八十五層:太陽の重さ.05
ドクターたちがジャックをストレッチャーで運び出し、
ガットが血まみれの手でライフルを担ぎ、
ユヴェが震える手で扉から星層を剥がす。
その間、グリグジャングは廊下の壁際で、拳を握ったまま、微動だにできなかった。
頭の中で、グランの声がこだまする。
『女王のために』
『最も美しい島を、最初に手に入れろ』
そう言われたとき、自分は何を思った?
その時にはもう、天使領の化け物のことなんて頭になかった。
魚人たちを病院まで連れてくること。
ノクタリスの毒を、どうにかできる可能性を女王に伝えること。
魔族たちが外に雪崩れ出るその流れを利用しろと、ヴィクトルも、カルカロも、そう言った。
そうでもしなきゃ、星層の大扉を抜けることはできない。
理由がなんであれ、開くなら、そこに飛び込めと。
色々考えた。
そのうえで、それ以外に方法は思いつかなかった。
だから、他の可能性を考えるのをやめた。
魚人たちを連れ出すことばかり考えていた。
それが最優先で、それ以外は「大きすぎる流れ」だと。
自分に止められるようなことじゃない。
自分が立ち入れる問題じゃない。
この渦潮は止められない。
だったらせめて、その波に溺れないように……
──でも。
「……止められた、んじゃないのか……?」
掠れた喉から、独白が零れた。
世界は進んでいく。
目の前で天使語が飛び交い、次々に今後の戦略が立てられていく。
外では……きっと、魔族軍が蹂躙を続けている。
俺は……
俺はこんなとこで──何してんだ。
両手で顔を覆った。
壁に背を預けて、座り込みたかった。
……情けねえ。
成人もしたいい大人が、子供みてえに泣きたくなってる。
でも、世界は止まらない。
耳は、切羽詰まった天使語を拾う。
謎の浮く銀球が、まるでカウントダウンのように病院外の状況を読み上げている。
「──まだ生体反応は検知できません」
「今のうちだ。配置を決める。バンズ、人手を集めろ」
「集まるかねえ……」
ぼやきながらも、バンズは手を叩いて注目を集める。
グリプも後を追うように歩き出し、今も続々と病院へ駆けこんでくる避難民たちに声をかけ始めた。
さっきまでのしんとした空気は、もうどこにもない。
ざわめきが病院内を支配する。
逃げおおせたと思った矢先に、ここにこそ敵が集まる可能性を伝えられ、絶望する声。
誰かの悲鳴を耳にして、グリグジャングの拳が震えた。
手のひらから顔を上げる。
灰と火傷と擦り傷と──疲れ果てた顔の者たちが、大勢そこにいた。
これが、プツカ・ポッカの描く未来なのか。
予兆は、どこで示されていた。
目の前で、瀕死の天使が生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。
自分が耳にしてきた計画は、もう現実の惨状になっている。
魔族は暴走。
ノクタリスの腐敗は放置。
ゼノラを蹂躙し、ウルネス層を乗っ取ろうとしている──
「クソ……ッ」
拳を壁に叩きつけた。
自分を痛めつけなければ、夢だと思いたくなってしまう。
魚人たちと、青い海を見たいってだけなのに。
それが叶ったら──
時間をかけて、光のウフの中和ってやつで、ノクタリスの環境を改善できたらいい。
……そう思っていた。
けれど、世界はもっと複雑で、
大きくて、
どの歯車も、無関係ではない。
グリグジャングはぐっと奥歯を噛み締める。
そして静かに、決意が、胸に灯った。
視野が狭いとダメだ。
自分たちのことだけじゃなくて──もっと全体。
ノクタリスのため、ゼノラのため、この星層のすべてのため。
「……目先ばかり見てんじゃ、何も救えねえ」
*
──処置室の前は、ザワついていた。
魔族侵攻から逃れた者たちが、避難と治療を受けるグレイロック診療所。
ホールの方で、バンズやグリプがそれらへ向けて協力要請をかける声を聞きながら。
ガットは壁に背を預け、気配を消したまま立っていた。
だが、ただ待っているわけではない。
目は伏せているように見えて、わずかに閉じた瞼の奥で、意識は外界へと張り巡らされていた。
……真っ先に、ジャックが狙われた。
審問の時間も、消耗具合も、全て見越して襲ってきたのか。
クリスと一騎打ちが終わったタイミング──
ソル・ベリリウムの“ランタン”が灯った瞬間を、正確に、狙ってきた。
──分かってたみてえだ。
あいつが、“ランタン”を灯すと。
ユヴェは傍らに立っていた。
彼女は何かを胸の奥で噛みしめながら、ガットに教わったヴェルトルクの闘技場にある管理室へ繋がる座標計算を急いでいた。
計算を続ける手元を一瞥し、ガットのコバルトブルーが避難民へ向く。
その中のひとり──毒の匂いを纏った、あの青髪を見つけた。
……どこかから情報を掴んでやがったんだろうな。
避難民の会話を拾うに、あいつらはノクタリスの大扉を抜けでてきたらしい。
何千年と閉じ切られていた開かずの扉を、どうにかこじ開けて。
事前に情報収集に来ていた奴がいたはずだ。
それだけじゃねえ。
──おそらく、天使側にも内通者がいた。
ガットの口元がわずかに歪む。
その周囲を、静かに銀の球体が回っていた。
衛星のように軌道を描く、小さな観測球──ネク。
作られた音声が、定期で周囲の報告を続ける。
「ガット、現在、病院周辺、避難民を除き、半径五キロ以内に生体反応は検知されていません」
「……」
「ソルファリウムにて、侵入者と思われる個体群の分析は完了しています」
金属質の声が、ぴたりと耳元で響く。
どうやって区別をつけているのかと聞かれる前に、先回りして答えた。
ガットは息を吐いた。
心拍は落ち着きを取り戻している。
体温も、平熱まで下がった。
今のは、熱を含んだ最後の吐息だった。
ストレッチャーにジャックを乗せるとき、ベルトから抜き取った鍵束に指先が触れる。
ソルファリウムの審問で、いくつかその場に落としてきたものの──まだまだ多い。
鍵の感触。
冷たい銀の重みが、わずかに呼吸を整えた。
「おい」
ガットは振り返らず、短く呼びかけた。
「……計算は終わったか」
ユヴェは小さく肩を震わせたが、目を逸らさなかった。
分厚い手袋の手は、計算を止めない。
「……あと、少し」
その声は、震えていなかった。
「計算を終えたら、院内以外の扉で繋げろ。もしヴェルトルクが落ちても、挟み撃ちにならねえようにしろ」
「……わかった」
「それと、非常用にセレスカに一つ、グラルメラにも一つ繋げろ。避難民の逃げ道だ」
地上で天使が長居するには、高山にある“山脈都市”セレスカしかない。
だが、そのセレスカでは、他の種族は寒すぎて生き抜けない。
だったら、扉を自由に繋ぎ直せるフォールドラークの街──グラルメラが最適解だ。
ガットは、ジャラリと鍵束を鳴らした。
それから、目の前に浮遊するネクを見る。
「金属、ついてこい」
「了解しました、ガット」
球体が音もなく回転をはじめる。
ガットは深く息を吸う。
足音はしない。
ざわめく廊下の中を、誰にもぶつからない導線を読む。
彼は一度だけ振り返り、閉じられた手術室の扉を睨みつけ、
それからゆっくりと足を進めた。
──必ず、起きろ。
誰に向けた声にもならなかった。
ただ、音のない彼が、鍵束をひとつ、ジャラリと鳴らした。
*
屋上へと続く階段を、ガットは迷いなく踏みしめた。
何度も修理の後がある、屋上の軋む扉を開け放つと──
夜の匂いを帯び始めた風の中で、すでにそこにひとりの影が立っていた。
巨大なハンマーを肩に担ぎ、壁際でぴょんぴょんと軽く跳ねている。
枯れた紫陽花のような青紫の髪が、西に傾きはじめた陽光に反射して、きらりと光った。
全身ツギハギ。白衣。口元のエアフィルター。
小柄な女だった。
だが、その細腕で持つには大きすぎる武器を持っている。
振る姿に、迷いはない。
「……その服装、病院関係者か?」
ガットは初めてみる彼女へ向けて、声をかけた。
ネクがくるりと周回する。
「え? あ、うん!シマだよ。ここの雑用係!」
「……なんでここにいる」
「ドクターから病院を守れって言われて、見晴らしのいいところに来てみた!」
見た目以上に幼い受け答えに、ガットは短く鼻を鳴らした。
視線がシマの口元と、巨大なハンマーに順に向けられる。
「天使か。……戦えるか」
「一応、兼用心棒!これでも“蒼殻”にいたころは戦士だったよ」
昔話は今はどうでもよかった。
「……武器とウフは」
「戦鎚!それと、地のウフ!」
「……ならテメーは地上に降りろ。正面は任せる。俺の担当は遠距離。銃火器だ。ここから狙撃する」
「はーい……って、いや、その前に誰なの?」
シマが混乱気味に問いかけた。
だが、ガットはすでにライフルを背中から引き抜き、狙撃位置を定めている。
「おい金属。お前ジャックの鍵束、意匠と武器とウフ、記録してねえのか」
「全て記録済みです」
「銃火器だけ読み上げろ」
「はい、ガット」
ガットはジャックの鍵束を地面に広げた。
「読み上げます。神獣アサト、炎、ショットガン。神獣フーナルース、氷、ランチャー。神獣ヲタイ、雷、ハンドガン。神獣リ・トュカ、炎、ライフル……」
ネクの声が、淡々と頭上から落ちてくる。
ばら撒いた鍵の中から、読み上げられた神獣のモチーフを探す。
「うわ?!なにその鍵の数、おかしくない?!」
そんなガットの肩越しに、シマが興味深そうに覗き込んだ。
ガットは舌打ちしつつ、鍵束の確認を続けた。
「……ボケっとすんな」
「え! わ、わかった……わかんないけど、わかった」
釈然としない様子のまま、シマは階段を駆け下りていった。
シマと入れ違いに、また別の足音が、屋上へ上がってきた。
グリグジャングだった。
避難民の中で、いつの間にかガットの姿が消えていたことに気づき、探し回って、ようやくここに辿り着いた。
風が運ぶ潮と毒の痺れる匂いを、ガットの鼻が敏感に嗅ぎ分ける。
鍵を選り分ける手が、ぴたりと止まった。
グリグジャングは、敵意がないことを示すように、音を殺して歩み寄った。
だが、一歩進むごとに、ガットの纏う空気が張りつめるのを感じ、わざと距離をあけたまま立ち止まった。
「なあ……あんたに、話がある」




