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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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18/22

第十八話 煙は守りの香り、山村を包む燻しの酒 ―ラオホビア―

冬を越えるための琥珀の酒――メルツェンが村に受け入れられてから、グランエッジの空気はわずかに変わった。

 厳しい寒さへの不安が消えたわけではない。山から吹き下ろす風は、日を追うごとに鋭さを増していたし、朝には屋根の縁に白い霜が張りつくようになっていた。だが村人たちの顔には、ただ身をすくめるだけではない、備えのある者の落ち着きがあった。

 食料庫には干し肉と根菜が積まれ、酒蔵の半地下石室には“冬越えの琥珀”が静かに眠っている。

 それは、確かな支えだった。

 だが、冬が近づくほどに村の暮らしは別の色も濃くしていく。

 それが、“煙”だ。

 朝、家々の煙突から立つ白い煙。燻製小屋の前で干される肉。魚を吊るし、塩を当て、じっくりと煙で守る保存の知恵。湿った薪がくすぶる匂い、樹皮の焦げる匂い、火床に落ちた脂がじゅっと音を立てる匂い。

 グランエッジは冬に向かうにつれ、村全体が大きな燻製小屋のような香りをまとい始めていた。

 その香りを吸い込みながら、醸は酒蔵の外で腕を組んだ。

「……煙、か」

 目の前では、村の男衆が狩りで仕留めた山鹿の腿肉を裂き、塩と香草をすり込んでいる。少し離れたところでは、薬草師の老婆が保存用の薬草束を火棚の上に吊るしていた。薪の匂いと草の匂いが混ざり、冷たい空気の中でゆっくり広がっていく。

「また始まった」

 背後からミーナの声がした。

「その顔は“何か思いついた”顔」

「そんなにわかりやすいか?」

「かなり」

「職人だからな」

「便利な言い訳だねえ」

 ミーナは両手を背中で組み、醸の横に並んで燻製小屋を見た。白い息が二人の間で重なる。

「煙で酒を作るの?」

「正確には、煙の香りをまとわせた麦で作る」

「えっ」

「できるんだよ、そういうビールが」

「うそでしょ」

「本当にある」

「カモスの“本当にある”はだいたい変な方向なんだよなあ」

「失礼な」

 だが、ミーナのその反応は間違っていなかった。

 煙の香りがついたビール――ラオホビア。前世でも決して万人受けする酒ではなかった。だが、だからこそ好きな人間には深く刺さる。しかもこの村の環境は、あまりにもその発想に向いていた。

 燻製は、この世界で生きるための技術だ。

 ならば煙は、保存と守りの象徴でもある。

 その煙を酒に宿せたなら――ただ珍しいだけではない、冬の山村に似合う意味を持たせられるかもしれない。

「またろくでもない顔してるわね」

 今度はレティシアだった。薪束を抱えて歩いてきた彼女は、醸とミーナの前で立ち止まり、眉をひそめる。

「何を考えてるの」

「煙のビール」

「やっぱりろくでもない」

「まだ何もしてないだろ」

「言葉だけでも十分ろくでもないわ」

 醸は苦笑しつつ、燻製小屋を指さした。

「でも、見てみろよ。この村の冬支度そのものだ」

「……燻製?」

「そう。保存のために煙を使う。肉や魚を守るための知恵だ。だったら、その“守る力”を酒にできるかもしれない」

「煙にそんな効果が?」

 レティシアが半信半疑で訊く。

「ビールの世界では、煙の香りはちゃんと伝統になるくらいには成立してる」

「またその“ビールの世界では”よ」

「今回はわりと本気で相性がいいと思ってる」

「相性?」

「冬、燻製、保存、火。全部つながってる」

 レティシアはしばらく黙って燻製小屋の煙を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「で、どんな酒になるの」

「ベースはメルツェン寄りだな」

「この前の琥珀の酒?」

「そう。麦の厚みがあって、そこに燻製麦芽の香りを重ねる。たぶん、焚き火のそばで飲むと一番映える」

「また冬向きなのね」

「今はそれがいい」

 その時、燻製小屋の戸が開き、狩人頭のバルグが顔を出した。大柄で寡黙な男だが、最近は醸の“変な酒”にも少しずつ慣れてきている。

「何だ、次は煙を飲ませるのか」

「聞こえてたのか」

「聞こえる」

「どう思う?」

「……燻した肉に合うなら悪くない」

 実に狩人らしい答えだった。

 醸は口元を緩める。

「合うと思う」

「なら試せ」

 バルグはそれだけ言って戸を閉めた。

 ミーナが吹き出した。

「雑!」

「でも、筋は通ってる」

「それはそう」

 醸は煙の流れを目で追った。

 煙は空へ昇るだけではない。布や木や髪に匂いを残し、そこに“火のあった証”を刻む。もしこれをビールに写し取れたなら、それはただの風味ではなく、冬を守る村の記憶そのものになる。

「よし」

 醸は踵を返した。

「やるか」

「本当にやるの?」

「やる」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「じゃあ私は見てるだけにしとく」

「手伝えよ」

「面白くなったら手伝う」

 そんなやり取りに、レティシアが呆れたように肩をすくめる。

「どうせ止めてもやるんでしょう」

「止めるか?」

「無駄でしょ」

「よくわかってるな」

「付き合いが長くなってきたもの」

 その言葉に、醸は少しだけ胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。

 この村に来たばかりの頃、自分はただ“異物”だった。山から来た得体の知れない男。変な酒を作る、変な知識を持った余所者。だが今は違う。呆れられながらも、酒を作る男として扱われている。

 それが嬉しかった。

      

 ラオホビアの肝は、言うまでもなく“燻製麦芽”だ。

 前世では、麦芽を乾燥させる工程で薪火の煙を当て、その香りを定着させる。現代ではよりクリーンに制御された方法も多いが、元を辿れば古い製麦法の延長線上にある。つまり、この世界の設備でも理屈の上では十分に再現できる。

 問題は、どんな木を使うかだった。

「木でも変わるの?」

 ミーナが訊く。

「かなり変わる」

「煙なら煙じゃないの?」

「違う。樹種で香りが変わるし、えぐみも変わる」

「うわ、また面倒」

「面倒なところが面白いんだよ」

「職人ってそういう生き物?」

 醸は村の木材置き場と燻製小屋を回り、使われている薪をひとつずつ確かめていった。針葉樹は香りが強いが樹脂っぽさが出すぎる恐れがある。雑木は穏やかだが、種類によっては苦い。燻製小屋で使われている樫に似た硬木は、香りが落ち着いていて食材にも上品に移る。

 最終的に彼が選んだのは、その硬木を中心に、少量の果樹系の枝を混ぜる方法だった。

「果樹まで使うの?」

 レティシアが麦芽を広げた木枠を持ちながら訊く。

「少しだけだ。煙を丸くしたい」

「丸い煙って何」

「言葉の問題だ」

「最近そればっかりね」

「だいたい言葉でしか伝えられないからな、香りは」

 酒蔵の裏手に即席の燻煙台が組まれた。低い火床の上に煙道を作り、その先に麦芽を広げた棚を置く。熱くしすぎれば麦芽が煎られすぎてしまう。だが煙が弱すぎれば香りが乗らない。必要なのは、火ではなく煙を使う繊細な距離感だった。

 火床に薪をくべると、やがて白く柔らかな煙が立ちのぼる。鼻をつくような乱暴さはなく、どこか甘く、木の芯の温もりを感じさせる匂いだ。

 その煙の上で、神麦から作った麦芽が静かに香りを帯びていく。

「すごい……」

 ミーナが目を輝かせた。

「なんか、もうこの時点で食べ物みたい」

「実際、香りだけならパンとかハムとか寄りになる」

「酒なのに?」

「酒なのに」

「ほんと変」

「褒めてる?」

「半分くらい」

 醸は燻された麦芽を指先でつまみ、そっと噛んだ。

 ……いける。

 強すぎない。だが確かに煙がいる。薪の焦げではなく、保存食のそばにあるような、落ち着いた燻香。そこに神麦の柔らかな甘みが残っている。

 このバランスなら、飲める酒になる。

「全部を燻すの?」

 レティシアが尋ねる。

「いや。全部やるとくどい」

「なら?」

「一部だけ燻製麦芽にして、残りは普通の麦芽で支える」

「また調整ね」

「むしろ今回はそこが勝負だ」

 醸は、メルツェンに使った麦芽構成をベースに、燻製麦芽を一部混ぜ込む形を選んだ。ラオホビアにはさまざまな造りがあるが、今のグランエッジで必要なのは“珍しさ”より“使える完成度”だ。強烈な煙で驚かせる酒ではなく、村の食卓に入っていける酒を目指す。

 糖化が始まると、小屋の中は不思議な香りに満たされた。

 甘い麦汁の湯気の中に、確かに煙がいる。

 それは焚き火のそばで焼いた黒パンのようでもあり、燻した肉の脂のようでもあり、夕暮れの山小屋そのもののようでもあった。初めて嗅ぐのに、どこか懐かしい。そんな香りだった。

「……これは」

 レティシアが目を細める。

「嫌いじゃない」

「本当か?」

「ええ。もっと変なのを想像してた」

「失礼だな」

「だって煙よ?」

「まあ、わかる」

 ミーナは鍋の縁から立つ湯気をぱたぱたと手で扇いで、自分の顔の方へ寄せた。

「なんか、落ち着く匂い」

「そうだろ」

「でも魔法っぽくはないね」

「今回は魔法の華やかさじゃない。火のそばの安心感だ」

「それ、ちょっと好き」

 その言葉に、醸は静かに頷いた。

 火のそばの安心感。

 たぶん、今回の酒の核はそれだ。

      

 仕込みは順調だった。

 発酵が進むにつれ、樽の周りにはモルトと燻香の混ざった、奥行きのある香りが漂った。メルツェンの“蓄え”に対し、ラオホビアはもっと感覚的だった。嗅いだだけで人の記憶に触れてくる。暖炉、薪、燻肉、雪前の夕方。

 そして、神麦はそこにも力を見せた。

 樽の上に浮かぶ淡い光は、いつもの金や琥珀ではない。どこか赤銅色に近く、火の粉が夜に漂う瞬間を閉じ込めたような色だった。醸はその光を見つめながら、今回の効能を考える。

 煙が保存に結びつくなら――守る力。

 火が寄り添う安心に結びつくなら――恐怖や寒気を和らげる力。

 あるいは、外から来る“嫌なもの”を遠ざける力もあり得る。

 燻製や煙は、古来より浄化や魔除けのイメージとも結びつくことがある。実際この世界でも、燻煙で虫や獣を避ける知恵はある。ならば、神麦のビールとして現れた時、それが単なる風味で終わるとも思えなかった。

 そんな折、村にひとつの小さな異変が起きた。

 夕方、畑の見回りから戻った若者が、顔を青くして広場に飛び込んできたのだ。

「山の下手に……妙な影がいた!」

 村人たちがざわめく。

 レティシアがすぐに前へ出た。

「落ち着いて、何を見たの」

「狼じゃない。鹿でもない。黒くて……大きくて、霧みたいに揺れてた」

「魔獣?」

 ミーナの顔がこわばる。

「わからない、でも、近づいたら寒気がして……急に息が詰まって」

 醸はその言葉に眉を寄せた。

 寒気。息苦しさ。黒い揺らぎ。

 以前、森で遭遇した魔素の濃い気配に少し似ている。実体を持つ獣というより、土地に溜まった歪みが形を取り始めたようなものかもしれない。冬が近づけば、こうしたものが増える可能性はある。

 村長も険しい顔をしていた。

「夜は戸締まりを厳重にしろ。見張りを増やす」

「私も結界を強める」

 ミーナが言う。

「でも、広く張ると長くはもたない」

「なら重点を絞れ」

 レティシアが短く返す。

 皆が慌ただしく動き出す中で、醸は酒蔵の方へ目を向けた。

 まだ完成前だ。だが、もしこの酒が考えた通りの力を持つなら――今、試す価値がある。

「レティシア」

「何?」

「今夜、試飲する」

「は?」

「ラオホビアだ」

「完成前でしょ」

「わかってる。でも、こういう時だからこそ効能を見たい」

「危険じゃないの?」

「味は多少荒いかもしれない。でも毒になるわけじゃない」

「そういう意味じゃなくて」

「たぶん、今夜の村に必要な酒になる」

 レティシアは一瞬ためらったが、やがて頷いた。

「……わかった。責任は一緒に持つ」

「助かる」

「あとで不味かったら文句は言うわよ」

「それは受ける」

      

 夜。

 グランエッジはいつもより早く戸を閉ざし、家々の窓から漏れる火だけが闇に点っていた。風は冷たく、遠くで木々が鳴る。山の向こうから圧し寄せてくる闇は、いつもより濃く感じられた。

 広場の中央には火が焚かれ、その周囲に数人が集まっている。

 村長、レティシア、ミーナ、狩人頭バルグ、そして醸。

 樽から注がれたラオホビアは、深い琥珀にほのかな赤みを帯びていた。泡立ちは穏やかで、香りははっきりしている。まず来るのはモルトの丸さ。次いで、薪火を思わせる柔らかな燻香。獣臭い乱暴さではない。焚き火のそばに座った時、服に残る心地よい煙の記憶に近い。

 村長が香りを嗅いで、目を見開いた。

「これは……燻製小屋じゃな」

「だいたい合ってます」

「酒なのに?」

「酒なのにです」

 バルグが先に口をつけた。黙って飲み、喉を鳴らし、それから短く言う。

「肉に合う」

「そこなんだ」

「重要だ」

「まあ、重要だけど」

 レティシアも恐る恐る飲んだ。

 その瞬間、彼女の表情が変わる。

「……あ」

「どうだ?」

「不思議。冷たい夜なのに、火のそばに戻ってきたみたい」

「それだ」

 ミーナが続いて杯を傾ける。すると、彼女の肩に入っていた力がふっと抜けた。

「緊張が……少し楽になる」

「魔力の感じは?」

「回復ってほどじゃない。でも、魔力が乱れにくくなる感じがする。落ち着くのかな」

「なるほど」

 醸も口に含んだ。

 まだ若い。熟成不足の荒さは少しある。けれど、それ以上に香りの方向性が見事にはまっていた。メルツェンの土台があるから厚みがあり、煙は突出しすぎず、全体を包む“守りの匂い”として働いている。

 そしてその時だった。

 広場の外れ、村の柵の向こうで、ひやりと空気が揺れた。

 ミーナがはっとして立ち上がる。

「来る!」

 闇の中に、黒い影があった。

 獣の輪郭に似ているが、はっきりしない。霧の塊のようでもあり、濃い煙が四足の形を取っているようでもある。その周囲だけ空気が冷え、広場の火さえ少し弱く見えた。

「下がれ」

 レティシアが剣を抜く。

「待って」

 醸は彼女を制した。

「まず、これを使う」

 彼はラオホビアの樽の栓を開き、柄杓でひとすくいすると、火床の近くに撒いた。

 じゅっ、と音を立てて火が酒を舐める。

 その瞬間、燻香を帯びた蒸気がふわりと広がった。

 ただの蒸気ではなかった。赤銅色の細い光が煙に混じり、まるで見えない結界のように広場の周囲へ流れていく。焚き火から立つ煙と、ラオホビアの香りがひとつに混ざり合い、村の入口に薄い幕を張るように揺らめいた。

 黒い影が、その煙に触れた途端――

 ぎ、と耳障りな音を立てて後ずさった。

「効いてる!」

 ミーナが叫ぶ。

「あの影、煙を嫌がってる!」

 影はなおもにじり寄ろうとしたが、燻香の漂う空気に触れるたび、輪郭を崩していく。バルグがたいまつを手に前へ出た。火に照らされた煙がさらに濃くなり、影は低く唸るような音を残して闇へと退いた。

 完全に消えたわけではない。だが、少なくとも村の内側へ踏み込めなくなっている。

 皆が息を呑む中、ミーナが震える声で言った。

「これ……魔除けだ」

「魔除け?」

 村長が振り返る。

「うん。たぶん、邪気とか、魔素の乱れで形を持ったものを遠ざける。結界ほど強くはないけど、“寄りつきにくくする”力がある」

「煙の酒が?」

 レティシアが半ば呆れたように言う。

「煙の酒が」

 醸は深く息を吐いた。

「なるほどな……」

 ラオホビアの効能は、予想以上に明確だった。

 飲めば、寒さに強くなり、恐怖や緊張で強張った心身をゆるめる。

 さらに、その香りと蒸気は、魔を嫌わせる“燻しの結界”として働く。

 保存食を守る煙が、村そのものを守る煙へと変わったのだ。

「すごいじゃない!」

 ミーナが醸の腕を掴んでぶんぶん振る。

「村を守る酒だよ、これ!」

「お、おう」

「しかも飲んでもおいしいし!」

「そこ大事だな」

「大事だよ!」

 レティシアは剣を収め、煙の消えた暗がりを見ながら呟いた。

「冬越えの琥珀が“耐える酒”なら、これは“防ぐ酒”ね」

「そんな感じだ」

「本当に次から次へと……」

「悪いか?」

「いいえ」

 彼女は少しだけ笑った。

「助かる」

 その一言が、妙に胸に残った。

      

 翌日から、ラオホビアは正式に村の防備の一部となった。

 すべてを飲んでしまうのではない。見張り番には少量ずつ配る。夜の警戒前に一杯飲めば、寒さによる萎縮や恐怖が和らぐ。そして、見張り小屋の焚き火にはラオホビアをわずかに注ぎ、燻香をまとった煙を漂わせる。

 すると不思議なことに、夜ごと村の周囲に現れていたあの黒い揺らぎは、明らかに近づきにくくなった。

 完全に消えるわけではない。山の中にはまだ得体の知れない気配が残っている。だが少なくとも、グランエッジは一歩守りを固めた。

「煙で守るなんてねえ」

 薬草師の老婆が感心したように杯を見つめる。

「昔から、燻しは悪い気を払うって言い伝えはあったけど、本当に酒でやるとは」

「俺もここまで綺麗に出るとは思ってなかった」

「神麦と煙の相性かねえ」

「かもしれません」

 村長は広場の見張り台から周囲を見渡し、満足そうに頷いた。

「これで冬の夜も少しは安心じゃ」

「安心しきるのは危険ですけどね」

 レティシアが釘を刺す。

「わかっとる。だが、守りの手が増えるのはよいことだ」

「それはそう」

 バルグは相変わらず多くを語らなかったが、燻製肉を齧りながらラオホビアを飲み、ぽつりと言った。

「山の味がする」

「褒めてる?」

 醸が訊く。

「たぶん」

「またその“たぶん”か」

「うまいならそれでいい」

 たしかに、それでよかった。

 村を守る力があることも重要だ。だが、結局のところ、ビールは飲まれるものだ。効果だけで押しつける薬ではなく、人が自分から手を伸ばしたくなるものでなくてはならない。

 ラオホビアは、その意味でも成功だった。

 焚き火のそばで飲みたくなる。

 燻製肉と合わせたくなる。

 寒い夜に香りを吸い込みたくなる。

 そう思わせる酒でありながら、同時に村の守りにもなる。

 それは醸にとって、かなり理想的な形だった。

 その夜、酒蔵の前で樽を見回っていた醸の隣に、レティシアが立った。

「ねえ」

「ん?」

「この先も、こうやって酒が増えていくのよね」

「たぶん」

「また“たぶん”」

「絶対と言い切ると、変なのが来るからな」

「もう十分変なのばかり来てる気がするけど」

「否定はしない」

 冷たい風が吹き、遠くで木々が揺れた。だが今夜は、どこか昨日より穏やかだった。村の見張り火から、ラオホビアを含んだ煙が細く立ち昇っているのが見える。

 それはまるで、村が静かに呼吸しているようだった。

「カモス」

 レティシアが珍しく真面目な声で言う。

「あなた、前は“いい酒を作りたい”って顔だった」

「今は違うか?」

「今は“この村に要る酒を作りたい”って顔」

「……そう見える?」

「ええ」

 醸は少しの間、答えなかった。

 前世では、ビールは商品だった。誇りでもあり、技術でもあり、人生でもあった。だが、多くの場合、それは市場へ出ていくものだった。飲む相手の顔は見えても、その人の季節までは見えないことが多かった。

 けれど今は違う。

 この村には冬が来る。

 寒さがあり、不安があり、守るべき暮らしがある。

 だから酒にも役目が生まれる。

「そうかもな」

 醸は静かに言った。

「ここでは、酒がちゃんと“誰かのため”になる」

「最初からそうだったんじゃない?」

「そうだけど……自分でも最近、ようやくわかってきた気がする」

 レティシアは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。

 その沈黙が、むしろ心地よかった。

 山の村の夜。

 見張り火。

 燻した香り。

 樽の中で眠る、守りの酒。

 煙は、目に見えない。

 けれど確かにそこにあり、食べ物を守り、火のそばの安堵を刻み、邪なるものを遠ざける。

 ラオホビアは、そんな煙の性質をそのまま写し取ったような酒だった。

 それは派手な奇跡ではない。

 ただ、じわりと周囲を包み、近づくものを拒み、内側にいる者へ安心を与える。

 まるでこの村そのもののように。

 醸は酒蔵の戸を閉める前に、最後にもう一度、見張り火の方を見た。

 赤い火の上に、細く立つ煙がある。

 その煙は夜空へ昇りながら、どこかで村を抱くように広がっていた。

 冬はまだこれからだ。

 山の闇の中には、名も知れぬ脅威がまだ潜んでいる。

 王都や麓の町から向けられる思惑も、きっと今後さらに複雑になるだろう。

 だが、グランエッジにはもう、ただ耐えるだけではない知恵がある。

 蓄える酒がある。

 守る酒がある。

 そして、その酒を造る手がある。

 大麦 醸は、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、ふっと笑った。

「煙も悪くないな」

 その呟きは白い息になって消えたが、酒蔵の中に残る燻香は、しばらく消えそうになかった。

 それはきっと、この村が冬を越える間、ずっと人々の記憶に寄り添う香りになる。

 火のそばの安心とともに。


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