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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第四十二話 褐色のぬくもり、ほどけた言葉を結び直す一杯 ―British Brown Ale―

侯爵家が夜守の夜を越えた翌朝、屋敷には奇妙な落ち着きがあった。

 それは、戦いが終わったあとの静けさではない。

 むしろ、これから戦いが始まるとわかっている者たちが、一度きちんと眠ったあとの静けさだった。

 厨房では朝の支度が滞りなく進み、薬湯係は無理のない順番で鍋を回し、夜番の交代も前日までより滑らかだった。誰も急に元気いっぱいになったわけではない。だが、皆の顔から“いつ倒れてもおかしくない硬さ”が抜けている。

 侯爵アルフェンもまた、寝不足の影を引きずらずに朝の書簡へ向かっていた。

 病み上がりの身としては、まだ細い。

 だが、弱っていることと、崩れていることは違う。

 今の侯爵は、もう崩れてはいなかった。

 客間へ運ばれた朝食を前に、醸はひとまず安堵していた。

 British Golden Ale が“朝”を呼び、

 Australian Sparkling Ale が“場の弾み”を戻し、

 English IPA が“見極め”を助け、

 Dark Mild が“夜を越える力”を守った。

 その流れは間違っていない。

 だが、だからこそ今度は別の問題が見えてきた。

「……まだ、少し距離があるな」

 醸がぽつりと言うと、ミーナがパンをちぎりながら首を傾げた。

「距離?」

「うん」

「誰と誰の?」

「家の中の人たち同士だな」

 ミーナは少し考え、窓の外の廊下を見た。

 朝の支度を終えた侍女が、向こうから来た料理番と小さく会釈を交わす。会話はない。

 庭師が道具を持って通ると、近習が一歩よける。

 そこにぎこちなさはない。礼もある。

 でも、どこか“整いすぎている”。

「……ああ」

 ミーナが小さく頷いた。

「なんか、ちゃんとしてるけど、まだちょっと硬い」

「そう」

「仲が悪いわけじゃないよね?」

「悪くはない。むしろ皆、同じ家を守ってる」

「でも?」

「“守るために動く関係”には戻ってきたけど、“同じ家で暮らす関係”までは、まだ少し遠い」

 それは言葉にすると曖昧だが、醸にははっきりわかった。

 侯爵家はこの数ヶ月、病と不安の中で“役目”だけを優先してきた。

 誰も怠けなかった。

 誰も裏切らなかった。

 だからこそ今、屋敷はちゃんと回り始めている。

 だが、役目だけで家は長く保たない。

 火を守る者と、食を整える者と、帳面をつける者と、剣を握る者。

 彼らがただ機能として並ぶだけでは、どこかで軋む。

 本当に必要なのは、“この家を一緒に支えている”という感触だった。

 人と人のあいだに戻る、ぬくもり。

「次は、そういう酒か」

 醸は自分で呟いた。

 レティシアが、戸口にもたれながら聞き返す。

「どういう酒?」

「警戒を解くんじゃなくて、距離をやわらげる酒」

「また難しいこと言うわね」

「でも必要だろ」

「……必要ね」

 彼女もすぐに否定しなかった。

「見琥で敵味方はだいぶ見えた。夜守で内側の消耗も少し回復した」

 醸は続ける。

「でも、そのあとってさ、みんなまだ“自分の持ち場を守ること”に集中しすぎるんだよ」

「自分の役目に閉じこもる、ってこと?」

 ミーナが言う。

「近いな」

「それが悪いの?」

「悪くはない。けど、家ってたぶん、それだけじゃ足りない」

「……ああ」

 レティシアが低く言った。

「剣を持つ人間は、剣のことだけ考えてると、他の連中の消耗に気づきにくい」

「そういうこと」

「逆もあるわね。帳面の人間は数字、厨房は厨房で、皆それぞれの持ち場に閉じる」

「でも、いざというとき支えになるのは、その閉じた先じゃなくて、持ち場を越えた信頼だ」

「ふん……」

 レティシアは腕を組み直した。

「ほんと、酒の話になるとたまに妙に真理を言う」

「職人だから」

「便利な言葉」

「最近みんなそればっかりだな」

 そのとき、廊下を通った老執事がこちらに一礼した。顔色は前日よりいい。だがまだ、どこかきっちりしすぎている。

 ああ、やっぱりだ。

 今の侯爵家に必要なのは、気迫でも警戒でもない。

 もう少しだけ肩を寄せられる空気。

 話さなくても伝わる部分を、少しずつ取り戻すぬくもり。

「British Brown Ale だな」

 醸が言うと、ミーナがぱっと顔を上げた。

「次の酒?」

「ああ」

「茶色いやつ?」

「褐色だな。暗すぎず、明るすぎず」

「どんな味?」

「やわらかい麦の甘さと、ナッツっぽさと、少しだけ香ばしさ」

「なんか、落ち着きそう」

「そういう酒だよ」

「今回は何に効くの?」

「……人と人のあいだの硬さ、かな」

「え、そんなことまで酒でやるの?」

「やるというより、後押しだな」

「でも、それ大事そう」

「大事だよ」

      

 侯爵アルフェンにその話を通すと、彼はすぐに納得した。

「なるほどな」

 書簡から目を上げ、ゆっくり頷く。

「我が家は今、“働ける家”には戻りつつある」

「はい」

「だが、“一緒に立つ家”としては、まだ痩せているか」

「そんな感じです」

「うまい言い方だ」

「実感なので」

「病み上がりの家には、たしかにありそうな話だな」

 セリナも同席しており、帳面の端を指で押さえながら言った。

「部署ごとの連携は戻っています」

「でも?」

 醸が聞く。

「横の呼吸がまだ浅いです」

「横の呼吸」

「厨房と侍医、侍女と庭師、護衛と近習……そういうところの会話が最小限に留まっています」

「なるほど」

「必要なことは伝わる。ですが、それ以上がない」

「それだな」

「この家は長く“余計なことを話している暇がない”状態でしたから」

 セリナは淡々と言う。

「習慣はすぐには戻りません」

 侯爵がそこでふっと笑った。

「余計なこと、か」

「旦那様?」

「家というのは、案外その“余計なこと”で持つ」

 侯爵は遠くを見るように言う。

「庭師が天気の話をし、料理長が季節の豆の出来を愚痴り、護衛が寝不足を侍医に見抜かれる。そういうことの積み重ねが、いざというときの気遣いになる」

「……ええ」

 セリナも珍しく、少しだけ表情を和らげた。

「わかってはいたのですが、今はどうしても優先順位を下げておりました」

「仕方あるまい。だが今は、そこへ手を戻すべき時だ」

 侯爵は醸を見る。

「作れるか」

「作ります」

「どんな酒になる」

「たぶん……近づきすぎないまま、少しだけ話したくなる酒です」

「絶妙だな」

「家の中って、いきなり深い話をするわけじゃないですから」

「たしかに」

 侯爵は頷いた。

「では必要だ」

      

 醸造室へ入ると、今日は空気がどこかやわらかかった。

 夜守が家に効いたのだろう。

 人の出入りに棘がない。

 急ぎ足の者もいるが、昨日のような張り詰めはない。

 British Brown Ale は、こういう時のための酒だと醸は思った。

 現実の British Brown Ale は、イギリス系ブラウンエールの一つで、モルト由来のやわらかな甘み、ナッツやトフィー、軽いトースト感が魅力の、穏やかで親しみやすいスタイルだ。濃すぎず軽すぎず、派手なホップ香で主張するタイプでもない。

 けれど、飲むと妙に落ち着く。

 そして少しだけ、人と同じ卓にいたくなる。

 今回はそれを、この世界の神麦で組む。

「ローストは深くしすぎない」

 醸が言う。

「Dark Mild と似てる?」

 ミーナが尋ねる。

「近い部分はある。でもあっちは“夜を守る黒”だった」

「今日は?」

「“人のあいだを結ぶ褐色”」

「また感覚!」

「でもだいたい伝わるだろ」

「なんとなくね」

「それでいい」

 使うのは、少し色づいた神麦と、ややカラメル寄りの麦芽。

 焦がしすぎない。けれど香ばしさはほしい。

 ナッツのような丸み、パンの耳のようなあたたかさ、かすかな蜜の余韻。苦味は低めだが、甘ったるくしないよう輪郭はつける。香りは高く跳ねさせず、胸元に留まる程度に。

 煮沸が進むにつれ、醸造室には香ばしく、やわらかな匂いが満ちていく。

「これ、好きかも」

 ミーナがすぐに言った。

「早いな」

「いや、まだ飲んでないけど匂いでわかる」

「お前もだいぶ職人寄りになってきたな」

「弟子だから」

「便利な言葉」

「それ、そっくり返す」

 レティシアも今日は戸口から離れ、少し近くまで来ていた。

「たしかに、これまでの酒と違って“構え”を感じないわね」

「構え?」

「ほら、見琥は明らかに“何か見抜くぞ”って顔をしてたし、陽泡は“場を動かすぞ”って感じだったでしょ」

「まあ、そうだな」

「でもこれは、座った人間の肘が少しだけ自然に卓につく感じ」

「……うまいな」

「誰の翻訳がうまいって?」

「お前の酒の翻訳だよ」

「知ってる」

 その会話の途中、料理長が様子を見に来た。

「失礼いたします」

「どうしました?」

 醸が聞くと、料理長は少し遠慮がちに麦汁の香りを吸い込み、驚いたように目を細めた。

「これは……なんとも腹が落ち着く香りですな」

「今日はそういう方向です」

「旦那様向けで?」

「侯爵家全体向けですね」

「……なるほど」

 料理長は、そこで少し言いよどんだあと、珍しく自分から口を開いた。

「実は今朝、台所で若い者同士が些細なことでぶつかりまして」

「ぶつかった?」

「喧嘩というほどではありません。ですが、片方は“急ぎの仕込みがある”、もう片方は“薬湯の鍋を優先してほしい”と。どちらも間違ってはいないのです」

「でも余裕がない」

「ええ。皆、持ち場を守ろうとしておるのです」

 料理長は小さくため息をついた。

「正しい者同士ほど、譲れぬときがある」

「……そうですね」

「もし今度の酒が、そういうところへ少しでも効くなら、ありがたい」

 醸は静かに頷いた。

 ああ、やっぱり必要だ。

 敵の策を見抜くことも、家の夜を守ることも大事だ。

 でもその間に、人と人の“ちょっとした擦れ”をそのままにすると、後で大きな軋みになる。

 British Brown Ale――この酒は、その前に差し込むべき一杯だ。

      

 完成した酒は、まさに褐色のぬくもりだった。

 色は深い茶色。

 黒ではない。だが明るい金でもない。

 木の卓や、秋の落ち葉や、焼きたてのパンの皮を思わせるような、落ち着いた褐色。泡は穏やかで、香りはナッツ、軽いトフィー、ほのかなトースト、そして神麦の丸いやさしさ。

 醸は一口飲み、思わず息を吐いた。

「……これは、いいな」

「今回は本当に毎回“いいな”って言うね」

 ミーナが笑う。

「職人だから」

「はいはい」

「でも、これはかなり狙い通りだ」

「どんな感じ?」

「話しかける理由がなくても、同じ卓に座ってて変じゃない感じ」

「また曖昧」

「でもわかるだろ」

「わかる」

 ミーナは自分でも少し飲んで、目を丸くした。

「これ、なんかね、“ちゃんと話さなきゃ”じゃなくて、“ちょっと話してもいいかも”になる」

「それだ」

「今回も当たり?」

「かなりな」

 レティシアも試しに口をつけ、少し驚いたように目を細めた。

「……不思議ね」

「どうだ?」

「気が抜けるわけじゃないのに、人に対して構えすぎなくなる」

「うん」

「護衛としては少し困るけど、家の中ではむしろ必要ね」

「そのくらいがいいんだろうな」

「そうね。距離が一歩だけ近くなる感じ」

「それだ」

 セリナも少量を口にし、しばらく黙ってから言った。

「これは……報告書のあとに、もう一言だけ会話が増えそうです」

「帳面の人らしい感想だな」

「事実ですので」

 だがその口元は、少しだけ笑っていた。

 British Brown Ale の効果は、おそらくこうだった。

 人と人のあいだにある硬さをやわらげ、役目を越えた小さな会話や気遣いを自然に生みやすくする。

 強制ではない。

 距離を無理に縮めるのでもない。

 ただ、“この人と同じ場所にいてもいい”という感覚を、少しだけあたためる。

 家の内側には、とても大事な力だ。

      

 その晩、侯爵アルフェンは大げさな会ではなく、屋敷の中の者だけで、小さな立食に近い場を設けた。

 厨房と薬湯係。

 庭師と侍女。

 近習と夜番。

 老執事と若い下働き。

 もちろん全員が同時に長居できるわけではない。持ち場もある。だが短い時間でも顔を合わせ、軽い食事と酒をともにする。それ自体が、この数ヶ月の侯爵家にはなかったことだった。

 場所は、中庭に面した広間。

 春にはまだ少し遠い風が入るが、火鉢と灯りがやわらかく空気を支えている。

 侯爵は椅子に座ったまま、その場を見渡して言った。

「今夜は会議ではない」

 皆が静かになる。

「労い、でもある。だがそれだけでもない」

 侯爵は杯の褐色を見つめた。

「家が家として戻るための時間だ」

 その言葉は、屋敷の者たちに静かに沁みたようだった。

 酒が配られる。

 侯爵はこの酒に、王都向けの名をつけていた。

「“結褐”」

 昼にそう言ったのだ。

「結ぶ、褐色」

「そのままですね」

 醸が言うと、侯爵は目を細めた。

「この酒には、それで十分だろう」

「たしかに」

 結褐が、ひとりひとりの手に渡っていく。

 最初は皆、少し遠慮がちだった。

 身分差もある。役目も違う。

 いつもなら、こういう場でも話す相手はだいたい決まっている。

 だが、一口飲み、二口飲むうちに、少しずつ空気が変わっていく。

 料理長が、薬湯係へ声をかける。

「今朝はすまなかったな。鍋の順、急がせすぎた」

 薬湯係の女は目を丸くし、それから頭を振った。

「いえ、こちらこそ言い方が強く……」

「どちらも急ぎだった」

「……はい」

「次からは台所の火をひとつ、もう少し早く回そう」

「助かります」

 ほんの小さな会話だ。

 けれど、あれだけで十分だった。

 若い侍女が、庭師へおずおずと言う。

「北の花壇、芽が出始めたそうですね」

「おや、見ておりましたか」

「はい。通るたび少し」

「では明日、日当たりのいい時間に見せましょう」

「え、いいのですか」

「もちろん。花は見てもらってこそです」

 そのやりとりに、近くの近習がふっと笑う。

「庭師頭は花の話になると長いぞ」

「お前さんが剣の手入れの話で長いのと同じだ」

「違いない」

 小さな笑いが起きる。

 それを聞いたミーナが、そっと醸の袖を引いた。

「ねえ」

「うん?」

「ほんとに増えてる」

「何が?」

「余計な話」

 醸は思わず笑った。

「それが大事なんだよ」

「わかる気がする」

「だろ」

「なんかね、みんな“役目の顔”のままじゃない」

「うん」

「ちょっとだけ“その人の顔”になってる」

「……それだな」

 その表現は実に正確だった。

 役目の顔は必要だ。

 だが家の中で、それだけしか残らなくなると、人は互いを歯車のようにしか見られなくなる。

 British Brown Ale――結褐は、その境目を少しだけ溶かしていた。

 侯爵アルフェンもその変化を見て、静かに頷いている。

「大麦」

 近くへ呼ばれ、醸は一礼する。

「はい」

「これは見事だ」

「ありがとうございます」

「騒がしくはならぬ」

「ええ」

「だが、離れすぎてもいない」

「そのくらいを狙いました」

「家向きの酒だな」

「たぶん、そういう酒です」

 侯爵は褐色の酒を揺らしながら言う。

「人を前へ押す酒も必要だ。見抜かせる酒も必要だ。だが、家を保つのはこういう酒かもしれん」

「そう思います」

「私が倒れていた間、この家では“必要なことだけを話す”癖がついた」

「はい」

「それは家を救いもしたが、痩せさせもした」

 侯爵は周囲を見る。

「今夜のような場を、もう少し増やすべきだろうな」

「それがいいと思います」

「そうしよう」

 その少し離れたところで、老執事が若い下働きに言っていた。

「昨夜、裏口の件を知らせてくれたそうだな」

「は、はい……」

「よくやった」

「でも、僕、取り乱して……」

「よい。気づいて伝えたことが大事だ」

「……ありがとうございます」

 その若者の顔が、少しだけ誇らしげになる。

 そうだ。

 家を強くするのは、大きな判断だけではない。

 こういう一つ一つの声かけと、見過ごされなかった小さな働きだ。

 結褐は、それを自然に言葉にさせていた。

      

 場が少し温まった頃、セリナが杯を持って醸の隣へ来た。

「ありがとうございます」

「今日はずいぶんありがとうございますが多いですね」

「それだけ助けられているので」

「珍しく率直だ」

「この酒のせいかもしれません」

 彼女は小さく笑う。

「たしかに、少しだけ話しやすい」

「でしょう」

「ただし、危険でもあります」

「またそれですか」

「王都では“話しやすい”は時に“隙がある”と見なされるので」

「面倒だなあ」

「ええ、とても」

 だがセリナはすぐに続けた。

「それでも、家の内側では必要です。外に対して閉じすぎた家は、いずれ内でも乾きますから」

「同感です」

「旦那様も、それを強くお感じになったのでしょう」

 そのとき、広間の端で、近習頭と夜番の男が、護衛の交代位置について話し合っていた。

 前ならただの報告で終わっただろう。

 だが今はそこに、「お前の番、少し詰めすぎじゃないか」「いや、お前こそ昨夜ほとんど寝てなかっただろ」といった、少しだけ相手を見た言葉が混じっている。

 役目を越えた気遣い。

 それはほんの小さな差だが、家の強さには大きく効く。

 レティシアもその様子を見て、杯を傾けた。

「こうして見ると、武器にならない酒ほど、土台には効くのね」

「武器にならないわけじゃないよ」

「え?」

「こういう酒がないと、結局、家って中から脆くなる」

「……なるほど」

「剣で守れるのは外からの刃だけだろ」

「内側のほころびは?」

「こういうのでしか縫えない」

 レティシアは少し黙り、それから静かに頷いた。

「たしかに」

 ミーナは結褐をちびちびと飲みながら、楽しそうに周りを見ている。

「これ、好き」

「今回も?」

「うん。なんか、おいしいのもあるけど」

「あるけど?」

「みんながちょっとずつ近くなるの、見てて安心する」

「そうだな」

「これなら、また何かあっても“ひとりで抱える人”が減りそう」

 醸はその言葉に、少しだけ目を細めた。

 それが一番大事かもしれない。

 王都では、誰もが自分の役目を背負いすぎる。

 それは強さにもなる。

 だが同時に、孤立の入口でもある。

 British Brown Ale――結褐は、その孤立をやわらかく押し戻す一杯だった。

      

 夜も更ける頃、短い集まりは穏やかに終わった。

 誰かが酔って騒ぐこともない。

 劇的な出来事が起きるわけでもない。

 だが、広間を出ていく人々の背中は、来たときより少しだけ軽く見えた。

 料理長は薬湯係へ「明日の朝はこっちで火を見ておく」と言い、

 若い侍女は庭師へ「本当に花壇を見せてくださいね」と笑い、

 夜番の男は近習頭へ「無理なら交代を早めろよ」と半ば呆れたように言った。

 そういう言葉があるだけで、家はずいぶん違う。

 広間の片づけが始まり、侯爵アルフェンも部屋へ戻る前にもう一度、醸へ言った。

「大麦」

「はい」

「見琥のような酒は、外を切る刃だ」

「ええ」

「だが結褐は、内を編む糸だな」

「……うまいこと言いますね」

「貴族は時々、そういうことを言う」

「疲れるんですよね」

「知っている」

 侯爵は少し笑った。

「だが覚えておこう。今後、外へ向ける酒ばかりに気を取られれば、この家はまた痩せる」

「はい」

「だから内を編む酒も、同じくらい大事だ」

「俺もそう思います」

「なら良い」

 侯爵が去ったあと、醸は広間に残る褐色の香りを吸い込んだ。

 派手ではない。

 けれど、たしかに残る香りだ。

 朝を呼ぶ酒ほど鮮烈ではなく、

 卓を弾ませる酒ほど華やかでもなく、

 見抜く酒ほど鋭くもなく、

 夜を守る酒ほど静まり返ってもいない。

 その中間の、日々のぬくもり。

 人は、そういうものなしでは長く一緒にいられない。

 侯爵家はこれから、まだ多くの面倒に向き合うだろう。

 ヴィスタ商会も動く。

 味方と呼べる者の中にも、事情や計算はある。

 王都はそういう街だ。

 けれど今夜、少なくともこの家の中には、“同じ家の人間として顔を見る”時間が戻った。

 それは剣より遅く、

 策より地味で、

 奇跡より目立たない。

 だが、だからこそ土台になる。

 醸は窓の外の中庭を見た。

 春の気配はまだ薄い。

 それでも、土の下では少しずつ何かが結ばれていくのだろう。

 人の家も、たぶん同じだ。

 急に花は咲かない。

 けれど、土が戻り、水が回り、根がほどけずに結び直されれば、やがてちゃんと芽は出る。

 British Brown Ale――結褐は、そういう酒だった。

 褐色のぬくもり。

 ほどけた言葉を結び直し、

 役目だけで痩せた家の内側へ、

 もう一度“人の手触り”を戻す一杯。

 ビール薬師は、その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、次を思う。

 家の内は、少しずつ整ってきた。

 なら次は、外だ。

 内を編み直した家が、王都の風へどう出るのか。

 味方と敵が見え始めた今、必要なのはさらに深い土台か、それとも外へ向ける新しい一手か。

 褐色の余韻はやわらかい。

 だがそのやわらかさの中に、確かな支えがあった。

 王都で生きるには、鋭さだけでは足りない。

 こうして、人と人のあいだに残るぬくもりこそが、いざというとき刃より強いこともあるのだから。


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