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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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17/103

第十七話 貯えの琥珀、冬を越える祝祭の酒 ―メルツェン―

 German Pilsがもたらした変化は、目に見える形でグランエッジに残っていた。


 酒蔵小屋の前を通る人の数が増えた。麓の町へ降りる荷車には、以前より頑丈な木箱と藁の詰め方が工夫されるようになった。村の若者たちは、ただ畑と山仕事だけでなく、「樽を運ぶ腕」や「壜を割らずに積む知恵」まで話題にするようになった。


 外へ出した酒が認められた。


 その事実は、村の空気を静かに、けれど確実に押し上げていた。


 だが同時に、醸にはよく見えていたものもある。


 浮かれてばかりではいられない現実だ。


 秋が深まりつつあった。


 山の朝はすでに鋭く冷え、沢水は手を入れるだけで骨に染みた。神麦の穂も、夏の名残を宿したやわらかな色から、乾いた黄金へと変わりつつある。村人たちは冬支度に追われ、干し肉の量を確かめ、薪を積み、厚手の外套を縫い直し始めていた。


 酒蔵も例外ではない。


 いや、むしろ酒蔵こそ、冬への備えを考えねばならなかった。


「……保存だな」


 朝の薄明かりの中、醸は樽の列を見つめながら呟いた。


 小屋の中には、仕込みを終えたビールの樽がいくつも並んでいる。Kölsch、ヘレス・エクスポートビア、そしてピルス。どれも今のグランエッジに必要な酒だ。だが、どれも基本は“動いている今”を支える酒だった。


 疲労を抜く。傷を癒やす。外へ誇りを示す。


 それらは大事だ。けれど、冬は別の問いを突きつける。


 今をしのぐだけで足りるのか。


 蓄えはあるのか。


 長く持つ力はあるのか。


「そんな顔してる時は、ろくなこと考えてないわね」


 小屋の戸口からレティシアが言った。赤茶の髪をひとつに束ね、吐く息を白くしながら腕を組んでいる。


「ひどい言い草だな」


「違う?」


「半分くらいは当たってる」


「半分も当たってるなら十分よ」


 彼女の後ろから、ミーナがぴょこっと顔を出す。今日は青いローブの上から厚手の毛織りを羽織っていて、いつもより少しだけ着膨れして見えた。


「カモス、また次の酒?」


「またってなんだよ」


「だって前の酒、まだ“これからもっと整える”って言ってたのに、もう次の顔してる」


「職人はだいたい次のことで頭がいっぱいなんだ」


「面倒くさいね」


「自覚はある」


 ミーナはくすくす笑い、小屋の中に入って樽のひとつを撫でた。


「でも、今日はなんだか違う感じ。ピルスの時みたいに、きりっとした顔じゃない」


「そうか?」


「うん。もっと……あったかい感じ」


「それはたぶん、今考えてる酒がそういう酒だからだろうな」


 醸は樽から目を離し、二人の方へ向き直った。


「冬に入る前に、蓄えの酒を造りたい」


「蓄え?」


 レティシアが眉を上げる。


「保存が利いて、腹の底を支えて、怪我だけじゃなく体そのものを立て直せるような酒だ」


「今までの酒じゃ足りないの?」


「足りる部分もある。でも、冬は人をじわじわ削るんだよ」


 そう言いながら、醸は前世の記憶を思い出していた。


 寒い時期の仕込み場。冷えた指先。帰っても温まらない部屋。疲労が一日で抜けきらず、少しずつ身体に居座っていく感覚。人は派手に傷つかなくても、寒さと消耗で弱る。まして山村の冬なら、なおさらだ。


「冬ってのは、怪我みたいにわかりやすく来ない。食い足りない、眠りが浅い、朝起きると重い、無理して動いて、また削れる。そういうものが積み重なる」


「……たしかに」


 レティシアが頷く。


「巡回も冬は一番きつい。大怪我より前に、体力が先に削られることが多い」


「魔力もそうだよ」


 ミーナが真面目な顔になる。


「寒いと、ちょっとした火の維持でもいつもより疲れる」


 醸は二人の反応に小さく頷いた。


「だから今度は、“一撃の酒”じゃなく、“蓄える酒”が要る」


「名前は決まってるの?」


「だいたいは」


「また難しい?」


「難しい」


「やっぱり」


「Märzenだ」


 ミーナはきょとんとし、レティシアは聞き慣れない響きを口の中で転がすように繰り返した。


「メル……ツェン」


「昔の時代のドイツで、春先に仕込んで貯蔵し、秋の祭りで飲まれたような系統のビールだ。しっかりした麦の旨味があって、色は少し深くて、落ち着いてて、でも重すぎない」


「祭りの酒?」


「そう。でも、ただ浮かれるための酒じゃない。季節をまたいで持たせるための、知恵の酒でもある」


「なるほどね」


 レティシアは壁に背を預けたまま、少しだけ表情を和らげた。


「今の村には合ってるかもしれない」


 その時、小屋の外から鐘が鳴った。


 村の中央広場に掛けられた、集会を知らせる小さな鐘だ。乾いた朝の空気を割るように、短く二度、そして一度。


 レティシアの目が変わる。


「集まりね」


「何かあったのか?」


「この時期なら、だいたい冬備えの相談だろうけど……その顔を見るに、村長も同じこと考えてるんじゃない?」


 醸は黙って頷いた。


 たぶん、そうだ。


     


 広場には、すでに多くの村人が集まっていた。


 村長を中心に、鍛冶屋、薬草師の老婆、狩人頭、それに畑仕事を終えた女たちや若者まで、皆が外套を羽織りながら真剣な顔で輪になっている。空はよく晴れているのに、空気は刺すように冷たかった。


「来たか、カモス殿」


 村長が手を挙げる。


「ちょうど酒蔵の話もしたかった」


 醸は輪の中に入り、村長の顔を見た。


 老いた顔には、いつもより深い皺が刻まれている。


「何かあったんですか」


「麓から知らせが来た」


「知らせ?」


「今年の冬は長く厳しいだろう、と山見の者たちが言っておる」


 ざわ、と広場が揺れた。


 山見――天候や獣の動き、雲の流れ、霜の出方などから季節の厳しさを読む者たちだ。この世界でどこまで確かなものかは醸にもまだわからない。だが、少なくともこの村では、その見立てを軽視する者はいなかった。


「早霜が多い。獣も例年より早く下り始めている。峠道も閉ざされるのが早まるかもしれん」


 村長は静かに続ける。


「備蓄を増やさねばならん。食料も薪もだ。だが……薬と酒も足りるとは限らぬ」


 そこで、彼の視線が醸へ向いた。


「カモス殿。あんたの酒で、冬越えの助けになるものは作れんか」


 やはり来た。


 醸は胸の内でひとつ息を吐いた。


「考えていました」


「おお」


「ちょうど、今朝」


「なら話が早い」


 鍛冶屋が大きく頷く。


「どんな酒だ」


「体を起こす酒じゃなく、持たせる酒です」


「持たせる?」


「怪我を一気に塞ぐんじゃない。冷えで落ちる体力、食事だけでは追いつかない消耗、そういうものを底から支える。できれば保存が利いて、冬の間、少しずつ使えるやつ」


「そんな都合のいいものがあるのかい」


 薬草師の老婆が目を細めた。


「理屈の上では、あります」


 醸は広場の中央で、皆に聞こえるよう少し声を張った。


「Märzenというビールです。麦芽の旨味をしっかり出して、落ち着いて熟成させる。軽さより安定、鋭さより厚みを取る酒になります」


「回復は?」


 狩人頭が訊く。


「浅い傷への即効性は、たぶんピルスや最初のラガーほどじゃない」


 ざわり、とわずかな失望が走る。


「でも、その代わりに、冷えや消耗から戻す力は強くなるはずです。毎日少しずつ体を立て直す。そういう方向で働くと思う」


 数拍の沈黙のあと、村長がゆっくり頷いた。


「……冬に欲しいのは、そういう力かもしれん」


「俺もそう思います」


「なら頼みたい」


 醸はまっすぐ村長を見返した。


「ただし、神麦以外も材料を多く使います」


「うむ」


「熟成にも少し時間をかけたい。急造はしない」


「必要なら待つ」


「それから、これは“祝いの酒”にもなります」


「祝い?」


 ミーナが首を傾げた。


「冬に入る前、気持ちが沈みすぎないようにするためです」


 醸は言った。


「人は、備えるだけじゃ持たない。蓄えがある、皆で越える、その実感が要る。だからこれは、備蓄でありながら、村をひとつにする酒にしたい」


 レティシアが小さく笑った。


「なるほど。今回は心まで温める気ね」


「酒ってそういうもんだろ」


「言うようになったじゃない」


「前から思ってたよ」


 村長が杖を軽く地に突く。


「よし。ならば蔵総出で支えよう。必要な神麦の採取、樽の確保、冷蔵用の石室の整備、できることはすべてやる」


「石室?」


 醸が聞き返すと、鍛冶屋が胸を張った。


「沢沿いの斜面に古い貯蔵穴がある。夏は根菜を冷やすのに使ってるが、手を入れれば樽も置ける」


「……最高だ」


 思わず本音が漏れた。


 低温で安定させる場所。それはラガー系を造る上で、喉から手が出るほど欲しかったものだ。グランエッジでは沢水を使った冷却はしてきたが、しっかり落ち着かせるための半地下貯蔵はまだ整っていなかった。


「じゃあ、やるしかないな」


 醸がそう言うと、広場の空気が少しだけ明るくなった。


 不安は消えない。だが、それに向かって何かを始められる時、人は少しだけ前を向ける。


     


 それから数日は、まるで村全体が一つの大きな仕込み場になったようだった。


 山では神麦の採取が続き、日当たりのいい斜面には金色の穂が束ねて干された。畑では保存用穀物の選別が進み、村の女たちは酒蔵用の清潔な布を煮沸して用意した。鍛冶屋は樽の箍を打ち直し、若者たちは沢沿いの貯蔵穴から土と石を掻き出して、半地下の冷蔵庫のような空間を整えていく。


 醸はその中心で、忙しく動き回っていた。


 神麦の焙燥はいつもより少しだけ強めにする。焦がしすぎてはいけないが、パンの耳や軽いトーストを思わせる香ばしさを引き出したい。色は深い金から琥珀へ。ピルスのような鋭い明るさではなく、夕暮れの火のような落ち着いた色合いを目指す。


「今日の匂い、前と違う」


 ミーナが焙燥台の前で鼻をひくつかせた。


「前より、あまくて、香ばしい」


「正解」


「えへへ」


「ただし、ここで強くしすぎると別の酒になる」


「いつもそれ言ってるね」


「ビールはだいたい“やりすぎると別物になる”の連続だからな」


 レティシアは刈り取った神麦の束を抱えて運び込みながら、呆れ半分の声を出す。


「本当に繊細なのね」


「そうだよ。雑に見えるだろうけど、雑にやると死ぬ」


「死ぬ?」


「味が」


「あなたの中では、それかなり重大なんでしょうね」


「かなり重大だ」


 糖化の湯気が立つ。大鍋の中で砕かれた麦がほどけ、厚みのある甘い香りを放ち始める。前のピルスが“刃”なら、これは明らかに“炉”の香りだった。丸く、深く、身体に入ればゆっくり燃えそうな気配がある。


 だが、醸はそこにただ重さを求めはしなかった。


 Märzenは濃いだけの酒ではない。豊かなモルト感はあっても、くどくなってはいけない。重厚に傾きすぎれば、冬に毎日寄り添う酒ではなくなる。必要なのは、満足感と整い方の両立だ。


「ホップはどうするの?」


 ミーナが訊く。


「控えめだけど、ちゃんと締める」


「苦くしないの?」


「少しはいる。でも今回は“苦みで立つ”んじゃない。“旨味を支える苦み”だ」


「難しい……」


「わかるよ、その顔」


 レティシアが笑う。


「私も半分しかわかってない」


「半分わかれば十分すごいよ」


 煮沸、冷却、発酵。


 神麦の力は相変わらず不思議だった。麦汁に宿った光は、前の酒よりわずかに深く、透かすと淡い銅色を帯びて見える。発酵が始まると、表面に現れる泡の色までどこか温かかった。醸は木桶の香りを取りながら、胸の内に確かな手応えを感じていた。


 これなら、いける。


 まだ完成ではない。だが方向は間違っていない。


 そして今回は、仕込んで終わりではない。


 半地下の石室へ樽を移し、冷たい空気の中で落ち着かせる。薄暗い石の壁、土の匂い、沢から通した冷気。そこに並ぶ樽は、まるで冬の前に蓄えられる小さな灯火のようだった。


「……いいな」


 醸は思わず呟いた。


「何が?」


 レティシアが横から覗く。


「こういう場所」


「穴蔵が?」


「穴蔵って言うなよ。貯蔵庫だ」


「でも穴蔵よ」


「響きの問題だ」


「こだわるところ、そこなんだ」


「大事だろ」


「わからなくもないけど」


 石室の中では声が少し低く響いた。


 醸は樽のひとつに触れた。冷たい木肌の向こうで、ビールが静かに整っていく。派手な音はない。目覚ましい変化もすぐには見えない。けれど、確かにそこには時間が働いている。


 それは彼の好きな種類の仕事だった。


 すぐ答えが出ない仕事。だが、丁寧に積んだものだけが最後に形になる仕事。


 前世の自分は、その時間の中で生きてきた。


 そして今、その時間は初めて、誰かの冬を支えるために使われようとしている。


     


 完成を見たのは、初雪の前触れのような冷たい風が吹いた夕方だった。


 樽から注がれた液体は、深い黄金というより、やわらかな琥珀だった。夕陽を受けた時の蜂蜜のようでもあり、炉の火が木の杯に移ったようでもある。泡は白く厚みがあり、消えるのも穏やかだ。


 香りを取る。


 まず来るのは、焼きたてのパンのようなモルトの香ばしさ。その奥に軽いトースト、ほのかな甘み、そして全体をだらしなくしない程度の清潔な苦みの気配。華やかな酒ではない。だが、胸の奥にすっと落ちてくる安堵がある。


「……いい」


 醸は小さく言った。


 その試飲の場は、広場で行われることになった。


 村長の提案だった。どうせ冬越えのための酒なら、皆で最初の一杯を確かめるべきだ、と。樽がひとつ運び出され、焚き火が広場の中央で赤く燃える。村人たちは厚着のまま輪になり、緊張と期待の入り混じった顔で杯を手にしていた。


「本当に祝いみたい」


 ミーナが嬉しそうに囁く。


「そうしたかったからな」


「でも、まだ冬前なのに?」


「冬前だからだよ」


 醸はそう答え、最初の杯を村長に渡した。


 村長は両手で杯を受け取り、ゆっくり香りを確かめ、それから一口飲んだ。しばらく何も言わない。広場中が固唾を飲んで見守る。


 やがて、老いた顔の皺が少しほどけた。


「……腹の中に火が入るようじゃ」


 その一言に、村人たちの間から息が漏れた。


 次に飲んだのは、ここ数日ずっと貯蔵穴の整備に入っていた若者だった。寒い中で土を掘り、石を動かし、肩を痛めていた男だ。彼はごくごくと半分ほど飲み、目を丸くする。


「なんだこれ……重くないのに、力が戻る」


「肩は?」


 醸が訊く。


「痛みが消えるほどじゃない。でも、抜けてた芯が戻る感じがある。あと……腹が落ち着く」


 薬草師の老婆も一口飲み、静かに頷いた。


「これはいいねえ。派手に治す酒じゃないが、弱った体にはこっちのほうが助かる時もある」


「睡眠にもよさそう?」


 ミーナが訊くと、老婆は少し笑う。


「飲みすぎなければね。気を張りすぎた身体を、上手く下ろしてくれそうだよ」


 レティシアも杯を受け取り、焚き火を見ながら飲んだ。


「……うん。これは、いいわ」


「ピルスの時と反応が違うな」


「そりゃ違うでしょ。あっちは“立つ酒”。これは“戻る酒”だもの」


「戻る酒」


「しっくりくるでしょ」


 たしかに、そうだった。


 Märzenの効能は明快だった。


 傷を瞬時に塞ぐのではない。魔力を爆発的に満たすのでもない。代わりに、冷えと消耗で削れた身体を、じわじわと本来の位置へ戻していく。腹の底が温まり、足に根が生え、眠りに入る前の不安が少し和らぐ。働きすぎた筋肉をゆるめ、翌日また立てるだけの余力を残す。


 それは冬の村にとって、何より必要な力だった。


「カモス殿」


 村長が杯を持ったまま言う。


「これは備蓄酒として回す。だが、それだけでは惜しいな」


「惜しい?」


「うむ」


 村長は焚き火の向こうの人々を見渡した。


「冬に入る前、皆でこの酒を飲む日を作ろう。備えがあると確かめる日だ」


「祭りみたいに?」


 ミーナの声が弾む。


「小さくてもいい。だが、ただ怯えて冬を待つよりはいいだろう」


 ざわめきが、今度は明るく広がった。


 子どもたちは祭りという言葉に顔を輝かせ、大人たちも互いの顔を見て、少しだけ肩の力を抜いた。確かに、冬支度は必要だ。厳しい季節への警戒も必要だ。だが、人は恐れるだけでは長く持たない。


 備えがあると、確かめる日。


 その発想に、醸は強く頷いた。


「いいですね」


「だろう?」


「この酒には、そういう役目が似合う」


 焚き火の火が揺れ、杯の中の琥珀色がゆらゆらと光る。


 前世で、彼は祭りのための酒を何度か仕込んだことがある。限定醸造、季節商品、イベント用の特別樽。だがその多くは、売上や話題のためだった。もちろん、それも立派な仕事だ。けれど今、目の前にある酒は違う。


 これは、冬を越える人々のための酒だ。


 不安を追い払いはしない。だが、不安に押し潰されないための、確かな重みを与えてくれる。


 それが妙に嬉しかった。


「名前はもう決まりね」


 レティシアが言う。


「Märzen」


「長い」


「いつものことだろ」


「じゃあ村では“冬越えの琥珀”でどう?」


 ミーナが身を乗り出す。


「それ、いいな」


 醸は笑った。


「通称それでいこうか」


「やった!」


 広場に笑いが広がった。


 その夜、グランエッジでは小さな宴が開かれた。豪華なものではない。干し肉、根菜の煮込み、黒パン、きのこの塩焼き。それだけだ。だが焚き火を囲み、Märzenを少しずつ分け合う時間には、たしかに祭りの気配があった。


 人は食べ、飲み、話し、笑う。


 寒さが近づいていることを知りながら、それでも今ここに灯りがあると確かめる。


 醸は杯を持ち、広場の端からその光景を見ていた。


「なに黄昏れてるの」


 隣に来たレティシアが、半分呆れた声で言う。


「いや、いいなと思って」


「何が?」


「こういうの」


「ふうん」


 しばらく二人で焚き火を見た。ミーナは子どもたちに囲まれて、なぜか“魔法で泡を少し長持ちさせる遊び”を披露している。村長は鍛冶屋と何か言い合いながら笑っていた。薬草師の老婆は、いつも無口な狩人に二杯目は控えろと釘を刺している。


 どこを見ても、人の暮らしがあった。


「前の世界では、こういうの……あんまりなかったの?」


 レティシアがふいに訊いた。


 醸は少し考えてから答えた。


「なくはなかったよ。でも、自分の作った酒が、こうやって誰かの季節そのものに関わることは、たぶんなかった」


「……そっか」


「うまいって言われるのは嬉しかった。でも、今はそれにもうひとつ意味がある」


「救う、とか?」


「支える、かな」


 醸は焚き火の向こうを見た。


「派手じゃなくても、次の日ちゃんと立てる。その助けになる。そういう酒が、今は一番うれしい」


 レティシアは何も言わず、杯を口に運んだ。


 そして少ししてから、小さく笑う。


「じゃあ、あなたにぴったりね」


「どういう意味だ」


「派手じゃないけど、ちゃんと支えるところ」


「褒めてる?」


「たぶん」


「たぶんかよ」


 二人で笑った。


 夜気は冷えていく。だが、広場の中心には火があり、人の輪があり、琥珀色の酒がある。


 Märzen。


 蓄えの酒。祭りの酒。冬を前に、人の腹と心に火を入れる酒。


 大麦 醸はその一杯を見つめながら、これから来る厳しい季節を思った。たぶん、楽ではない。雪も降るだろう。道は閉ざされ、病も怪我も増える。外からの視線だって、まだ消えたわけではない。


 それでも、備えはある。


 そして、その備えを皆で分け合える。


 それは恐れを消しはしないが、確かに人を強くする。


 今夜のグランエッジには、祝祭と準備が同じ火のそばにあった。


 そのことが、醸には何より尊く思えた。


 冬はきっと厳しい。


 だが、この村はもう、ただ寒さに耐えるだけの村ではない。


 麦を醸し、人を支え、季節を越える術を持ち始めた村だ。


 焚き火の向こうで、ミーナが笑う。


 レティシアが肩をすくめる。


 村長が力強く杯を掲げる。


 醸もまた、静かに自分の杯を上げた。


「冬を越えよう」


 その声に、広場のあちこちから杯が上がる。


「おう!」


「越えよう!」


「乾杯だ!」


 琥珀の光が夜に揺れた。


 それは春を待つ灯ではなく、春まで消えないと誓う灯だった。


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