八十一層:太陽の重さ.01
あの時、風は止んでいた。
匂いも、音もない。
まるで世界そのものが、
ソルのランタンの光に──あいつの誇りに、息を呑んだように。
光が、溢れていた。
ジャックがソルの誇りを灯した──
それだけで、十分だったはずだ。
それなのに。
何かが、違った。
空気が、薄皮一枚、裏返ったような違和。
重力の流れがひとつ、乱れた。
何かが、神聖なソルファリウムの審問を侵していた。
遠くの空、狙撃ポイントで見ていたガットが、いち早くその存在に気がついていた。
次いで、上空に停泊する滑空船の記者や、グリプたちジャック派の戦士が気がついた。
でもその頃には既に、ガットの操作する小舟はソルファリウムの地上を最速で滑っていた。
戦場は停止していた。
誰にも止められることなく、小舟は進むはずだった。
──だが。
地上から、何かが撃ち上がった。
衝撃が、乗っていた小舟の底を大きく叩き、ガットの体が投げ出される。
けれど受け身と同時、それより早く、足が動いた。
視界の端で、その何かを捉えた。
赤い水──いや、血の匂い。
──血だ。
血が、空中に集まり、形を成し──舟を穿いた。
でも、周りからの攻撃なんて、どうでも良かった。
脳では処理しきれないほどの情報が、視界に滑り込んでくる。
まるで世界が時間を忘れたように、一つひとつが、コマ送りに見えた。
赤黒い外套を羽織った見知らぬ大軍。
呆然とソルの“ランタン”を見つめていた天使たち。
その光に魅せられ、伝説を目の当たりにしたことに震えるその背後から──
今にも襲いかかろうとする異形の力。
静まり返っていた戦場が、大きな波に飲まれるように、
誇りなんてどこにもない、抗いようのない狂気が満ちる、その瞬間だった。
赤黒い“何か”が、視界を裂いた。
それが血だとわかったのは、
槍のように形を取ったそれが、
一直線に、ジャックの背へ伸びたからだ。
声が出なかった。
出るはずがない。
息が、逆流したようだった。
ジャックが──振り返らずに、体を捻った。
戦士としての本能。
訓練では教えきれない“生きる”という直感。
だが遅かった。
血の槍が、あいつのほぼ中心を貫いた。
白だった服が、
赤黒く、濁っていく。
二撃目が、走った。
同じ軌道。
同じ濁色。
殺しに来ている。確実に。
──間に合わない。
そう、思った。
言葉にしたくなるほど、確信があった。
「ジャック!!!」
生涯で一度も出したことがねえほどの声が出た。
だが、その声さえ、蹂躙され始めた他の天使たちの悲鳴や怒号にかき消されていく。
血の槍が伸びる。
貫かれる。
今度こそ、確実に、
──死ぬ。
息が呑めなかった。
吐くことしか、できねえ。
一瞬の間だった。
視界の中で、何かが跳ねた。
クリスが、ジャックを庇っていた。
あの女の体が、まるで立ちはだかるようにジャックを背にして──
鋭すぎる槍を、全身で受け止めていた。
血が散った。
クリスの体がジャックの横に倒れ込む。
俺の中で、何かが爆ぜた。
三撃目。
それを許すほど、もう冷静じゃなかった。
スコープなんか覗かねえ。
距離も、風も、致命も関係ない。
血の槍をもう一本、空中に生み出そうとする“誰か”の脳天を、狙いも定めず撃ち抜いた。
その脇に並ぶ、同じ外套を纏った奴らも、指先に血を集めようとした瞬間、
肘を、肩を、心臓を。
ネクが一瞬、視界の端で震えた。
「ガット、残弾数が──」
「黙れ!!!」
ようやく辿り着いた先。
ジャックは、仰向けになったまま、身じろぎひとつしなかった。
息が肺に戻っていく。
血が逆流するみてえに、全身が冷えた。
ライフルを肩にかけたはずなのに、滑り落ちて音を立てる。
意識がねえ。呼吸が浅い。
喉先をあげて気道確保しながら、すぐさまジャックの上半身を軽く抱き起こした。
その瞬間、熱い血が、俺の掌に流れ込んだ。
胸のあたりの布を手で裂いて、傷の深さと方向を、視線ひとつで読む。
背中側から胸の中心。微かに、右に逸れてる。
が、内臓に触れてる。
致命傷。
でも、心臓は──まだ動いてる。
手のひらを押し当てた。
咄嗟に上着の袖を引き抜き、丸めて圧迫しながら、
反対の手で応急処置用の薬包を探る。
が、傷口があまりに鋭利だった。
手も、腕も、地面も、綺麗なはずのこいつの銀髪すら、赤い。
「心拍数低下。血中酸素──危険レベルです」
ネクのそれが、ただのカウントダウンにしか聞こえねえ。
手が震えた。
何度も延命措置の訓練をしてきたっていうのに。
地面に落としたライフルのストラップをナイフで切った。
脱いだブルゾンと一緒に、傷口を一時的に縛り付ける。
出血は、止まらねえ。
でも、“死なせない時間を稼ぐ”しかない。
それしか、もう方法がなかった。
止めろ、止まれ。
出るな、命が出るな。
考えるな。手を動かせ。
手を、止めるな。
どこまでなら助かる?
何を捨てれば生かせる?
「──止まれ。
止まれ、止まってくれ……
死ぬな…!」
「──ガット!!」
戦場の混乱なんてどこかに失せていた。
俺の視界には、傷口と、俺の手しかなかった。
その静寂を裂いたのは、いつの間にか目の前にいた、凌だった。
「病院だ!ドクターのところに!」
その手に、ハーウェンの槍を持っていた。
穂先のねえそれで指した先に、グリプの商船が見える。
ジャックの体を抱き上げた。
重くはなかった。
それが余計に、怖かった。
軽い。軽すぎる。
体重も身長も、ジャックに関するデータは全部頭に叩き込んでいた。
戦場を駆ける時の跳躍やスピードを図るために、何度も頭で反芻してきた数字だった。
なのに、
実際に抱き上げたその“重さ”が、まるで今の命の“重さ”みてえに思えて。
腕の中に収まる。
──けれど、その“軽さ”が俺を殺しかけた。
「死ぬな」
「死ぬな」
「死ぬな」
その言葉だけが、
この夜の中で、唯一の希望になっていた。
「ユヴェに扉を繋げるように、店長から伝えてもらってる」
転がり込むように滑空船に乗り込んだ先、凌が少し息を荒げて言った。
けれど俺は、抱き直した腕の中の重さに、息が止まった。
軽い。抱き直すたびに、消えそうで。
顔があげられなかった。
周りの状況なんて、もう読めねえ。
……怖え。
こんなの、耐えられるわけがねえ。
もし、ジャックが死んだらどうする?
病院に着く前に、こいつの心臓が止まったら──
傷口を圧迫する手が、
過呼吸気味の息に合わせて強張っていた。
指先の感覚はもうない。
けれど──
そこに、かろうじて伝わる血の熱だけが、
救いなのか、呪いなのか、わからなかった。
その熱の裏で、重さはあまりに軽くて。
腕にあるのに、指の隙間から零れていきそうで。
ずっと名前をつけられなかった。
献身なのか、犠牲なのか、友愛か、救済かどうかさえ。
でも今ようやくわかった気がする。
たぶん、神獣信仰みてえなもんだ。
でも見えず触れられずの獣より、目の前で生きてるから余計にタチが悪い。
目を背けられねえ。
死なせられねえ。
見失えねえ。
この火が翳ることを、許せるわけがねえ。
触れられる距離にいるからこそ、それは救いようのないほどに、信仰だった。
たとえお前の心臓が止まっても、この手で無理やりでも、また動かす。
何があっても──
俺の心臓が止まるのは、
お前の最後の音を聞いた──“その一秒後”だけでいい。




