな」

「最近、多い?」

「多くはない。でも、“特定の荷だけ何度も起きる”なら、誰かが見て見ぬふりしてる」

「止められない?」

「上が絡んでなきゃ止める。けど、商会の大口がついてると厄介だ」

「ヴィスタとか?」

 若者は口をつぐみ、それから Porter をひとくち飲んだ。

「……名前は出したくない」

「それで十分です」

「ただ、北三番倉の帳場を見れば、何かわかるかもな」

「北三番」

「最近、妙に人の出入りが多い」

 ザックがその言葉をさりげなく拾い、何でもない顔で頷いた。

 レティシアが少し離れた位置から見ているのも、醸にはわかった。

 手がかりは出た。

 しかも、脅して引き出したのではない。

 働く者たちが、自分たちの現場を濁すものへの嫌悪から、自分の言葉で漏らしたのだ。

 English Porter は、その“誇りから出る本音”を支えていた。

      

 帰りの馬車の中で、ミーナは興奮気味だった。

「すごいね」

「うん」

「みんな、最初はすごく警戒してたのに」

「Porter が合ったんだろうな」

「なんかね、ただ喋りやすくなるのとも違った」

「どう違う?」

「“ちゃんと働いてる人の言葉”になってた」

 醸はその表現に、深く頷いた。

「そうだな」

「愚痴っぽいのに、でもただの愚痴じゃなかった」

「誇りがあるからだ」

「誇り」

「自分たちは、街を回してる側なんだって感覚」

「……うん。あった」

 ザックが御者台から低く言う。

「倉庫街の人間はな、金だけで動くわけじゃない」

「そうなんですね」

 ミーナが返す。

「もちろん金は大事だ。だがそれだけなら、もっと簡単に崩れる」

「じゃあ何で?」

「流れを支えてるって自負だ」

 ザックは前を見たまま答える。

「それがあるから、面倒でも朝から荷を積み、夜まで帳場を合わせる」

「……なるほど」

「そこを汚す奴は嫌われる」

 レティシアが別の小道から合流し、歩調を合わせた。

「北三番倉、見てきたわ」

「もう?」

 醸が驚く。

「あなたたちがPorterで場を温めてるあいだにね」

「どうだった?」

「出入りしてた男の一人、侯爵家で見たことがある」

「ヴィスタ寄りの?」

「ええ。内々の会食には来なかったけど、あの回廊の陰にいた連中の一人よ」

「……つながったな」

「かなり」

 侯爵家へ戻れば、これで次の手が打てる。

 北三番倉。

 ヴィスタ寄りの出入り。

 侯爵家印の荷だけに起きる些細な遅延。

 そして何より、現場の働き手たちは“流れを濁すやり方”に反感を持っている。

 これは大きい。

 敵は、街全体ではない。

 街の流れを私物化しようとする一部だ。

 そこが切り分けられた意味は大きかった。

      

 侯爵アルフェンへ報告した夜、控えの間にはこれまでとは別種の熱があった。

 静かながら、確かな前進の熱だ。

 セリナが記録を整理しながら言う。

「北三番倉の帳場と、ヴィスタ寄りの人脈。これで線が見えました」

「ええ」

 レティシアも頷く。

「しかも現場は全面的に敵じゃない。むしろ濁されるのを嫌ってる」

「それが一番大きい」

 侯爵が低く言う。

「王都を相手にするのではない。王都の流れを私物化する一部を相手にすればよい」

 醸は英ポーターの残りを小さな杯に注いだ。

 侯爵はそれを受け取り、一口飲んでから言う。

「これは、よい酒だ」

「ありがとうございます」

「内を結ぶ酒とも、見抜く酒とも違う」

「ええ」

「だが、街の底を支える者たちの声を拾うには、これが最も合っていた」

「そう思います」

「働く者の酒、か」

「そういう側面が強いですね」

「なるほど」

 侯爵は杯の黒を見つめた。

「王都で戦う以上、我らは上だけでなく、下を知らねばならん。そして下を知るには、まず敬意が要る」

「……はい」

「この酒には、それがある」

 その言葉に、醸は少しだけ胸が熱くなった。

 English Porter――この一杯は、誰かを劇的に救ったわけではない。

 傷を塞いだわけでもない。

 だが、王都の腹で働く者たちの誇りに手を伸ばし、その現実をこちらへ渡してくれた。

 それは、この先たぶん、どんな奇跡にも劣らない力になる。

 侯爵アルフェンは杯を置き、静かに言った。

「次は倉だな」

「ですね」

 セリナが応じる。

「正面から行くか、もう一度潜るか」

 レティシアが言う。

「どちらにせよ、北三番倉は放っておけません」

「王都の流れが、どこで濁されているか」

 侯爵は目を細めた。

「それを明るみに出せれば、ヴィスタ商会のやり口にも穴が開く」

 ミーナが醸を見上げる。

「次の酒、もう考えてる?」

「少しはな」

「早い」

「王都は待ってくれないから」

「出た」

「でも本当だよ」

 醸は窓の外の夜を見た。

 侯爵家の中は整いつつある。

 働く街の底にも、まだ手を結べる倫理が残っている。

 なら次は、その流れをどう守り、どう通すかだ。

 English Porter の黒い余韻は、舌に静かに残っていた。

 煤と木箱と、人の汗の匂いを思わせるような、都市の底の味。

 それは決して華やかではない。

 だが街を生かすのは、たいていこういう色をしたものだ。

 黒き荷の香り。

 働く街の底を知る一杯。

 ビール薬師は、その重みを胸に受け止めながら、次の仕込みを考え始める。

 家を守るだけでは足りない。

 街の流れへ手をかけるには、もっと別の力が要る。

 支えるだけか。

 あるいは、押し返すのか。

 王都の物語は、さらに深く、街の腹へ入っていこうとしていた。


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