八十層:止まらない.04
グランはサハに分厚い外套をかけてやりながら、横目で後続の魔族たちを見た。
炎を灯すが、風に煽られ、制御が効かない。
ジルジオら狼人は、強靭な体が寒さには耐えているものの、呼吸の困難さには敵わないらしい。
浅い呼吸を繰り返しながら、強がるように眉を寄せる。
……やはりな。
羽を持たぬ種族には、この高さは適応できない。
“大扉の島”ウルスナ。
島の縁にある桟橋に、数名の天使がいた。
戦士ではない。船守たちだった。
だが、突如大扉から現れた赤黒い軍勢に危機を察し、滑空船へ乗り込むと、すぐさま船を走らせた。
目の前に見える“交易の街”グリヴェスへ向けて。
それらには一瞥もくれず、グランは指示を出す。
「──進め。“対象”は、最も高い島“ソルファリウム”だ」
吸血鬼たちだけが、高空の世界に揺らがず立っていた。
さすがにこの寒さでは、長時間はもたない。
だが、息はできる。
羽ばたきには問題がない。
……しかし、この肌がヒリつく感覚はなんだ。
グランは目を細め、自らの手のひらを見た。
青白い手や顔、四枚の羽に、じわじわと鈍い痛みが走る。
服の下は、痛まない。
西日に晒された部分だけが、まるで日焼けのような痛みを覚える。
──ソルのせいか。
ポケットから手袋を取り出し、嵌めた。
外套の襟を立て、鮮やかな赤から顔を背ける。
……もうじき夜になる。
それを待ってもいいが──
先ほど見た天使の戦士の実力を思い返す。
上は、戦場だ。
そこに乱入して“化け物”を殺す。
理想は──
奇襲で終わらせること。
本来なら、移層した時点でサハも、他の魔族も用済みだった。
だが、もし太陽が脅威となるなら。
吸血鬼だけになるのは、まだ早い。
判断は一瞬だった。
貝殻の影の中で、寒さに顔をしかめながら周囲を見渡すサハへ、声をかける。
「サハ様。ビカと共に最も低い島へお降りください」
「どこよ、それ」
「──“アネモルム”だァ」
不意に、どこか疲労の滲んだ声が滑り込んできた。
星層の大扉の裏側から、薄金の髪の男が、音もなく歩み出てくる。
──フジだ。
魔族兵がすぐさま、彼を囲うように体勢を整える。
だがフジはちらりとそれらを一瞥するだけで、笑いも見せず、ただ煙草に火をつけるだけだった。
舟から身を乗り出すように、サハが初めて見るその男を見下ろした。
「……あれ誰?」
そんな中で、グランは目を細める。
潮殻舟を離れ、ひと羽ばたきでフジの目の前に降り立った。
「……審問とやらは」
今は、“化け物退治”の真っ最中だったはずだ。
連絡係だとは言え、そんな最中に持ち場を離れてここまで来たというのか?
グランは目の前のフジを見た。
黒いスーツ、青いネクタイ。肩に羽織っただけの白い軍服。
同じ顔だ。
だが、流れる煙の匂いのせいか、それとも纏う空気のせいか。
フジのように見えて──フジではない。
……この男から、煙草の匂いがしたことが、今まであったか?
記憶を辿る。
それなりの付き合いだが、記憶には、ない。
グランの短い問いに、フジは肩を竦めた。
「まだやってる。一番上でなァ」
「……」
「層間時差を忘れてただろォ。審問二日目も終わっちまうぞ。殺るなら急げよ。天使の戦争は、ソルが眠れば休戦だ」
その声には、どこか焦りを押し殺したような現実感が滲んでいた。
冗談のような口調の奥に、明確な“急げ”が混じっている。
フジの銀色の瞳は、真っ直ぐにグランを見据えていた。
煙草の煙が、白い息と共にあっという間に流されていく。
「この“大扉の島”ウルスナから、南東に下ればアネモルムがある。天使以外でも、まだ長期滞在ができる島だァ」
「……」
無言のまま、見定めるようにフジを見据えるグラン。
ビカはその後ろで方角を確認し、ジルジオは気だるげに白い息を吐いている。
「それとも、浮島群の地図が必要かァ?」
揶揄うというより、事務的な質問だった。
そこに、いつもの軽さはなかった。
淡々と、役割としてそこに立っているだけの存在のような……
銘家当主らは、フジと事前に顔を合わせている。
だが、会合を重ねたのはグランだけだ。
この違和感は──自分にしか分からない。
判断が、わずかに揺れた。
不気味だと感じていた男が、更に奇妙な違和を突きつけてくる。
信用していいのか。
だが──時間がない。
静寂が落ちた。
だがすぐに、ジルジオの唸りがそれを破る。
「おい、ちんたらしてんじゃねえよ」
ソルが沈む反対の空に、ハーウェンの眼差しが昇っていた。
狼人たちの背筋は、少しずつ、その目に見初められていく。
満月ではない。──まだ。
だが、毛が逆立つ。
背骨が疼く。
爪が、牙が、ひと回り鋭くなったような感覚。
何でもいい。噛み裂きたい。
「……獣め」
グランは低く吐き捨てると、フジから視線を外し、上空を見上げる。
夕焼けの赤が満ちる空に、殻のように張り付く島々。
その最上空に浮かぶ“神獣の島”ソルファリウムを見つけた。
「……いいだろう。では、我々は急ぎソルファリウムへ」
その一言を皮切りに、吸血鬼たちが一斉に羽を広る。
ジルジオたち狼人が叫ぶ。
「おい、俺らは?!」
「好きにしろと始めに言ったはずだ。登りたければ、頭を使え」
顎で島の縁に碇泊している滑空船を指した。
魔族にとって、それは初めて見る乗り物だった。
使い方など知らない。
知る必要もない。
自分たちには、羽がある。
「グランが居なくなったら、誰が私を護るのよ」
不機嫌なサハの声が滑り込んだ。
「ビカに。ご安心ください。吸血鬼兵を数名つけます」
潮殻舟の周囲を固める吸血鬼の数は変わらない。
その後ろで、ビカたち火魔法族がいつの間にか滑空船を占領していた。
桟橋の船守たちはとっくに居ない。
残された巨大な滑空船に、次々火魔法族が乗り込んだ。
やがて、感覚で操作を覚えた者たちが、一艘、二艘と操りはじめる。
──鐘は鳴らない。
ツュシカの祝福もなしに、ただ寒さを凌ぐために灯された火球だけが、小さな星のように、船に灯っていた。
サハを乗せた貝殻舟を追うように、
南東の空へ、滑空船はゆったりと滑り出した。
「チッ」
ジルジオは舌打ちをすると、残っている滑空船へ群がる狼人らを蹴散らし、そのうちの一つに乗り込んだ。
使い方に右往左往する彼らを一瞥し、グランは四枚の羽を大きく広げる。
西日が、刺さる。
夜を恋しいと思ったのは、初めてだった。
「“化け物”とやらは、まだ死んでいないのか」
グランの足が、わずかに地から浮いていた。
フジは短くなった煙草を指先で転がしながら、気だるげに答える。
「あァ。まだだ」
淡々とした声だった。
記憶の中のよく笑うフジと、やはりかみ合わない。
「……ソル・ベリリウムの“ランタン”の回収は」
「こっちでやる。もし、手違いで手に取るようなことがあったら──」
フジが長い息を吐いた。
一拍、間が落ちる。
まるで、言葉を選んでいるような時間だった。
「……俺に渡せ。横取りなんて考えるなァ」
「……ふん。存在するかも分からない神獣の神器など、欲しがるものか」
──“神獣の神器”。
それに、魔族が。ノクタリスが。どれだけ振り回されたことか。
魔王が持つ──“あおの教本”。
初代魔王が書き留めたとされる未来の預言書が、そう呼ばれたのも、プツカ・ポッカの神器から名を取ったからだ。
……でも、先代魔王ディゴが言うには、あれは初代魔王が鯨族から盗んだもの。
書かれた未来が訪れれば、破って捨てる。
消費されるだけのもの。
……そんなものが、神獣の神器であってたまるものか。
グランはふわりと舞い上がった。
島影を渡るように、沈みゆく太陽から顔を背けて更に高空へ。
そのころ。
ゼノラ層、ノードの街では、ノクタリスの大扉から再び無数の影が這い出ていた。
今度は、静かに。
音もなく。
ローブに身を包み、深くフードを被る老いた女がひとり。
その後を追って、地を這うように、黒が溢れ出す。
無数の骸。
それを引き連れる、死霊使いたち。
遅れてやってきた第二の波が、
逃げ遅れた街へと、ゆっくりと広がっていった。
ゼノラの空には、まだ高くソルが居座っている。
だが、ウルネスの空には、すでに薄く宇宙が透けていた。
星々がソルの苛烈な陽に紛れて、少しずつ顔を出している。
──“慈悲の時間”が、やってくる。
その慈悲が、誰にとってのものなのか。
まだ、誰も知らない。




