表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/103

第十八話 煙は守りの香り、山村を包む燻しの酒 ―ラオホビア―

冬を越えるための琥珀の酒――Märzenが村に受け入れられてから、グランエッジの空気はわずかに変わった。


 厳しい寒さへの不安が消えたわけではない。山から吹き下ろす風は、日を追うごとに鋭さを増していたし、朝には屋根の縁に白い霜が張りつくようになっていた。だが村人たちの顔には、ただ身をすくめるだけではない、備えのある者の落ち着きがあった。


 食料庫には干し肉と根菜が積まれ、酒蔵の半地下石室には“冬越えの琥珀”が静かに眠っている。


 それは、確かな支えだった。


 だが、冬が近づくほどに村の暮らしは別の色も濃くしていく。


 それが、“煙”だ。


 朝、家々の煙突から立つ白い煙。燻製小屋の前で干される肉。魚を吊るし、塩を当て、じっくりと煙で守る保存の知恵。湿った薪がくすぶる匂い、樹皮の焦げる匂い、火床に落ちた脂がじゅっと音を立てる匂い。


 グランエッジは冬に向かうにつれ、村全体が大きな燻製小屋のような香りをまとい始めていた。


 その香りを吸い込みながら、醸は酒蔵の外で腕を組んだ。


「……煙、か」


 目の前では、村の男衆が狩りで仕留めた山鹿の腿肉を裂き、塩と香草をすり込んでいる。少し離れたところでは、薬草師の老婆が保存用の薬草束を火棚の上に吊るしていた。薪の匂いと草の匂いが混ざり、冷たい空気の中でゆっくり広がっていく。


「また始まった」


 背後からミーナの声がした。


「その顔は“何か思いついた”顔」


「そんなにわかりやすいか?」


「かなり」


「職人だからな」


「便利な言い訳だねえ」


 ミーナは両手を背中で組み、醸の横に並んで燻製小屋を見た。白い息が二人の間で重なる。


「煙で酒を作るの?」


「正確には、煙の香りをまとわせた麦で作る」


「えっ」


「できるんだよ、そういうビールが」


「うそでしょ」


「本当にある」


「カモスの“本当にある”はだいたい変な方向なんだよなあ」


「失礼な」


 だが、ミーナのその反応は間違っていなかった。


 煙の香りがついたビール――Rauchbier。前世でも決して万人受けする酒ではなかった。だが、だからこそ好きな人間には深く刺さる。しかもこの村の環境は、あまりにもその発想に向いていた。


 燻製は、この世界で生きるための技術だ。


 ならば煙は、保存と守りの象徴でもある。


 その煙を酒に宿せたなら――ただ珍しいだけではない、冬の山村に似合う意味を持たせられるかもしれない。


「またろくでもない顔してるわね」


 今度はレティシアだった。薪束を抱えて歩いてきた彼女は、醸とミーナの前で立ち止まり、眉をひそめる。


「何を考えてるの」


「煙のビール」


「やっぱりろくでもない」


「まだ何もしてないだろ」


「言葉だけでも十分ろくでもないわ」


 醸は苦笑しつつ、燻製小屋を指さした。


「でも、見てみろよ。この村の冬支度そのものだ」


「……燻製?」


「そう。保存のために煙を使う。肉や魚を守るための知恵だ。だったら、その“守る力”を酒にできるかもしれない」


「煙にそんな効果が?」


 レティシアが半信半疑で訊く。


「ビールの世界では、煙の香りはちゃんと伝統になるくらいには成立してる」


「またその“ビールの世界では”よ」


「今回はわりと本気で相性がいいと思ってる」


「相性?」


「冬、燻製、保存、火。全部つながってる」


 レティシアはしばらく黙って燻製小屋の煙を見つめ、それから小さく息を吐いた。


「で、どんな酒になるの」


「ベースはMärzen寄りだな」


「この前の琥珀の酒?」


「そう。麦の厚みがあって、そこに燻製麦芽の香りを重ねる。たぶん、焚き火のそばで飲むと一番映える」


「また冬向きなのね」


「今はそれがいい」


 その時、燻製小屋の戸が開き、狩人頭のバルグが顔を出した。大柄で寡黙な男だが、最近は醸の“変な酒”にも少しずつ慣れてきている。


「何だ、次は煙を飲ませるのか」


「聞こえてたのか」


「聞こえる」


「どう思う?」


「……燻した肉に合うなら悪くない」


 実に狩人らしい答えだった。


 醸は口元を緩める。


「合うと思う」


「なら試せ」


 バルグはそれだけ言って戸を閉めた。


 ミーナが吹き出した。


「雑!」


「でも、筋は通ってる」


「それはそう」


 醸は煙の流れを目で追った。


 煙は空へ昇るだけではない。布や木や髪に匂いを残し、そこに“火のあった証”を刻む。もしこれをビールに写し取れたなら、それはただの風味ではなく、冬を守る村の記憶そのものになる。


「よし」


 醸は踵を返した。


「やるか」


「本当にやるの?」


「やる」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「じゃあ私は見てるだけにしとく」


「手伝えよ」


「面白くなったら手伝う」


 そんなやり取りに、レティシアが呆れたように肩をすくめる。


「どうせ止めてもやるんでしょう」


「止めるか?」


「無駄でしょ」


「よくわかってるな」


「付き合いが長くなってきたもの」


 その言葉に、醸は少しだけ胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。


 この村に来たばかりの頃、自分はただ“異物”だった。山から来た得体の知れない男。変な酒を作る、変な知識を持った余所者。だが今は違う。呆れられながらも、酒を作る男として扱われている。


 それが嬉しかった。


     


 Rauchbierの肝は、言うまでもなく“燻製麦芽”だ。


 前世では、麦芽を乾燥させる工程で薪火の煙を当て、その香りを定着させる。現代ではよりクリーンに制御された方法も多いが、元を辿れば古い製麦法の延長線上にある。つまり、この世界の設備でも理屈の上では十分に再現できる。


 問題は、どんな木を使うかだった。


「木でも変わるの?」


 ミーナが訊く。


「かなり変わる」


「煙なら煙じゃないの?」


「違う。樹種で香りが変わるし、えぐみも変わる」


「うわ、また面倒」


「面倒なところが面白いんだよ」


「職人ってそういう生き物?」


 醸は村の木材置き場と燻製小屋を回り、使われている薪をひとつずつ確かめていった。針葉樹は香りが強いが樹脂っぽさが出すぎる恐れがある。雑木は穏やかだが、種類によっては苦い。燻製小屋で使われている樫に似た硬木は、香りが落ち着いていて食材にも上品に移る。


 最終的に彼が選んだのは、その硬木を中心に、少量の果樹系の枝を混ぜる方法だった。


「果樹まで使うの?」


 レティシアが麦芽を広げた木枠を持ちながら訊く。


「少しだけだ。煙を丸くしたい」


「丸い煙って何」


「言葉の問題だ」


「最近そればっかりね」


「だいたい言葉でしか伝えられないからな、香りは」


 酒蔵の裏手に即席の燻煙台が組まれた。低い火床の上に煙道を作り、その先に麦芽を広げた棚を置く。熱くしすぎれば麦芽が煎られすぎてしまう。だが煙が弱すぎれば香りが乗らない。必要なのは、火ではなく煙を使う繊細な距離感だった。


 火床に薪をくべると、やがて白く柔らかな煙が立ちのぼる。鼻をつくような乱暴さはなく、どこか甘く、木の芯の温もりを感じさせる匂いだ。


 その煙の上で、神麦から作った麦芽が静かに香りを帯びていく。


「すごい……」


 ミーナが目を輝かせた。


「なんか、もうこの時点で食べ物みたい」


「実際、香りだけならパンとかハムとか寄りになる」


「酒なのに?」


「酒なのに」


「ほんと変」


「褒めてる?」


「半分くらい」


 醸は燻された麦芽を指先でつまみ、そっと噛んだ。


 ……いける。


 強すぎない。だが確かに煙がいる。薪の焦げではなく、保存食のそばにあるような、落ち着いた燻香。そこに神麦の柔らかな甘みが残っている。


 このバランスなら、飲める酒になる。


「全部を燻すの?」


 レティシアが尋ねる。


「いや。全部やるとくどい」


「なら?」


「一部だけ燻製麦芽にして、残りは普通の麦芽で支える」


「また調整ね」


「むしろ今回はそこが勝負だ」


 醸は、Märzenに使った麦芽構成をベースに、燻製麦芽を一部混ぜ込む形を選んだ。Rauchbierにはさまざまな造りがあるが、今のグランエッジで必要なのは“珍しさ”より“使える完成度”だ。強烈な煙で驚かせる酒ではなく、村の食卓に入っていける酒を目指す。


 糖化が始まると、小屋の中は不思議な香りに満たされた。


 甘い麦汁の湯気の中に、確かに煙がいる。


 それは焚き火のそばで焼いた黒パンのようでもあり、燻した肉の脂のようでもあり、夕暮れの山小屋そのもののようでもあった。初めて嗅ぐのに、どこか懐かしい。そんな香りだった。


「……これは」


 レティシアが目を細める。


「嫌いじゃない」


「本当か?」


「ええ。もっと変なのを想像してた」


「失礼だな」


「だって煙よ?」


「まあ、わかる」


 ミーナは鍋の縁から立つ湯気をぱたぱたと手で扇いで、自分の顔の方へ寄せた。


「なんか、落ち着く匂い」


「そうだろ」


「でも魔法っぽくはないね」


「今回は魔法の華やかさじゃない。火のそばの安心感だ」


「それ、ちょっと好き」


 その言葉に、醸は静かに頷いた。


 火のそばの安心感。


 たぶん、今回の酒の核はそれだ。


     


 仕込みは順調だった。


 発酵が進むにつれ、樽の周りにはモルトと燻香の混ざった、奥行きのある香りが漂った。Märzenの“蓄え”に対し、Rauchbierはもっと感覚的だった。嗅いだだけで人の記憶に触れてくる。暖炉、薪、燻肉、雪前の夕方。


 そして、神麦はそこにも力を見せた。


 樽の上に浮かぶ淡い光は、いつもの金や琥珀ではない。どこか赤銅色に近く、火の粉が夜に漂う瞬間を閉じ込めたような色だった。醸はその光を見つめながら、今回の効能を考える。


 煙が保存に結びつくなら――守る力。


 火が寄り添う安心に結びつくなら――恐怖や寒気を和らげる力。


 あるいは、外から来る“嫌なもの”を遠ざける力もあり得る。


 燻製や煙は、古来より浄化や魔除けのイメージとも結びつくことがある。実際この世界でも、燻煙で虫や獣を避ける知恵はある。ならば、神麦のビールとして現れた時、それが単なる風味で終わるとも思えなかった。


 そんな折、村にひとつの小さな異変が起きた。


 夕方、畑の見回りから戻った若者が、顔を青くして広場に飛び込んできたのだ。


「山の下手に……妙な影がいた!」


 村人たちがざわめく。


 レティシアがすぐに前へ出た。


「落ち着いて、何を見たの」


「狼じゃない。鹿でもない。黒くて……大きくて、霧みたいに揺れてた」


「魔獣?」


 ミーナの顔がこわばる。


「わからない、でも、近づいたら寒気がして……急に息が詰まって」


 醸はその言葉に眉を寄せた。


 寒気。息苦しさ。黒い揺らぎ。


 以前、森で遭遇した魔素の濃い気配に少し似ている。実体を持つ獣というより、土地に溜まった歪みが形を取り始めたようなものかもしれない。冬が近づけば、こうしたものが増える可能性はある。


 村長も険しい顔をしていた。


「夜は戸締まりを厳重にしろ。見張りを増やす」


「私も結界を強める」


 ミーナが言う。


「でも、広く張ると長くはもたない」


「なら重点を絞れ」


 レティシアが短く返す。


 皆が慌ただしく動き出す中で、醸は酒蔵の方へ目を向けた。


 まだ完成前だ。だが、もしこの酒が考えた通りの力を持つなら――今、試す価値がある。


「レティシア」


「何?」


「今夜、試飲する」


「は?」


「Rauchbierだ」


「完成前でしょ」


「わかってる。でも、こういう時だからこそ効能を見たい」


「危険じゃないの?」


「味は多少荒いかもしれない。でも毒になるわけじゃない」


「そういう意味じゃなくて」


「たぶん、今夜の村に必要な酒になる」


 レティシアは一瞬ためらったが、やがて頷いた。


「……わかった。責任は一緒に持つ」


「助かる」


「あとで不味かったら文句は言うわよ」


「それは受ける」


     


 夜。


 グランエッジはいつもより早く戸を閉ざし、家々の窓から漏れる火だけが闇に点っていた。風は冷たく、遠くで木々が鳴る。山の向こうから圧し寄せてくる闇は、いつもより濃く感じられた。


 広場の中央には火が焚かれ、その周囲に数人が集まっている。


 村長、レティシア、ミーナ、狩人頭バルグ、そして醸。


 樽から注がれたRauchbierは、深い琥珀にほのかな赤みを帯びていた。泡立ちは穏やかで、香りははっきりしている。まず来るのはモルトの丸さ。次いで、薪火を思わせる柔らかな燻香。獣臭い乱暴さではない。焚き火のそばに座った時、服に残る心地よい煙の記憶に近い。


 村長が香りを嗅いで、目を見開いた。


「これは……燻製小屋じゃな」


「だいたい合ってます」


「酒なのに?」


「酒なのにです」


 バルグが先に口をつけた。黙って飲み、喉を鳴らし、それから短く言う。


「肉に合う」


「そこなんだ」


「重要だ」


「まあ、重要だけど」


 レティシアも恐る恐る飲んだ。


 その瞬間、彼女の表情が変わる。


「……あ」


「どうだ?」


「不思議。冷たい夜なのに、火のそばに戻ってきたみたい」


「それだ」


 ミーナが続いて杯を鼻元へ近づけ、深く息を吸う。すると、彼女の肩に入っていた力がふっと抜けた。


「緊張が……少し楽になる」


「魔力の感じは?」


「回復ってほどじゃない。でも、魔力が乱れにくくなる感じがする。落ち着くのかな」


「なるほど」


 醸も口に含んだ。


 まだ若い。熟成不足の荒さは少しある。けれど、それ以上に香りの方向性が見事にはまっていた。Märzenの土台があるから厚みがあり、煙は突出しすぎず、全体を包む“守りの匂い”として働いている。


 そしてその時だった。


 広場の外れ、村の柵の向こうで、ひやりと空気が揺れた。


 ミーナがはっとして立ち上がる。


「来る!」


 闇の中に、黒い影があった。


 獣の輪郭に似ているが、はっきりしない。霧の塊のようでもあり、濃い煙が四足の形を取っているようでもある。その周囲だけ空気が冷え、広場の火さえ少し弱く見えた。


「下がれ」


 レティシアが剣を抜く。


「待って」


 醸は彼女を制した。


「まず、これを使う」


 彼はRauchbierの樽の栓を開き、柄杓でひとすくいすると、火床の近くに撒いた。


 じゅっ、と音を立てて火が酒を舐める。


 その瞬間、燻香を帯びた蒸気がふわりと広がった。


 ただの蒸気ではなかった。赤銅色の細い光が煙に混じり、まるで見えない結界のように広場の周囲へ流れていく。焚き火から立つ煙と、Rauchbierの香りがひとつに混ざり合い、村の入口に薄い幕を張るように揺らめいた。


 黒い影が、その煙に触れた途端――


 ぎ、と耳障りな音を立てて後ずさった。


「効いてる!」


 ミーナが叫ぶ。


「あの影、煙を嫌がってる!」


 影はなおもにじり寄ろうとしたが、燻香の漂う空気に触れるたび、輪郭を崩していく。バルグがたいまつを手に前へ出た。火に照らされた煙がさらに濃くなり、影は低く唸るような音を残して闇へと退いた。


 完全に消えたわけではない。だが、少なくとも村の内側へ踏み込めなくなっている。


 皆が息を呑む中、ミーナが震える声で言った。


「これ……魔除けだ」


「魔除け?」


 村長が振り返る。


「うん。たぶん、邪気とか、魔素の乱れで形を持ったものを遠ざける。結界ほど強くはないけど、“寄りつきにくくする”力がある」


「煙の酒が?」


 レティシアが半ば呆れたように言う。


「煙の酒が」


 醸は深く息を吐いた。


「なるほどな……」


 Rauchbierの効能は、予想以上に明確だった。


 飲めば、寒さに強くなり、恐怖や緊張で強張った心身をゆるめる。


 さらに、その香りと蒸気は、魔を嫌わせる“燻しの結界”として働く。


 保存食を守る煙が、村そのものを守る煙へと変わったのだ。


「すごいじゃない!」


 ミーナが醸の腕を掴んでぶんぶん振る。


「村を守る酒だよ、これ!」


「お、おう」


「しかも飲んでもおいしいし!」


「そこ大事だな」


「大事だよ!」


 レティシアは剣を収め、煙の消えた暗がりを見ながら呟いた。


「冬越えの琥珀が“耐える酒”なら、これは“防ぐ酒”ね」


「そんな感じだ」


「本当に次から次へと……」


「悪いか?」


「いいえ」


 彼女は少しだけ笑った。


「助かる」


 その一言が、妙に胸に残った。


     


 翌日から、Rauchbierは正式に村の防備の一部となった。


 すべてを飲んでしまうのではない。見張り番には少量ずつ配る。夜の警戒前に一杯飲めば、寒さによる萎縮や恐怖が和らぐ。そして、見張り小屋の焚き火にはRauchbierをわずかに注ぎ、燻香をまとった煙を漂わせる。


 すると不思議なことに、夜ごと村の周囲に現れていたあの黒い揺らぎは、明らかに近づきにくくなった。


 完全に消えるわけではない。山の中にはまだ得体の知れない気配が残っている。だが少なくとも、グランエッジは一歩守りを固めた。


「煙で守るなんてねえ」


 薬草師の老婆が感心したように杯を見つめる。


「昔から、燻しは悪い気を払うって言い伝えはあったけど、本当に酒でやるとは」


「俺もここまで綺麗に出るとは思ってなかった」


「神麦と煙の相性かねえ」


「かもしれません」


 村長は広場の見張り台から周囲を見渡し、満足そうに頷いた。


「これで冬の夜も少しは安心じゃ」


「安心しきるのは危険ですけどね」


 レティシアが釘を刺す。


「わかっとる。だが、守りの手が増えるのはよいことだ」


「それはそう」


 バルグは相変わらず多くを語らなかったが、燻製肉を齧りながらRauchbierを飲み、ぽつりと言った。


「山の味がする」


「褒めてる?」


 醸が訊く。


「たぶん」


「またその“たぶん”か」


「うまいならそれでいい」


 たしかに、それでよかった。


 村を守る力があることも重要だ。だが、結局のところ、ビールは飲まれるものだ。効果だけで押しつける薬ではなく、人が自分から手を伸ばしたくなるものでなくてはならない。


 Rauchbierは、その意味でも成功だった。


 焚き火のそばで飲みたくなる。


 燻製肉と合わせたくなる。


 寒い夜に香りを吸い込みたくなる。


 そう思わせる酒でありながら、同時に村の守りにもなる。


 それは醸にとって、かなり理想的な形だった。


 その夜、酒蔵の前で樽を見回っていた醸の隣に、レティシアが立った。


「ねえ」


「ん?」


「この先も、こうやって酒が増えていくのよね」


「たぶん」


「また“たぶん”」


「絶対と言い切ると、変なのが来るからな」


「もう十分変なのばかり来てる気がするけど」


「否定はしない」


 冷たい風が吹き、遠くで木々が揺れた。だが今夜は、どこか昨日より穏やかだった。村の見張り火から、Rauchbierを含んだ煙が細く立ち昇っているのが見える。


 それはまるで、村が静かに呼吸しているようだった。


「カモス」


 レティシアが珍しく真面目な声で言う。


「あなた、前は“いい酒を作りたい”って顔だった」


「今は違うか?」


「今は“この村に要る酒を作りたい”って顔」


「……そう見える?」


「ええ」


 醸は少しの間、答えなかった。


 前世では、ビールは商品だった。誇りでもあり、技術でもあり、人生でもあった。だが、多くの場合、それは市場へ出ていくものだった。飲む相手の顔は見えても、その人の季節までは見えないことが多かった。


 けれど今は違う。


 この村には冬が来る。


 寒さがあり、不安があり、守るべき暮らしがある。


 だから酒にも役目が生まれる。


「そうかもな」


 醸は静かに言った。


「ここでは、酒がちゃんと“誰かのため”になる」


「最初からそうだったんじゃない?」


「そうだけど……自分でも最近、ようやくわかってきた気がする」


 レティシアは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。


 その沈黙が、むしろ心地よかった。


 山の村の夜。


 見張り火。


 燻した香り。


 樽の中で眠る、守りの酒。


 煙は、目に見えない。


 けれど確かにそこにあり、食べ物を守り、火のそばの安堵を刻み、邪なるものを遠ざける。


 Rauchbierは、そんな煙の性質をそのまま写し取ったような酒だった。


 それは派手な奇跡ではない。


 ただ、じわりと周囲を包み、近づくものを拒み、内側にいる者へ安心を与える。


 まるでこの村そのもののように。


 醸は酒蔵の戸を閉める前に、最後にもう一度、見張り火の方を見た。


 赤い火の上に、細く立つ煙がある。


 その煙は夜空へ昇りながら、どこかで村を抱くように広がっていた。


 冬はまだこれからだ。


 山の闇の中には、名も知れぬ脅威がまだ潜んでいる。


 王都や麓の町から向けられる思惑も、きっと今後さらに複雑になるだろう。


 だが、グランエッジにはもう、ただ耐えるだけではない知恵がある。


 蓄える酒がある。


 守る酒がある。


 そして、その酒を造る手がある。


 大麦 醸は、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、ふっと笑った。


「煙も悪くないな」


 その呟きは白い息になって消えたが、酒蔵の中に残る燻香は、しばらく消えそうになかった。


 それはきっと、この村が冬を越える間、ずっと人々の記憶に寄り添う香りになる。


 火のそばの安心とともに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ