八十六層:太陽の重さ.06
「なあ……あんたに、話がある」
言葉を選ぶ、一瞬の間があった。
けれど結局、選びきれないまま、素の言葉が零れた。
……やっぱり、駆け引きは俺には向いてねえ。
グリグジャングは青髪をガシガシ搔きながら、ガットの反応を待った。
ガットは、ゆっくり顔を上げた。
コバルトブルーの視線だけが、グリグジャングを振り返る。
……天使語。だが、エアフィルターはねえ。
呼吸を無理してる様子もない。
思考の傍ら、その体の影で、ライフルへと伸びる指を悟らせないように。
「……誰だテメー」
グリグジャングの胸が緊張で軋むようだった。
これまで、ノクタリス層の中だけで完結していたことが、そうもいかなくなった。
その実感が、ガットに声をかけたことで、ようやく現実のものになった気がした。
目の前の男は明らかに──俺より重たいものを背負っている。
言葉が詰まった。
何から話せばいい。
どこまで遡れば。
自分が魔族であること。
今、蹂躙してるのも、同じ種族だということ。
そして──この男の大事な奴の情報を、上に伝えたのは、自分だということを……
拳を握った。
強く巻き込んだ爪が食い込む。
何かを言いかけた、その時。
また、新たな足音が階段を登ってきた。
ユヴェだった。
開けっ放しの屋上の扉から、ゴーグルを抑えながら飛び出してくる。
「ガット!病院敷地内の墓地管理棟の扉をヴェルトルクと繋いだよ!このあとセレスカとグラルメラに──」
言いかけた言葉が、グリグジャングを見て止まる。
この時、ユヴェはグリグジャングの種族を知らないままだった。
だが、タイミングが良すぎた。
戦場避難民が来る前に滑り込んだ、魚人たち。
自分も知らなかった種族と、言葉。
見慣れない服装。
悪魔語や妖精語の、古い訛り。
そして、今、院内に溢れる患者や避難民たちが口々に囁く──
ノクタリスの大扉から魔族が出てきたという、噂。
言われずとも、グリグジャングの正体が分かりつつあった。
だから余計に、扉の接続を明かしていいのか戸惑う。
……危険な感じは、あまりしないけど……
指示を仰ぐように、ユヴェがゴーグルの奥でガットを見た。
ガットはそんな彼女の戸惑いを知った上で、無視してそのまま短く答える。
「セレスカもグラルメラも、繋ぐのはどこでもいい。どうせこの層も魔族どもの侵攻対象だ。ただし、なるべく辺境に行けるようにしておけ」
淡々と指示しながらも、ガットの眼差しはグリグジャングに向けられていた。
魔族。その言葉を聞いた瞬間の反応を測るように。
案の定、グリグジャングの眉がピクリと反応した。
心拍数が上昇している。
ガットは耳で、ネクは生体反応で、そしてユヴェは彼が纏う空気の重さで。
それぞれがそのことに気がついていた。
「……非常用扉も、院外がいいよね…でも、敷地内で外にある扉ってあんまりなくて……」
張り詰めた緊張を邪魔しないように、ユヴェが控えめに問いかける。
それを聞いたガットは眉根を寄せた。
病院の敷地を囲う鉄柵。
そして病棟自体。
二重の壁を利用するつもりだった。
だがもし、セレスカかグラルメラが陥落して、病院の中から魔族が溢れたら。
……一発で落ちる。
「……扉の接続の時間は、計算さえ終わってりゃそうかからねえよな」
裁判所裏にある“イェオロフの鱗跡”──あそこで、ユヴェが扉を接続するときに掛かった秒数を、ガットは思い出していた。
……だったら、非常用扉は最終手段でいい。
「う、うん。まあ……」
「なら今はいい」
話は終わりだとばかりに、ガットは再び視線を鍵束へ落とす。
それを見て、グリグジャングが一歩踏み出した。
「待ってくれ。……俺にも、協力させてくれ」
言い淀みながらも、眼差しはまっすぐだった。
ガットはそんなグリグジャングを目を細めて測る。
聞き慣れねえ心拍だが、乱れはねえ。
目線、発汗、指の震え。
……嘘じゃねえのは、確かだ。
「……なら、まずは情報を開示しろ」
短く言葉が刺さる。
グリグジャングの喉仏が上下した。
「脈拍、聞いたことねえ速さだ」
真っ先に指摘された、心臓の速さ。
どうしてそれが分かるのか、医療目的以外で、心拍を図る理由がノクタリスには存在しなかった。
心臓が刻む時間が種によって異なることを、彼は知らない。
「“開かずの扉”が開いたってのは、本当か」
「……」
「テメーからは、あいつらと同じ毒の匂いがする」
ガットの言葉に、グリグジャングはわずかに肩を震わせた。
距離はある。だが、風もある。
他の銘族のように香も焚かない自分からは、よりノクタリスの毒の匂いがするだろう。
……だとしても、鼻が良すぎる。
「……そうだ」
グリグジャングは噛み締めるように答えた。
「──俺は、魔族だ」
「……」
「ノクタリスの大扉から、出てきた」
指先が、無意識にポケットの中の航海日誌に伸びる。
ユヴェが小さく息を吞んだ。
ガットは分かり切っていた答え合わせに、短く笑う。
「──は。いまこの状況じゃなきゃ、殺してた」
ネクが何かを察知したように、ガットからわずかに距離をとった。
体の影でライフルを握る指に力が籠る。
「金属、そこの魔族を解析かけて、生体反応の精度を上げろ」
「了解しました」
「1200メートル圏内に踏み入った瞬間に撃つ」
澄んだ人工音声が、緊張をさらに引き締める。
ガットはひとことも余計な言葉を残さず、選り分けた銀鍵を数本手に取った。
残りは鍵束のまま、狙撃地点の柵にひっかける。
スコープを覗きながら、ガットは淡々と続けた。
「……協力したい理由を言え」
有無を言わさぬ声だった。
その短い言葉の中に、“同族を売る覚悟”を問いながらも、“それを許す奴”というレッテルが、貼り付いている。
グリグジャングは一度、アクアマリンの目を伏せた。
心臓が強く打つ。
けれどこの鼓動は、恐怖じゃない。
罪悪感と──戦う覚悟の音だ。
奥歯を噛みしめ、顔を上げる。
曇り始めた空と、眠りに着こうとしているソルの西日。
それに照らされたガットの背は、どこか獣じみている。
「……誰も、これ以上──悲しませたくねえ」
グリグジャングは深く息を吐き、振り返らないガットの背を、真っ直ぐに見据える。
「俺が外に出てきたのは……殺し合いをしたくてじゃない。仲間が毒に侵されてて、ここのドクターなら治せるって思ったからだ」
「……」
「誰かを救いたくて動いたはずなのに……」
結果的に、それ以上の多くを巻き込んで、不幸にしちまってる。
口に出すほどに、偽善にしか聞こえなかった。
自分でさえもそう思う。
……目の前の男が──友人を殺されかけた奴が、そんな俺を信用するとは、思えなかった。
それでも、目だけは逃げられなかった。
ガットの眼差しがグリグジャングへ向く。
ブルゾンはジャックの血止めに使ってしまった。
いつものフードがないせいで、鋭いコバルトブルーが、はっきり見える。
ユヴェは息を吞んでふたりの会話を聞いていた。
一歩前にいるグリグジャングの拳がかすかに揺れているのを見て、思わず口を開いた。
「本当だよ、ガット」
彼女の声にも、ガットの視線は揺れない。
グリグジャングのアクアマリンをまっすぐ捉えたまま、嘘の兆候を読んでいる。
「彼の友達とも、私少し話したの。……誰も、きっとこんなこと、望んでなかったよ」
「……前にも言ったはずだ。テメーは甘すぎる」
ガットは呆れたように吐き捨てて、視線をスコープへ戻した。
……揃いも揃って、真面目でいい子ばかりかよ。
さっきのシマとかいう戦士の女然り、戦える奴がみんな純粋すぎる。
小さく舌打ちを零した。
「……嘘をついてねえのは分かった。あとは行動で示せ」
「……ああ」
かすかにグリグジャングの肩が下りた。
その仕草すら、分かりやすくてうんざりだった。
ガットが首を鳴らす。
スナイパーライフルを肩にかけ、じろりとグリグジャングを見下ろした。
「……武器とウフは」
グリグジャングは一瞬の逡巡のあと、片手を持ち上げた。
そしてその手のひらに、小さな水球を浮かべて見せた。
後ろからそれを見ていたユヴェは、ゴーグルの下で目を見開いた。
ウフも使わずに、水を生み出した。
物理法則を完全に無視したその力に、革手袋の手が震える。
ネクがわずかに軌道を乱し、ガットにしか聞こえない程度の処理音を鳴らす。
何も言わずとも記録していく金属球に、ガットは軽い一瞥をくれるだけだった。
「俺は魔族だ。ウフは使わない。でも、水魔法は使える」
ライフルの銃口が、わずかにグリグジャングの眉間をかすめるように向けられる。
ガットの眼光は鋭い。
……ウフなしの能力──固有能力か。
「……他の魔族の固有能力は」
説明しなくても、多くを察するガットに内心で舌を巻きながら、グリグジャングは答えた。
「俺が知ってる限りじゃ、こっちに出てきたのは俺たち水魔法族と、同じ系統の火魔法族。それと、狼人、吸血鬼、死霊使いだ」
「火魔法族は、水じゃなくて火を扱うってわけか。……他は」
「ノクタリスじゃ、固有能力をあまり開示しない。全部を知ってるわけじゃねえが……」
狼人は月夜の晩に、ハーウェンの眼差しに見初められて本当の姿を知る。
吸血鬼はいまだ翼をもつ唯一の種族で、自らの血液を操る。
そして、死霊使いはもっとも謎に包まれているが──
「魂を掴むとも、死体を操るとも言われてる。……もっと多くのことが出来るかもしれねえけど、できねえかもしれねえ」
「……曖昧だな」
「そういう教育方針だった」
退化を何より忌み嫌う魔族にとって、固有能力の損失は存在理由の損失だ。
失えば、苗字を剥がされ、やがて存在すら“いない者”とされる。
……そんな種族が、固有能力の残り具合をおおっぴろげにするわけがない。
開示される情報を聞きながら、ガットは病院の地理と共に、戦場を頭の中で描いていた。
相手は初手でジャックを殺しにくる冷徹さと、合理性を持っている。
羽を持つ種族──吸血鬼。
おそらくそいつらが、ジャックを襲ったあの赤黒い集団だろう。
……浮島は空気が薄い。
エアフィルターもなしに、他種族の息は続かない。
続いたとして、寒さに凍えてせいぜい留まれて最低空の島、アネモルムぐらいだ。
──羽を持たねえ奴らが降りてくる。
だとしたら。
ガットは屋上から病院の敷地内を見下ろした。
「……最悪だな」
周囲は鬱蒼とした“自然地帯”の森の中。
魔族が身を隠すには容易すぎる。
火を放てば籠城も不利。
まして、敷地内には夥しい土葬死体。
「──ガット。戦場を変える提案をします」
同じ答えに辿り着いていたネクが、わずかに控えめな声で言った。
だが、間髪入れずにガットは首を振る。
「だめだ」
ジャックを生かすには、ドクターがいる。
この病院を拠点にすることは、すでに決定事項だった。
少しの沈黙のあと。
「……魔族。テメーも下にいけ。前方は天使の女が、ハンマーと地のウフで配置に着いた。テメーは裏だ」
グリグジャングはゆっくり頷く。
浮いた水球が西日を浴びて静かに光った。
「……わかった」
「言っておくが、信用はしねえ」
銃口がすっと外れ、ガットは冷たい声を残す。
「妙な動きをしたらここから殺す」
「……」
「──生き残るために使ってやる。死にたくなけりゃ、やることをやれ」
グリグジャングの胸が熱くなる。
この男は、誰も信じていない。
だが、それでも戦っている。
──たったひとつの命を守るために。
グリグジャングはユヴェを振り返った。
屋上の端にある貯水タンクを指さす。
「あの水、借りてもいいか?」
「え……?」
貯水タンクの用途は知らなかった。
そんな文化はノクタリスにはない。
だが、そこに水がある気配だけは、確かに感じていた。
「あれはたぶん非常用で……水が欲しいの?」
「ああ。生み出すより、あるものを使ったほうがずっと消耗が少ねえんだ」
その一言を、ガットは聞き逃さなかった。
体の向きはすでに戦場へ向いていたが、耳だけは小さな情報も拾っていく。
「なら、ドクターか誰かに聞いてみる」
「助かる」
それだけ告げて、グリグジャングは足早に階段を駆け下りた。
背中に、ガットの冷たい気配を感じながら。
裏手へ回り込む途中、階段を駆け下りたところで、重い扉の軋む音に足を止めた。
……なんだ。
病院の敷地内──ユヴェがさっき繋いだばかりの墓地管理室の扉が、鈍い音を立てて押し開かれる。
そこに飛び込んできたのは、ボロボロの天使たち。
特に重い負傷をした者を、戦士数名が支えている。
ひとりの男が扉を抑えながら、怒号を飛ばす。
「早く行け!!ガットがいるはずだ!あとはあいつに聞け!!」
そしてすぐに、扉が閉まる。
その一瞬の隙間に見えた向こう側の“蒼殻”の空は、すでに夜を迎え、狼の遠吠えと吸血鬼の羽音が飛び交う地獄だった。
「行くっすよ!まずはエアフィルターつけて!」
戦士のひとり──アウディが先頭に立って病院へ駆けだす。
彼らの後ろに、子供や女、負傷者を抱える戦士らが続く。
泥だらけで、血の跡が散っている。
グリグジャングは思わず、胸の奥を掴まれたような息苦しさを覚えた。
……本当に、めちゃくちゃだ。
戦士のひとりが乱れた息を整える間もなく、即座にガットを探しに走り出そうとして、
仁王立ちしているグリグジャングに気が付いた。
「おい、顔に十字傷のある男どこにいる?!」
すぐさま、ガットのことだとわかった。
屋上を指さす。
「上だ」
答えを聞くより先に、数名の戦士が弾かれたように駆け出した。
通り抜けざまにアウディが「あざっす!」と軽い礼を告げていく。
よろけた負傷者の天使に、咄嗟に手を貸しながら、グリグジャングは唇を噛んだ。
もう、どうすればいいか、分からない。
ただ今は──病院を守る。
それだけが、この嵐を抜けるための道しるべだった。




