八十四層:太陽の重さ.04
ガットは呆然とする野次馬を押し除けるように、歩き出す。
そして廊下の先──静かに手術室へ目線を投げる。
体についた血は、まだ乾き切らず、ジャックの“命”の匂いをまだ留めていた。
そんな彼の隣に、そっと立ったユヴェが小さな声で言う。
「……さっきの、ジャックって天使が……あなたが天使領に帰りたがってた理由なの?」
ガットは、応えない。
表情も動かさず、ただ、扉の上に光る“手術中”のランプを見ている。
その動かなさを、部屋の中から見ていたバンズが、ゆっくりと目を伏せた。
グリプがかすかに、唇を噛む。
「……友達、とかなの?」
間。
ほんの一拍だけ、冷たい空気が凪いで──
「……ちげえ」
その中で、ガットがぽつりと言葉を落とす。
「……どんな縁かなんて、うまく言葉にできるようなもんじゃねえ」
「……」
自分でも、よく分かっていない声だった。
そうやって育てられた。
そう在れと、強制された。
だから、そうしてきただけだ。
好きも嫌いもなく、ただ──
あの陽を翳らせない。
それだけが、俺の存在理由だと。
「でも、たぶん──」
口を噤みかけて──けれど彼にしては珍しく、声が漏れ出た。
「……あいつは、俺の“心臓の半分”だ」
灰色の廊下に、ガットの低い声が吸い込まれていく。
どんな時でも揺らがず、冷静に立ち続けていた背中が、今は……
ユヴェの眼に、ひどく不安定に映った。
ガットの吐露した言葉を聞いて、グリグジャングは火のない煙草を指先でへし折った。
ゼノラ層とウルネス層の情報収集をしていた、あの日。
骨董屋の主人も、他の店の店主たちも。
口をそろえて、“天使領の化け物”と言った。
一番大きな浮島の、三割を、たったひとりで割った怪物だと。
商人たちは戦争の気配を察して、迷惑そうにしていた。
天使種じゃなくても、層間交易をするってことは、そういうことだ。
どこかの誰かの行動が、巡り巡って自分の生活に影響する。
……そんなの、“怪物”だって同じ、だよな。
誰にも悲しまれない奴なんていない。
誰かを殴れば、誰かが悲しむ。
神獣アネモラの風が、すべての生き物を撫でるのと同じで──
……まったく愛を纏わない生き物なんて、どこにもいねえはずなんだ。
ガットの眉間に深いしわが寄った。
口をついて出た言葉が、自分の鼓膜を震わせた瞬間──気づく。
……言い過ぎた。
感情が漏れた。
今この瞬間だけ、脈が速い。
口端がかすかに歪む。
わかる者にしかわからない程度の、“動揺”だった。
「……チッ、忘れろ」
感情も、音も、気配も、痕跡も。
あらゆるものを消して成り立つ暗殺者。
そんな生き方しか知らねえ。
存在を絶つ方法を、この身に叩き込んできたはずだ。
なのに。
息をするように自然にやってきたことが、今できてねえことが一番厄介だった。
ネクが音もなくガットの周回をはじめた。
それを鬱陶しそうに払おうとして、血濡れの手が触れる直前、引っ込める。
ネクの銀の装甲が、一瞬、あの銀髪に見えてしまった。
ユヴェはそんなガットの心情など知らずに、優しく笑う。
「それは、“大切な人”って言うんだよ」
「……」
「……きっと、治るよ。ドクターは絶対に治してくれるもの」
「……うるせえ」
「忘れろっつったろ」と小さく言い返した。
二メートル圏内を巡るネクのことは、もう、追い払おうとはしなかった。
気持ちを切り替えるように、ガットはライフルを肩で回した。
手に馴染ませるように、一度鍵の姿へと戻す。
自分の鍵じゃない。俺のライフルはもう使えない。
だが、ジャックに渡された、林檎の意匠が刻まれたそれ。
……神獣の名前は、憶えてねえ。
ただ、林檎の背面にある薄れた羽の模様が──
今ほど不吉に感じるものはない。
なんて名前の、何を象徴する神獣なのか。
……不幸とか不運とか、そんな神獣もいるのか。
指で銀鍵を回しながら、ひとつ息を吐く。
……俺の生まれを祝福したのが、シアーだった。
依存と束縛、そして解放の神獣。
誓約破りで鍵を使えなくなってなお、そいつは俺のことを見てるのか。
だとしたら。
……あの太陽に依存しすぎて、羽まで焼かれてしまえと言われている気がした。
鍵を再びライフルへ戻す。
馴染みのものより、少しだけ軽い。
だが、質感と冷たさは、ほとんど同じだ。
微かに汗ばんだ指先が、渇きかけた血に滑る。
でも、撃てる。
撃ち抜ける。
……問題はねえ。
視界は良好。
鼻もきく。
耳も聞こえる。
心はこれ以上──動かねえ。
それでいい。
──殺れる。
空気が、変わる。
音もなく、濁りもせず。
けれど明らかに、この場に流れる“優先順位”が切り替わった瞬間だった。
「……突っ立ってる時間はねえ。ユヴェ、扉を繋げ」
ガットの声は冷たいが、焦りがない。
呼吸をするように、命令を落としていく。
「……うん」
一拍遅れて、ユヴェが頷く。
その顔にはまだ動揺が残っていたが、もう誰も、立ち止まれない。
「地図を見せろ。ヴェルトルクの管理扉の位置を教えてやる。──バンズ」
「はいよ」
灰色の壁に背中を預けていたバンズが顔を上げる。
応える声に、重さがあった。
けれど、ガットの言葉はさらに重く、鋭く突き刺さる。
「テメーは院内にいろ。外は俺がやる」
「……ひとりでかい?」
「避難民に戦えるやつがいるなら叩き出せ。……帰る場所と、命を失いたくなけりゃ手伝えってな」
余計な会話は、要らなかった。
一言で判断し、一言で命を守る。
避難民たちが肩を震わせ、互いに目くばせをした。
全員が他人の口元に視線を走らせていた。
群衆の中、エアフィルターを付けた女が、それを隠すように口元を覆った。
……天使なら戦えと、隣の黒ずくめの男が無言で見つめていた。
その一連を、グリグジャングのアクアマリンがすべて捉えていた。
ノクタリス層を出て、初めて見た外層は、理想郷のように映ったはずだった。
女も子供も、老人も、関係なく笑い合い、身分なんてないように見えた。
種族の壁も、同じ街の中で摩擦なく暮らせていると。
喧噪も、陰険な空気もなかったノードの街。
少なくとも、グリグジャングの目にはそう映っていたはずなのに。
戦闘民族だったら……他の種族の男より女でも戦えって言うのか。
これが現実だった。
追い詰められ、薄皮で隠されていた真実が、露呈し始めている。
「金属」
「──はい、ガット」
ネクの音声が、わずかに震えて聞こえたのは気のせいかもしれない。
耳が拾ったかすかなノイズに、ガットは目を細めた。
……手術室に向けて、軌道が楕円にブレてる。
しかし、ガットは迷わず指示を続けた。
「最大何キロ先まで生体反応を拾える」
「五キロです」
「なら周囲五キロ全部拾って、逐一俺に送れ」
了解音も必要なかった。
その声ひとつで、もうネクは動き出していた。
それが、ガット・ビターという男だった。
どんなに感情が濁っても、
どんなに愛に触れても、
どんなに恐怖が足をとっても、
──引き金は濁らない。
濁らせては、いけない。
「籠城戦だ。──“あいつが目を覚ます”まで」
その言葉を最後に、部屋の温度が少しだけ下がったように感じた。
それは冷気ではない。
“決意”の体温だった。
目を覆いたくなる現実が、今、目の前で──静かに始まっていた。




