八十二層:太陽の重さ.02
グレイロック診療所。
魚人たちの診療に、ひとまずの区切りがついた頃だった。
ドクターが最後のカルテを重ね、ヒヨに託す。
サブは足早に病室を出ていき、シマが扉を軋ませないよう慎重に閉じながら、その後を追う。
ユヴェはグリグジャングに手伝ってもらいながら、少しずつ、ジェリーたち数人の魚人と言葉を交わしていた、その時。
音もなく張り巡らされた天井の蜘蛛の巣から、女の声が降りてきた。
誰も、天井を見上げていなかった。
「フォールドラークの娘さん。お願いがあるんだけれど。急ぎなの」
蠱惑的な、けれど今はどこか緊張を孕む声──店長だ。
「っ……!」
魚人たちは一斉に肩を震わせ、声の方を見上げた。
ユヴェも自分が呼ばれたことに、驚いて体を強ばらせる。
ざわめく病室の中で、ドクターとヒヨだけが待っていたかように、天井の蜘蛛を正確に捉えた。
「続けたまえ」
ドクターが青いゴム手袋を外しながら、続きを促す。
店長は、蜘蛛の糸越しに優雅に続けた。
「蒼殻の一島、グリヴェスの時計塔の管理扉。そこを、今すぐ繋いでちょうだい」
「え──え?!」
「急を要するわ」
「あ、分かった……!でも、天使領に繋ぐなら、できれば、荷物の少ない部屋で……」
ユヴェは慌ててドクターを振り返る。
地上と浮島では、気圧が違いすぎる。
星層の大扉と違い、普通の星層扉では扉を開けた瞬間空気が一気に流れ出てしまう。
説明せずとも原理を察したドクターは、ヒヨに短く目配せした。
「一階の廊下突き当たり。診察室の扉を使いたまえ。ただし、廊下側だ」
「廊下の荷物は全てシマに下げさせます」
ヒヨはすぐさま駆け出した。
ドクターはユヴェを先導するように歩き出す。
座標計算用の地図の束を出しながら、ユヴェも病室を出ていく。
カルカロとギルは黙って背後からそれを見守る。
グリグジャングは、思わずベッドから腰を浮かせた。
──天使領。
その単語と、あの切羽詰まった女の声で、何を意味するのか、説明がなくても通じてしまった。
グランは、大扉を抜ける前、目的の地はウルネス層──天使領だと言っていた。
あの大軍が、蒼殻の浮島群に流れ込んで──
背筋が冷えた。
詳細な話は何ひとつ聞かされていないからこそ、この報せは、魔族が起こした“最悪”だと思えた。
「ここで待ってろ。ギル、カルカロ、任せたぞ」
妖精語や悪魔語の会話は何ひとつ魚人たちに伝わってない。
何が起きてるか、感覚でしか掴めていない奴らを置いていくのは忍びないが……
火のないタバコを咥えたまま、グリグジャングは足早に、ドクターたちの後を追いかけた。
*
診察室の前。
ユヴェは、わずかに震える手で灰色の扉の前に立っていた。
すでにほとんどの荷物が片付けられ、シマが最後のワゴンを押して駆けていく。
扉の前にはドクターと、ヒヨ、サブの他に、数人のナースが立っていた。
この日のために、ドクターが一時的に数を増やしたという看護師たちは、その多くが、一度現場を離れた熟練の落ち着きを持っている。
グリグジャングがその場に着いた時、誰もがユヴェに背を向けていた。
フォールドラークの星層扉を繋ぐ方法は、完全な秘匿。
例え知られても、他の種族がどうこうできるわけではなかったが──
それでも、そこにいた全員が、敬意を持って目を逸らしていた。
まるでそれが当然であるかのように。
グリグジャングも彼らに倣い、ユヴェから顔を背ける。
ユヴェは分厚い耐熱手袋を外し、自らの手を引き抜く。
天井のウフ灯の灯りを反射して、彼女の手の甲の何かがきらりと光った。
──鱗だった。
爬虫類のような、それでいて氷の薄膜を貼り付けたような繊細な煌めき。
裸の手で、ユヴェは先ほど終えた座標計算によって出した数式を、扉に直接指で書き込んでいく。
数字や文字は、見えはしない。
けれど、指の動きを見れば──
わかる者には、わかる文字が刻まれていた。
神獣文字。
それは、はるか昔に失われた文字だった。
座標を書き終えると、指先をそっと胸に当てて一礼する。
“自分がそこに在った”という証を、扉に祈りとして残すように。
まぶたを伏せて、ユヴェは“扉が応える”のを待った。
座標計算が間違っていなければ──
扉は“熱”をもって応えてくれる。
そしてユヴェの指先の揺れを撫でるように、
その場の空気が、わずかに暖を帯びた。
ユヴェは顔を上げる。
扉の見た目は何も変わらない。
でも、彼女の目には見えていた。
この扉が、遠く離れた天使の島“グリヴェス”の時計塔管理室と繋がったことを。
蜘蛛の糸が淡く光を帯び、廊下の隅から張り巡らされていく。
「ユヴェ、準備は」
ドクターの低い声が背後から届く。
「……今、繋がりました!」
真っ先にドクターが振り返った。
皆の視線が集まる前に、再び鱗の手は手袋の中へと仕舞われる。
皮越しにでも伝わる、ドアノブの熱。
それを確かめてから、ユヴェは自らの鍵をそっと近づけた。
「──急いで」
一匹の小さな蜘蛛が上から降りてくる。
そこから落とされる店長の声は、いつもよりほんの少しだけ硬い。
グリグジャングは何も言わなかった。
蜘蛛が喋ることも、扉を繋ぐということも。
ノクタリス育ちにとっては理解ができない点が多くあったが、いまはただ、ユヴェの手元だけを見ていた。
ユヴェが握る、ダイヤモンドを削って作ったかのようなそれ。
あれが──魔族は持たない、星層の鍵。
彼女の鍵が近づくと、ドアノブが溶けるように形を変える。
鍵の形を思い出すように鍵穴がそこに現れて、すぐさまユヴェはそれを差し込んだ。
ドアノブを捻るのとほぼ同時で鍵を回す。
その瞬間──
バンッ!!
重い衝撃音と共に、扉が割れんばかりに開き、強風が、室外へと流れ出た。
「っ──!」
ユヴェの体が扉ごと外へ吹き飛ばされかけた瞬間、ヒヨが予測していたかのように彼女を抱き留めた。
「──心拍数低下。危険レベルです」
無機質な声が落ちた。
転がり込むように目の前に現れたのは、血まみれの影だった。
まず目に飛び込んできたのは、ガットだった。
その手に抱えるのは、瀕死のジャック。
そしてふたりの周りを回る観測球体、ネク。
「ドクター!!」
ほとんど叫ぶような声と共に、ガットは血まみれのジャックを抱えたまま、コバルトブルーでドクターを探した。
その足元、床を滴る血が、赤黒く濃い。
吹き荒れる風に目を細めながら、グリグジャングは廊下の端で、それを見ていた。
いつの間にか騒ぎを聞きつけた者たちが群がり始めていた。
入院着を着た患者たちの他に、汗と泥、煤汚れのひどい者たちも、多く混じっていた。
ノードの街の市民たちだ。
浅い傷、火傷のあとを抑えながら、ドクターに診てもらうため……もしくは、街からここに避難してきた者たち。
だが、今は、誰もが固唾を飲んでその光景を見ていた。
大柄の男が抱える、瀕死の銀髪の男。
血が抜けた青白い顔が余計に、その銀髪の美しさを彫刻のように完成させていた。
同じ生き物とは思えない。
だが、血は流れている。
いまも、止まらない。
「手当を──いますぐ!!」
ガットの咆哮が響いた。
あれほど静かで音を立てなかった男が、喉を枯らせて叫んでいる。
そのことに、ユヴェは目を見開く。
ドクターはまるで最初から容体を診ていたかのように、静かに前に出た。
「処置室へ急げ。ヒヨ」
「はい、ドクター」
ヒヨと数名のナースが、即座に駆け寄り、周囲の器具を整える。
ガットはストレッチャーへ、慎重に、それでいて素早く、ジャックの身体を下ろした。
すぐさまヒヨがエアフィルターを口元にかける。
胸の上に小さな小箱を置けば、心音が増幅され、拍が取れる。
腕に血圧を見るためのベルトが巻かれた。
顔が青白い。
簡易的な止血じゃ足りてねえ。
呼吸が浅い。たまに止まる。
心音は、まだしてる。
……でも五分前より、弱々しい。
五感の鋭さゆえに、あらゆるものが見えて、聞こえて、分かってしまう。
それが余計に、ガットの両手足をすくませる。
ネクがジャックの周りをくるりと回る。
まるで、心配しているかのように。
ドクターは音もなくストレッチャーへ近寄る。
生命維持装置を手早く繋いでいくヒヨの横で、ジャックの擦り切れた手袋を外した。
その下の包帯だらけの手。
包帯は既に、あらゆる適性外で原型を留めていなかった。
血と汗と汚れと共に、皮膚に張り付き、溶けている。
そしてその下に無数に刻まれた、火傷や切り傷の折り重なった古い痕。
ドクターは、流れる動きで血濡れのジャケットを広げる。
ガットが応急処置に使ったライフルのストラップを外し、服をたくしあげる。
左脇腹の刺し傷。
これは、時間が経っている。
両腕、両手の皮膚は新たな火傷と凍傷でただれ、痙攣の名残が残る感電痕。
明らかに複数の適性外ウフによる適性外痕だ。
そして……最後の致命傷。
「……体の中心を、捻って外している──だが、毒が混じっているな」
包帯の下の金の瞳が細められた。
青いゴム手袋を嵌めながら、躊躇なく傷口の赤黒い血を掬い取る。
──毒。
その言葉に、グリグジャングは息を飲んだ。




