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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第三幕】太陽の重さ

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八十八層:太陽の重さ.08


時は少し遡る。


グリヴェスの大型商船に乗っていた戦士たちは、血濡れのジャックを抱えたガットを、扉の向こうに見送ったあと──

誰も何も言わずとも、すぐに次の行動へ移った。



「みんな、()()に逃げてください!!」



審問を写すため、各島に送られた同層間通信機に向かって、グリプが叫んでいた。

幼くも切実な声は、“蒼殻(そうかく)”の空に響き渡る。


そんなグリプを抱え込んで、バンズが真っ先に病院への扉へ飛び込んだ。

凌との約束──亜月と翔も引き連れて。

それとほぼ同時に、数名の戦士がグリプの母や、その関係者を護衛に走る。

また別の数名が、グリヴェスまで追いかけてきた吸血鬼と応戦する。



大扉の島から目と鼻の先──それが仇となり、街はすでに狼人(ウェアウルフ)らの蹂躙も始まっていた。



「敵はちげえ。だが、やることは一緒だ!」


ゾムリスが怒鳴りながら、ジャックを運ぶために一度降りた滑空船へと駆け戻った。

港もすでに狼人(ウェアウルフ)らによる占拠が進んでいる。

さっき乗ってきた大型商船を奪われたら、終わる。


ゾムリスは背中の剣を引き抜いた。



それは、長い年月をかけて──

ジャック派戦士ら全員が頭と体に叩き込んできた、“生存戦争の段取り”だった。



もともとは、クリスを筆頭とした天使社会すべてが、ジャックの敵となった時を見据えてのことだった。

それが、得体の知れない種族にすり替わっただけだ。


……それも、ジャックが殺されかけているという、最悪なケースで。



咥えていたはずの煙草も、いつの間にかどこかに落としてきていた。

それすら気にならないほど、世界は昨日までとまるで変わってしまっていた。


空には黒い羽を持つ軍勢が飛び交い、

島には体が大きく、まるで獣そのもののような男たちが、牙を剥いている。


彼らが何の種族なのかさえ、分からないまま──


ウフ適性を活かし、影から這い出てくる悪魔たちとは違う。

統率も、規律も、なにもない。

明らかに、既知の存在を越えている。



……このご時世、まだ羽がある種族がいたのかよ。



ゾムリスは忌々しそうに、剣先をひらりと交わす羽音に顔をしかめた。


だが、ジャックというそれ以上に理解ができない男を見てきたからこそ、戦士たちには迷いがなかった。

あいつは翼がなくても、浮島の空を浮かび上がっていく。

……その方が、よっぽど意味わかんねえよ。


グリヴェスの商船に乗り込むと、すぐさま舵を切る。

羽音と咆哮が、風の音にかき消されない。

重力が走り、ふわりと船が浮く。


自在に飛べる吸血鬼たちにとっては、空に逃げ道など存在しない。

当然のように、ゾムリスらが飛び乗った滑空船を追いかけてくる。



──だが。



夜の空に、黒い(もや)じわりと浸食していく。



それは風ではなかった。

煙でもない。


船の縁に立つ影がひとつ。


灰銀の髪が夜に溶け、緋色と翡翠色の羽織が強風に煽られる。

その手には、穂先のない槍。


振るたびに、(もや)が零れていく。



いや──零れているのは、()()だった。



見た者の視界を歪め、

耳に届く音を狂わせ、

心の奥に沈めていた“何か”を掻き起こす。



……甘ったるい匂いだ。


凌だけが、その悪夢の匂いに眩暈を起こしそうになっていた。

拒食の体に、この大量の悪夢の香りは、狂気に近い。

だが、腹は鳴る。


……まるで、食べ物の中に飛び込んだような不快感。


吸血鬼が靄に触れると、急に呻きだして飛行を乱した。

何人かが錯乱して甲板に落ちてくる。

それをすぐさま、戦士たちが拘束した。



悪夢だけが、垂れこめる暗雲のように、静かに夜空へ広がっていく。



「そ、それなんなんすか……?!」


思わずアウディが身を引いて叫んだ。

その隣で、ラスターも拘束した吸血鬼を足元に転がす。


目に見えたのは──あの薄い靄に一瞬触れただけ。

それだけで、急に苦しみだした。

拘束されてもなお、()()()()()()()()()()()()怯える様子を一瞥する。


凌は船の縁に体重を預けたまま、アウディを振り返った。


「……悪夢」


それだけ言って、凌はまた視線を夜へ戻した。


「あ、悪夢……?」

「そう」

「……」


説明する気がない答えだった。

今はそれどころじゃないというのと、話すと長くなるからだ。

そして、自分の固有能力(ノータ)について話すということは、それだけ……

自分の傷まで、説明しなければならない。


面倒だった。単純に。


穂先のない槍を包帯の手で握り直す。

そのやりとりを見ていたゾムリスが、吸血鬼の猛追が止んだことでようやく剣の切っ先を下ろす。



「……それが、“獏”の固有能力(ノータ)ってやつなのか?」



ちらりと凌の紅い目がゾムリスを見た。

そしてすぐ、手元の銀の槍へ視線は落とされる。

(おぞ)ましい姿に成り果てた、神獣キング・ハーウェンの“(いた)(やり)”。


あまりの量の悪夢が結晶化してこびりついているせいで、()()()()()()()()、瞼越しに、悪夢の蠢きを制御できてしまう。


……右を開ければ、もっとはっきり見えるはずだ。

けど、見てもきっと──ろくなことにはならない。


いったいどれだけの悪夢が織り交ざっているのか。

“目”を持たない天使や吸血鬼たちには、それがただの煙のような靄に見えていた。

しかし、凌の紅と金の目には──


無数の目や、手招く腕。

誰かの悲鳴。孤独。嘲笑。緊張。悲しみ。


あらゆる恐怖が集まって、()()()()()となって、こちらを覗き返していた。



長く息を吐きだした。

相変わらず、凌の息だけが白くならない。

それを見て、ラスターがわずかに目を細める。


「そうだよ。でも、悪夢を操ることじゃない。食うのが仕事だ」

「……悪夢を、食うんすか……?」


「夢って、寝てるときに見るもんでしょ?」と、アウディがそばにいる戦士のひとりに耳打ちして、黙ってろと言わんばかりに肩を押し返される。

またひとり、頭を抱えて呻きながら吸血鬼が落ちてきた。


凌はそれらを見て、わずかに眉をしかめた。


触れたら危険だと分かっていても、突っ込んでくる。


それが理解できなかった。

まるで、そこに自分の恐怖心が存在してないみたいだ。

恐れよりも、“命令”が上書きされている。


……一番厄介だな。


同じことをラスターやゾムリスたちも思っていた。

思ってなお、どうすることもできない。

落下して捉えた敵兵に情報を吐かせることも、錯乱状態ではままならない。


だが、戦士たちに限らず、天使らは少しずつ、浮島群を襲う者たちの正体に気づき始めていた。

いまだに羽を持ち、体が大きく、他の種族との区別がつきやすい。

そういった、“種の存続”に最も重きを置いていた者たちが、誰だったのか。



「──魔族だ」



不意に、凌がぽつりと呟いた。

アウディやラスターがその声に、顔をあげる。

凌は羽織の隙間から飛ばされそうになっている小さな蜘蛛を、風から守るように手を添えた。


……店長の声がか細い。

もともと、異層(いそう)では上手く話せないって言ってたけど。

浮島の寒さに耐えきれなくなっている。

“侵攻”が始まってからは、なおさら、声も堅い。


たぶん、鬼灯通りを守るために動いてるせいもあるはずだ。



ゾムリスが一歩、凌へ歩み寄った。


「……それは、妖怪の情報屋からか」


凌が懐の中へ、蜘蛛を滑り込ませる。

ゾムリスの質問には答えなかった。


「……ノクタリスの大扉が開いてるらしい。ゼノラ層にも、大勢の魔族が溢れかえってる」

「それって──」


大扉の街ノードの外壁より外側にあるとは言え、ジャックが治療を受けるグレイロック診療所も、目と鼻の先だ。

逃げ込んだ先がバレたら……


アウディが青ざめた顔をゾムリスに向けた。

戦士らがざわめく中、彼の煙草の煙が横に流れていく。


「慌てんな。ずっと、備えてきただろ」


短くなった煙草を捻りつぶし、もう一本咥えなおしたゾムリスが、低く答える。

ラスターもそれに続くように肩をすくめた。


「そうだよ。それに、大扉の街なら悪魔たちが管理しているだろう?裁判所だって、厄介な奴らばかりだよ」

「……魔族と手を組んで天使を襲いに来てるとかは…」

「それは……どうだろうね」


一瞬の沈黙が落ちた。

完全な否定はできない。

遠ざかる羽音と、帆が風を受ける音だけが空間を満たす。



「可能性はゼロじゃねえ。でもそれならきっと、ジャックはソルファリウムで死んでただろ」



魔族の攻撃性と、悪魔の計画性があれば──

病院どころか、きっと、グリヴェスまで逃げる猶予さえなかったはずだ。

全員が、一度自分の足元にある影へと視線を落とす。


今更暗闇を恐れることはないと思っていたが、

実際にその可能性があると感じると、どうしても体が強張る。



ゾムリスはその沈黙を破るように、大型商船が引く小舟のロープをほどき始めた。


「考えても仕方ねえ。まずは動け。決めてた通り、ヴェルトルクの扉が繋がったら、アウディは数人つれてジャックの護衛に行け」

「……うす」

「ラスター。ヴェルトルクの指揮任せるぞ。俺が戻るまで」


既に小舟に数名の戦士と共に乗り込んだゾムリス。

その背中を見ながら、ラスターは頷く。


「逃げ遅れてる奴らは全員、上空の島に逃がす。エザンバウトなら、兵士が山ほどいるし土地も広い」

「……低空の島は」

「ヴェルトルクに近い島々は、そっちに向かわせる。受け入れてやれ。病院と繋いだ扉だけは死守しろよ」

「分かってるよ」


剣と共に、自分の鍵を解き放つ。

左手に現れたマスケット銃を握り直しながら、ゾムリスは浮かぶ島々を見渡した。


ランタンの光だけじゃない。

燃えてる島も、すでにいくつかの島で燃え広がっている。


辺境のヴェルトルクはまだ──猶予があると、信じたい。



「……なあ、獏の兄さん」


小舟が浮かぶ。

進路を定めながら、ゾムリスは最後に凌を振り返った。

穂先のない槍を肩にかけて、音も立てずに立っている姿は、戦場に立っていることを忘れるほど静かだった。


「残ったってことは、手伝ってくれると受け取っていいんだよな」


何かを測るように見つめてくるゾムリスの橙の瞳を、凌は静かに見つめ返した。


「俺は……やれることを、やろうと思っただけだ」


否定とも肯定とも取れない返事だった。

だが、誰より慈悲深い言葉だと、ゾムリスには聞こえていた。



“誰を”救うじゃなくて──やれることをやる、ね。



謙遜じゃない。

でも、そこに込められている“やれること”というのは、天使種の救済だけに留まらないように思えた。



「……じゃあ、あんたのその悪夢ってやつで、ヴェルトルクを守るの手伝ってくれ」

「……」

「頼んだぜ」


それだけ告げて、返事も待たずに小舟は空へ漕ぎ出した。

商船の周りを回遊するように飛んでいた吸血鬼らがそちらへ照準を変え、銃声が鳴り響く。

ゾムリスの持つ銃口から、赤い炎の軌跡を残しながら弾丸が一発。

羽を撃ち抜かれたひとりが、冷えきった空を落下していく。


凌はしばらく紅い目で小舟を見送っていた。

そしてゆっくり、瞼を閉じる。


……俺に出来ることがあるのか。

正直、約束なんて出来はしない。


自分の鍵は誓約破りで使えない。

影のウフも封じられている。


やれることと言えば、この槍にこびりつく悪夢の結晶を使って、敵を混乱させることくらいだ。

でも、自分の影から悪夢を吐くより、ずっと扱いやすい。

……そしてずっと、喉が渇く。


一度喉仏を上下させてから、手のひらの中の銀槍を見下ろした。

冷たく、月光のように輝くそれ。

そこに刻まれたキング・ハーウェンの言葉──



“死者を忘れるな。しかし、死に囚われるな”



その一言を、目に焼き付けながら。

もう一度、空に視線を向ける。

すっかりソルは眠りにつき、星明りだけが広がっている。


たぶん、少し前までの自分だったら、亜月や翔たちと一緒に病院に向かっていた。

運命なんてものがあるとは思ってないけど、

生き物が死ぬ瞬間は、ある程度決められているんじゃないかと、思うときがあったから。


……そうでなきゃ、困る。

そうでなきゃ、自分が今も生きている理屈が、納得できないから。


でも。


ジャックの審問を見て。

“死”に抗ってもいいのかもしれないと、思った。

そういう選択も、あるんだと。


泥臭くても。

傷ついても。

“誰かのため”じゃなくてもいい。



──自分の“(ほこり)”のために。



「……重たい男だな。ほんとに」


周りを巻き込む引力が、尋常じゃない。

まさか自分が、死なない程度に生きるという枠組みを踏み越えようだなんて、すると思わなかった。



それほど、ジャックという男は──強烈な“重さ”だった。



……天使だけど、“魂の裁定”にかけたら、あいつの魂はどれだけ重いのか。

なにが、あの男をそこまで重くさせているのか。

それを知りたいような、でも知れば戻れなくなる気がした。

不思議な感情を抱えたまま、凌は包帯の手で胸の中心を摩った。


考えているうちに、滑空船はやがてヴェルトルクの島影を捉えた。

燃えてはいない。相変わらずランタンも灯らない。


白幕に写った血濡れのジャックの姿を見たまま、

島全体が凍り付いていることが遠くからでも分かるそこへ──



船が港に滑り込むのと同時に、悪夢の暗雲は島全体を覆い隠していく。

底なしに吐き出されていく“恐怖の魚影”。


もう慈悲の目は、届かない。



あの男の“重さ”だけを残して、夜は続いていく。



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