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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第四十四話 薄き琥珀、細き流れを絶やさぬ一杯 ―Scottish Light―

 English Porter の夜を越えた侯爵家には、前進の手応えがあった。


 北倉庫街から持ち帰った話は重かったが、同時に希望でもあった。


 街の現場は、侯爵家そのものを嫌っているわけではない。


 むしろ、荷の流れを私物化し、些細な遅延を繰り返して現場を濁らせるやり方に、倉番も人足も帳場も、少なからず不快を抱いていた。


 それは大きい。


 王都を相手取るのではない。


 王都の中にある“流れを腐らせる一部”を相手にすればいい。


 だが、そう見えたからといって、すぐに大きく打って出られるわけでもなかった。


 侯爵アルフェンは回復しつつあるとはいえ、まだ万全ではない。


 侯爵家の内側も整い始めたばかりで、余力は無限ではない。


 北倉庫街の現場に手を伸ばすにしても、豪勢な施しや派手な囲い込みをすれば、かえって警戒を呼ぶ。


 今必要なのは、もっと地味で、もっと長持ちする手だ。


 午前の控えの間で、セリナは帳面を広げながら言った。


「北三番倉の件、正面から追及するにはまだ証が足りません」


「だろうな」


 侯爵が応じる。


「ですが、こちらの荷の流れを少しでも正常に戻すには、現場側へ別の道を作る必要があります」


「別の道?」


 醸が聞く。


「ええ。露骨な命令ではなく、“侯爵家向けの荷を後回しにしなくてもいい空気”を作る道です」


「それ、かなり難しいな」


「難しいです」


 セリナは即答した。


「だからこそ、大きく動けません。細く、しかし切れずに続く支えが要ります」


 その言い方に、醸は腕を組んだ。


 細く、しかし切れずに続く支え。


 それは侯爵家の今の状況そのものでもあった。


 内側は立ち直っているが、余剰は少ない。


 外へ手を伸ばすには、派手な攻勢ではなく、痩せた状態でも維持できる工夫が要る。


 前世の小さな町工場でも似たことはあった。


 景気が良くない時期、設備更新も人員増も望めない中で、どうにか品質を落とさず回す。


 少ない麦、少ない時間、少ない余裕。


 それでも流れを止めない工夫が、現場を支えていた。


「……Scottish Light か」


 醸は小さく呟いた。


 ミーナがすぐ反応する。


「次の酒?」


「ああ」


「Light ってことは軽いやつ?」


「かなり軽い寄りだな」


「でも今までの流れで、それが必要?」


「必要だよ」


 醸は頷いた。


「重い酒で押すんじゃなくて、“少なくても持つ”って感覚が、今は大事なんだ」


「少なくても持つ」


「うん。倉庫街の人たちだって、豪華なもので心を動かされる状況じゃないだろ」


「たしかに」


「むしろ、“これなら無理なく続く”ってものの方が信用される」


 レティシアが窓際から口を挟む。


「なるほどね」


「何が?」


 ミーナが聞く。


「English Porter は“働く者の誇り”に触れた酒だった」


 レティシアは指で窓枠を軽く叩く。


「でも、その次に必要なのは誇りを燃やすことじゃない。擦り減る現場で、燃え尽きずに持ちこたえる理屈」


「……ああ」


 醸は頷いた。


「まさにそれ」


「珍しくわかりやすい」


「お前の翻訳がいいんだよ」


「知ってる」


 侯爵アルフェンも興味深そうに目を細めた。


「Scottish Light とはどんな酒だ」


「派手じゃありません」


「そこは毎回聞く前にわかるようになってきた」


「軽くて、度数も控えめで、麦の輪郭がやわらかい。少ない資源でも組み上げるような酒です」


「ほう」


「今の侯爵家にも、倉庫街にも向いてる」


「豪勢ではないが、長く保つ力がある、と」


「そういうことです」


 侯爵はゆっくり頷いた。


「では必要だな」


     


 醸造室に入ると、今日は妙に静かなやる気があった。


 嵐の前触れのような緊張ではない。


 やるべきことが見えた者たちの、無駄のない集中だ。


 Scottish Light。


 現実のスコティッシュ・ライトは、いわゆる“スコティッシュ・エール”の中でも軽量級にあたる部類で、モルト寄りの穏やかさ、低めのアルコール、過剰に派手ではない設計が特徴とされる。


 歴史的には税制や燃料事情、地域性なども絡み、“限られた条件の中で、いかに満足感を作るか”という知恵を感じさせるスタイルだ。


 つまり、豊かさの酒ではなく、工夫の酒。


 痩せた条件でも、丁寧に保つ酒。


「今回は、削るところをちゃんと削る」


 醸が言った。


「何を?」


 ミーナが尋ねる。


「重さ。余計な甘さ。派手さ」


「でも薄くなりすぎない?」


「そこが難しい」


「やっぱ難しいんだ」


「難しいよ。でも、こういうときの“軽さ”って手抜きじゃないからな」


「……うん」


「持たせるための軽さだ」


 使う神麦は明るいものを中心に、少しだけ褐色寄りを混ぜる。


 色は淡い琥珀程度。


 強いローストも、華やかな香りも要らない。


 必要なのは、少ない麦の厚みをきちんと感じさせること。水っぽくせず、しかし重くせず、静かな満足を残すこと。


 甘みは穏やかに、苦味は控えめに、香りは低く。


 喉を通ったあとに、“これで十分だ”と思える一杯。


「なんか、今回すごく地味?」


 ミーナが率直に言う。


「地味だよ」


 醸は笑った。


「でも地味って悪くない」


「うん、それは最近わかってきた」


「地味で、長く効く酒もある」


「今回はどんな効果?」


「たぶん、疲れた人が“これで今日は回せる”って思える感じ」


「回せる」


「無茶して一気に立ち上がるんじゃなくて、細く続けられる」


「……それ、倉庫街向きだね」


「だろ」


 レティシアが近づいて香りを取る。


「たしかに、主張は強くないわね」


「うん」


「でも、こういうのって現場では大事かも」


「どうして?」


「極端なものは警戒されるから」


 レティシアは言う。


「でも、“毎日の延長で飲める”ものは受け入れられやすい」


「それだな」


「今回は武器じゃなく、補給線みたいな酒ね」


「……ああ」


 醸は少し笑った。


「それ、かなり近い」


「誰の翻訳がうまいって?」


「もういいって」


     


ビールの完成と共に、北倉庫街へ向けた準備が整った。


 今日はEnglish Porterのときのように、いきなり核心を探るためではない。


 むしろ、“また来たあの酒職人”として、自然に顔を出すことが目的だった。


 大事なのは一度の奇跡じゃない。


 細い流れを、切らずにつなぐこと。


 ザックが馬車の脇で腕を組みながら言う。


「今日は前より軽い顔してるな」


「そう見えます?」


 醸が聞く。


「前回は“何か掴んで帰るぞ”って顔だった」


「まあ、そうでしたね」


「今日は“切らさず繋ぐぞ”って顔だ」


「そんなにわかりやすいですか」


「お前さんは顔に出る」


 ザックはそう言って鼻で笑った。


 北倉庫街へ着くと、前回より視線がやわらかかった。


 もちろん全員が歓迎してくれるわけではない。


 だが、“あのちゃんとした黒い酒を持ってきたやつ”として、少なくとも覚えられてはいる。


「今日は黒じゃないのか」


 最初に声をかけてきたのは、前回一番最初にEnglish Porterを飲んだ大柄な倉番だった。


「今日は少し軽いのを」


 醸が答える。


「また働く人向けで?」


「ええ。今度は“長く回す”方向で」


「ほう」


 木杯に注がれた Scottish Light は、Porter の黒とは対照的な、薄い琥珀色だった。


 華やかではない。


 だが陽に透けるその色には、どこか乾いた誠実さがある。


「地味だな」


 倉番の男が率直に言う。


「地味です」


 醸も率直に返す。


「でも、たぶん現場向きです」


「言うじゃねえか」


 一口、二口。


 男はしばらく黙ってから、低く唸った。


「……ああ」


「どうです?」


「派手さはねえ」


「ええ」


「でも、妙に腹に収まりがいい」


「狙い通りです」


「前の黒いやつみたいな“仕事終わりの一杯”じゃねえな」


「うん」


「こっちは“まだ仕事の途中でも飲めそう”だ」


 醸は思わず頷いた。


「まさにそこです」


 他の人足や倉番たちにも回る。


「薄いと思ったら、意外と薄くねえ」


「変に甘くもないな」


「これなら喉が疲れねえ」


「なんか……贅沢じゃないのに、雑でもない」


 その最後の感想に、醸は少しだけ胸が熱くなった。


 贅沢じゃないのに、雑でもない。


 Scottish Light を表すには、それ以上ない言葉だった。


 限られたものを、限られたまま丁寧に組み立てる。


 少ないからこそ、雑にしない。


 その思想が、この酒にはある。


 ミーナが小さく囁く。


「今回の、地味だけどすごく評判いいね」


「現場向きなんだろうな」


「うん。“ちゃんとしてるけど重くない”のがいいのかも」


「そうだろうな」


 前回ほど、本音がどっと溢れる感じではなかった。


 だがその代わり、今日の空気はもっと自然だった。


 倉番が、杯を持ったまま何でもない調子で言う。


「北三番、今日は朝から人が少なかった」


 醸はさりげなく聞き返す。


「そうなんですか」


「ああ。妙に手が足りてねえ」


「珍しい?」


「珍しいな。いつもは人だけは多いのに」


 別の帳場の若者も口を挟む。


「帳面の切り替えでもしてんじゃねえかって噂だ」


「切り替え?」


「荷札か、名義か、置き場か。そういうのをいじるときは、余計な目を減らしたがる」


 前回のPorterのときのように、“誇りからにじむ本音”ではない。


 今日はもっと、日常の延長として情報が落ちてくる。


 Scottish Light の効き方は、きっとこうなのだ。


 大きな感情を煽らない。


 だが人を疲れさせず、構えさせず、自然な会話の中で細い情報の流れをつなぐ。


 細い流れを絶やさぬ酒。


     


 昼の休憩に入るころ、前回話してくれた帳場の若者が近づいてきた。


「なあ」


「はい」


「前の黒いのもよかったけど、今日のも悪くねえな」


「ありがとうございます」


「黒いのは“お前らもちゃんと支えてる側だ”って感じだった」


「ええ」


「今日のは……」


 若者は少し考えてから言った。


「“無理に背伸びしなくていいけど、手は抜くな”って感じだ」


 醸は、杯を持つ手に少し力を込めた。


「……いい表現ですね」


「帳場は言葉で飯食ってるからな」


「なるほど」


 若者はScottish Lightをひとくち飲んでから、声を落とした。


「北三番の件、今夜あたり動きがあるかも」


「今夜?」


「荷札の付け替えなら、人目の減る時間にやる」


「確かなんですか」


「確か、とまでは言えねえ。でも今朝の人の減り方、帳面の閉じ方、あれは何か隠してるときの動きだ」


「……助かります」


「礼はいらねえよ」


 若者は肩をすくめる。


「流れが濁るのは、こっちも嫌なんだ」


 その言葉は、やはり大きかった。


 ヴィスタ商会側は、上からだけではなく、倉の中で帳面と荷札をいじって流れを歪めている。


 だが現場すべてがそれに加担しているわけではない。


 むしろ、“毎日の流れを守りたい側”は、細くてもちゃんと存在する。


 侯爵家が手を取り合うべきは、そこだ。


 レティシアは少し離れた位置から周囲を見ながら、後で合流して言った。


「今日は前回より穏やかだったわね」


「うん」


「でも収穫はある」


「かなりな」


「前回が“腹の底を見せる酒”なら、今日は“細い糸を切らない酒”」


「その通りだ」


「ほんと、Scottish Light って感じ」


「お前、だいぶ酒の感覚がわかってきたな」


「誰の翻訳が」


「うまいよ、はいはい」


     


 侯爵家へ戻った夕刻。


 報告を受けた侯爵アルフェンは、椅子の背にもたれながら静かに息をついた。


「北三番、今夜か」


「可能性が高いです」


 セリナが答える。


「荷札か名義か置き場か、どれかをいじるつもりでしょう」


「証を押さえられれば大きい」


「はい」


 侯爵はそのうえで、醸の持ち帰ったScottish Lightにも目を向けた。


「で、その酒はどう効いた」


「前回の Porter ほど、感情は動かしません」


「ほう」


「でも、自然に続く会話の中で、細い情報が切れずに流れてきました」


「なるほどな」


「現場に無理をさせず、“これなら今日も回せる”って感覚を与えるみたいです」


「それは今の我らにも必要だ」


 侯爵は少し笑う。


「派手な策より、細く切れぬ流れの方が勝つこともある」


「そう思います」


 ミーナが横から口を挟む。


「今日の酒、すごく目立つ感じじゃなかったけど」


「うん」


「でも、“続けられる”って感じがあった」


「それが一番大事なんだろうな」


「王都って、派手な人が強いんじゃないの?」


「目立つだけならな」


 レティシアが答える。


「でも、実際に街を動かしてるのは、“明日もちゃんとそこにいる人”よ」


「……そっか」


「倉番、帳場、御者、火番、そういう人たち」


 醸も続ける。


「侯爵家も同じだ。豪勢に一発じゃなくて、明日も回ることが強い」


「うん」


 Scottish Light の残りを小さく注ぐ。


 侯爵アルフェンが飲み、少し目を伏せる。


「これは、静かだな」


「はい」


「見琥のように刃を立てるわけでもない」


「ええ」


「陽泡のように場を弾ませるわけでもない」


「そうですね」


「だが……」


 侯爵は杯を見つめた。


「“痩せていても崩れぬ”感じがある」


 醸は深く頷いた。


「それです」


「いい酒だ」


「ありがとうございます」


「我が家にも、倉にも、今必要な種類の強さだな」


「まったく同感です」


     


 その夜の作戦は、派手な襲撃ではなかった。


 北三番倉の周辺へ、侯爵家の目を細く、静かに置く。


 ザックの伝手。


 レティシアの動線。


 セリナが裏で整えた帳面の確認手順。


 そして現場側から漏れた“今夜動くかもしれない”という細い情報。


 どれも一本だけなら弱い。


 だが、細い糸を束ねれば、切れにくい縄になる。


 その準備を見ながら、醸は思った。


 酒も同じだ。


 強烈な一杯がすべてを変えることもある。


 けれど本当に物事を前へ進めるのは、こういう“細くても絶やさぬ力”なのかもしれない。


 English Porter が働く者の誇りに火を灯したなら、


 Scottish Light は、その火を燃やしすぎず、長く持たせる酒だった。


 深夜に入る前、ミーナが小声で言う。


「ねえ、カモス」


「うん?」


「今回の酒、好き」


「お、また?」


「うん。なんか、すごく派手じゃないのに、ちゃんと頼れる」


「そうだな」


「こういうのって、地味だけど大事なんだね」


「たいてい一番大事なのは、こういうやつかもな」


「……覚えとく」


 ミーナはそう言って、少しだけ誇らしそうにScottish Lightの残りを見た。


 侯爵家の夜は再び緊張を帯びていく。


 だがそれは以前のような、何も見えないまま押し潰される緊張ではない。


 細い流れを繋ぎ、現場の声を拾い、少ない力でも崩れずに備えるための緊張だ。


 王都では、豪勢な者が強そうに見える。


 だが、街を本当に支えているのは、少ないものを少ないまま工夫し、切らさず明日へ渡す者たちだ。


 倉番もそう。


 帳場もそう。


 御者もそう。


 侯爵家も、そしてビール薬師も、今はそこに立っている。


 Scottish Light――薄き琥珀は、きらびやかではない。


 だがその薄さの中に、たしかな持久があった。


 細き流れを絶やさぬ一杯。


 痩せた戦線を、無理なく支えるための一杯。


 王都の夜が本当に動き出すその前に、これ以上なくふさわしい酒だった。


 そして醸は知っている。


 細く保った流れは、やがて太くなることがある。


 絶やさなかった火は、必要なときに大きな灯へ変わる。


 今はまだその前だ。


 だが北三番倉の夜が、次の局面を必ず呼ぶ。


 薄い琥珀の余韻を舌に残したまま、ビール薬師はその時を待った。


 押し返すには、まず切れずにいること。


 戦うには、まず回り続けること。


 そういう強さが、この王都には確かに必要なのだと、今はもう迷わなかった。


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