八十九層:土の匂いがするだけだ.01
熱が、島を歪めていた。
“愛と文化の島”アネモルム。
本来なら凍りつくはずの高空に、不自然なぬくもりが満ちている。
焦げた匂いと、
血の匂いと、
湿った土の匂いが混ざり合っていた。
最も低空に浮かぶ島ゆえに、天使の戦士が根付かない島。
そこをビカたち火魔法族が占拠するのに、時間はそう必要としなかった。
最初こそ、同じソルを信仰する“火の民”と認識していた彼女だった。
しかし、戦わない天使たちが人口のほとんどを占めていると気付いてからは、一気に腹の熱が冷えてしまっていた。
「つまらん。戦士共はこの島にはほとんどいない。皆上空の島を拠点にしているらしい」
捕虜にした者たちから吐かせた情報をもとに、ビカは苛立ちを隠しもせず、貧乏ゆすりをする。
アネモルムの中でも特にサハが好みそうな建物を選び、各所に衛兵を配置した。
体温を保つために、その手には全員炎を灯している。
高空故か、暖炉は必ず部屋にある。
だが、いくら薪に灯しても、炎が安定しなかった。
酸素が少ないせいで、浮島では炎のウフ以外では火が長続きしないことを、彼女は知らない。
「大扉の島近郊の三島、制圧完了。抵抗、軽微」
「アネモルムは完全制圧。火魔法族、配置完了しております」
「目標“ジャック・J・ジッパー”、生死不明」
吸血鬼たちの冷えた声が、空を渡る。
言葉は風に乗り、次の個体へ、また次へと繋がれていく。
それはまるで、血で編まれた神経網だった。
その情報の中心。
アネモルムにある豪勢な建物の、一室。
もともと高貴な存在の滞在のために建てられたかのような、美しい純白の部屋の真ん中。
柔らかな長椅子に腰掛けながら、代わる代わるやってくる部下の報告を受けていた。
──グラン・グランツ。
彼は珍しく、その眉間に皺を寄せていた。
ガーネット色の瞳が鋭く細められ、部屋の壁一点を……いや、その向こうのどこかを睨んでいた。
サハは温い部屋の中で、与えられた果物を満足そうに齧っていた。
地上の生き物のために整えられているのか、この建物は呼吸が楽だった。
林檎だけではない、色とりどりの果実たち。
毒のない明るい世界。
苦くない食べ物。
最高じゃない。
と、不機嫌そうなグランに、声をかけもしない。
「なあおい、ジャックって奴を逃がしたってほんとか?」
フルーツを噛む音と、貧乏ゆすり。
そして、沈黙。
奇妙な温度が支配する部屋の扉が、乱暴に開け放たれた。
無遠慮に足の土を払いながら入ってきたのは、ジルジオだ。
グランの“失態”が面白くて堪らない、という顔を隠しもしない。
「黙れ」
グランはそれに低く、吐き捨てる。
確実に殺したはずだった。
あの一撃で、終わるはずだった。
だが。
グランの指先が、わずかに震えた。
怒りではない。
苛立ちでもない。
これは、“想定外”への純粋な不快感だ。
自らの血で象った槍がジャックの胸を貫いたとき、“血を操れる”からこそ、気が付いたことがある。
……あの男は、ただの天使ではない。
あの後、何人もの戦士の首をはねて確かめた。
あの男からだけは、古い血の匂いがする。
……我々魔族と、同じような。
だが、一緒ではない。
……嫌な匂いだ。
「……ジルジオ」
ジルジオは血の匂いを纏ったまま、片眉をあげた。
グランが彼の名前を呼ぶなんて、珍しいなんて話ではなかった。
慣れないことすぎて、ぞわりと背中の毛が逆立つ。
「あ?」
「標的を追え。──確実に殺せ」
短い命令だった。
だがその中に、揺るぎない前提があった。
──あれは確かに、生かしておいていい存在ではない。
フジとの契約履行など、もはやどうでもよかった。
“外”に出てさえしまえば、土地などいくらでも奪えばいいだけのこと。
あの男の生死など、吸血鬼の未来には全く関係のないものだと思っていたが……
あれは、放置できない。
……フジもそれを分かった上で、条件に加えたのだろう。
どうせ見逃せない存在だと。
ジルジオは舌を鳴らし、牙を覗かせる。
「け。俺に尻ぬぐいしろってのかよ」
グランは答えなかった。
そしてすっと眼差しをビカに向ける。
それを受けた彼女が、窓の外に向けていた燃える眼をグランへ流した。
「私もゼノラ層へ向かうぞ。貴様が居るのなら、我々が護衛としてここに残る必要はない」
「え?ちょっと、そしたら部屋が寒くなるじゃない!」
顔を上げたサハがビカを睨んだ。
ビカは思わず怒鳴り返しそうになった言葉を、喉元で飲み込む。
我々の炎を、ただの暖房として使えるものか。
指を組んだグランは、部屋の大きな暖炉を一瞥した。
組まれた薪。
その中心には、ノクタリス層で火付石と呼ばれていた燃える宝石──炎のウフを見つけた。
ウフによる火は、この高空でもよく燃える。
……外層は“ウフ文化”が根付いている。
あの次男坊の報告書にも、フジの話にもあったもの。
我々が、そのほとんどを扱いきれずにただの装飾品として扱ってきたもの。
思えば、このアネモルムの島にも、他の島にも、当然のように水が流れていた。
本来、雲の高さとなれば、あっという間に凍るはずだ。
グランは暖炉のそばの壁にかけられた火掻き棒をつかむと、徐に炎のウフを小突いた。
ぱちりと火が爆ぜる。
ここで生き抜くのに必要なのは、火魔法族の協力ではない。
──この石の、扱い方だ。
「……問題ありません、サハ様。凍えることはありませんので、ご安心を」
「そうなの……?」
「はい」
温度のない声で答えながら、火掻き棒を壁に戻す。
それを聞いたビカが腕組みをほどき、立ち上がった。
「では、私は軍を率いて地上に降りる。ゼノラ層にはドルントマンとカダブルがいるだろう。私はこのまま──悪魔領へ向かう」
「おいおい、天使と戦うのはもう止めか?」
扉を出ていこうとする彼女の背中を、ジルジオが嘲笑った。
だが、苛烈な眼差しがすぐさまジルジオを睨み返す。
「ふん。さっさと手の届かない上空へ逃げた腰抜けを追いかけるほど、私は暇じゃない」
「へっ、上がれねえだけだろ」
「それは貴様も同じはずだ、獣」
互いに牽制し合いながら、ジルジオの横をビカは靴音を鳴らして出て行った。
真っ白の部屋に、真っ赤な彼女はよく映えた。
ジルジオはつまらなそうに鼻を鳴らす。
グランは、ふたりのやり取りをくだらないと内心で一蹴して、淡々と告げる。
「……標的が逃げ込んだ先は、ゼノラ層にある“グレイロック診療所”と呼ばれる場所だ」
「なんだ、病院かよ」
「貴様らなら匂いで追えるだろう。ヌーヴと共に、奴の息の根を止めろ」
長椅子に座り直すように、大きな四枚羽を一度伸ばし、それからゆっくり畳む。
吸血鬼の血槍でも殺し損ねた。
ならば、水や火といったものよりも、もっと根源的な“力”と、
抗いようのない“病”の方が効くはずだ。
目線だけでジルジオの退室を促した。
めんどくさそうに文句を垂れながら、のしのしと重い体で出ていく背中を見送りもせずに、
誰の殺害計画も、侵略戦争の進行も、どこ吹く風で聞いている──
あるいは、耳にすら入っていない様子のサハを、横目で見た。
「……サハ様。お体に障りはありませんか」
問いかける声は低く、いつもの落ち着き払ったものだった。
サハは食べ残しの果物を指先でいじりながら答える。
「別に。でも食べたら眠くなったわ。ここ、ベッドはないの?」
「……ご用意いたします」
「早くして」
相変わらずの傲慢さ。
相変わらずの世間知らず。
だが、それでいい。
サハの動きがわずかに緩慢に見えたのは、眠気のせいなのか、あるいは──
グランは口端にかすかな笑みを浮かべつつ、部下に無言で合図を出した。
*
同時刻。
ゼノラ層、ノードの街。
ノクタリスの大扉は、静かに開いたままだった。
だが、そこを通る影は、もうほとんどいない。
主力はすでに抜けたあとで、残ったのは、統率の外れた“余りもの”。
狼人らを筆頭に、欲に負けた魔族たちが街を蹂躙していた。
叫び声。
破壊音。
そして、無秩序な殺意。
だが、それらを一瞥しただけで、ひとりの男は視線を外した。
ヴィクトル・ドルントマン。
アクアマリンの瞳は、意図的に、その蹂躙から目を背けるように遠くを見た。
四枚の巨大すぎる星層の大扉たち。
夕焼けも終わりに近づいた空の下で、ソル・ベリリウムの陽光模様は日陰になり、
プツカ・ポッカの波はどこか揺らめいて見える。
クロイツェルとキング・ハーウェンの、牡鹿と狼の瞳が、まっすぐ町のすべてを見下ろしているように見えた。
「……無駄だな」
吐き捨てるように言う。
彼の視線はすでに、どこかから部下が調達してきたゼノラ層の地図に落ちていた。
……水が足りない。
内陸にある街のせいか、海岸沿いにあったスィリン=ドゥマよりも乾燥している。
噴水は数あるが、それらの水を集めても“泉核”には程遠い量だ。
……これほどの量で、この都市の生き物全部の水を賄っているのか。
……不思議だった。
おそらく、噴水中央に埋め込まれた水色の宝石──水のウフがあるからこそなのだろう。
グリグジャングが言っていたことを思い出す。
ウフという“ドラゴンの血の化石”。
エネルギー資源。
あの宝石から水が延々と溢れ出る様子は、自らの手のひらに現れる水球に似たものを感じた。
“固有能力”は、ドラゴンの系譜に関係していないと、グリッグは言っていたが。
……自分たち魔族が、水魔法族が、あの狭い街で守り続けてきた“水を生む力”が、
扉一枚跨ぐだけで、こんなにも当たり前のように生活に組み込まれていたなんて。
考えるほどに……馬鹿馬鹿しい。
いずれにせよ、乾燥しているこの地で、水を生み出し続けるのは得策ではない。
外層の蹂躙には興味がなかった。
ヴィクトルの目的はただ一つ。
サフィールと、腹の子を守るための場所。
そのためにも──水源を押さえる。
「“湖上都市”、リウェルタへ向かう」
短い指示。
それだけで、彼の周囲の青と銀の装甲を纏った魔族たちは動き出す。
表向きの目的も、明確だった。
──資源確保。
戦争は、感情ではなく、供給で決まる。
ノード外縁の墓地。
ヌーヴ・カダヴルは、すでにそこにいた。
街を囲う高い壁の影になっているせいか、風がここには吹いていない。
音もない。
ただ、地面の下にある“もの”だけが、そこにあった。
数名の死霊使いを背後に控えさせたまま、老婆は円環を象った墓石を見ていた。
ヌーヴはゆっくりと、手を伸ばす。
“巨大な砂島”のような、乾いた地面ではない。
湿った、重たい土の奥底に“空っぽ”な器を複数感じ取る。
ノクタリスから連れてきた死軍をはるかに凌駕する数だ。
だが、地底深く、冷え切らせて保存してきた者たちとは違って、土の匂いと腐敗が進んでいる。
……動かせる数は、そう多くはないか。
それでも、十分すぎるほどだね。
老いた指先が土に触れた。
その瞬間──
わずかに、地面が蠢いた。
まだ誰も、気づいていない。
この戦場に、もう一つの“軍”が生まれようとしていることを。
戦争は、もう始まっている。
そしてそれは、ただの侵略では終わらない。
──世界の形を、変えるために。




