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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第三幕】太陽の重さ

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八十三層:太陽の重さ.03


ジャックの血液だけではない。

血色の違うものがかすかに混ざっている。

赤い血の中に混ざる、泡立った赤紫──


それをじっと見つめ、ドクターはぼそりと呟いた。


「ふむ……毒のウフ由来であることは間違いない。この変質……」


以前、グリグジャングの血液検査をしたからこそ、分かった。

これは魔族の血液だと。


聞いてもいないのに、天井の蜘蛛が常にゼノラ層の状況を教えてくる。

この病院が、自分の愛弟子──(しのぐ)の避難所にもなりうるという理由で。

だから実際には見ていなくても、ドクターにはわかっていた。


……おそらく、これは血を操るという吸血鬼の仕業だ。


血液。

ただでさえ、他人の血は、毒も同じだ。

まして、ノクタリスの毒に適応した魔族の血ならば──なおさら。



すぐさまドクターの指示が飛ぶ。


「サブ、毒性血液のサンプル採取。ヒヨ、中心臓器保護、緊急冷却と血管圧調整」

「わかった」

「ドクター、準備整いました」


医療器具が一斉に音を立て、冷たい空気が廊下を満たしていく。

誰もなにも言えない中で、彼らだけが動きを止めなかった。

その中央、ドクターはほんの一瞬、ジャックの体を見下ろし、黙り込んだ。


……それにしても、この男の血の色は──


魔族の血液が混ざったせいなのか。

通常の天使の血液よりも……銀が混ざっているような──



「──手術室へ」



重たい声が、床に落ちた。

ガラガラと音を立てて運ばれていくジャックと、取り残されたガット。

わずかに軌道を乱しながらも、乱れた金髪の真横にネクが並んだ。


ネクは何も言わなかった。

ただ、静かにガットの隣に浮かんでいる。

ガットのコバルトブルーは、運ばれていくジャックをまっすぐに見つめていた。



ストレッチャーが遠ざかると、ほんの少しだけ、現場の空気が軽くなったような気がした。


ふと、ユヴェは開けっ放しだったことを思い出し、強風に煽られる星層扉(ポートドア)を振り返る。



灰色の病棟の廊下。

開いたままの扉の枠組みの向こうは──まるで地獄のようだった。



星層(せいそう)一美しいと言われる天使の浮島群“蒼殻(そうかく)”。

けれど今は、その空を羽を持った魔族が飛び交い、家々が燃え、獣の遠吠えが耳を劈いた。


さっきまでの呆気から、急に、現実に引き戻される。


扉の前には、誰もこちらへ入ってこないようにと複数の天使の戦士が立ちはだかっていた。

剣を、盾を、弓を握って。



そしてその中に、凌がいた。

小さな蜘蛛を指先に乗せて、ジャックが運ばれていくのを静かに見つめている。


「凌……!」


思わずその名を呼んだユヴェの声に、ガットが眼だけで振り返る。

廊下で立ち尽くす者たちも、視線を向ける。


グリグジャングが、凌の姿を見た瞬間、目を見開いた。

以前、ゼノラ層に視察に来たときに出会った男だった。


夕暮れのノードの街。骨董屋の店先で……

青い装丁本を買おうとしていた自分に、「ぼったくりだよ」とだけ告げていなくなった男。


……たしか、妖怪種の“(ばく)”とかいう男。



声をかけようかと口を開きかけた、その瞬間。

それとほぼ同時に、また複数人が病院へ転がり込んできた。



子どもが三人──グリプと、亜月と翔。

それから護衛の天使がひとり──バンズだった。



翔は転げて、亜月はベッドにしがみつき、煽られる強風に耐えている。

グリプを背に回しながら、バンズが扉の先──グリヴェスを振り返った。


戦士たちが何重の壁になるなか。

凌は優しい動きで、すでに息絶えた蜘蛛を病室の中へとそっと移すと、そのままドアノブを握った。



──病院の、()()()()



「ユヴェ、扉を閉めたら、一回()()()


確かな覚悟を持った声で、凌が告げる。


「凌は?!」


すかさず翔が叫ぶ。

けれど、彼は背後を気にしながらも、淡々と答えた。


「まだ──もう少しこっちに残る」

「でも…!」

「次は、ヴェルトルクの闘技場管理室に繋げ。座標はガットに聞けば計算できるはずだ」


言いながら、自らの影から、一本の槍を取り出した。

相変わらず悪夢の結晶がこびりついた、禍々しい靄を纏う神器。

キング・ハーウェンの“(いた)(やり)”。


自分の影の中から──


グリグジャングは息をのんだ。

魔族もたいがい、種族ごとに出来ることが違うと思っていた。

外の種族も、そりゃ、そうだよな。


不気味に揺れたように見える凌の影を見て、思わず喉が上下する。



槍を手に、凌は最後に一言。



「店長、蜘蛛……ごめん」



足を折りたたんで小さくなった一匹に視線を最後に向けて──

パタン、と扉が閉まった。


吹き荒れていた風が一気に収まる。

舞い上がった髪や服の裾が落ち着きを取り戻した。


「……やあね。爪の先程度の痛みなのに。あの子ったら」


病室の天井から店長の声が降ってきた。

愛しむような、それでいて困ったような。


「寒さに耐えきれなかっただけだというのに」


何匹かの蜘蛛が声とともに降りてきて、足を畳んだ一匹の骸を器用に抱え、そのまま登っていく。



「……ユヴェ、扉を剥がせ」


唖然と見上げるユヴェに、ガットが急かすように声をかけた。

その声に押されるようにして、ユヴェは再び扉の前に立つ。


「…う、うん…」


……本当に、剥がしていいのかな。

もっと、こっちに逃がせる天使たちがいるんじゃ──


一瞬だけ逡巡して、彼女はドアノブへ手を伸ばした。


ユヴェが扉の接続を切る間に、バンズは持ち込んだエアフィルターをグリプへ手渡した。

天使にとっては多すぎる地上の酸素を、極限まで削いでくれる透明なマスク。

それをつけて、ようやくグリプは大きく息を吸った。


自分も同じようにフィルターをつけながら、バンズはガットに歩み寄る。


「……ジャックは──」


無事に引き渡したのか。

全層一の名医とは名高いが、それがどこまで信用できるのか──

聞きたいことは、山ほどあった。


だが、どれも声にはならなかった。


「……で、これからどうする?」


代わりに落ちた声は、ひどく重かった。


空気が再び張りつめていくのを、グリグジャングは肌で感じ取っていた。

廊下には、バンズの天使語だけが響いていた。

体は手術室に向いたまま、ガットは視線だけで一緒に病院へ転がり込んできた子供ふたりを見た。


状況を説明しろ、と目線だけでバンズに促す。


「ああ、そこの嬢ちゃんたち──亜月ちゃんと翔くん。あの子らのことは、命に代えても守るって獏の旦那と約束してる」

「……」

「ボスの身の安全のためにも、俺らはこっちに来たけどさ……」


はあ、とため息にもならない息が漏れる。


「もっと戦士を連れてくるべきだったんじゃないか?いや、でもそうなればグリヴェスが守り切れない……」


ガシガシと、まとまらない考えを散らすように、バンズは帽子を剥ぎ取って頭を乱雑に掻く。

グリプは几帳面に着込んでいたスーツのジャケットを脱ぎながら、ゆっくり背筋を伸ばした。



「僕たちだけでどうにかできる戦局ではありません」



季節は真冬でも、高空に住む天使にとっては、地面は暑い。

ネクタイも緩める幼い手が、かすかに震えている。


……母さんを連れ出せなかった。

護衛はたくさんつけてある。

でも、真っ先に避難しろとバンズに連れられて──


自分だけが安全な場所にいることに、拳を握りこむ。

この安全を、無駄にしないために動かなくちゃ……


「……幸い、ここは中立区域です。ジャックさんの回復を待って──」

「その“中立”を、理解してる相手ならな」


ガットはグリプの言葉を遮るように、短く吐き捨てた。


血濡れの手をそのままに、乱れた金髪をかきあげる。

そのまま、昨晩ジャックから預かった鍵をライフルへ変えると、肩に引っ掛け、残弾数を確認し始める。



グリグジャングの肩が、強張った。


──その通りだったからだ。



「……こっちの都合なんざ気にしちゃくれねえよ。戦争なんてそんなもんだ」

「……でも、じゃあ──」

「それに、あいつらは最初から“ジャック”を狙ってた。あいつを殺せば──どうとでもなる」


グリプは息を呑んだ。

中折れ帽を押さえながら、バンズは目を細める。


──ジャック。

あの男が、ジャック・J・ジッパー。


グリグジャングの心臓が、不安定に打っていた。

その名前を調べたのは自分だ。

外層の調査で、天使領の化け物の名前として、グランに伝えた──


「……どこで漏れた情報なんだろうね…」


バンズが苦々しく呟く。


言葉ひとつひとつが、胸に杭を打ち込まれるようだった。


ちらりと、ガットのコバルトブルーがそんなグリグジャングを一瞥した。

温度のない眼差しだった。

まるで、激しく動く心音まで聞こえているかのような緊張感。

すん、とガットは一度、鼻を鳴らした。


──毒の匂い。


……ジャックを襲った奴らは、とにかく甘ったるい匂いだった。

だが、その奥に隠れるように沁みついていた、鼻の奥が痺れる薫り。


それが今、()()()()()()()()()()()()()



「……今はそれより、これからのことを考えろ。そう時間を空けず、追いかけてくるぞ」

「え?!」



目を細め、ガットは視線を一度、グリグジャングから離した。

だが、意識は逸れていなかった。


ユヴェが彼の言葉に、思わず声を上げた。

ガットは気だるげに首を回しながら、答える。



「当然だろ。どんな計画であれ、世界をものにしてえなら、一番厄介なのが──ジャックだ」

「……」

「真っ先に殺しにくる。死んだと確認できるまで、地獄の果てまで追いかけてくる」



その声は、ひどく冷え切っていた。

まるで“自分ならそうする”と言わんばかりに。


でも、同時に彼のコバルトブルーの瞳は、いつになく火を抱いていた。


怒りか、復讐か、殺意か。

何を燃やしているかはわからなかった。

だが、その場の全員が、彼のやるせなさを感じ取っていた。



グリグジャングやその他の多くの避難民たちは──


灰色の廊下で、ただ立ち尽くしていた。

扉が開いて、再び閉じられるまで。


何も言えず、何も出来ず、ただ突っ立っていた。



目の前の光景に、手も足も出せなかった。



──自分が、呼び込んだ。


グリグジャングは拳を固く握ったまま、息もできずにそこにいた。

分かっていたはずの未来なのに。


……どうにもできなかったなんて──



そんなの、言い訳にもならなかった。



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