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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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20/24

第二十話 銅色の均整、雪解け前に灯る都の酒 ―ウィンナー・ラガー―

冬が深まるほど、グランエッジは静かになった。

 雪は村の輪郭をやわらかく覆い、山道を閉ざし、音を飲み込んでいく。人々は必要以上に声を張らなくなり、戸を開け閉めする回数も減り、足音までも慎重になる。そんな季節だった。

 それでも村は、以前のように寒さに押し込められてはいなかった。

 メルツェンが人々の身体を支え、ラオホビアが夜の守りとなり、ドゥンクレス・ボックが深く削られた力を満たす。大麦 醸の造った神麦の酒は、もはやただの珍しい飲み物ではなく、グランエッジの冬そのものを支える知恵になっていた。

 だが、酒が増えれば増えるほど、醸にはひとつの違和感も見えてきていた。

 今の村の酒は、どれも“必要”に応えるものだ。

 支えるため。

 守るため。

 戻すため。

 どれも欠かせない。どれも意味がある。けれど、そのぶん、酒が少しずつ“戦うための道具”に寄りすぎている感覚もあった。

 もちろん、この冬には必要なことだった。

 だが、人は必要だけで生きられるわけではない。

 必要なものだけを並べた暮らしは、やがて色を失う。

 そんなことを考えながら、醸は村外れの見張り台から雪原を眺めていた。

 白い景色の向こうには、何もないようでいて、確かに世界が続いている。閉ざされた冬の村にいても、外の空気は流れている。王都も、麓の町も、知らない街並みも、どこかで同じ空の下にある。

「珍しいわね。こんなところでぼうっとしてるなんて」

 振り返ると、レティシアがいた。厚手の外套の襟を立て、雪を踏みしめてこちらへ歩いてくる。

「ぼうっとしてたわけじゃない」

「考え事でしょ」

「それはそう」

「同じようなものよ」

 彼女は見張り台の柵にもたれ、醸と同じ方角を見た。

「何を考えてたの」

「村の酒が、だいぶ揃ってきたなって」

「ええ」

「でも、揃ったからこそ、足りないものも見えてきた」

「足りないもの?」

「余裕、かな」

 醸は言った。

「余裕?」

「支える酒、守る酒、満たす酒。全部いる。でも全部、必要に追われてる」

「……そうね」

「村の冬には合ってる。だけど、気持ちまでずっと冬のままだと、人は先を見なくなる」

 レティシアは少しだけ目を細めた。

「春を見ろってこと?」

「そこまで大げさじゃないけど」

「でも近いんでしょう」

「近いかもな」

 実際、村人たちは踏ん張っていた。誰も怠けず、誰も投げ出さず、冬に対して誠実に向き合っている。だがそのぶん、暮らしから“軽やかさ”が消えていた。笑わないわけではない。けれど、笑いのあとにすぐ現実へ戻る顔が増えた。

 必要に支えられた暮らしは強い。

 だが、美しさや整いまで失えば、いつか心が擦り減る。

「だから次は、“整っていて、きれいな酒”が欲しい」

 醸は言った。

「きれい?」

「重すぎず、軽すぎず、派手すぎず、地味すぎない」

「難しい注文ね」

「だから面白い」

「またそれ」

 醸は小さく笑い、白い息を吐いた。

「ウィンナー・ラガーにしようと思う」

「……また長い」

「今回はまだ短い方だ」

「その感覚、だいぶおかしいわよ」

「前世からだから仕方ない」

 ウィンナー・ラガー。

 前世では、モダンなクラフトの世界でも時折見かけるが、圧倒的な主流ではない。それでも、ビール史の中では重要な位置を持つ、美しい均整の酒だ。やや赤みを帯びた銅色。トースティなモルトの香り。品のいいコク。強すぎないのに、薄くもない。派手な主張ではなく、整った完成度で飲ませる酒。

 それは今のグランエッジに、不思議なほど必要に思えた。

 支えるだけではなく、村に“姿勢”を取り戻す酒。

 寒さの中でも、背筋を伸ばして立ちたくなるような酒。

「効能は?」

 レティシアが尋ねる。

「まだはっきりしない。でもたぶん、“整い”に寄る」

「また曖昧ね」

「今回はそういう酒なんだよ」

「雑にまとめたわね」

「いや、本当に。均整が本質なんだ」

 レティシアは呆れたように息をつきながらも、止めはしなかった。

「で、今度はどういう顔をさせたいの」

「顔?」

「あなた、酒を作る時、だいたい人の顔を先に考えてるでしょ」

「……そうか?」

「そうよ」

「よく見てるな」

「言ったでしょ、付き合いが長いって」

 醸は少し考えてから、正直に答えた。

「張りつめた顔じゃなくて、ちゃんと前を向いた顔かな」

「前を向いた顔」

「うん。寒さに耐えるだけじゃなくて、“耐えた先にも何かある”って思える顔」

「……なるほどね」

 レティシアはそれ以上言わなかったが、横顔は少しだけやわらかかった。

      

 ウィンナー・ラガーの要は、色と均整だった。

 深すぎない銅色。

 軽いトースト感。

 モルトの芯はあるが、重さに寄せないこと。

 ドゥンクレス・ボックのような“満たす濃さ”ではなく、もっと洗練された落ち着きが必要だった。メルツェンよりも少し引き締まり、ヘレスやピルスよりは奥行きがある。まさに中庸の美しさだ。

「今回の麦芽、前より焼かないの?」

 ミーナが焙燥台の前で首を傾げた。

「焼くけど、やりすぎない」

「いつも言ってる」

「今回は本当にそこが命なんだ」

「毎回命じゃない?」

「まあ、そうなんだけど」

「ほら」

「反論できないな……」

 神麦を丁寧に選り分け、ほんの一部だけを軽く色づくまで焙燥する。目指すのは褐色ではなく、赤みのある銅色を生むニュアンス。香りもローストではなく、あくまで軽いパンの皮、薄いビスケット、香ばしさの端を撫でる程度で止める。

 醸は何度も麦芽を指先で擦り、香りを確かめた。

「今回、妙に細かいわね」

 レティシアが言う。

「そういう酒なんだよ」

「強いとか、濃いとか、煙とか、そういうわかりやすいのじゃないのね」

「うん。むしろ“ちょうどいい”を作る」

「一番難しそう」

「その通り」

 糖化が始まると、鍋から立ち上る湯気はこれまでより軽やかだった。甘いが重くない。香ばしいが焦げていない。まるで焼きたての皮の薄いパンのような、節度のある香りが広がっていく。

「……なんか、きれい」

 ミーナがぽつりと言った。

「まだ飲んでもないのに?」

 醸が笑う。

「うん。でも、匂いがそう。ごちゃっとしてない」

「わかるか」

「わかるよ。最近ちょっとずつ」

「えらい」

「もっと褒めていいよ」

「温度の賢者だからな」

「それ気に入ったんだね」

 発酵は、いつも以上に丁寧に見た。

 少しでも雑味が出れば、この酒の良さは曇る。ウィンナー・ラガーは強烈な個性で押し切る酒ではない。だからこそ、輪郭が崩れると一気に凡庸になる。言い換えれば、ごまかしのきかない酒だった。

 醸は石室で樽の音を聞き、香りを取り、液面の状態を確かめる。何度も何度も、少しずつ整えていく。

 その作業は、前世の工場で一番好きだった仕事に近かった。

 派手ではないが、仕上がりの美しさに直結する工程。

 誰かに説明しても伝わりにくい、けれど飲んだ瞬間に結果だけは明確に伝わる種類の努力。

「本当に好きなのね」

 石室の入口でレティシアが言った。

「何が」

「こういう、静かな作業」

「好きだよ」

「見てればわかる」

「そんなに顔に出る?」

「出る」

「職人は損だな」

「いいえ。悪くないと思う」

 その言葉は、不思議と石室の冷気の中でよく響いた。

      

 完成したウィンナー・ラガーは、曇り空の午後に初めて樽から出された。

 杯に注がれた液体は、冬の村には少し意外なほど美しかった。

 それは深い黄金ではなく、濃い褐色でもない。

 赤みを帯びた銅色。

 火にかざせばやわらかく透け、静かな金属光沢のような落ち着きを見せる色だった。

「……きれい」

 最初にそう言ったのは、やはりミーナだった。

 泡は白く、細かい。立ち方は穏やかで、品がある。香りを取れば、モルトのやさしい厚み、軽いトースト、わずかなナッツ、そして全体を締める清潔なラガーらしさ。ドゥンクレス・ボックほど深くはない。メルツェンほど“蓄え”に寄ってもいない。だが、全体が驚くほどきちんと揃っていた。

 醸はひと口飲み、目を細めた。

「……ああ、これだ」

 口当たりはなめらかで、中盤にほんのりとしたトースト感が広がり、後口は重さを残さずにすっと引く。軽いわけではない。だが、必要以上に居座らない。飲み終えた後、背筋が自然と伸びるような整い方だった。

「どう?」

 ミーナが身を乗り出す。

「成功」

「おお」

「かなり」

「おおお」

「うるさい」

「やったね!」

 レティシアも杯を受け取り、ゆっくり飲んだ。

 そして、珍しくすぐには言葉を出さなかった。

「……不思議」

 やがて彼女はそう呟く。

「何が?」

「強く押してくる感じはないのに、飲むと気持ちがしゃんとする」

「しゃんとする、か」

「ええ。力が増えるというより、散ってたものが揃う感じ」

「それだ」

 醸は思わず笑った。

「今回ほしかったの、まさにそれ」

「なら当たりね」

 ミーナも飲む。すると彼女はぱちぱちと瞬きをしてから、自分のローブの裾を整えた。

「……あれ?」

「どうした」

「なんか、姿勢よくしたくなる」

「何それ」

 レティシアが吹き出す。

「ほんとだもん! あと、頭の中がちょっとすっきりする」

「魔力は?」

「増える感じじゃない。でも、無駄にざわざわしてたのが整う」

「集中力寄りか」

「うん、そんな感じ」

 醸は杯の中の銅色を見つめながら、効能を整理した。

 ウィンナー・ラガーの力は、回復や防御のようにわかりやすいものではなかった。

 だが確かにある。

 疲れた身体を無理やり起こすのではなく、乱れた調子を整える。

 気持ちを昂らせるのではなく、散った意識を一本に戻す。

 沈んだ心を持ち上げるというより、前を向く姿勢を与える。

 それは言うなれば――

均整の酒。

あるいは、自分を立て直す酒。

「これ、見張りの前にもよさそうね」

 レティシアが言う。

「ラオホビアとは別で?」

「ええ。あっちは守り。こっちは判断を鈍らせない」

「なるほど」

「あと、村長にもよさそう」

「どういう意味だ?」

「最近、考えすぎて眉間の皺が増えてるから」

「たしかに」

「聞こえておるぞ」

 後ろからしわがれた声がして、三人が振り向いた。

 いつの間にか村長が戸口に立っていた。外套に雪をつけたまま、じろりとこちらを見る。

「盗み聞きじゃないですか」

 醸が言う。

「偶然聞こえただけじゃ」

「だいたいそれ言う人は聞いてるんですよ」

「細かいことはよい。新しい酒ができたのだろう」

「まあ、はい」

 村長は杯を受け取り、慎重に香りを確かめた。

「ほう……香ばしいが、重たくないな」

「飲めばもっとわかります」

「うむ」

 一口、二口。

 そして村長は、少しだけ背を正した。

「……これはよい」

「どうよいです?」

「頭が静かになる」

 彼は杯を見つめたまま言った。

「静かに、しかし鈍くならん。考えが散らず、筋道が見える感じじゃ」

「やっぱりそうか」

「地味に見えるが、厄介なほど使い道がある酒じゃな」

「厄介って」

「褒めておる」

 その場の全員が、なんとも言えず笑った。

      

 その日の夕方、ウィンナー・ラガーはさっそく村のいくつかの場面で試された。

 まずは見張りの交代前。ラオホビアを使うほどの脅威が近くにない夜には、少量のウィンナー・ラガーを飲むことで、寒さの中でも意識を散らさず巡回ができることがわかった。張りつめすぎず、気を抜きすぎず、ちょうどいい緊張感を保てる。

 次に、作業の段取りを決める場。薪の配分、貯蔵庫の在庫確認、除雪の順番、麓への使いを出すかどうか――冬の村には細かな判断が多い。そんな時、村長や年長者たちがこの酒を少し口にすると、妙に話がまとまりやすかった。

「なんか今日は喧嘩にならないね」

 ミーナが不思議そうに言うと、鍛冶屋の親父が腕を組んで唸った。

「言いたいことはあるが、順番に言えばいい気がする」

「それ、普段からそうしてください」

 レティシアが冷たく言う。

「うむ……耳が痛い」

 さらに面白かったのは、若い衆の反応だった。

 ドゥンクレス・ボックのような“うおっ、効く”というわかりやすさはない。だが飲んだ後、皆どこか身なりを整えたがる。乱れた襟を直し、道具の置き方を揃え、会話の調子まで少し落ち着く。

「これ、変な酒だな」

 樽運びの若者が言う。

「酔うっていうより、ちゃんとしなきゃって気になる」

「それ、酒に言う感想じゃないわよね」

 レティシアが苦笑する。

「でもわかる」

 ミーナも頷いた。

「魔法の詠唱も、ちょっと丁寧にしたくなる」

 醸はその様子を見て、静かに納得していた。

 この酒は、人の内側の“軸”を整えるのだ。

 崩れたものを激しく持ち上げるのではない。守りの壁を作るのでもない。ただ、本来あるべき位置に戻していく。その結果として、姿勢が整い、思考が整い、動作が整う。

 そして、整った人間は前を向きやすい。

 それがこの冬の村には、思いのほか大きな意味を持っていた。

      

 数日後、雪は相変わらず村を覆っていたが、空気はわずかに変わっていた。

 人々の歩き方が、ほんの少しだけ違う。

 疲れていないわけではない。寒さが消えたわけでもない。

 それでも、ただ耐えるだけではなく、“暮らしを整えながら冬を越えている”という雰囲気が生まれていた。

 酒蔵の前で樽を拭いていた醸に、ミーナが駆け寄ってくる。

「カモス!」

「どうした」

「村長がね、“今度、春の道開きの時にも使えそうだ”って」

「春の道開き?」

「雪が緩んで、最初に外へ出る日のこと」

「へえ」

「それにふさわしい酒っぽいって」

「……それ、すごくいいな」

 醸は思わず顔を上げた。

 春の道開き。

 閉ざされた冬の先に、道が戻る日。村にとって、それはただの季節の変化ではない。外と再びつながる始まりだ。その日に似合う酒だと言われるのは、このウィンナー・ラガーにとってたしかにふさわしい気がした。

 冬の真ん中で造られた酒なのに、少しだけ先を向いている。

 それが、今の村に必要な意味だったのだろう。

「ねえ」

 ミーナが笑う。

「これ、“都の酒”って呼んでもいい?」

「都の酒?」

「なんか、洗練されてる感じするから」

「都なんて見たことあるのか?」

「ない」

「ないのかよ」

「でも、こういうのが都っぽいかなって」

「雑だなあ」

「でもわかるでしょ?」

「……わかる」

 実際、ウィンナー・ラガーには田舎の力強さだけではない、どこか磨かれた空気があった。粗野な生存のための酒ではなく、整った暮らしを思わせる酒。雪深い山村にいながら、遠い街の石畳や整った広場を夢見させるような気配がある。

 その“少し先の景色”こそが、村に必要だったのかもしれない。

      

 夜。

 酒蔵の中で、醸はひとり新しい樽を眺めていた。

 メルツェン、ラオホビア、ドゥンクレス・ボック、そしてウィンナー・ラガー。

 どれも役目が違う。

 どれも冬に必要だ。

 だが今日、彼ははっきりと気づいていた。

 酒は、傷や疲労に効くだけでは足りない。

 人が生きるには、もう一段別のものがいる。

 前を向くこと。

 整えること。

 美しいと思えること。

 そうしたものがあって初めて、暮らしは“生き延びる”から“生きる”へ戻っていく。

「……なるほどな」

 醸は小さく呟いた。

 この異世界でビールを造る意味は、ただ強い効能を出すことじゃないのかもしれない。

 人の生活に、季節に、感情に、姿勢にまで寄り添って、世界そのものを少しずつ良くしていくこと。

 もしそうなら、まだまだ造るべき酒はある。

 春へ向かう酒も。

 戦うための酒も。

 祝うための酒も。

 誰かと誰かを繋ぐ酒も。

 外では雪が静かに降り続いている。だが、その向こうには春がある。まだ遠い。けれど、たしかにある。

 ウィンナー・ラガーは、その春を今すぐ連れてくる酒ではない。

 だが、冬の中で背筋を伸ばし、来るべき季節へ目を向けさせる酒ではあった。

 銅色の均整。

 静かな洗練。

 寒さの中でも崩れない姿勢。

 大麦 醸は、その一杯をゆっくりと口に運ぶ。

 喉を通る酒は穏やかで、けれど確かに胸の奥を整えていく。

 そして彼は、ほんの少しだけ笑った。

 この村はもう、ただ冬を耐えるだけの村ではない。

 冬の中で姿勢を整え、次の季節へ向かう村だ。

 その中心に、自分の酒がある。

 そのことが、たまらなく誇らしかった。


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